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2007年9月26日 (水)

鎮墓獣について(2)

この≪鎮墓獣≫を人面と獣面の2体1対にする形式は、唐代にも受け継がれます。

ただし、唐代は約300年という長期王朝ですので、その間にも変化が生じます。

それを「大百科」と「新中国」の両者に基づいて大まかにまとめると、このような感じになります。

  • 7世紀終わり頃まで=人面と獣面に分かれ、その表情にははっきりとした違いがある。
  • 7世紀末から8世紀半ば=角と翼が備わり、手で蛇をつかんだり、足で怪獣を踏んだりするようになる。
  • 8世紀末から10世紀初頭=人面と獣面の区別が曖昧になり、簡略な作りになる。

角はともかくとして、手で蛇をつかんだり、足で怪獣を踏んだりするというのは、≪狛犬≫には見られない特長です。

このあたりになると、少し≪狛犬≫からは遠いのではないかという気になります。

また、後になってから翼を持つようになるということは、グリフィンのような有翼神獣が原形ではないのではないかという気を起こさせます。

それよりも、「大百科」「新中国」あるいは「日本の美術279 ≪狛犬≫」の文中には記載がないことで、重要な点があります。

例えば、「新中国」の写真図版に掲載されている唐代の『三彩鎮墓俑』(河南洛陽関林出土)は、獣面のものは口を開き、人面のものはほとんど口を開いていません。

「日本の美術279 ≪狛犬≫」に写真が掲載されている『加彩鎮墓獣』(伝洛陽北邱山出土)も同様です。

また、「シルクロードの都 長安の秘宝」(1992年)という展覧会図録に掲載されている唐代の昭陵鄭仁泰墓から出土した≪鎮墓獣≫は、人面のものは口を閉じ、獣面のものは口を開いています。

くどいのでこれ以上挙げませんが、他にも類例が見られます。

つまり、人面と獣面を対にした≪鎮墓獣≫では、人面は閉口、獣面は開口とする決まりがあった可能性がうかがえます。

もっとも人面でも口を開いて見えるものや獣面でも口を閉じたものがありますので、それが何らかの思想に基づくものなのかは疑問です。
単に造型上の問題(人面が大口を開けると威嚇というよりはちょっと間抜けになります)と考えた方がいいようには感じます。
しかし、≪狛犬≫の≪阿吽≫を想起させるものであることは確かです。

以上のように、≪狛犬≫として具えているべき特長=①異なる神獣を1対にする②一方は口を開け、他方は閉じる=は、北魏から唐代の鎮墓獣にも同様の特徴が見られます。

その、北魏を含む魏晋南北朝から唐にかけての時代は、日本が中国の諸王朝に接触を持ち始める時期でもあります(倭の五王の遣使が413504年、遣隋使は600614年、遣唐使は630894年)。

そして、それは≪狛犬≫が日本で成立する時期とも重なってきます。

では、≪鎮墓獣≫が≪狛犬≫になったのでしょうか。

それにはやや疑問が残ります。

まず、造形的に、≪狛犬≫は人面をしていませんし、翼もありません。

そもそも、地下の墓の中に納められる≪鎮墓獣≫を、日本から中国に行った人々が目にする機会があったでしょうか。

目にしなくとも、概念だけを知識として学んだ可能性はあります。

しかし、それなら余計に疑問が生じます。

墓の中にあって死者を邪気から守る≪鎮墓獣≫と、地上にある御所や社寺において高貴な存在のいる場所を清浄に保つ≪狛犬≫は、異なるものに思えます。

特に、死を穢れとする傾向が強い日本人の感性からは、≪鎮墓獣≫と≪狛犬≫の距離は遠いのではないか、と思うのです。

≪鎮墓獣≫と≪狛犬≫はよく似通った存在ではあると思いますが、それは同じ河の流れの上流と下流ということではなく、同じ源流からどこかで枝分かれした別の河なのではないかという気がします。

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