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2007年9月

2007年9月30日 (日)

闇の狛犬

「怖いこわい京都、教えます」(入江敦彦 新潮社 2007年)という本を読みました。

その中に『闇の狛犬』という一項がありました。

「狛犬」と言いながら、その項目では、狛犬愛好家には有名な京都・大豊神社の鼠などがまず紹介され、その後に問題の「闇の狛犬」に言及します。

住宅街の中のさして大きくない神社の賽銭箱のある正面から拝殿までの2メートルほどの空間。

 狛犬は、その空間にいた。左右に配された石組みの立方体の上、なぜか二匹は拝殿のほうを睨んで。木像なのはわかった。けれど屋根が渡され、灯りひとつない内陣にあって詳細は見えない。塗られた漆が黒く沈んでいる。かなり古そうだ。正面には回れないので、背を向けた狛犬がどんな表情をしているのかは窺い知れない。
 私には、それらの狛犬が、まるで拝殿に住まう者を威嚇しているように思えてならなかった。(略)

たったこれだけのことですが、読んでいてふと疑問を感じました。

この狛犬、実在しているのでしょうか?

たったこれだけのことで、誰かに迷惑がかかるとも思えないのですが、なぜかこの本では神社名が伏せられているのです。

この本には他にも、もっと奇妙な事例や紹介されることがあまり名誉とも思えない事例が、具体的に名を挙げて紹介されているにもかかわらずです。

実は、この話を読んで、これまた狛犬愛好家には有名なあの話を思い出しました。

「徒然草」に出てくる話(二三六段)です。

かいつまむとこんなものです。

ある者が、聖海上人など都の人々を誘い、丹波の出雲神社(現亀岡市)に参拝した。
上人がふと見ると、拝殿の回廊に置かれた狛犬が、背中合わせになって通常とは逆の方向を向いている。
上人が、これは珍しい、何か由緒があるにちがいない、と騒ぎ立てるので、仲間たちも、これはすごいなどと言い出す。
そこで出雲神社の神職に、この狛犬の謂れを教えて欲しいと声をかけると、狛犬を一瞥した神職は、子供の悪戯ですよ、と言って、狛犬を普通の向きに直して去って行った。

上の話は、オチが無いだけで、なんだかよく似た話に思えるのですが。

ただ、私も、狛犬を探して歩いていて、不気味な雰囲気の神社にたどり着いた時など、こんな妄想をしてしまいます。

ある所になぜか参拝者の側ではなく、社殿の側を向いて設置された狛犬があった。
老朽化してきたので、新しい狛犬が奉納されることになった。
その際、古い狛犬は末社に格下げされ、新しい狛犬は普通の向きに設置された。
その日以来、神社周辺でおかしな事件が続発する。
実は、元の狛犬は神社の中に邪悪な鬼神を封印するために置かれたもので、そのために顔を社殿の方に向けていたのに、それを直してしまったため、鬼神が出てきてしまったのだった。

ですから、もし本当に社殿側を向いた狛犬があるのなら一目見てみたいのです。

この話が作り話でないのなら、ぜひ神社の場所を教えて欲しいと思うのです。

京都にお住まいの方、こんな神社ご存知ありませんか?

2007年9月29日 (土)

亀戸天神のおいぬさま

Img_9352 藤で有名な亀戸天神に≪おいぬさま≫と呼ばれるものがあります。
境内の東側にある駐車場との境目あたり、建物の陰になったところに小さな祠があり、そこに祀られています。

祈願しながら、この≪おいぬさま≫に備え付けられている塩を擦り込むと、祈願が成就する、という信仰があります。
ご利益は「病気治癒」「商売繁盛」のようです。

Img_9373 祠があるのは、つい見落としそうな場所で、事実、私も初めて亀戸天神に行った時には気がつきませんでした。

後になってその存在を知り、再訪しましたが、おいぬさまについての説明は、祀られた祠のそばにも、境内の案内図にもありません。
亀戸天神の公式サイトにアクセスしてみましたが、サイト内の≪境内あちこち発見隊≫というページにも、紹介がありません。

そこで、亀戸天神に問い合わせのメールを送ってみました。

由緒についてのはっきりした裏付けがないので、あえて紹介していない、ということでした。

ところで、その由緒ですが、あるサイトに、戦災にあった神社跡から発掘したものを奉納したということが書かれていました。

亀戸天神には、この点も問い合わせてみましたが、やはり明確な事情は記録に残されていないようです。
ただ、元来は亀戸天神の境内にあった摂末社の狛犬だったとされている、とのことです。

私が目にしたことがある亀戸天神の古写真には、狛犬が写っているものはありませんでした。
そのため、亀戸天神には狛犬はなかったものと思っていましたが、摂末社の前にあったものなら、写されていなくても不思議はないかもしれません。

Img_9369 神社には狛犬以外にも≪神使≫と呼ばれる、文字通り「神の使い」の動物像が設置されていることがあります。その中には≪山犬≫や≪犬≫のように、≪おいぬさま≫と呼ばれるにふさわしいものもあります。

塩まみれの上、破損も激しいのでわかりにくいのですが、もしかすると狛犬ではなく、本当に≪犬≫かもしれません。
それは一度塩を拭い取ってきれいにしてみなければ断言できません。

いずれにせよ、写真のようにかなりひどく破損しており、戦災にあったというのは信憑性のあることに思えます。

上記のようなことを考えると、摂末社にあった狛犬が戦災にあって破損し、相棒を失って単体になったため、境内の隅に置いておいたところ、自然発生的に≪おいぬさま≫信仰が始まった、という流れなのではないかと思えます。

私が、「自然発生的に」と考えるのには、理由があります。

亀戸天神がある江東区に、宝塔寺という寺があります。
ここに≪塩舐め地蔵≫あるいは≪いぼ取り地蔵≫と呼ばれるものがあります。
これがやはり、塩を擦り込んで祈願するという形の信仰なのです。

文献的に裏付けを取っていませんが、≪塩舐め地蔵≫の方は江戸時代までさかのぼることが出来る信仰のようです。

地蔵尊像自体には石井某によって小名木川から掘り出され宝塔寺に納められたとの伝承があり、寺の前を通る塩商人が売り物の塩を地蔵に供えたのが、信仰の起源であると伝えられているようです。

江戸時代、東京湾の行徳あたりでは塩を生産しており、そことの間を行き来する商人の交通路に当たっていたようです。
私も発掘にかかわっていた頃、当時の製塩具である焼塩壺に『行徳』の銘があるのを見たことがあります。

名前にあるように≪いぼ取り≫にご利益があるということですが、≪おいぬさま≫の病気治癒と似ています。

先行して≪塩舐め地蔵≫があり、それに倣って≪おいぬさま≫信仰が生まれたというのは、それほど的外れな発想ではないと思います。

現代になっても、こうした民衆信仰は生まれうるという一例のように思えます。

2007年9月28日 (金)

中国獅子

中国での≪獅子≫の発生について見た最後に、『狛犬の隣人たち』として、大まかな括りになりますが『中国獅子』という形で、現在広く見られるものについてまとめてみます。

東アジアに伝来したライオンが中国化したものが獅子であり、日本化したものが狛犬です。

歴史的に見れば、中国から獅子が伝来して狛犬になったわけで、『狛犬の隣人』と言うより、『狛犬の親』になるわけですが、それぞれが時代によって変化を遂げていった結果、現在における中国の獅子と日本の狛犬は、一目で違いがわかるほど異なるものになっています。

様々な時代の中国獅子の写真が収録されたものを見ると、時代によってその姿は様々です。

しかし、現在ではおおむね二つの形式に集約されています。

北獅・南獅とか北派・南派、あるいは北方系・南方系などと呼ばれる二つの形式です。

「中国獅子雕塑芸術」によれば、はっきりとこうした二つの形式に集約されるようになるのは明代からのようです。

北派の獅子は主に山西、山東、河北、河南、陝西の各省で流行し、その影響は遼寧、甘粛、湖北、安徽などの省に及んでいます。

この形式の祖形は唐代には既に見られるようです。

Gokoku この写真のようなものが北獅です。

仏像の螺髪のようなたてがみ、がっちりとした体格で、きちんと蹲踞し、尻尾はごく小さいか背中に浅く浮彫りにされています。

胴部には瓔珞という胸飾りをつけ、多くの場合、足で子獅子と玉を押さえています。

ちなみに、東洋の神獣にはその霊力の象徴として玉が付き物ですが、この場合の玉は『繍球』と呼ばれるものです。

雌雄の獅子が戯れることによって生じる毛玉のようなもので、ここから子獅子が生まれるという考え方があるそうです。

南派の獅子は主に福建、広東、広西の各省で流行し、その影響は海南、台湾などに及んでいます。

明代に生まれた形式のようです。

Kodama_4 この写真のようなものが南獅です。

大きな耳をした扁平な顔、背中が寝た状態の円筒状の身体に貧弱な四肢が付き、尻尾は派手で大きく巻き上がっています。

瓔珞をつけ、子獅子と玉を伴なう点は同じですが、踏んで押さえるというより、前足を上げて抱きかかえる感じになっています。

玉に紐が伴なうことがあるのは北獅にも見られることですが、その紐が派手に長く表現され、時に口にくわえている場合があります。

さて、実は例にあげた写真は日本の神社に設置されているものです。

北獅の方は、熊本市の熊本県護国神社のもの。

ここは境内にある3対の狛犬がすべて北獅形の中国獅子になっています。

写真のものは台湾歩兵第一連隊と台湾山砲兵第四十八連隊(の生存者)による奉納(昭和57年)。

ちなみに、他は1対は台湾第二連隊大西部隊長友隊、1対は台湾歩兵第二連隊によるもので、いずれも台湾に関係しているものです。

南獅の方は、湘南・江ノ島にある児玉神社のもの。

この神社の祭神である明治の軍人・児玉源太郎が、台湾総督を務めたことを記念して、昭和5年に当時の台湾総督であった石塚英蔵によって奉納されたものです。石塚英蔵は児玉総督時代の総務局長で、この児玉神社創設の発起人の1人でもあります。

台湾台北州観音山の石を用いて台湾の石工によって製作されたものとされています。

こうした例は寺院も含めて少なからず見られます。

『狛犬の中に混じり込んだ隣人たち』といったところでしょうか。

2007年9月27日 (木)

中国における神獣の組合わせ方

以上をまとめると、

  • 中国では商代には『神聖なものと2体1対の神獣』という形式が、独自に存在した可能性はあるが、はっきりとした形になるのは後漢代からと思われる。
  • その形式の中で、当初は獅子の地位は高くなかったが、おそらくは仏教の影響で、後には獅子の位置付けが高くなる。

となるでしょうか。

形式それ自体にユーラシア西側からの影響があったかどうかはよくわかりません。

たとえ商代に既に形式が存在していたとしても、資料の年代的にはユーラシア西側の方がはるかに先行しています。
しかし、商のものはユーラシア西側のものとは、様式が異なっています。

陵墓参道の石獣群は、これももっと早い時代にユーラシア西側で同様のものが見られますが、別に影響がなくても思いつきそうなものではあります。

検討するだけの材料が手元にないので、この程度のことしか言いようがありません。

それはさておき、中国では『神聖なものと2体1対の神獣』を構成する際に異なる神獣を組み合わせたり、口を開閉したりしている例はあるのでしょうか。

ユーラシアの西側では≪グリフィン≫と≪スフィンクス≫のように異なる神獣を組み合わせていると思われる例がありました。
中国でも≪辟邪≫≪天禄≫、あるいは人面と獣面の≪鎮墓獣≫にそれを見ることが出来ます。

何度も書いているように、結局のところ異なる神獣を組み合わせるということは、ユーラシア全体で広く見られるもので、日本の≪狛犬≫だけに見られるというものではありませんが、かと言って、相互間に影響関係があるのかどうかについては、よくわかりません。

一方、ユーラシアの西側では対になった神獣が口を開閉するという形式は、明確には見られませんでした。
それに対し、中国では≪鎮墓獣≫の中にそのパターンが見られます。

加えて、中国で作られた仏像の中にも、付随する獅子が口を開閉しているという例が存在しています。

上杉先生の「狛犬事典」では『董金造金銅阿弥陀仏一具』という隋の開皇四年(584年)銘が入った仏像が紹介されていますが、これに付随する獅子は一方が開口し、他方は閉口です。
ちなみに、写真では右が閉口なので、狛犬愛好家が言うところの「吽阿」になっています。

また、ボストン美術館所蔵の開皇十三年(593年)銘の『金銅仏一具』も、口を「阿吽」に開閉しています(リンク先の写真を拡大して見てください)。

その他、「狛犬事典」で紹介されている敦煌莫高窟出土の裂に描かれた獅子(有翼とみられる)も、口を開閉しています。
こちらは「阿吽」です。

例示できるものは少ないですが、「≪阿吽≫の萌芽は中国に見られる」としても、それほど的外れとは言えないでしょう。

以上のことを指摘したところで、「東方へのライオンの伝来」の項目を終えたいと思います。

2007年9月26日 (水)

鎮墓獣について(2)

この≪鎮墓獣≫を人面と獣面の2体1対にする形式は、唐代にも受け継がれます。

ただし、唐代は約300年という長期王朝ですので、その間にも変化が生じます。

それを「大百科」と「新中国」の両者に基づいて大まかにまとめると、このような感じになります。

  • 7世紀終わり頃まで=人面と獣面に分かれ、その表情にははっきりとした違いがある。
  • 7世紀末から8世紀半ば=角と翼が備わり、手で蛇をつかんだり、足で怪獣を踏んだりするようになる。
  • 8世紀末から10世紀初頭=人面と獣面の区別が曖昧になり、簡略な作りになる。

角はともかくとして、手で蛇をつかんだり、足で怪獣を踏んだりするというのは、≪狛犬≫には見られない特長です。

このあたりになると、少し≪狛犬≫からは遠いのではないかという気になります。

また、後になってから翼を持つようになるということは、グリフィンのような有翼神獣が原形ではないのではないかという気を起こさせます。

それよりも、「大百科」「新中国」あるいは「日本の美術279 ≪狛犬≫」の文中には記載がないことで、重要な点があります。

例えば、「新中国」の写真図版に掲載されている唐代の『三彩鎮墓俑』(河南洛陽関林出土)は、獣面のものは口を開き、人面のものはほとんど口を開いていません。

「日本の美術279 ≪狛犬≫」に写真が掲載されている『加彩鎮墓獣』(伝洛陽北邱山出土)も同様です。

また、「シルクロードの都 長安の秘宝」(1992年)という展覧会図録に掲載されている唐代の昭陵鄭仁泰墓から出土した≪鎮墓獣≫は、人面のものは口を閉じ、獣面のものは口を開いています。

くどいのでこれ以上挙げませんが、他にも類例が見られます。

つまり、人面と獣面を対にした≪鎮墓獣≫では、人面は閉口、獣面は開口とする決まりがあった可能性がうかがえます。

もっとも人面でも口を開いて見えるものや獣面でも口を閉じたものがありますので、それが何らかの思想に基づくものなのかは疑問です。
単に造型上の問題(人面が大口を開けると威嚇というよりはちょっと間抜けになります)と考えた方がいいようには感じます。
しかし、≪狛犬≫の≪阿吽≫を想起させるものであることは確かです。

以上のように、≪狛犬≫として具えているべき特長=①異なる神獣を1対にする②一方は口を開け、他方は閉じる=は、北魏から唐代の鎮墓獣にも同様の特徴が見られます。

その、北魏を含む魏晋南北朝から唐にかけての時代は、日本が中国の諸王朝に接触を持ち始める時期でもあります(倭の五王の遣使が413504年、遣隋使は600614年、遣唐使は630894年)。

そして、それは≪狛犬≫が日本で成立する時期とも重なってきます。

では、≪鎮墓獣≫が≪狛犬≫になったのでしょうか。

それにはやや疑問が残ります。

まず、造形的に、≪狛犬≫は人面をしていませんし、翼もありません。

そもそも、地下の墓の中に納められる≪鎮墓獣≫を、日本から中国に行った人々が目にする機会があったでしょうか。

目にしなくとも、概念だけを知識として学んだ可能性はあります。

しかし、それなら余計に疑問が生じます。

墓の中にあって死者を邪気から守る≪鎮墓獣≫と、地上にある御所や社寺において高貴な存在のいる場所を清浄に保つ≪狛犬≫は、異なるものに思えます。

特に、死を穢れとする傾向が強い日本人の感性からは、≪鎮墓獣≫と≪狛犬≫の距離は遠いのではないか、と思うのです。

≪鎮墓獣≫と≪狛犬≫はよく似通った存在ではあると思いますが、それは同じ河の流れの上流と下流ということではなく、同じ源流からどこかで枝分かれした別の河なのではないかという気がします。

2007年9月25日 (火)

鎮墓獣について(1)

再び、一旦本題を離れて、『狛犬の隣人たち』に触れてみます。

中国の墓葬に見られる≪鎮墓獣≫は、時に≪狛犬≫と関連してその名が挙げられることがあります。

例えば、「日本の美術279 ≪狛犬≫」(1989年 至文堂)でも、かなり詳しく言及されています。

私自身は、何度か中国の考古文物の展覧会で実物を目にしていますが、≪狛犬≫に関心を持つ以前の時期に見たため、≪鎮墓獣≫に明確なイメージがありません。

そこで、鎮墓獣とはどういうものか、≪狛犬≫との結びつきはあるのか、少し調べ直してみました。

発行年代がやや古くなりますが、手持ちの資料の中から、中国で刊行された「中国大百科全書 考古学」(1986年 中国大百科全書出版社 以下「大百科」)と「新中国的考古発現和研究」(1984年 中国社会科学院考古研究所編 文物出版社 以下「新中国」)を参考に、まずは≪鎮墓獣≫について概観してみます。

まず、最初に≪鎮墓獣≫が見られるようになるのは、春秋時代(前770~前403)の後半、長江流域の楚でのことのようです。

「新中国」によると、雨台山楚墓という遺跡では500以上の春秋戦国時代に属する墓が見つかっていますが、そのうち春秋晩期以後の270余りの墓のうち、半数以上で≪鎮墓獣≫が出土しているとのことで、楚では広く普及していたことがわかります。

漢代(前漢:前202~後8/後漢:25220)に入ると、北の黄河流域にも≪鎮墓獣≫が見られるようになります。

そして、中原で≪鎮墓獣≫が広く見られるようになるのは、魏晋南北朝(220589)の西晋(265316)の頃からのようです。

これがさらに流行するのは唐代(618907)のことです。

しかし、「大百科」によると、安史の乱(755763)以降の唐代後半には、徐々に≪鎮墓獣≫は廃れていったということのようです。

確かに、「大百科」「新中国」とも、唐末の五代十国(907960)以降の記述の中に≪鎮墓獣≫の文字は見当たりませんでした。

以上をまとめると、≪鎮墓獣≫は春秋時代後半から長江流域の楚で広まり、漢代に黄河流域でも見られるようになり、魏晋南北朝以後盛んになるが、唐代の終わりにはほぼ廃れた、ということになるでしょうか。

さて、この≪鎮墓獣≫ですが、実際にはこの言葉は概念を表したものであって、≪獅子≫や≪龍≫のように特定の神獣を指しているわけではありません。

当然、この言葉の中に含まれる神獣像は、外見や形式において、幅があります。

例えば、長台関楚墓の1号墓から出土した≪鎮墓獣≫は、犬のちんちんのような姿勢で、頭から鹿のように枝分かれした角が二本、横に並んで生え、平面的な顔には半球状に飛び出た眼球があり、口からは長い舌をベロッと出している、というものです。

一方、漢代に見られるものは、牛を思わせる体躯をして、頭部を下げるようにして四本足で立ち、頭部からは枝分かれのない角が一本生えている、というものです。

想像によって造型したサイというイメージです。

日本の一般的な≪狛犬≫のような、後脚をたたみ、前脚を伸ばした蹲踞の姿勢が見られるのは、魏晋南北朝の北魏(386534)以降のことのようです。

そして、この北魏の時に、大きな変化が起ります。

「大百科」の記述によれば、西晋までの≪鎮墓獣≫は単体で置かれていたが、北魏以降は2体1対になる、というのです。

外見上も、形式上も、北魏に至って、極めて≪狛犬≫に接近してきたと言えます。

さらに興味深いのは、その2体になった≪鎮墓獣≫のうち、1体は獣面、もう1体は人面に作る、という点です。

これは、一方において、日本の≪狛犬≫が≪獅子≫と≪狛犬≫という異なる神獣を対にしていることを想像させますし、もう一方においては、ユーラシアの西側で見られたグリフィン(獣面)とスフィンクス(人面)を対にした図案を思い出させます。

これらが一本の線に繋がるものかどうかはわかりません。

グリフィンとスフィンクスのことを取り上げた時にも触れたように、異なる2種類の神獣を神聖なものと組み合わせる際に対にするという発想は、ユーラシア全体に見られるものであると考えるべきでしょう。

2007年9月24日 (月)

仏像の獅子

仏教は紀元前5世紀頃にインドで成立しました。

しかし、当初は偶像崇拝が堅く戒められていたため、仏像が造られるようになるのは紀元後1世紀のガンダーラ(現パキスタン)およびマトゥラー(現インド)において、とされています。

元々インドには野生でライオンが生息していましたから、初めから仏教にまつわる言葉や説話の中にライオンは取り込まれていました。

そのため、1世紀に生まれた仏像は、その時点で仏像の一部にライオンを取り込んでいました。

例えば、「インド・マトゥラー彫刻展」の図録に掲載されている1世紀の『仏伝「四天王奉鉢」』(イシャープル出土)では、仏陀の座る須弥座の下に2頭1対のライオンが浮彫りになっています。

さて、仏教の中国への伝来は紀元前後とされています。

その頃には仏像も生まれていますので、ほぼ同時期から仏像をともなっていてもおかしくありませんが、実際に仏教に関連する図像が見られるようになるのは2世紀以降のようです。事例もそれほど豊かではありません。

 

それが一気に広がるのは、3世紀から6世紀の魏晋南北朝の時代。

特に北魏(386534)では、太武帝による弾圧を別にすれば、仏教は保護され、大きく発展しました。

その成果が雲岡と龍門の石窟です(リンク先の一番上右側の写真が賓陽中洞で、下部に獅子がいる)

そこにも、仏像に伴なうライオン/獅子が見られます。

雲岡石窟の初期の大仏については北魏の皇帝たちの顔に似せたという説があるそうです。

北魏では仏教が国家との関わりを強く持ち、雲岡石窟も純粋に仏教施設というだけでなく、国家の威信を表現した施設でもあります。

仏と皇帝を同列視する発想があってもおかしくはありません。

それはともかくとして、大は石窟寺院の大仏から、小はミニチュアのような金銅仏まで、ライオン/獅子をともなった仏像は数多く生れました。
そうしたライオン/獅子を伴なう仏像の形式を受容することによって、獅子は崇高な存在のすぐ側にあって、それを守るものというふうに認識が改まった可能性があります。

その結果、神獣の中での獅子の地位が高まったということは考えられるでしょう。

中国には多様な信仰形態があり、現在においては仏教は盛んとは言えません。

歴史的にみても、中国における仏教の全盛期は隋・唐代とされ、宋代以降は、元代にチベット仏教(ラマ教)が盛んになったのが目立つ程度でしょうか。

しかし、一度高まった獅子の地位は仏教が力を失っても落ちることはなかったというふうに考えることもできるのではないでしょうか。

2007年9月23日 (日)

陵墓の石獣

墓葬と言えば、皇帝や王侯の墓の参道に並べられた石獣像は、中国における対となった神獣の代表格でしょう。

少し古い本になりますが、「中国皇帝陵の起源と変遷」(楊寛 学生社 昭和56年)によると、そうした石獣像のうち現存する最古のものは前漢の武帝の陵墓である茂陵の培塚である霍去病の墓設置されたもののようです。

ただし、著者はこれを特殊な例として、制度化されるのは後漢になってからだと考えています。

  

著者によれば、後漢の初代皇帝・光武帝の陵墓の参道には象や馬の石像があったことが、「水経注」の記述から推測できると言います。

同じ「水経注」では、安邑県長の尹倹の墓地には石碑・石柱・石獅・石羊が置かれ、さらにその門闕の前には獅子が相対して置かれていたという記述があるとのことです。

後漢代には参道の石像の形式が整っていたことがうかがえます。

そうした中の≪辟邪≫≪天禄≫については既に触れました。

ここでひとつ気になるのは獅子の位置付けです。

楊寛に従うなら、「水経注」からは

皇帝の陵前には石象、太尉の墓前には石駝・石馬、長水校尉の墓前には石天鹿が置かれたが、太守の墓前には石牛・石羊・石虎のみであり、さらに県長の墓前には石獅・石羊のみであるという状況があった

いうことが読み取れるというのです。

もちろん、これは皇帝陵には獅子がないということではなく、身分が低くなるほど用いてもよい神獣の種類が限られるということを言っているのでしょう。

つまり、後漢代には獅子は身分が低い者でも使用できる程度のものとしか扱われていなかったことになります。

これは、後世の獅子の立場に比べると、扱いが悪い気がしてなりません。

たびたび参照する「中国獅子雕塑芸術」によると、時代はずっと下がりますが、明代には石獅が置かれるのは皇帝陵のみで、臣下の墓前には石馬、石羊、石虎と石刻の武将文臣だけがあり、石獅は置かれないと言います。

明を開国した朱元璋(太祖洪武帝)を助けた功臣も例外ではないということですから、それだけ獅子の地位が高いということになります。

この差はなんなのでしょう。 

後漢代にはまだそれほど重視されていなかった獅子の位置付けを高めたのは仏教ではなかったかと、いま私は考えています。

仏教の伝来、より正確に言うならば仏像の伝来が、中国の獅子におけるセカンドインパクトになったのではないかと思うのです。

そこで、次に中国への仏教の伝来について見てみます。

2007年9月22日 (土)

東アジアにおける「神聖な対象と2体1対の神獣」の始まり

次に

B)東アジアにおける「神聖な対象と2体1対の神獣」の始まり

について見てみます。

中国でも新石器時代になると現実には存在しない想像上の動物が図像化され始めます。
それは動物に、単なる生き物以上のものを見るようになった証でしょう。

しかし、チャタル・ホユックの地母神像のようにはっきりと「神聖な対象と2体1対の神獣」という形式を取るものは見られません。
また、遺物の出土状況にも、そうした様子はうかがえないようです。

初期王朝の商(殷)代(およそBC18世紀~BC11世紀)には青銅器が多数製作されました。

そこには、饕餮(トウテツ)などの独特な怪獣の文様が描かれています。

そうした文様の中には、対を構成しているように見える図案もあります。

しかしながら、それらは、あくまで図案上、対称に配置されただけで、神聖なものと組み合わされて対になっているとは言えないように思えます。

ただ、興味深い文物もあります。

婦好墓出土の鉞には、中央に人間の顔を配し、その左右に神獣が2体描かれています(リンク先を下にたどって「婦好墓出土的大型銅鉞」とあるところのマークをクリックして下さい)。

婦好墓はいわゆる≪殷墟≫の遺跡のひとつで、出土文物に刻まれた甲骨文字の≪婦好≫から、第23代商王・武丁の夫人の墓とされています。

BC1312世紀の文物となります。

この鉞という青銅器は、実は処刑に用いる斧のことで、そこから転じて、刑罰を司る者=王の象徴となったものです。

「王」という漢字の原形は、この鉞を象形文字にしたものという説もあります。

左右の神獣(虎説が多いが龍とするものもあります)が口を開けて、この人面を飲み込まんとしているように見える図案であり、中央の人物は神聖な存在ではないのではないかとも思えます。

しかし、張光直はこの人物をシャーマンと考えています(「古代中国社会」東方書店 1994年)。

卜占に基づく神政政治が行われていた商王朝においては、それは王と同義と言えます。

それが正しければ、これは「神聖なものと2体1対の神獣」と言えることになりますが、やや微妙なところです。

ちなみに、口を開いた1対の神獣の間に何かがあるという図案自体は他にもあります。

同じ婦好墓から出土した「司母辛」方鼎には、鉞と同じ図案があるようですし、時代が下がって西周時代のもの(BC1110世紀)になりますが、陝西省淳化県出土の大鼎の耳(把手)には牛の頭部を思わせるような文様を挟んだ1対の龍が表現されています。

器物の文様の図案上ではなく、器物の配置の面から「神聖なものと2体1対の神獣」という状況が見られる文物はないのでしょうか。

手元には遺跡内での遺物の出土状況がわかるような図面や写真はごく僅かしかないのですが、紀元前のものではそれが明確に見て取れるものが見当たりません。

例えば、墓の場合、内部構造的には中心軸に対して左右対称と言えるような形になっているものは多いのですが、器物の配置という点では対称性が感じられないものが多いようです。

敢えて言うなら、広西壮族自治区の合浦前漢墓では、鳳凰と思われる鳥を象った『鳥形銅燈』というものが、棺の左右に対称に置かれた形で出土したようです。

また、グリフィンの影響として指摘した中山王墓の有翼神獣ですが、これは顔の向きを右にしたものと左にしたものが各2体、計4体出土したそうです。

これを2対と考えることも出来ますが、四方に配された可能性もあります。

そのあたりは発掘報告書で出土した際の配置を確認する必要がありますが、そこまでは調べませんでした。

2007年9月21日 (金)

ライオンの東アジアへの伝来

では、最初に設定した

 

A)ライオンの東アジアへの伝来

ということについて、ここまでの事をまとめてみます。

  • ライオンについての知識は前漢代の初期には伝わっていた。 
  • 実物のライオンも前漢の武帝時代には伝来していたと思われる。
  • しかし、現存するライオンあるいは獅子の図像は、後漢までしか遡れない。 
  • それに対して、ライオンを含む合成獣であるグリフィンの図像は、少なくとも戦国時代には受容されていた。

ということになります。

 

これだけの材料から、付随して設定した

 

a)ライオンから獅子への変化

 

という問題について言及するのは無理がありますが、以下は私の無根拠な仮説ということで書いてみます。

 

ライオンの図像あるいは情報は、おそらくグリフィンと同時期には中国に伝わっていたと思います。

ただ、中国では、生物界あるいは図案上で、ライオンが担うべき位置にトラが存在していました。

ライオンの図像が残っていないのは、それが中国でトラに置き換わったからではないでしょうか。

一方、類似する存在がいなかったグリフィンはそのまま受け入れられました。

それはやがて中国化して、一般に≪辟邪≫≪天禄≫といわれる有角有翼神獣になります。

その後に実物のライオンが中国に伝来しました。

その実物の姿から影響を受けて、有角有翼神獣の一部が変化して、よりライオン寄りの姿に作られるようになります。

それが後年、様式化して、中国式の獅子になったのではないでしょうか。

  

この仮説が成立するためには、≪獅子≫に先行して≪辟邪≫≪天禄≫とされる有角有翼神獣の図像が、前漢代にも存在していることが必要ですが、それに関しては「幻想動物の文化誌 天翔るシンボルたち」に咸陽博物館所蔵の漢代の≪玉辟邪≫が紹介されており、クリアできそうです(リンク先の画像のものは本で紹介されているのとは別の資料ですが、やはり前漢のもの)。

  

初期の≪獅子≫に有翼のものが存在していることも、この仮説の補強材料です。

と言うより、そこからこの仮説を立ててみました。

  

いかがでしょうか。

2007年9月20日 (木)

辟邪・天禄について(2)

≪辟邪≫≪天禄≫とみなされている考古文物は少なからずあります。

そちらからはどう考えることができるでしょうか。

「グリフィンの飛翔」には、河南省洛陽県孫旗屯出土の1対(2世紀)、南京市の宋武帝初寧陵の1対(5世紀)、江蘇省丹陽市の斉景帝修安陵の1対(5世紀)、南京市の陳文帝永寧陵の1対(6世紀)の4対が紹介されています。

いずれも一角と二角の組合せで、角の本数を別にすれば、対の左右であからさまな形状の違いはありません。

そして、4対の相互の形状もよく似たものになっています。

とりわけ、前足の付根あたりから翼が生えているという点が共通しています。

つまり、いずれも有角有翼神獣なのです。

顔は猛獣の顔をしており、獅子グリフィンの系譜にあるものと考えることが出来ます。

「幻想動物の文化誌 天翔るシンボルたち」(張競 農文協 2002年)でも同様のタイプの≪辟邪≫≪天禄≫が紹介されています。

その中に混じって紹介されている、梁の呉平忠侯・蕭景、安成康王・蕭秀、南康簡王・蕭積の三者の墓(6世紀)に設置された≪辟邪≫は、≪辟邪≫のみが1対となったもので、有翼ですが無角です。

その姿自体も、頭部が豊かなたてがみでふっくらとした形に表現されていて、明らかに上記の有角有翼神獣とは姿が異なります。

こちらは有翼ではあるものの≪獅子≫そのものという感じを受けます。

Photo 「中国獅子彫塑芸術」では、蕭景墓と蕭秀墓のものを≪石獅≫として収録しています。

その一方で、先日その名に触れた建安十四年(209年)の『四川雅安高頤墓石獅』は、角こそないものの、実は有翼で、その姿は上記の有角有翼神獣と似ています(写真は「中国獅子彫塑芸術」より引用)。

こうしたことを踏まえて、「中国獅子彫塑芸術」の著者・朱国栄は、林樹中による「有角のものを麒麟と総称し、一角か二角かで区別をした。無角の石獣が辟邪で、それは実は獅子である」という説を妥当としています。

つまり、≪辟邪≫は≪獅子≫であり、≪天禄≫は≪麒麟≫であるというわけです。

また、朱国栄は「石製辟邪のある陵墓には石製獅子が重ねて置かれることはなく、同様に、石製獅子のある場所には、石製辟邪を重ねて置くことはなく、重複しない」としており、それが確かなら、≪辟邪≫=≪獅子≫と言えるのかもしれません。

ただし、日本の曾布川寛は独自の研究から「一角獣の方は辟邪と名づけることが出来、二角獣の方は依然不明である」と唱えており、すっきりとはいきません。

ただ、間違いないことは、名称はどうあれ、獅子グリフィンからの影響を見て取れる有翼神獣が存在し、それは麒麟と獅子に非常に近接した存在である、ということです。

2007年9月19日 (水)

辟邪・天禄について(1)

ここで一旦、本題から離れます。

中国の神獣の中で、狛犬の起源について考察する際、必ず言及されるものに≪辟邪≫と≪天禄≫があります。

それは、≪辟邪≫と≪天禄≫が異なる名を持つ神獣でありながら一対のものとして扱われているという点と、その両者の違いが角の本数で表現されるという点が、日本風の≪獅子≫≪狛犬≫と類似しているからです。

しかし、この≪辟邪≫≪天禄≫という神獣には、よくわからない点が多々あります。

例えば、「漢書・西域伝」に対する孟康(三国時代)の注には「桃抜一名符抜。似鹿、長尾。一角者或為天鹿、両角者或為辟邪。」とあるそうです。

つまり、≪桃抜≫あるいは≪符抜≫と総称されるもののうち、一角のものは≪天鹿(天禄)≫、二角のものは≪辟邪≫だということです。

しかし、「後漢書・班超伝」には「符抜形似麟而無角」という注が付されているのだそうです。

孟康の注の通り、≪符抜≫が≪辟邪≫≪天禄≫の総称なのだとしたら、これでは≪辟邪≫も≪天禄≫も無角ということになってしまいます。

また「麟に似ている」というからには麒麟に似ているものの、それとは別の神獣ということになります。

「後漢書・粛宗孝章帝紀」には先日触れた章和元年(87年)の月氏国からのライオンの献上について、≪扶抜≫と≪師子≫を献上したと記述されているそうです。

≪扶抜≫が≪符抜≫ならば、≪辟邪≫≪天禄≫は≪獅子≫とは別のものということになります。

古代中国の地誌である「水経注」の記述には、後漢の熹平年間(172177)に、ある人が仏堂を建設し、死後その近くに埋葬されたという話があり、その墓について「隧前に獅子天鹿」があったと書かれているそうです。

ここでは≪天鹿(天禄)≫を≪獅子≫と並べています。

原典にあたっていないのではっきりしないのですが、この記述が≪天禄≫と≪獅子≫を対にしているということを意味しているのなら、≪獅子≫と≪辟邪≫を同一視しているように見えます。

逆に、≪天禄≫と≪獅子≫が各1対という意味なら、≪天禄≫のみで対を成して≪辟邪≫が除外され、≪天禄≫と≪獅子≫は別のものということになります。

一方で、「辟邪」という言葉は、それ自体「邪悪を避ける」という意味であり、神獣の名称と言うよりは、その役割を述べているものとも受け取れます。

どうも文字を追いかけていても、より混乱していくばかりのようです。

2007年9月18日 (火)

グリフィンは中国にやって来たか

ライオンのいない東アジアですが、同じネコ科の猛獣であるトラならば生息しています。

そして、トラは古くは商(殷)の青銅器や玉器において図像化されています。

身近に同じような猛獣がいるのであれば、ライオンの図像が伝来しても、そのままではトラに置き換わってしまうことがあるかもしれません。

証拠はありませんが、そうした可能性はあるのではないかと、私は考えています。

しかし、怪獣ならばそのまま受け入れることもあるのではないでしょうか。

つまり、ライオンを構成要素とする合成神獣、つまりグリフィンやスフィンクスならばそのままの姿で受容されることもあるのではないかと思うのです。

そして、それを受容していれば、当然、それがどういうものなのかという説明、つまりからだの一部がライオンであるという情報も受容することになるのではないかと、考えてみたいのです。

例えば、台湾の故宮博物院の所蔵品に「鳥首獣尊」という文物があります。

正確な出土地はわかりませんが、戦国時代(BC403~BC221)の早期のものとされています。

その名の通り、頭部は鳥で、猫科の猛獣を思わせる胴体をした怪獣の姿をした青銅器の器です。

胴体には翼を思わせる線刻の文様があります。

頭部の突起は角でしょうか。

だとすれば、それは鷲グリフィンの特徴のひとつです。

   

これを鷲グリフィンと考えるのは、いささか単純過ぎますが、それを連想させるものであることは確かでしょう。

しかし、鷲グリフィンではライオンは連想し難い気がします。

獅子グリフィンの例はないのでしょうか。

以前、『中国国宝展』という展覧会で、「双翼神獣」という青銅器を見ました。河北省平山県の中山王墓から出土したもので、紀元前4世紀、戦国時代の遺物です。

翼をもったネコ科の猛獣を思わせる神獣です。

これも頭部に角を備えています。

非常に獅子グリフィン的な文物です。

これらを中国で独自に生み出されたものと見ることも可能です。

しかし、例えば動物闘争文など、スキタイや匈奴といったユーラシアの北方内陸部の草原地帯で活動していた騎馬遊牧民の美術を代表する文物には、鷲グリフィンが多く表現されています。

それに類似した文物は、中原から見れば辺境を中心にではありますが、中国でも出土しています。

獅子グリフィンについても、新疆ウイグル自治区新源県で、2体の向かい合う獅子グリフィンらしき神獣が表現された文物(鍑の縁飾り)が出土しています。

これも戦国時代の文物です。

しかもそれは、アケメネス朝ペルシアの様式を受け継いでいると言います。

また、中山王は北方の騎馬遊牧民の系統の一族であるといいますから、そうした流れを汲んでいると言えます。

ユーラシアの西側においてグリフィンの図像が早くから存在していて、そことの中間をなす場所から類似品の出土があるということからすれば、影響を全く否定するということはできないでしょう。

つまり、中国においては、ライオンよりもやや早い段階のグリフィンの遺物が残っているということになりそうです。

2007年9月17日 (月)

考古資料に見るライオン・獅子の図像

中国にライオンが伝来したのが前漢代だとします。
しかし、生きた本物のライオンよりも、ライオンの図像の方が、より伝わりやすいはずです。
実際、実物のライオンより、ライオンの情報の方が先に中国に達していたらしいことに、前回触れました。

では、考古資料に具体的に残るライオン、あるいは獅子の図像のうち、最初期のものにはどんなものがあるのでしょうか。

前回触れた「中国獅子彫塑芸術」で紹介されている最も古いものは、建和元年(147年)の銘を持つ『山東嘉祥武氏祠石獅』です。
これは年銘がはっきりしている獅子像では最古のもの。
しかも、「師子」の語が刻まれているため確実に獅子と呼べるもので、なおかつ石工の名(孫宗)がわかる上に、価格までわかる(銭四万)という、極めて稀な資料です。
こちらに不鮮明ながら写真があり、中国語ですが解説もあります。

やはり前回触れた「楽園の図像」では『四川省渠県・沈府君石闕』『洛陽出土画像塼』の2点に言及がありますが、手持ちの資料でもweb上でも資料の画像などは見つけられませんでしたので、具体的にどのような形でライオン、あるいは獅子が図像化されているのかは、よくわかりません。
ただ、『沈府君石闕』に関しては延光年間(122~125年)に建てられたとする文章がありました(ただし、その文章には「獅子」についての言及はないのですが)。

手元にある他の狛犬関連の書籍を見ても、あとはおおむね魏晋南北朝のいわゆる≪六朝文化≫以降の資料が紹介されています。

したがって、明らかにライオン、もしくはそれから転じた獅子と確認できる遺物は、上記のように後漢代の、それも2世紀のものまでしか現存していないようです。

しかし、ユーラシアの西側でそれ以前に数千年にわたって蓄積されてきたライオンの図像が、東アジアに伝わったのがようやく紀元後というのでは、少し納得がいきません。

何か違う形で東アジアに伝わっていないのでしょうか。

次はそれを考えてみます。

注)上杉千郷先生の「狛犬辞典」では、『武氏祠石獅』の年代を建安十四年(209年)としていますが、「中国獅子彫塑芸術」では、その年銘を持つのは『四川雅安高頤墓石獅』となっています。
もっとも、「狛犬辞典」ではP22、P33、P59の3ヶ所でこの獅子に言及し、P33では建安十四年としているものの、他の2ヶ所では建和元年としています。
他の資料でも『武氏祠石獅』が建和元年、『高頤墓石獅』が建安十四年とされているので、P33のみ書き間違えたようです。
揚足を取るようですが、念のため指摘しておきます。

2007年9月16日 (日)

文献に見る中国へのライオンの伝来

中国は世界の書記と言えるほど、古い歴史文献が豊富な地域です。

そうした文献の中に、西域諸国からライオンが中国の諸王朝に献上された記録があります。

もちろん、このライオンとは、初めに断ったように図像ではなく、生きた本物のライオンのことです。

その最初期のものは紀元1~2世紀の後漢時代です。

「冊府元亀」外臣部朝貢編という文献に、西域諸国から中国へのライオンの献上の記録があるとのことです。「楽園の図像」(石渡美江 吉川弘文館 2000年)からの孫引きですが、それを列挙してみると、以下のようになります。

永平十三年(70)安息国(アルケサス朝パルティア)より

章和元年(87) 月氏国(クシャーン)より

章和二年(88) 月氏国と安息国より

陽嘉二年(133 疏勒国(カシュガル)より

「中国獅子彫塑芸術」(朱国栄 上海書店 1996年)によれば、同様の内容が「後漢書」の記述の中にも確認できるようですので、後漢代のうちに少なくとも5回はライオンが東アジアにもたらされていることは確かなようです。

ただ、原典にあたっていないので、それが牡なのか牝なのか、何頭か、献上後どう扱われたかなどについては、よくわかりません。

いずれにせよ、限られた範囲ではあるものの、それを目にした人間がいることになります。

例えば、後漢の第三代皇帝・章帝の在位期間は7689年なので、彼には在位中に3度、もしかすると即位前にも1回、ライオンを目にする機会があったと考えられます。当然その周囲の人間も獅子がどのような動物か具体的に見て知っていたはずです。

これ以前にはどうなのでしょうか。

「漢書」には、前漢の武帝時代(紀元前14087年)に“四海夷狄”の器服珍宝が展示されていた奇華殿でライオンも展示されていたことが記載されているそうです。

また、「中国獅子彫塑芸術」では「漢書・西域伝」の記述が、現在知られているライオンの中国への伝来に関する最も早い記録だとしており、それに基づくならば、遅くとも紀元前23年以前にライオンが伝来していたことになるようです。

この他、武帝によって西域遠征に送り出された張騫がライオンをもたらしたという説もあるそうですが、その一方で、「史記」には中国にライオンが伝わったという記述はないとのことです。

ところで、「獅子」という言葉はサンスクリット語の“Simba”から転じたものだとされます。しかし、この語に確定する前には「狻麂」という漢字がそれに当てられていたこともあったということに以前触れました。

そして、この語の用いられた文献には漢初の「爾雅・釈獣」があり、そこには「狻麂如猫、食虎豹」と記載されているそうです。

「虎や豹を食べる」というのは、およそ実際のライオンと一致しません。ライオンについての情報だけが何らかの形で伝わったのでしょう。

こうして見ると、実物はさておき、少なくとも前漢代にはライオンについての情報が中国にもたらされていたと考えていいようです。

2007年9月15日 (土)

東方へのライオンの伝来

「狛犬の源流」の章で見たように、ユーラシア大陸の西側では、紀元前だけでも数千年にわたってライオンおよびライオンを構成要素とする合成神獣が図像化され、広く深く浸透していました。

野生のライオンの生息しないユーラシア大陸の東側では、何らかの形でその図像が伝来しなければ獅子も狛犬も生まれません。

では、それはいつ頃どのような形で伝えられたのでしょうか。

また、ユーラシアの西で既に生まれていた「神聖な対象と2体1対の神獣」という組合せは、ユーラシアの東方に伝わって何か影響を与えたのでしょうか。それとも東側でも独自に成立していたのでしょうか。

つまり、以下で確認したいのは

A)ライオンの東アジアへの伝来

B)東アジアにおける「神聖な対象と2体1対の神獣」の始まり

という2点です。

なお、以下の記述においては、生物としてのそれは≪ライオン≫と書き、中国風に図像化されたものは≪獅子≫と書くことにします。

厳密に分ける必要はないのかもしれませんが、やはり現実の≪ライオン≫と、想像が混じった≪獅子≫とは別のものとしておきたいと思います。

となると、(A)に付随して

a)ライオンから獅子への変化

ということも確認すべきこととして想定されます。

これらの点を、以下に見ていきたいと思います。

2007年9月13日 (木)

うなる狛犬

東京都大田区に新田神社があります。

時は南北朝時代。
新田義貞の第二子である新田義興は南朝方に立って、東国中心に転戦していたが、足利基氏の家臣・畠山国清の命を受けた竹沢右京亮と江戸遠江守の策略によって、多摩川の矢口の渡で騙まし討ちにあい、主従14名が最後を遂げた。
その後、義興の怨霊が出没したので、それを鎮めるために建てられたのが、この新田神社だと言います。

ちなみに、この時の従者たちを祀ったのが、新田神社から程近い十寄神社(旧名は十騎社)です。

この新田神社の境内に「うなる狛犬」というものが残されています。

阿像1体のみの狛犬で、そばにこういう解説があります。

義興公主従を矢口の渡しでおとしいれた足利基氏家臣の畠山一族の者、またその血縁者末裔が新田神社附近に来ると、きまって雨が降り、この狛犬がうなったという。
しかし、残念ながら戦災で一体が壊れてしまった。

新撰東京名所図会」では、この狛犬がちゃんと台座に載せられ社殿の前に存在している姿が確認できます。
ただし、設置年代までは明記がないのでわかりません。

ところで、伝説は伝説として、これが本当に「うなる狛犬」なのでしょうか。

実は、このようなタイプの狛犬は、19世紀以降に広まったものです。
しかも、実際には、このタイプの狛犬としてもそれほど古い時期のものではないと思えます。
「新撰東京名所図会」の写真に写っている以上、明治44年よりは前のはずですが。

一方の新田義興が矢口の渡で討たれたのは、正平13年(1358)のこと。

神社の鎮座年代はわかりませんが、いずれにせよ、狛犬そのものの年代とは随分と隔たりがあります。

となると、考えられることは二つ。

1)「うなる狛犬」伝説は、この狛犬に対して生れたものではなく、これとは別に本来のものが存在している。

2)「うなる狛犬」伝説は、この狛犬が造られ設置された19世紀以降になって生れたものである。

上記の神社の沿革を書くための参考にした新田神社の公式サイトでは、こんなことが書かれています。

その後、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、境内の不思議な篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めた。また、源内は江戸一族の策謀を卑劣なやり方として、この新田神社の縁起をもとに浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口渡」を脚色し、これが当時の江戸っ子の気質と合ったかのように、大変うけて爆発的な大当たりとなり、江戸庶民の新田詣が始まるのである。現在でもこの「神霊矢口渡」の一部分が各地の歌舞伎場などで上演されている。

源内の生没年は享保13年(1728)~ 安永8年(1780)。
また、「神霊矢口渡」については、歌舞伎辞典というサイトに

1770年(明和【めいわ】7年)に江戸で人形浄瑠璃【にんぎょうじょうるり】の作品として初演されました。平賀源内【ひらがげんない】が福内鬼外【ふくうちきがい】というペンネームで書いた作品で、1794年(寛政【かんせい】6年)に歌舞伎に移されました。

という記述があります。

こうしてみると、18世紀終わり頃に作られた歌舞伎が、19世紀に入っても人気を保ち、それにあやかって「うなる狛犬」の伝説も出来た、という見方が可能なように思えます。

文献などで、「うなる狛犬」伝説が、どこまで時代をさかのぼりうるか確認しないとわかりませんが、状況としては、この見方が妥当なように思えます。

2007年9月12日 (水)

異獣を対にすること

(B)の『神聖な対象と2体1対の神獣の組合せの成立と展開』ということに付随して

b)1対の神獣を異なる2種類の神獣で構成したり、口の開閉で区別をつけるという形式の有無。

という検討課題を挙げました。

ここで挙げた異なる神獣を対にしたり、口の開閉で区別をつけるという形式について、私は以前は日本の狛犬に特異な特長だと思ってきました。

しかし、「グリフィンの飛翔」という本には、非常に興味深い事例が紹介されています。

例えば、円筒印章の図案の中に、ナツメヤシの上にとまる鳥を間に挟んでスフィンクスと鷲グリフィンが向かい合って表現されているものがあります(出土地不明 BC14世紀)。

そして、この遺物について、

グリフィンとスフィンクス、それにナツメヤシ=生命の木という組合せは、この頃からシリア・パレスティナ・キプロスなど、東地中海で広く登場するモチーフとなる。

と書いています。

あるいは、シリアのラス=シャムラ遺跡から出土した金碗があります。

BC14世紀中頃の遺物とされるこの金碗には、動物の文様が二重の帯状に描かれています。

本に掲載された文様の展開図を見ると、内側の文様帯にはナツメヤシを様式化した『生命の木』を挟んで向かい合う牛が描かれています。

一方、外側の文様帯には、数種類の動物が描かれていますが、その中心に『生命の木』を挟んで向かい合う有角の獅子グリフィン(本では留保して有角有翼獅子と表現していますが)と有翼のスフィンクスがいます。

これは異獣を対にしているとは言えないでしょうか。

その気になって見ていくと、他にも気になる遺物・遺構が紹介されています。

上エジプトのテーベにあるアハヘテプ1世の墓から出土した斧には、片面に鷲グリフィンが描かれ、その反対の面にはスフィンクスが描かれています(本ではグリフィンの面しか写真掲載はない)。

これもグリフィンとスフィンクスを対にしていると言えるでしょう。

また、北メソポタミアのティグリス川の支流の河畔の岩壁に描かれた「マルタイの浮彫り」というものが紹介されています。

アッシリアのセンナケリブ王(在位BC704BC681)と思われる人物の先導で7柱の神が動物に乗って行進しているという図柄です。

動物に乗ると言っても、背にまたがるのではなく、立ち上がった神の左右の足の下に1頭ずつ動物がいるという姿になっています。

つまり、それぞれに2体の神獣が伴なった状態です。

そのうち、先頭のアッシュル神(アッシリアの最高神)は右足を獅子グリフィン、左足をムシュフシュに乗せています。

また、6番目のアダト神(嵐の神)は獅子グリフィンと牡牛の上に乗っています。

ちなみに7番目にイシュタル神が2頭のライオンの上に乗っています。

これらも異獣を対にした表現と言えるのではないでしょうか。

つまり、主流をなす表現とは言えないけれども、古代オリエント世界でも異獣を対にする場合があるということです。

しかし、こうした形式が直接的に日本の狛犬に反映しているとは思いません。

むしろ、異なる神獣を対にするという考え方は、ユーラシア大陸に広く見られる、普遍的なものであると捉えた方が良いように思えます。

一方、口の開閉ということでも、面白い指摘が紹介されています。

B・ゴールドマンという研究者は、新アッシリアの印章では鷲グリフィンは口を閉じているが、獅子グリフィンは必ず口を開けている、と指摘しているというのです。

この場合、鷲グリフィンと獅子グリフィンは対で表現されているわけではありませんが、そうした元々の神獣が持っていた造型上の特徴を引き継いだ上で異獣を組み合わせることがありうるのではないかという示唆を与えてくれます。

つまり、≪阿吽≫という概念が存在しなくても、口を開閉させることはありうるということです。

これも、日本の狛犬に直接何かの影響があるということは言えませんが、ここで取り上げておくことには意味があるのではないかと思います。

  

なお、(a)の『ライオンの東アジアへの伝来のあり方』は別に扱うこととして、『狛犬の源流』についてはここで終えたいと思います。

2007年9月11日 (火)

グリフィンについて

この後の話に関わってくるので、ここで一旦横にそれて、グリフィンについて触れておきます。

グリフィンというのは、ライオンとワシを合成した神獣です。

その姿を、私はある時期まで『ワシの翼を持つライオン』だと思ってきました。

しかし、≪グリフィン≫という言葉で呼ばれる神獣には、それだけではない様々なバリエーションがあるのです。

合成されるのはライオンとワシの2種類ですが、身体の個々のパーツをライオンにするかワシにするかで、異なる複数の姿が生まれるのです。

まず、頭部をライオンにするかワシにするかで大きく二分できます。これを獅子グリフィンと鷲グリフィンと呼び分けています。

さらに尻尾をライオンのものにするか、鷲のものにするかという区別もあります。

また、4本の足を、全てライオンにするか、全てワシにするか、前足はワシで後足をライオンにするか、逆に前足をライオンにして後足をワシにするか、ということによって4つのパターンが生まれます。

胴体は基本的にライオンですが、ワシの足を持つ場合はその付根部分はワシの胴体になることもあります。

おおむね翼を持っていますが、翼がないものもあります。

そうなってくると、これはひとつの≪グリフィン≫という名前で呼ばれるべきものなのかという疑問が生じます。

特に、頭部がライオンのものとワシのものを同じ名で呼ぶことには、抵抗を感じます。

≪グリフィン≫または≪グリフォン≫という呼び名は、古代ギリシア語の≪グリュプス≫に由来するものです。

実のところ、それ以外の古代メソポタミアに存在したであろう呼び名が長い時間の中で埋もれてしまったために、唯一伝わった≪グリュプス≫=≪グリフィン≫によって代表させているということのようです。

つまり≪グリフィン≫とは『ライオンとワシを合成して生まれた複数の神獣の総称』と捉えるべき名称であると言えるでしょう。

グリフィンに含められたり、同列に論じられたりするもののうちで、固有の名称がわかっているものもあります。

○アンズー

アンズーはアッカド語で、シュメル語ではイムドゥグドゥとも呼ばれるようです。

頭部のみライオンとなったワシ(猛禽類)です。

ウバイド遺跡出土の銅製パネル(BC2500年頃 大英博物館所蔵)が代表的遺物です。

○ウガッル

アッカド王朝期(BC24BC22世紀)に広がったもののようです。

前半身=頭+前足がライオン、後半身=尾+後足がワシで、翼を持っています。

○ムシュフシュ

≪バビロンの龍≫とも呼ばれる蛇を主体とした神獣です。

早い時期から存在していましたが、アッカド王朝期あたりから前足がライオン、後足がワシとなり、翼を持つようになります。

名称のことは別にしても、≪グリフィン≫には地域性・時代性が存在しています。

・後足をワシ、前足をライオンとするものは主にメソポタミアに勃興したペルシャやバビロニア、アッシリアなどに見られる。

・アッカド王朝期より前は、上の項目とは逆にメソポタミアでも前足をワシ、後足をライオンとしていた。

・全てライオンの足にするのはシリア以西のギリシャ、エーゲ海に見られる。

・エジプトでは鷲グリフィンしか見られない。

・ギリシャも後にアケメネス朝ペルシャの影響を受けるまでは鷲グリフィンのみである。

・アケメネス朝ペルシャでは獅子グリフィンも鷲グリフィンも両方見られる。

・アケメネス朝ペルシャではグリフィンが頭部に羊あるいは山羊風の曲がった角を持つ。

・クラシック期ギリシャのグリフィンは後頭部から背中にかけて背びれを持つ。

大雑把な把握の仕方ではありますが、細かいことを言い始めるときりがないので、このぐらいにしておきます。

  

なおこの項目は「グリフィンの飛翔」(林俊雄 雄山閣 2006年)と「古代メソポタミアの神々」を主に参照しました。

2007年9月10日 (月)

門獣としてのライオン類

神聖なものに直接付随するようなものではなく、宮殿や神殿、都市や城塞という一定の領域を守護するかのように設置された2体1対の神獣も存在します。

時代はずっと下がりますが、トルコのボアズカレ(かつてのヒッタイトの都ハットゥシャ)に残る獅子門(BC14世紀)や、そのボアズカレに近いアラジャホユックのスフィンクス門(BC14世紀)が「獅子」(荒俣宏 集英社 2000年)という本に紹介されています。

写真を見ると、ボアズカレの獅子門は左右の門柱に直接ライオンが浮彫りにされています。

一方、アラジャホユックのスフィンクス門は、現存する姿としては門の体をなしていませんが、通路を挟んでスフィンクスが対になっています。

ギリシアのミケーネにも獅子門BC13世紀)と呼ばれる遺構があります。ただし、ここではライオンは門を挟んで設置されるのではなく、門の上部に2体1対で表現されています。

Photo ギザの三大ピラミッドのそばにあるスフィンクスは有名ですが、あれは単体です。対を成す相方がいた痕跡が残っているという話も聞きません。

しかし、もちろんエジプトにも2体1対の形式は存在していて、エジプトを旅したGingerさんによると、ハトシェプスト女王葬祭神殿(BC15世紀)の入口の階段には、第1の階段に対になった獅子のレリーフが、第2の階段には対になったグリフィン像があるそうです(掲載した3枚の写真もGingerさんの撮影)。

Photo_2

ライオンがらみでなければ、ペルセポリスの万国の門にある有翼人面の牛(ラマス)の巨大な像(BC5世紀)がよく知られているでしょう。

以上のように、古代オリエントでは、紀元前数千年という古い時代から、2体1対で神聖な存在や場所を守る神獣が広く見られたことがわかります。

私は古代オリエントの文化や歴史・地理に疎いので、例示した資料の出土地や時代による特徴、相互間の関係性などについて考察できませんが、何しろ、地域的にも時代的にも広範であることだけは示せたのではないかと思います。

Photo_3

敢えて言うならば、神聖なものに直接付随するライオン像は神殿狛犬に、一定の場所に対して設置されるライオン像は参道狛犬に、なぞらえることが出来るでしょう。

そして、神殿狛犬が先行し、後に参道狛犬が広まっていくように、神聖なものに直接付随するライオン像の方が一定の場所に対して設置されるライオン像よりも先行しているようにも見えます。

偶然の一致でしょうが、人間の意識のあり方として興味深いことに思えます。

2007年9月 9日 (日)

神聖なものに従う神獣

神聖なものに従う2体1対の神獣という形式を持つ資料をいくつか例示してみましょう。

特に、その中のライオンもしくはライオンを構成要素とする合成獣(スフィンクスやグリフィンなど)を伴うものを取り上げてみます。

チャタル・ホユックの地母神像に近いもの、つまり、直接神像に従っているものをまず挙げてみます。

○ナルンテ女神像

年代・出土地などの明記はない。女神の座る玉座の側面にライオンが浮彫りにされている。

(「古代メソポタミアの神々」 2000年)

○クノッソス宮殿

BC15世紀。ギリシア・クレタ島。宮殿玉座の間の壁画に玉座を挟んでグリフィンが描かれている。直接というと若干違和感はあるが、類似のものとして挙げておく。

○神像台座

BC9世紀。トルコ・カルケミシュ遺跡。神像を載せる礎石に従者に牽かれる2頭のライオンが浮彫りされている。ライオンを連れている従者は頭部がワシとなったグリフィン魔人と呼ばれる姿をしている。

(「グリフィンの飛翔」林俊雄 2006年)

   

web上でこの資料の画像がないか探していたところ、トルコのアンカラにあるアナトリア文明博物館の所蔵品にいくらか似たようなものを見つけた。ヒッタイトの資料のようだが、それならばこの資料よりは古いものとなる。
なお、ライオンの間にいる人物は≪グリフィン魔人≫ではないようだ。

Photo ○神の座

BC4世紀。ティル地方出土。玉座の左右にスフィンクスがいる。玉座には神自身ではなく石碑が表現されている。

(「メソポタミア文明展」図録 2000年 写真の引用元も同じ)

一方、器の紋様や、印章の図案の中に、神や聖なる樹を挟んで対になったライオン類が表現されているものが、数多く見られます。

Photo_2 ○一角獣と聖樹の容器

BC28BC27世紀。ステアタイト製。聖なる樹を挟んで一角獣が向かい合っている。一角獣は山羊の体+ライオンのたてがみ+ライオンの尻尾+コイル状の太く真直ぐな角という合成神獣。

(「古く美しいもの」中近東文化センター 1993年 写真の引用元も同じ)

○埋葬用の甕

BC13BC12世紀。マリ1号墓出土。三日月の上にバラが表現された紋章があり、それを挟んでライオンが線刻されている。

(「メソポタミア文明展」図録 2000年)

   

こうしたものも、神聖なものに従う2体1対の神獣という形式に含めてもいいでしょう。

2007年9月 5日 (水)

神獣を対にする事の始まり

さて、まず(A)の『野生のライオンの生息域とその地におけるライオンの図像化の状況』について、その一端を簡単に見てみました。

しかし、それだけでは狭義の≪狛犬≫および≪獅子≫の源流が古代オリエント方面に求められる、というに過ぎません。

広義の≪狛犬≫には、「狛犬の定義」で見たような一定の形式があります。

そうした形式が、日本以外の場所では見られないのであれば、狛犬は日本独自のものということになりますが、日本以外でも見られるのであれば、狛犬は大きな文化潮流の中の一形態であるということになります。

ということで、(B)の『神聖な対象と2体1対の神獣の組合せの成立と展開』という部分を見てみます。

「古代メソポタミアの神々」(三笠宮崇仁監修 岡田明子・小林登志子著 集英社 2000年)という本に、アナトリア(現在のトルコ)のチャタル・ホユック遺跡で出土した地母神の像が紹介されています(アナトリア文明博物館蔵)。

 

紀元前7000年頃から紀元前5500年頃にかけての遺跡とされるチャタル・ホユックは、農耕・牧畜が組織的に行われた最初期の遺跡だそうです。

 

「豹を従えた女神像」と呼ばれているこの女神像は、いままさに子供が生まれてきた瞬間を表現しており、椅子に座った女神の左右には豹が1頭ずついます。

この本ではこの女神像に限らず考古資料の年代を明記していないのですが、紀元前6000年頃の遺物のようです。

この女神像では対になっているのは豹としていて、ライオンではありませんが、『神聖な対象と2体1対の神獣の組合せ』という点からは注目に値します。

また、この本では

のちの豊穣女神に獅子が付き従う例の先駆けと考えられる

としています。

これは、シュメール・アッカドの豊穣と戦いの女神イシュタル(イナンナ)がライオンを随獣とすることを指しているのでしょうか。

本には具体的な資料の提示はありませんが、図像としてはライオンの上に立つイシュタル女神という形式が知られています。

さて、神聖なものに従う2体1対の神獣という形式が、ここに始まるものかどうかはわかりません。

これ以前から単体の神像と神獣像をそのように配置していたとしても、そのままの姿で出土しない限り、それとは認識できないからです。

ですから、遅くとも、この時期までには成立していた、としか言えません。

しかしながら、この形式が少なくともおよそ8000年の歴史を持つことは確かです。

人類が文明というものを生み出した、そのごく初期から存在するものということになります。

狛犬は、そうした長い歴史を引き継ぎ、ユーラシアの東端で発展した一種族というふうに考えるべきでしょう。

2007年9月 4日 (火)

初期の図像化されたライオン

ライオンの生息地であり、人類文明の発祥地でもある西アジアを中心とした一帯では、早い段階からライオンは図像化され、当然、その実例も数多く見出せます。

あいにく私は外国語が苦手で、海外の文献には全く手が出ません。それでいて、日本語の論文も渉猟するどころか、ほとんど目を通していません。

一般書と展覧会図録ぐらいしか参照していませんが、それでも非常に数多くのライオンの図像を見いだすことが出来ます。

さらに、グリフィンやスフィンクスなど、ライオンを構成要素とする合成神獣まで含めて考えると、際限が無いと言って良い程の数になります。

ライオンを構成要素とする合成神獣は一旦脇に置いて、ライオンそのものの図像の古いものをいくつか例示してみましょう。

○ライオンの頭をかたどったスタンプ印章

ウルク後期のBC3500BC3100年頃。白色大理石製。ライオンの顔面のみを表現していて、裏が印章になっている。

(「メソポタミア文明展」図録 2000年)

○アシュモールパレット

BC3200BC3000年頃。石製。上エジプト、ヒエラコンポリス出土。多くの模様が浮彫りになった化粧板で、ライオンのほかグリフィンと思われる浮彫りがある。

(「グリフィンの飛翔」林俊雄 2006年)

○テル・ウカイルの彩色神殿

BC3000BC2900年頃。壁画の中にライオン。文章のみでの紹介で図版が無いので、姿は不明。

(「古代メソポタミアの神々」岡田明子・小林登志子 2000年)

○獅子形品

ジェムデット・ナスル期のBC29BC28世紀。白色貝製。伏せたライオンを丸彫りしたもの。

(「古く美しいもの」中近東文化センター 1993年)

○ウル・ナンシェの銘の入ったライオンの半身像

BC2500BC2450年頃。オニッキス製。テロー出土。伏せの状態の上半身が丸彫りされている。

(「メソポタミア文明展」図録 2000年)

Photo ○供物台

BC2600BC2350年頃。スーサのアクロポリス出土。側面に2段に分かれて紋様が描かれ、上段にライオンの浮彫りがある。下段は鷲。

(「メソポタミア文明展」図録 2000年 写真の引用元も同じ)

○円筒印章

BC2500BC2400年頃。テロー出土。印面の図案にライオンが鹿を襲う図柄。

(「メソポタミア文明展」図録 2000年)

こうした円筒印章の図柄には、数多くのライオンやグリフィンの姿が見られます。

Photo_2 ○テラコッタ獅子

アッカド王朝のBC2340BC2185年頃。蹲踞するライオンの全身像。
(「古く美しいもの」中近東文化センター 1993年 写真の引用元も同じ)

写真を見る限りではたてがみがあるのかどうかはっきりせず、何をもって≪獅子≫としているのかは不明ですが、この姿は時代は全く異なるものの、日本の瀬戸などで制作された陶器製の狛犬を連想させます。

 

以上のように、紀元前2000年以前のものだけを抜き出しても、宮殿の壁画から印章や護符などの小物まで、様々なバリエーションがあります。

この時点までに、いわゆる古代オリエント地域の人々の生活に、ライオンの図像が広く、深く定着していたことがわかります。

一方、東アジアに≪獅子≫が出現するのは、中国の漢代(BC202220)だと考えられているので、数千年もの差があることになります。

狛犬の源流をユーラシア西方に求めるのは、当然ということになるでしょう。

2007年9月 3日 (月)

野生のライオン

まずは生物としてのライオンについて考えてみます。

ライオンというと、私たちはアフリカのサバンナを思い浮かべます。

しかし、実際には、アジアにもライオンが生息しています。

アジアのライオンは、現在、野生のものはインド・グジャラット州のギルライオン保護地区を中心に数100頭が生息しています。そのため、アフリカライオンとは区別してインドライオンと呼ばれています。

しかし、かつては西アジアを中心に、ギリシャなどヨーロッパ南部から南アジアにかけて広く分布していました。そのためアジアライオンとも呼ばれます。

そして、この地域は、メソポタミア文明やインダス文明など、人類文明の発祥地と重なり合います。

ライオンは地上の食物連鎖の頂点に立つ存在です。

同時に、狩猟採集段階の人類にとっては、獲物を奪い合うライバルでもあり、農業と並ぶ人類の重要な食糧確保の手段である牧畜・遊牧においては、家畜を襲う敵ともなります。

当然、人類はライオンに恐怖心や敵対心を抱いていました。

そうした畏怖の気持ちが図像化に結びついたのでしょう。

ユーラシアの古代文明において図像化されたライオンは、このアジアライオンです。

アジアライオンとアフリカライオンにはそれほど大きな違いはありませんが、アジアライオンの方が雄のたてがみがやや短く、その反面、たてがみが首から腹の方まで続いているとされます。

その特長は、有名なバビロンのイシュタール門に続く「行列道路」の壁面に彩釉煉瓦で表現されたライオン像BC580年頃)にも見ることができます。

2007年9月 2日 (日)

源流検討のポイント

さて、まずは狛犬を以下のように定義しました。

狛犬は、神聖な場所や存在に対して、左右2体を1対として設置される神獣で、ライオンを祖先とし、厳密には獅子と狛犬に分類できる。多くの場合、一方が口を開き、他方が閉じる『阿吽』の形態をとる。

この定義を前提に狛犬の源流を考えるとすると、ポイントは以下のようになります。

A)野生のライオンの生息域とその地におけるライオンの図像化の状況。

B)神聖な対象と2体1対の神獣の組合せの成立と展開。

やや先回りして言うと、日本を含む東アジアには野生のライオンは存在しませんから、Aの項目に付随して

a)ライオンの東アジアへの伝来のあり方。

ということが想定されます。

また、Bの項目に付随して、定義の中に残したこと、つまり、

b)1対の神獣を異なる2種類の神獣で構成したり、口の開閉で区別をつけるという形式の有無。

も検討課題として挙げられるでしょう。

以上を念頭において、以下、狛犬の源流について考えてみます。

2007年9月 1日 (土)

赤く塗られた狛犬

次に進む前に幕間として、狛犬をめぐる伝説や信仰を紹介してみようと思います。

徳島の狛犬について考察した「猪子芳明の狛犬ギャラリイ」というサイトがありました。

そこに「お亀千軒の狛犬」という伝説が紹介されていました。

今回、ご紹介しようとして久しぶりにアクセスしてみたところ、知らぬうちに閉鎖されていました。
インターネット・アーカイブで保存されているページにリンクをつけておきますが、念のため、ここに転載します。

徳島市の津田川口から4Km位の沖合いに、お亀千軒といわれた大きに島があったといわれています。千軒といわれたほど沢山の漁師が、その島に住んでいたということです。島の人たちは、みんなよく働き、海の幸にも恵まれていたので、平和に暮らしをしていました。
その島には、古くからの言い伝えがありました.それは、島の鎮守の森にある「ししこま」の顔が赤くなると、この島に一大事が起こるということでした。島の人たちは、誰もそれを信じて疑いませんでした。
ところが、その島に一人の怠け者がいました。働きざかりの若者だというのに、海辺で昼寝ばかりしていて、なにか面白し事は起こらないかとか、島の人たちをおどろかせるようないたずらは出来ないものかとか考えていました。
ある日のこと。
「ああ、退屈じゃ。いっちょ、村の者をおどかしてやれ。」と、晩になるのを待ちかねて、鎮守の森に、こっそり忍び込みました。そして、「ししこま」の顔を紅がらで、赤く塗りつぶしてしまいました。
あくる朝。
その島には、いつも朝のお参りをかがさない、信心深いじいさんとばあさんがいましたが、真っ赤になった「ししこま」の顔を見たとたん、腰をぬかすほどびっくり仰天しました。
〔大変だぁー。「ししこま」の顔が真っ赤だぁー。はよう逃げんとあぶないぞー〕と、二人は島を駆け回って言いふらしました。島の人たちも、「それ、一大事じゃ。」と、急いで荷物を取りまとめて、船に積み込み、それぞれに島から逃げ出しました。
あとに残ったのはたった一人、あの怠け者だけだったのでした。
ところが、どうしたことか、空は俄にかき曇り、カミナリがなり、天地が鳴り響くようなものすごい音とともに、島は、あっというまに海の底に沈んでしまいました。
あの怠け者もろとも・・・・。
お亀千軒は、この時沈んでなくなったといわれています。
お亀千軒があったと言われている海上には、今でも引き潮どきになると、その昔、山の頂上だったところが、カメの甲羅のような形をして、波間にに見え隠れしています。

ある本を読んでいて、これとそっくりな伝説に出会いました。

大分県の別府湾にかつて≪瓜生島≫という島があったが、水没して無くなった、という伝説があるそうです。
その水没にまつわる伝説が、≪お亀千軒≫のものとそっくりなのです。

違いは、瓜生島の方は、赤く塗られるのが神社の神像で、塗るのは民の迷信深さに立腹した医者である、という点ぐらいです。

その本には、この伝説の祖形は中国の伝説集「捜神記」にあるとして、その話が紹介されています。
そこで所持している東洋文庫版の「捜神記」をみてみたところ、第326話に『城門の血』という話がありました。
要約すると、こういう話です。

始皇帝の時代、長水県(現・浙江省)でこのような童歌が流行った。

お城のご門が血によごれ
お城は沈んで湖になるぞ

これを耳にした老婆が、心配になり、毎朝城門を見に行っていたところ、門衛の隊長に怪しまれ、捕らえられそうになった。
そこで、老婆が事情を話すと、門衛の隊長は何を思ったか、城門に犬の血を塗りつけた。
それを見た老婆は慌てて逃げ出したが、果たして、町は洪水に襲われ、湖と化してしまった。

確かに、基本は共通しています。

異なっているのは、「捜神記」の話には神仏が関わっていないことです。

この「捜神記」の話を知っていた誰かが、これを日本に置き換えるとともに、神仏とは関わりのなかった話を信仰の大事さを訴える様な内容に構成し直した、ということなのでしょう。

興味深い伝説だと思います。

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