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2007年9月25日 (火)

鎮墓獣について(1)

再び、一旦本題を離れて、『狛犬の隣人たち』に触れてみます。

中国の墓葬に見られる≪鎮墓獣≫は、時に≪狛犬≫と関連してその名が挙げられることがあります。

例えば、「日本の美術279 ≪狛犬≫」(1989年 至文堂)でも、かなり詳しく言及されています。

私自身は、何度か中国の考古文物の展覧会で実物を目にしていますが、≪狛犬≫に関心を持つ以前の時期に見たため、≪鎮墓獣≫に明確なイメージがありません。

そこで、鎮墓獣とはどういうものか、≪狛犬≫との結びつきはあるのか、少し調べ直してみました。

発行年代がやや古くなりますが、手持ちの資料の中から、中国で刊行された「中国大百科全書 考古学」(1986年 中国大百科全書出版社 以下「大百科」)と「新中国的考古発現和研究」(1984年 中国社会科学院考古研究所編 文物出版社 以下「新中国」)を参考に、まずは≪鎮墓獣≫について概観してみます。

まず、最初に≪鎮墓獣≫が見られるようになるのは、春秋時代(前770~前403)の後半、長江流域の楚でのことのようです。

「新中国」によると、雨台山楚墓という遺跡では500以上の春秋戦国時代に属する墓が見つかっていますが、そのうち春秋晩期以後の270余りの墓のうち、半数以上で≪鎮墓獣≫が出土しているとのことで、楚では広く普及していたことがわかります。

漢代(前漢:前202~後8/後漢:25220)に入ると、北の黄河流域にも≪鎮墓獣≫が見られるようになります。

そして、中原で≪鎮墓獣≫が広く見られるようになるのは、魏晋南北朝(220589)の西晋(265316)の頃からのようです。

これがさらに流行するのは唐代(618907)のことです。

しかし、「大百科」によると、安史の乱(755763)以降の唐代後半には、徐々に≪鎮墓獣≫は廃れていったということのようです。

確かに、「大百科」「新中国」とも、唐末の五代十国(907960)以降の記述の中に≪鎮墓獣≫の文字は見当たりませんでした。

以上をまとめると、≪鎮墓獣≫は春秋時代後半から長江流域の楚で広まり、漢代に黄河流域でも見られるようになり、魏晋南北朝以後盛んになるが、唐代の終わりにはほぼ廃れた、ということになるでしょうか。

さて、この≪鎮墓獣≫ですが、実際にはこの言葉は概念を表したものであって、≪獅子≫や≪龍≫のように特定の神獣を指しているわけではありません。

当然、この言葉の中に含まれる神獣像は、外見や形式において、幅があります。

例えば、長台関楚墓の1号墓から出土した≪鎮墓獣≫は、犬のちんちんのような姿勢で、頭から鹿のように枝分かれした角が二本、横に並んで生え、平面的な顔には半球状に飛び出た眼球があり、口からは長い舌をベロッと出している、というものです。

一方、漢代に見られるものは、牛を思わせる体躯をして、頭部を下げるようにして四本足で立ち、頭部からは枝分かれのない角が一本生えている、というものです。

想像によって造型したサイというイメージです。

日本の一般的な≪狛犬≫のような、後脚をたたみ、前脚を伸ばした蹲踞の姿勢が見られるのは、魏晋南北朝の北魏(386534)以降のことのようです。

そして、この北魏の時に、大きな変化が起ります。

「大百科」の記述によれば、西晋までの≪鎮墓獣≫は単体で置かれていたが、北魏以降は2体1対になる、というのです。

外見上も、形式上も、北魏に至って、極めて≪狛犬≫に接近してきたと言えます。

さらに興味深いのは、その2体になった≪鎮墓獣≫のうち、1体は獣面、もう1体は人面に作る、という点です。

これは、一方において、日本の≪狛犬≫が≪獅子≫と≪狛犬≫という異なる神獣を対にしていることを想像させますし、もう一方においては、ユーラシアの西側で見られたグリフィン(獣面)とスフィンクス(人面)を対にした図案を思い出させます。

これらが一本の線に繋がるものかどうかはわかりません。

グリフィンとスフィンクスのことを取り上げた時にも触れたように、異なる2種類の神獣を神聖なものと組み合わせる際に対にするという発想は、ユーラシア全体に見られるものであると考えるべきでしょう。

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