2023年12月17日 (日)

郷土玩具の狛犬(6)

では、以上をまとめてみます。

(A)のうち、実際は狐であると考えられる(3)を除く6点は、施釉軟質陶器製のものが3点、素焼きのものが3点に分かれます。

施釉軟質陶器の(1)(6)(7)は、それぞれ特徴にバラツキがあり、大きさでは(1)(高さ3.2㎝)と(6)(7)(4.1~4.3㎝)が異なり、台座の有無では(6)だけが台座付きになっています。
(6)と(7)は同じ土坑から出土していながら、特徴が異なっています。
(6)(7)は18世紀前半、(1)は年代不明。

(2)(4)(5)は、紹介する際に私の判断で「無釉」と書きましたが、要は素焼きです。
大きさでは(2)(5)は共に高さ3.7㎝に対し、(4)は高さ5.5㎝で、2つに分かれます。
一方、すべて台座付きです。
(2)(5)は18世紀後半(2が1780~90年、5は1770年代)、(4)は19世紀第1四半期とされているので、(4)がやや新しいことになりますが、大きな差はありません。

これだけを見ると施釉軟質陶器の方が古く、素焼きの方が新しいようにも見えますが、点数が少ないので、何とも言えません。

(1) がやや小さく、(4)がやや大きいですが、概ね高さ4㎝前後の小さなものです。
そうした点からすると、いわゆる箱庭玩具であって、実際的な仏具・神具ではないでしょう。
また、蒐集し愛玩するような鑑賞物としての玩具でもないでしょう。

興味深いのは(B)グループです。
(8)(9)(10)はいずれも、天神像に狛犬が付随しているものです。
獅子・狛犬が日本に伝来した頃の金銅仏の形態を思い出させます。

(8)は天神が露座、(9)(10)は祠に入っています。

(8)は頭部が欠損した状態でも残存高が6.1㎝あり、(9)は5.8㎝、(10)は3.7㎝です。
(10)は箱庭玩具でしょうが、(8)は観賞用かも知れません。
ただ、仏具・神具ではないでしょう。

(8)(10)は18世紀後半以降と見られていますが、(9)が出土したのは広島の宝暦大火(1758年)の処理土坑と考えられていますので、18世紀前半までのものということになります。

広島城跡の出土品だけの判断ですが、狛犬単独、もしくは狛犬を付随する人形は、18世紀に入ってから普及したもので、主として箱庭玩具となるような小型のものであり、様々なタイプが併存していた、とまとめられるでしょうか。
つまり、産地や作者は複数存在したのでしょう。

これに埼玉県本庄市の久下東遺跡の1点も交えて考えると、東国の庶民の墓地からも、西国の武家屋敷からも発見されていることになり、かなりの広がりがあったと言ってもいいのではないでしょうか。

事例は少な過ぎますが。

そして、こうした「狛犬」が、「郷土玩具事典」類で取り上げられてこなかったのは、好事家が愛玩するような「芸術性」を備えていなかったからなのでしょう。

歴史の隙間にこぼれ落ちてしまった狛犬と言えます。

2023年12月10日 (日)

郷土玩具の狛犬(5)

(B)「狛犬」とはされていないが、狛犬に関わるもの

 

(8)
E-1 SK68土坑より出土。
18世紀末以降。
無釉。
型合わせ、中実、底部に円錐形の孔。
「遺構と遺物」本文には「天神人形」、「遺物観察表」には「天神」としか書かれていないのですが、狛犬を付随しています。
遺存は左半身のみで、天神の頭部は欠損しています。
3段の台座の上に天神の座像が載っていますが、台座側面に1段の台座に載った狛犬がくっついており、まとめて一体で作られています。
狛犬は蹲踞、顔は左横向き、阿吽は不明です。
縦尾で、実測図からは尾の左側だけに渦巻があります。
残存高6.1㎝。

E1sk68_a

E1sk68_b

 

 

(9)
F-3 SK287土坑より出土。
宝暦大火の処理土坑です。
無釉。
型合わせ、中実、底部に円錐形の孔。
「遺構と遺物」および「遺物観察表」には「天神」としか書かれていないのですが、狛犬を付随しています。
天神像を納めた祠の向かって右に狛犬が表現されています。
完形ならば左右に狛犬が付随したと思われます。
実測図からは、狛犬は蹲踞で顔は左横向きと思われますが、阿吽は不明です。
高さ5.8㎝。

F3sk287_b

 

 

(10)
G-3 SK53土坑より出土。
18世紀後半以降、19世紀第2四半期までの遺構。
無釉。
型合わせ、中実、底部に小孔。
「遺構と遺物」および「遺物観察表」には「天神」としか書かれていないのですが、狛犬を付随しています。
天神像を納めた祠の左右に狛犬が付随しています。
実測図からは、狛犬は蹲踞で顔は横向きと思われますが、阿吽は不明です。
高さ3.7㎝。

G3sk53_b

 

 

(C)狛犬ではないが、参照すべきもの

 

(11)
F-3 SK20土坑より出土。
19世紀第2四半期の遺構。
無釉。
型合わせ、中実、底部に径4㎜の孔。
高さ4.4㎝。
「遺構と遺物」および「遺物観察表」では「獅子」とされています。
台座があり、その上に四足で伏せています。
尾は細長い紐状に見えます。
実測図を見ると、台座には唐草模様が表現されているようです。
また、背中には縞模様があるようです。
たてがみらしい表現も見えませんし、これは「虎」ではないでしょうか。
また、場合によっては「ヘテ」でもおかしくないように思われます。

F3sk20_b

 

 

(12)
F-1 SK58より出土。
「遺構と遺物」では「遺構として掘りあげたが、土層の一部である可能性が高い」とされています。
年代的には19世紀第3四半期までの遺物が見られると書かれています。
無釉。
型合わせ、中実、台座なし、底部に円錐形の孔。
蹲踞、頭部が欠損。
残存高5.0㎝。
「狐」とされていますが、頭部がないので断言は出来ません。
気になるのは狐らしい太い尾が無いことで、写真を見る限り、そんな太い尾が欠損しているようには見えません。
一方、実測図を見ると、細く短い紐状の尾があるように見えます。
下記のように、「犬」は出土しているので、これも犬かも知れません。
ただ、下記の犬は首輪があることと、尻尾の尖端を丸めていることが共通しています。
しかし、この遺物では首輪が確認できず、尻尾は巻いていません。
そのことからすると、「狼(山犬)」の可能性もなくはありません。
もっとも、ここまで「無釉」として紹介してきたものはいずれも素焼きで、最終的に彩色して完成させるものです。
製作する際に、彩色の際の目印程度にしか考えていないということもあり得ますので、塗装のない状態のものであれこれ考えても無駄かも知れません。

F1sk58_a

F1sk58_b 

 

 

(13)
E-2 SK4土坑より出土。
1750年頃の遺構。
無釉。
型合わせ、中実、台座なし、底部に円錐形の孔。
高さ7.3㎝。
蹲踞、顔は左横向き、長めの垂れ耳、尾は短いものを丸め込んでいるようです。
首輪があります。
ほぼ完形なので、犬であることは確実です。

E2sk4_a

E2sk4_b

 

 

(14)
K-3 SK416土坑より出土。
18世紀前半の遺構。
無釉。
型合わせ、中実、台座なし、底部に円錐形の孔。
高さ4.5㎝。
「遺構と遺物」では「犬と鞠」、「遺物観察表」では「犬に鞠」とされています。
蹲踞、顔は右横向き、長めの垂れ耳、首輪があります。
実測図を見る限り、尾は細長い紐状のものの尖端を丸め込んでいるようです。

K3sk416_a

K3sk416_b

 

2023年12月 3日 (日)

郷土玩具の狛犬(4)

では、選んだ14点を個別に見ていきます。

 

例えば「D-2 SK40」というのは、前半は遺跡内を区分けしてつけた番号で出土区画を表わし、後半は出土した遺構の番号です。
推定年代は報告書に従っています。

 

(A)「狛犬」として紹介されているもの

 

(1)
B-2 1層より出土。
この狛犬の出土地点については、報告書に遺構としての説明文がありません。
近代以降に形成された地層から出土したようです。
この地層には、幕末から明治期の遺物が混じっているということで、正確な年代は不明です。
全体に鉛釉がかかり、一部に緑釉がかかっています。
緑釉の位置には少し模様があり、前肢後肢とも走り毛を表現しているようです。
型合わせ、中実(内部が詰っていて中空ではないということ)。
阿形、蹲踞、顔は左横向き、枝分かれのない縦一本の尾、台座なし。
高さ3.2㎝。

 

B2_1_a_20231118145101

B2_1_b_20231118145101

 

 

(2)
D-2 SK40土坑より出土。
遺構は出土陶器から1780~90年が下限と見られますが、もう少し下がる可能性があります。
無釉。
型合わせ、中実。
吽形、蹲踞、顔は右横向き、台座があり、台座底部に小孔があります。
実測図からは3方向に枝分かれした縦尾に見えます。
頭上に突起が確認できますが、おそらく角でしょう。
高さ3.7㎝。

D2sk40_a_20231118145101

D2sk40_b_20231118145101

 

 

(3)
D-2 SK46土坑より出土。
遺構は1810年以降幕末までのもの。
無釉。
型合わせ、中実。
蹲踞、縦尾、台座があり、底部に径6㎜の孔があります。
残存高4.8㎝。
報告書では狛犬とされていますが、頭部が欠損しており、厳密には狛犬かどうかはわかりません。
むしろ、尻尾の先にわずかにくびれがあり、尖端が宝珠らしき形に見えるので、尾の先端に宝珠を載せたタイプの狐と考える方が妥当だと思われます。

D2sk46_a_20231118145101

D2sk46_b_20231118145101

 

 

(4)
H-1 SK221土坑より出土。
19世紀第1四半期の遺構。
無釉。
型合わせ、中実。
吽形、蹲踞、顔は右横向き、縦尾、台座あり。
頭上の突起は角でしょう。
高さ5.5㎝。

H1sk221_b

 

 

(5)
K-2 SV5溝状遺構より出土。
1770年代に廃棄された遺構。
無釉。
型合わせ、中実。
阿形、蹲踞、顔は左横向き、台座があり、底部に小孔。
実測図からは3方向に枝分かれした縦尾に見えます。
高さ3.7㎝。

K2sv5_a

K2sv5_b

 

 

(6)
L-3 SK312土坑より出土。
18世紀前半の遺構。
全体に黄釉がかかり、一部に緑釉。
型合わせ、中実。
阿形、蹲踞、顔は左横向き、台座あり。
縦尾で、実測図からは尾の右に渦巻があります。
左は欠損しているようですが、完形なら尾の左右に渦があると思われます。
緑釉の位置は頭部と尾部で、たてがみと尻尾の毛並みに彩色しているようです。
高さ4.3㎝。

L3sk312_1a

L3sk312_1b

 

 

(7)
(6)と同じL-3 SK312土坑より出土。
全体に黄釉がかかり、一部に緑釉。
型合わせ、中実。
阿形、蹲踞、顔は左横向き、縦尾、台座なし。
縦尾で、実測図からは尾の左右に渦巻があります。
緑釉の位置は頭部と尾部で、たてがみと尻尾の毛並みに彩色しているようです。
高さ4.1㎝。

L3sk312_2a

L3sk312_2b

 

2023年11月26日 (日)

郷土玩具の狛犬(3)

埼玉県本庄市の久下東遺跡での狛犬の出土は、点数が少なく、物足りません。

 

もう少し出土事例がないものかと、web検索したところ、《広島城跡法務総合庁舎地点》という遺跡から狛犬が出土していることを知りました。

 

この遺跡は「ひろしまWEB博物館」というサイトによると、以下のように説明されています(mの数値は元サイト自体で欠字になっています)。

 

「広島城天守閣の南東約mに位置し、外堀(八丁堀)の一部と、外郭(広島城の三重目の郭)にあった武家屋敷地などからなります。ここは、18 世紀には「御用屋敷」という藩の役所があった場所で、江戸時代以前の建物や塀、井戸などの跡や、明治時代以降の軍関連の施設跡、陶磁器や木製品、銭貨などの大量の遺構や遺物を確認しました。
 また、江戸時代の広島城下で起きた最大の火災「宝暦の大火」(1758年)のときのものと考えられる火災処理の跡を、発掘調査として初めて確認しました。」

 

発掘は2005年6月17日~2007年2月2日に行われ、2009年に報告書「広島城跡法務総合庁舎地点」(広島市文化財団文化科学部文化財課)が出ています。

 

残念ながら、報告書は「狛犬」にフォーカスを合せて構成しているわけではないので、報告書のここだけを見れば出土した「狛犬」の全容がわかるというようにはなっていません。

 

そもそも、玩具類は器物類と違って研究の中心にはありません。
形態の変遷を通じて編年を考える形式学に、上手く落とし込めない部分があるからです。
出土点数も多くはないので、体系的に研究するのも困難です。

 

閑話休題。

 

そこで、「遺構と遺物」「遺物観察表」「遺物写真」「遺物実測図」の各章から、「狛犬」について抜き出し、重複を整理した結果、以下のようになりました。

 

(A)「狛犬」として紹介されているもの=13点
(B)「狛犬」とはされていないが、狛犬に関わるもの=3点

 

なお、恣意的な選択ですが、

 

(C)狛犬ではないが、参照すべきもの=4点

 

があります。

 

これらについて、詳しく見ていこうと思いますが、文字だけで紹介されているものは検討しようがありません。
「遺物写真」もしくは「遺物実測図」が掲載されているもの、(A)7点、(B)3点、(C)4点、を取り上げてみようと思います。

 

「遺構と遺物」の章の記述では、狛犬の出土した遺構の推定年代は18世紀前半から19世紀代とされています。
したがって狛犬も、一部は明治にかかる可能性はありますが、概ね江戸時代のものであることは確かなようです。

 

2023年11月19日 (日)

郷土玩具の狛犬(2)

2022年11月26日に、「狛犬さがし隊」に投稿のあった本庄早稲田の杜ミュージアムの展示を見に行きました。
確かに、出土品の狛犬が展示されていました。

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JR東日本の新幹線・本庄早稲田駅近くの久下東遺跡の発掘調査で、近世の土坑墓の中から狛犬の人形が出土したということが説明されています。

 

展示会場に調査報告書があったのですが、じっくりと腰を落ち着けて見ることは出来なかったので、後日、国会図書館まで閲覧に行きました。
「本庄市埋蔵文化財調査報告書第49集 久下東遺跡Ⅸ」(本庄市教育委員会 平成28年11月14日)によると、狛犬が出土したのは久下東遺跡第181号土坑です。
土坑からは早桶の底板片の他に17点の遺物が出土していますが、その内訳は以下の通りです。

 

かわらけ(灯明皿)2点
人形(狛犬)1点
金属製鋳型1点
金属製円盤1点
寛永通宝12点

 

狛犬についてだけ細かく書くと、報告書の判断では「瀬戸美濃系人形」とされ、高さ3.7㎝、最大幅3.3㎝、最大厚1.9㎝となっています。
「狛犬(阿形)。箱庭遊びの道具。」と書かれています。

 

遺物のうち金属製鋳型・金属製円盤・寛永通宝は、早桶の底板上から出土したということなので、棺桶に遺体と共に入れられたものなのだと思われます。

 

かわらけは棺外からの出土ですが、土坑の底付近からの出土なので、埋葬儀礼に関わるものなのだろうと想像できます。
出土状況の写真を見ると、2枚がベン図のような感じに重なって並べられており、意図的に置かれたように見えます。
棺桶を納める前にお供えでもしたのでしょうか。

 

ただ、肝心の狛犬は覆土中からの出土となっています。
つまり、墓穴に棺桶を納めた後、土を被せて埋め戻す際に、その土に混入していたものであるという可能性があるということになります。
そうなると、埋葬儀礼に関わりがあるとは言えません。
そもそも、この遺跡での狛犬の出土は他にはないようです。

 

ということは偶然の混入の可能性が高いということになります。

 

ちょっと残念です。

 

とは言え、時期は不明瞭ながらも、江戸時代の土坑墓からの出土ということは間違いないようです。

 

2023年11月12日 (日)

郷土玩具の狛犬(1)

かつて私は、郷土玩具には、なぜか狛犬が存在しないということを書いたことがあります。

それは手元にある各種「郷土玩具事典」類に、狛犬が取り上げられていないことが大きな理由でした。
さらに、30年ほど前に江戸時代の遺跡の発掘に関与していた頃、自分が調査に参加した遺跡の遺物にも、報告書執筆の際に参照した他の江戸時代の遺跡の報告書にも、出土した玩具類の中に狛犬が見られなかったことも理由でした。

しかし、2010年に富山市へ狛犬探しに出かけた際に、富山でかつて作られていた土人形の中に、狛犬が存在したことを知りました。

神社を巡りながら歩いているうちに、民俗民芸村という施設に行き当たりました。
その中に《とやま土人形工房》という場所がありました。

そこで、このようなことを伺いました。

富山の土人形は、江戸時代末期に始まり、一時は発展したものの、最終的に渡辺家のみが継承していた。
しかし、その当主が高齢で引退したために廃絶した。
そこで、これを何とか存続させようと、一般市民から受講生を募ってとやま土人形伝承会を結成し、製作を続けている。
それを展示販売しているのが、この《とやま土人形工房》である。

そして、以下のようなことをご教示いただきました。

「富山藩前田家は菅原道真を遠祖と仰いでいたため、富山では天神信仰が強く、土人形でも天神様が重要な位置にあり、それを飾り付ける際には、天神様の周囲に随神や狛犬、燈籠などを配置する。」

実際、現在の工房でも狛犬の土人形が作られていました。

ただ、由来からすると、愛玩用の玩具というよりは、神具・仏具の範疇に入るものでしょう。
また、実際にはどの程度時代を溯りうるのかについては、少し疑問を感じていました。

そんなことも忘れかけていた2022年に、Facebookの「狛犬さがし隊」に、ある投稿がありました。
埼玉県本庄市にある早稲田の杜ミュージアムで、出土品として狛犬が展示されていたというのです。
それも、江戸時代のお墓から出土したというのです。

それが確かなら、間違いなく江戸時代には狛犬の土人形が存在したということになります。

さらに言えば、狛犬を墓に副葬したのだとしたら、私が今まで知らなかった狛犬にまつわる習俗が存在していた可能性も浮んできます。

それは確認しなければならないと感じ、早稲田の杜ミュージアムまで足を運びました。


2022年11月18日 (金)

プカラの牛(2)

「プカラの牛」巡回展の会場にあった小冊子には、プカラの牛のデザインの意味と色の意味が列挙されています。

 

デザインの意味
・出っ張った目=自分解析や現実に対する広い視野
・上に曲がった舌=教育。物事に対する適切な言葉と敬意
・渦巻=相互共生の原則。あたえたものが全て返ってくる
・鎖の輪=精神の統制。覚醒への過程
・取手=知識、精力や創造的エネルギー
・背中の穴=生命の誕生。水を使う仕事。種と受精
・荷鞍=自己実現のために人が払った犠牲

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色の意味
・黒色=自我・誕生
・緑色=経済繁栄・健康
・青色=信頼・忠誠・友情
・赤色=愛・満足感
・黄色=喜び・幸運
・天然色=家族の守護

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小冊子によると、デザインの意味は「主に愛情と子宝に関するもの」で、「取っ手は夫婦円満を表し、上部の穴は受胎に関連していると言われています」とあります。

 

前回、司祭の勧めで闘牛用の牛の装飾を取り入れたということに触れましたが、それに続けて、このような記述があります。

 

「教区内ではスペイン人の陶芸家による教室も開かれ、雄牛は額に十字架、背中に鞍をつけるようになりました。」

 

しかし、会場に展示されていたプカラの牛には十字架は見られませんでした。
そして、上記の説明のように、十字架には言及がありません。
十字架をスペイン人から推奨されたされたものの、現在では民族意識から排除したというところでしょうか。

 

屋根の上に飾ることについては、「家の安全を見守るだけでなく、幸運や繁栄をもたらすとも信じられ、新築祝いの贈り物としても好まれている」と書かれています。
そして、「屋根に飾るときには、必ずオスとメスをセットにする。つがいは夫婦をあらわすという」とあります。

 

確かに、展示されているプカラの牛は、男性器のあるものとないものがセットになっているようです。
ただ、女性器を表現したものはありませんでした。

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背中の穴を「生命の誕生」や「種と受精」と捉える上記の説明から考えると、背中の穴は女性器を意味すると考えることもできそうですが、全ての牛にあるので、少し強引かも知れません。

 

いずれにせよ、アンデスの伝統文化とキリスト教の混ざり合った新しい文化なので、どう捉えるべきかは難しいところです。

 

しかし、よく考えれば狛犬も外来文化を受容するにあたって、それを日本的に変化させたものと言える訳ですから、その意味でも「狛犬の隣人」と言えるでしょう。

 

2022年11月17日 (木)

プカラの牛(1)

2022年11月5日、「プカラの牛」巡回展というものを見学に行きました。

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「プカラの牛」とは南米・ペルーで見られる習俗です。
牛の姿をした陶製品で、様々な祈願や魔除けのために用いられるものです。
プカラとは、これを制作する陶器の産地の地名です。

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興味深いのは、瓦屋根の上に魔除けのために飾ることがあるということです。
しかも、その際には雌雄をセットにすると言います。

 

屋根に飾るという点では、沖縄の屋根獅子、台湾や中国南部で見られる屋頂風獅爺を思い浮かべます。
また、雌雄で対にするという点では一部の中国獅子や狛犬との共通性を感じます。

 

さて、展示を見に行く前に、いくつか知りたいポイントがありました。

 

・南米大陸に野生の牛は存在しないはずなので、「プカラの牛」はヨーロッパ人によって牛が持ち込まれた後に生まれたもののはず。具体的にはいつ頃、どのようにして生まれたのか?

 

・ヨーロッパ人との接触以前から、牛以外の動物を用いた同様の習俗は存在したのか?それともヨーロッパに由来する習俗なのか?

 

展示会場に関係者がいれば、こうした質問をするつもりでいたのですが、残念ながら無人で、ただ展示品が置かれているだけだったため、何も尋ねることが出来ませんでした。

 

かろうじて、会場で簡単な小冊子が配布されていたので、持ち帰りました。
以下、その小冊子に基づいて「プカラの牛」とは何かをまとめてみます。

 

「プカラの牛」の起源は19世紀以前に溯ると、小冊子にあります。
となると、逆に言えば、現在のような「プカラの牛」の成立は、20世紀に入ってからということになります。
その意味では新しい習俗です。

 

しかし、それはスペイン人によって導入された牛の姿をモチーフとし始めたのが、時期的に新しいということです。

 

アンデスの人たちには動物をモチーフとした「お守り」=「コノパ」の文化が存在していました。
元々は、リャマ・ビクーニャ・アルパカといった南米在来の動物をモチーフとした「お守り」があったのですが、ペルーに入ったスペイン人入植者(と小冊子にはありますが、要するに神父たちでしょう)から偶像崇拝の元凶として禁じられてしまいます。
そのため、キリスト教に由来するカーニバルの儀式用の牛をモチーフにすることで代用せざるを得なかったという事情があるようです。
その意味ではキリスト教による在来信仰の弾圧を免れる方便だったと言うことが出来ます。

 

元々は牧牛に似た装飾のないものだったようですが、現在のような装飾的な「プカラの牛」の誕生には、キリスト教の司祭たちが関与しているようです。
小冊子には、「1925年以降、プカラでは、既にクリスマスの祭りや闘牛の夕べが町の中央広場で開かれていました。そこで、初めて闘牛を見た司祭たちは、陶芸家たちに、シンプルで飾り気のない牛だけでなく、闘牛用の牛に使われる装飾などもつける工夫をするように勧めました」とあります。

 

こうした経緯をまとめれば、「プカラの牛」とは、アンデスの風習がキリスト教との接触によって変容しつつも、現代に生き残ったものと言うことが出来そうです。

 

 

 

2022年6月10日 (金)

東照宮と狛犬(8)

さて、松平信一の没年(1624)から、狛犬の奉納は最初の安国殿に対してなされたことになる。
その安国殿は移築され、さらに、三度目の安国殿は場所を移動している。

松平信亨によって狛犬が再建されているわけだから、再建奉納された天明八年(1788)より前に信一の狛犬は破損したか、失われたかして、再建が必要な状況になっていたことになる。

何かそうした記録はないかと国立公文書館や東京都公文書館に残っている安国殿に関する古文書をあたってみたが、社殿などの修復工事の記載はあるものの、狛犬への明確な言及はない。

安国殿への町人の参拝が可能になったのが、寛永十八年(1641)に造立された三度目の安国殿からだとしても、目黒不動尊に狛犬が奉納された承応三年(1654)よりは前ということになる。

ただ、三度目の安国殿は場所を移動しているわけだから、信一の狛犬もそこに移設されていなければ、町人の目に触れることはない。

信一の奉納した狛犬が、木造の神殿狛犬だった場合、最初の安国殿が開山堂として移築された時に、一緒に移された可能性がある。
社殿新築にあたって、殿内の調度を新しくすることはよくあることだからだ。
あるいは三度目の社殿が新築された際に、二度目の社殿に残されたかも知れない。

ただ、石造参道狛犬であれば、また事情は異なる。
参道狛犬は建物の外にあるので、建物が改築されても、そこに残っているはずだ。
問題は三度目の造営で場所が移動していることだが、狛犬の移設は難しいことではない。

現に二の丸東照宮の狛犬は仙波東照宮に移設されている。

信一は狛犬を奉納したのか。
それは石造参道狛犬だったのか。

そうあって欲しいと、私は思うのだが、いまのところ信亨が狛犬の台座に刻ませた「再建」という文字しか、信一が狛犬を奉納したという証拠はない。

最後に、願望と妄想を書いてみる。

信一が奉納したのは笏谷石狛犬ではなかったか。

家康所縁の地である愛知県岡崎市の糟目犬頭神社には慶長十年(1605)銘の小型(総高21.5㎝)の笏谷石狛犬と慶長十五年(1610)銘の笏谷石狛犬(高さ75.5~77㎝)がある。
後者は初代岡崎藩主本多豊後守康重の奉納によるもの。
前者は康重が糟目犬頭神社に笏谷石製の鳥居を奉納した際に、それを請け負った市川猪兵衛正重が、そのお礼として製作・奉納したものとされる。

笏谷石狛犬の存在が三河まで知られていたのなら、三河時代から家康を知る信一が笏谷石狛犬を奉納する意味はあると感じるのだがどうだろう。

もちろん、日光や仙波の東照宮の狛犬を見ると、形式的にも、造形的にも、技術的にも、きちんとしたもので、見よう見真似で作った稚拙なものではない。
その時点では江戸周辺には、ちゃんと狛犬の作れる石工がいたわけで、関東圏外から狛犬を持ち込まなければいけない理由はない。

ただ、信一の安国殿への奉納は、それよりも20年あまり前になる。
信一が最初の安国殿竣工時に奉納したなら、すぐに用意できたのは笏谷石狛犬だったのではないかという妄想が浮んでくるのだ。

ちなみに、信一が狛犬を奉納したであろう時期に越前福井藩主だったのは、あの松平忠直である。
なんだか、安国殿の狛犬用に笏谷石を融通することを拒みそうなキャラクターではある。

それはそれとして、信一の奉納したのが笏谷石狛犬だとすると、石造ではあるが参道狛犬ではなかったと思われるので、町人が初めて見た参道狛犬という可能性は低くなってしまう。
そこは残念だが、江戸御府内に笏谷石狛犬があったと考えるのは、ちょっと楽しい。

2022年6月 9日 (木)

東照宮と狛犬(7)

さて、日光東照宮、江戸城の各東照宮、仙波東照宮の関係性を見たところで、話を最初に戻す。

 

芝東照宮の先代の狛犬が、台座の銘の通り松平伊豆守信一の奉納によるものだとすると、その没年から考えて、寛永元年(1624)以前に奉納されたことになる。

 

日光東照宮の推定寛永十八年(1641)よりも、仙波東照宮の推定寛永十四年(1637)頃よりも、20年は前のことになる。

 

ここで思うのは、「石造参道狛犬として《再建》された狛犬の、先代も石造参道狛犬なのではないか?」ということだ。

 

だとしたら、日光東照宮・仙波東照宮よりも古い石造参道狛犬が江戸御府内に存在したということになる。
つまり、それは江戸御府内最古の参道狛犬ということになる。

 

また、江戸城内と違って、庶民が目にできた可能性がある。
時代が下がるが、「江戸名所図会」では参道狛犬を含めて安国殿が描かれている。
そして、本文には「四月十七日は、御祭礼にて、参拝を許さるるゆゑに、詣する人多し」と書かれている。
町人も参拝可能だったのだ。
これがどの時点からなのかはっきりしないが、安国殿成立の当初からであれば、江戸の町人が最初に目にした石造参道狛犬だった可能性すらある。

 

ところが、松平信一が狛犬を奉納したという記述が見つけられない。

 

「徳川実紀」に、松平信一の訃報記事が掲載されていることには最初に触れた。
そこには、戦での経歴や養子の件などは記述されているが、安国殿への狛犬奉納については言及がない。

 

国立公文書館に残る「御宮御記録抜書」には、安国殿は三度建てられていると書かれている(改行位置は調整した)。

 

「最初之御宮ハ元和二年十月御造営則今之開山堂是之
 貳度目之御宮寛永十一年御造営則今之黒本尊堂是之
 三度目之御宮ハ寛永十八年御造営則今之丸山之御宮是之」

 

ただ、同じ文書のこれより前の部分に「元和二年十月二日御作事御取掛り翌年春二月御成就□之」とあるので、ここでの造営年は着工年を意味しているようだ。

 

まとめると、最初の安国殿は家康の死の翌年、元和三年(1617)に竣工。
これは二度目の造営の際に移築され、増上寺の開山堂となった。
二度目は寛永十一年(1634)造営で、この時の安国殿は、後に増上寺の黒本尊堂となった。
三度目は寛永十八年(1641)造営で、それが現在のものだとある。

 

国立公文書館のデジタルアーカイブにある「三縁山安国殿ノ大権現御影」という文書によると、二度目の安国殿が「火ノ用心等覚束ナシ」という理由で、三度目の造営では境内の丸山という場所に移して新築している。

 

そして、それが現在のものであるということは、維新後に芝東照宮となった安国殿はそれだということになるわけである。

 

「江戸名所図会」の記述が、寛永十八年以降のことを言っているとしても、それでもなお目黒不動尊の狛犬が奉納されるよりも前の話なので、江戸の町人が見た最初の狛犬である可能性は出て来ることになる。

 

 

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