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2007年10月

2007年10月29日 (月)

大徳川展

東京国立博物館平成館で開催中の『大徳川展』を観に行きました。

徳川家康を神格化した東照宮は、参道狛犬の歴史の中で、興味深い存在です。
日光東照宮には、関東では最古とされる参道狛犬がありますし、川越の仙波東照宮や静岡の久能山東照宮にも参道狛犬普及初期のものと思われる狛犬があります。

そのため、何か東照宮と狛犬に関する資料が展示されていないだろうかと考えて、足を運んだのでした。

狛犬そのものは展示されていませんでしたが、展示の一画に『家康の神格化』というコーナーがあり、そこに数多くの徳川家康を描いた絵画が展示されていました。
来場者が多く、会場ではメモを取りませんでしたが、図録を見ると、「東照宮御影」あるいは「東照大権現霊夢像」と呼ばれるものが16点(「御影」3点、「霊夢像」13点)掲載されています。
「東照宮御影」は徳川家康を神格化した画像であり、一方の「東照大権現霊夢像」は徳川家光が夢に見た家康の姿を描かせたという一連の作品群のことです。
ちなみに「御影」が3点(№77~79)、「霊夢像」が13点(№81~93)です。

一部形式の異なるものもありますが、天地に雲を配し、手前には短い階段と縁側、上には唐破風のついた屋根が描かれ、開かれた御簾と幕の中に上畳に坐した家康がいる、という図柄になっています。
そして、16点のうち12点で、家康の前に狛犬が1対描かれています。

御簾・幕・上畳といった道具立てと同様、狛犬も神格化の記号として描かれていることは間違いありません。

ところが、これらの狛犬、よく見ると奇妙な点があります。

図録№81、元和九年(1623)に描かれた「東照大権現霊夢像」の狛犬が、全身に鱗状の模様を描き込み、阿像は毛が緑色で巻毛、吽像は青色で直毛に描き分けられているのを別にすれば、いずれも簡略に描かれていて、左右で明確な描き分けなどはされていません。

それはいいのですが、形式がバラバラなのです。

一般的に≪狛犬≫は、向かって右に口を開いた阿形の無角の「獅子」、左に口を閉じた吽形の有角の「狛犬」を配するのが正式とされます。

しかし、この12対の狛犬は、ともに無角のもの(№77、№78、№81、№85、№89、№90、№91、№92)、通常とは逆に阿像に角があるもの(№82)、ともに有角と思われるもの(№83、№87、№88)となっていて、ひとつも正式なものがありません。
さらには向かって右を吽形にした≪吽阿≫のもの(№89)もあります。 これはどうしたことでしょうか。

12点の画像のうち、8点(№82、№85、№87、№88、№89、№90、№91、№92)は狩野探幽の筆によるものです。
また、№77も狩野探幽筆と考えられています。
同じ画家の作でありながら、狛犬の形式が一定しないのは、狩野探幽の狛犬についての知識が曖昧だったのでしょうか。

それとも、霊夢を見た徳川家光が、そのように描かせたのでしょうか。

真相は確かめようもありませんが、不思議なことです。

2007年10月27日 (土)

川柳の狛犬

仕事柄、明治の終わりから昭和の初めにかけての≪新川柳≫と呼ばれるものに関心があり、句集なども何冊か買い集めています。

最近購入したものに≪狛犬≫を詠み込んだ句があったので、思い立って手持ちの句集を調べ直して、そうしたものを抜き出してみました。

目を通したのは10冊程の句集で、合計4000~5000句ぐらいにはなるはずですが、見つけることが出来たのは10句にも足りませんでした。

以下にご紹介します。

高麗犬は揃って神へ尻を向け 源坊

単純に見たままという感じですね。

「漫画 浮世さまざま 川柳のぞき」(麻生路郎撰 昭和6年6月20日 湯川弘文社)より。

高麗犬の山へ登って富士が見え 歌楽

狛犬によじ登って、目線を高くして、眺望を得るということでしょうか。

狛犬の一種に、溶岩を岩山状に積み上げた≪獅子山≫と呼ばれるものがありますが、「高麗犬の山」というのは、それのことかもしれません。

竹馬の台に高麗狗されちまい  不老

これも同じく、狛犬によじ登る姿ですが、こちらは明らかに子供の仕業ですね。

閉じた眼に高麗犬を知る願百度 五碧

いわゆる≪お百度参り≫をするうちに、もはや目を閉じたままでも、狛犬の位置も姿もわかるくらいになった、ということでしょう。

高麗犬へ日は暮れて行く鈴の音 六文銭

「鈴の音」がなんだかよくわからないので、句意もはっきりつかめません。

飾りとして鈴をつけた狛犬もないわけではないのですが。

以上4句は「現代川柳名句集」(高木角恋坊編 昭和4年11月10日 磯部甲陽堂)より。

高麗狛の鼻で踊って椿落つ 飴ン坊

狛犬の側に植えられた椿の木から花が落ちる時に、直接地面に落ちずに、一度狛犬の顔にぶつかってから、踊るように回転しながら落下していくさまでしょう。

少し語感は固いですが、情景の美しい句です。

なお、「高麗狛」ではちょっと変ですが、「こまいぬ」とルビが打たれています。

こま狗へ可笑しく残る春の雪 五碧

時ならぬ春の雪が降った翌日、春の日差しで地面の雪がどんどん融けて消えてゆく中、狛犬の上に積もった雪が融け残っているという感じでしょうか。

この作者の≪五碧≫という人物は、僅かしか見つからなかったもののうちの2句を作っており、気になりますが、どういう人かはよくわかりません。

以上2句は「新川柳分類壱万句」(近藤飴ン坊編 昭和4年11月10日 昭和6年2月5日再版 磯部甲陽堂)より。

高麗狗に傘を預けて願をかけ 力丸

「大正柳多留」(矢野正世著 大正7年7月15日 忠文堂書店)に収められている句ですが、江戸時代の「誹風柳多留」に見える次のものに似ています。

こま犬にかぶせて拝む三度笠

ちなみに「誹風柳多留」にはもう1句、こんなものも収録されています。

こま犬の顔を見合ぬ十五日

お題は「おし合いにけり」となっています。

十五日には何か祭礼があって、人がどっと押し寄せるので、向かい合った狛犬がお互いの顔も見えないほどである、というようなことでしょうか。

071107追記:「日本古典文学大系57 川柳狂歌集」(岩波書店 昭和33年)によれば、山王祭の6月15日か神田祭の9月15日のことであろうとのこと。

なお、私が参照した岩波文庫版の索引は上五からしか引くことができないため、句の途中に狛犬が登場するものがあったとしても、索引からはわかりません。

一応ざっと眺めてみましたが、見つけられませんでした。

これは俳句ですが、現代俳句協会HPの検索機能を用いて見つけたものです。

この1句しか見つからなかったので、一緒にご紹介します。

狛犬の謂れ聴く子や初詣 石崎素秋

最後に、狛犬に関係する句ではありませんが、参道狛犬を尋ねて神社を歩いている人には、実感のわく句だと思いますので、こんな句をご紹介しておきます(「大正柳多留」に収録)。

飛び飛びに読んで石碑に首を曲げ 群星

2007年10月26日 (金)

成立期の狛犬(2)

一方、仏像に付随する獅子ではなく、天皇などに随うものとして独立した≪狛犬(獅子・狛犬)≫、いわば調度としての≪狛犬≫はどうでしょう。

京都国立博物館図録『獅子・狛犬』(1995)では、京都の東寺・観智院に伝わったとされる狛犬像を、9世紀前半まで遡る現存最古例としています。

しかしながら、狛犬そのものには製作や奉納の時期を示す銘文はなく、裏付けとなる文献もないようです。

したがって、平安時代のものとすることの妥当性はともかく、年代については明確とは言えません。

京博の『獅子・狛犬』に掲載されている狛犬像の中では、奈良・薬師寺の鎮守・休岡八幡宮の狛犬が、年銘のあるものとして一番古いようです。

奉納の年月日が墨書されており、その「□治元年」と読める部分が、寛治元年(1087)と見られています。

ただし、墨書の場所が洲浜座の裏なので、本体と一致するものかは不明です。

ちなみに、この狛犬の姿は先に触れた法隆寺五重塔内に現存する塑像の獅子像とよく似ており、興味深いものです。

狛犬本体の胎内銘としては姫路市の書写山円教寺に伝わる狛犬の頭部から弘長元年(1261)銘が見つかっており、製作年がわかるものとしては最古例になるようです。

もちろん、年銘が確実なものが鎌倉時代であるからといって、平安時代には調度としての≪狛犬≫がなかったというわけではありません。

1000年頃の成立とされる『枕草子』では、全文の語彙検索ができるサイトによると、「狛犬」の語が3ヶ所に出てきます。

そのうち2ヶ所は舞楽の狛犬ですが、1ヶ所は調度としての狛犬に触れたものです。

御簾よりはじめて、昨日かけたるなめり、御室礼、獅子・狛犬など、「いつのほどにか入りゐけむ」とぞ、をかしき

という二七八段の記述がそれです。

調度としての≪狛犬≫について定義した古文献として度々取り上げている『類従雑要抄』も平安時代末頃の成立とされています。

ちなみにその記述は

后宮御料ニ用濱床時者帳帷(長一丈於幅別一尺三寸五分)

他事如前(但立師子形時者帳前南方帷末之表ニ戸之左右之際ニ相向天立之左師子〔於色黄口開〕右胡摩犬〔於色白不開口在角〕)

(文字の大きさを変えて書かれており、( )内は地の文より小さい文字、〔 〕内はそれよりさらに小さな文字である)

となっており、≪獅子・狛犬≫の総称として「師子形」の語が用いられているのは、興味深いところです。

以上は、代表的な狛犬についての書籍や論述に出てくるものですが、それを見る限りでは、仏像の獅子が調度としての≪狛犬≫として独立するよりも前に、舞楽としての≪狛犬≫が成立していたことにはなりそうです。

となると、「獅子舞」の歴史について確認しなければなりませんが、それは別の機会にしたいと思います。

2007年10月25日 (木)

成立期の狛犬(1)

以上、狛犬の姿や形式が成立するまでの状況をごく簡単に見てみました。

それをさらに簡単にまとめるならば、獅子の姿や神獣の対形式は、日本と中国・朝鮮半島との交流が盛んになることで徐々に日本に伝わってきたが、それを決定的にしたのは仏教伝来であった、となるでしょうか。

それを踏まえて狛犬の成立について考えてみたいのですが、狛犬の起源やその成立については諸説あり、そのどれが正しいのか、正直なところよくわかりません。
そうした諸説について詳しく検討するのは、機会を改めることにして、とりあえずはあまり議論のないところから、概観を確認してみたいと思います。

衆目の一致するところ、「狛犬」という言葉の最も古い事例は、舞楽に関するもののようです。
『多度神宮寺資財帳』(延暦二十年〔801〕)という文献に見える「高麗犬壹頭」という記述が、それです。
舞楽に用いる頭、つまり「獅子舞の獅子頭」ならぬ、「狛犬舞の狛犬頭」というものが、遅くとも9世紀の初めには存在したわけです。
実際、同じ9世紀の『安祥寺資財帳』(貞観十三年〔871〕)という文献には「狛犬頭二面 同皮二面 同尾二支」と記されています。

これらに先立つ『西大寺資財帳』(宝亀十一年〔780〕)という文献には、「高麗楽器一具」という分類の記述の中に「大獅子一頭 頂に白木の角形あり」という記述が見られるそうです。
つまり、「高麗楽」に分類される舞楽に用いるものの中に、角がある「大獅子頭」があるということです。

≪角のある獅子≫であれば、しかも、「高麗楽」に属するとなれば、「狛犬」である可能性を考えたくなります。
もし、この「大獅子頭」を「狛犬頭」のことであると解することが出来るならば、実態としての「狛犬」が先行して存在し、「狛犬」という用語は後から、時期的には8世紀末の780年~801年に成立あるいは普及したとみることが出来ます。

これらの舞楽が、どのような姿で行われたかについては、大抵の場合『信西古楽図』という文献に描かれた図が引用されます。
しかし、「狛犬舞」を表しているとされる図には、実際には舞の名前が明記されていないので、はっきりと断言できるのかどうかは微妙ではあります。

一方、これらに対応する物的資料として、先に触れた正倉院の宝物中の獅子頭9点(奈良時代)、法隆寺に伝わる獅子頭1対(平安時代)が挙げられます。
しかし、この中に「狛犬頭」が含まれるのかは、はっきりしません。
角を決め手とするならば、正倉院の獅子頭にはいずれも角はなく、「狛犬頭」とは言い難いということになります。
法隆寺の1対のものは、頭上にそれぞれ宝珠と角を持ちますが、後補であると言い、したがって当初から角があったのかは不明です。

獅子舞は現在でも広く見られますが、狛犬舞は姿を消し、その実態ははっきりとしません。同様に、狛犬頭も実態は不明と言う他ないようです。

2007年10月21日 (日)

日本における対形式(2)

しかしながら、古墳時代にも、はっきりとした対形式が見られるものもあります。

例えば、京都府の穀塚古墳(5世紀)から出土した「金銅製帯金具」には、向かい合う龍が表現されています。

また、剣の柄頭の部分を飾る金具に「双龍文環頭」という、向かい合った二匹の龍が口を開き、二匹の間にあるひとつの玉をくわえているという図案が表現されたものがあります。滋賀県の鴨稲荷山古墳(6世紀初頭)、京都府の湯舟坂2号墳(6世紀後葉)、静岡県の院内2号墳(6世紀後半)などから出土しています。

ちなみに、「万葉集」では『わ(環)』の枕詞として『高麗剣(こまつるぎ)』の語があてられていて、この「環頭」を持った剣がそれに該当すると言われています。

その名の通り、朝鮮半島に祖型があるとされます。

「獅子」の古例として触れた『三角縁神獣鏡』ですが、その神仙と霊獣の配置は、ものによっては対を成しているように見えます。

特に興味深いのは、黒塚古墳出土の22号鏡です。

既に触れたように、その銘文には「左龍右虎」とあります。

つまり、異なる霊獣を左右に配していることを表明しているわけです。

しかも、それは有角の「龍」と無角の「虎」であるわけで、まるで≪狛犬≫のようです。

さらに、「龍」と「虎」と言えば、「玄武」「朱雀」「青龍」「白虎」の≪四神≫を思い浮かべます。

≪四神相応≫と言うと、「玄武」=北、「朱雀」=南、「青龍」=東、「白虎」=西に配されるものです。

この≪四神相応≫と「左龍右虎」を重ね合わせると、面白いことになります。

なぜなら、東の「青龍」を左、西の「白虎」を右に見る者は、南面している者である、ということになるからです。

つまり、「左龍右虎」というのは、この鏡の文様を眺める者にとっての左右ではなく、文様の表す世界の中における左右である、ということになるわけです。

ここに、霊獣に守護される神聖なものの存在を想定することが出来ます。

もっとも、実際の22号鏡の文様を見ると、2対ずつ組になった神仙と霊獣が上下左右に配された四神四獣になっており、また、いずれも鏡の外周側を下にした姿をしているため、明確な対形式とは言い難いものがあります。

また、そういう配置になっているため、対になった霊獣が守護すべき「神聖な存在」が、この図案の中に存在しているのかも、私には判然としません。

「左龍右虎」は、単に『三角縁神獣鏡』の図案が≪四神相応≫という考え方の影響下にあるということを示しているだけでしかないのかもしれません。

さらに、「獅子」の古例として触れた際にも指摘したように、当時の日本人が漢字の意味を解していたかどうかは保証の限りではありません。

いずれにせよ、『三角縁神獣鏡』にせよ、「金銅製帯金具」にせよ、「双竜文環頭」にせよ、器物としても、図案としても、日本の中で生まれたわけではなく、その起源が中国大陸にあることは間違いありません。

以上のように概観してみて、「神聖なものと21対の神獣」という対形式は、仏教伝来以前にその萌芽があったとしても、基本的に外来のものであり、本格化するのは仏教伝来後ではないか、というのが、私のいまの推測です。

2007年10月20日 (土)

日本における対形式(1)

仏像に伴なう対になった獅子の例をいくつか挙げましたが、それ以前の日本には、何かを対にする、さらに対になったものを神聖なものと組み合わせる、という例はあるのでしょうか。

縄文時代には様々な文様を持つ特徴的な土器と、数多くの土偶が作られました。

手元で確認することができる僅かな事例からは、土器の文様や、土偶の造型の中には明確な対形式は見出せません。

出土状況から対形式がうかがえるものがないかと考えてみましたが、土偶に関しては、何らかの祭祀後に破壊して廃棄するという習慣が認められていますから、対形式を見つけ出すことは困難なようです。

佐原真は、銅鐸の文様などから、弥生時代の絵画に動物を1匹は右向き、もう1匹は左向きに描く、というような『左右相称』の意識が認められるとしていますが、それは『左右対称』や対形式を成しているわけではないようです。

時代は下がりますが、装飾古墳として有名な福岡県の王塚古墳(6世紀)の墓室入口の左右の壁面に向かい合う形で馬が描かれているのは、その延長なのかもしれません。

というのは、右には赤馬と黒馬の計2頭、左には赤馬1頭と黒馬2頭の計3頭が描かれていて、完全な対称にはなっていないからです。

『左右相称』であって『左右対称』ではない図案と言えます。

また、馬そのものも、色はともかくとして、その姿は普通の馬です。

やはり装飾古墳である福岡県の竹原古墳(6世紀)に描かれている龍とも解釈される奇怪な馬らしき生き物が、明らかに神獣であることに比べると、なおさら普通の馬に見えます。

しかし、描かれている場所を考えると、このあたりに「神聖なものと2体1対の神獣」という形式の萌芽を見ることは不可能ではないでしょう。

ただ、決定的とは言えません。

古墳と言えば、埴輪もあります。

埴輪の配置には対形式は見られるのでしょうか。

手元の本に取り上げられている事例を見る限りでは、埴輪の配列に左右対称性は見えないようです。

考えてみれば、対形式の見られる中国や朝鮮半島の陵墓に見られる石像群が墓に向かう参道に設置されているのに対して、埴輪は墓本体の墳丘上やその外周にあることからして、そもそもの思想の拠り所が異なっているはずです。

その点からすると、埴輪に対形式が見られなくても当然なのかもしれません。

ちなみに、人物・動物・建物・武具・馬具などを象った埴輪の配置は、葬送に関する祭式を模したものであろうと考えられているようです。

そこに厳密な形での左右対称性が見られないということは、実際の祭式においても、必ずしも対称性は重視しないという傾向があったということになるのでしょうか。

2007年10月16日 (火)

狛犬の眼

日本参道狛犬研究会という狛犬愛好者のグループの会報『狛犬の杜』の第11号(1999年2月2日発行)に、「菊池寛の狛犬小説!」という記事が出ています。

それは、菊池寛が書いた狛犬の登場する小説があるという情報があるが誰か知らないか?、というものでした。
そこで紹介されているあらすじは、以前ご紹介した「赤く塗られた狛犬」という話と、骨格のよく似たものでした。

私は会員ではないので最新の号のことはわかりませんが、第55号(2006年8月29日発行)までをまとめて合本した「こまいぬ・狛犬・コマイヌ 狛研会報「狛犬の杜」全集」(平成18年10月30日発行)というものが出版されており、それを見る限りでは、それが判明したという記事はありませんでした。

そこで興味を持って調べてみたところ、すぐに判明しました。

昭和の初め、菊池寛の編著によって「小学生全集」(興文社・文藝春秋社)というシリーズが刊行されました。

しかし、これは大きな騒動を巻き起こしました。

というのも、これにやや先んじて、アルス社という出版社がよく似た内容の「日本児童文庫」というシリーズの企画を進行していたのです。
アルス社は北原白秋の弟が経営していた出版社で、白秋自身、この「日本児童文庫」に編著者として加わっていました。

二つの企画が並立することで、派手な広告合戦と販売競争が生じ、双方が対立していきます。
特に、白秋からすれば、自分たちが温めてきた企画を、菊池寛に横合いから掠め取られたように感じられたでしょう。
激怒した白秋は、菊池寛を厳しく非難する文章を発表します。
菊池寛もそれに反論し、泥仕合になってしまいます。

昭和2年から4年にかけて、どちらのシリーズも刊行され、文学史上に有名な≪円本ブーム≫に乗って、それなりの成果をあげます。
しかし、大量に廉価な児童書が普及したことで、単行本の価格が比較的高い児童文学界に大きなダメージを与える結果も招いてしまいました。

閑話休題。

その、「小学生全集 初級用」の第8巻「日本童話集 下」(昭和4年2月1日発行)の中に『狛犬の眼』というお話が収録されています。
ちなみに、この巻には19のお話が収録されており、『文福茶釜』『鉢の木』『一寸法師』『鉢かつぎ姫』『百合若大臣』などよく知られた昔話が含まれています。

『狛犬の眼』のあらすじは、こんなものです。

南の方のある島に、一つの社がありました。
その社の狛犬の眼が血色になると、災害が起きるという伝説があり、島人は毎朝、社へ行って狛犬の眼を見て、お祈りをしてから仕事に出かけるのでした。
ある時、内海を荒らしまわっていた海賊船が遭難し、生き残った二、三人が島に流れ着きました。
情け深い島人の手当てで回復した海賊たちは、しばらくはおとなしく島人の手伝いをしながら便船が来るのを持っていましたが、次第に退屈してきました。
そんな時、島の伝説を知り、悪だくみをします。
狛犬の目を赤く塗って、島人が脱げ出した隙に、目ぼしいものを盗んで島から抜け出そう、というのです。
島が暴風雨に襲われた夜、海賊たちは狛犬の目を赤く塗りました。
翌朝、それを見て驚いた島人たちは一目散に島を出て、沖合いに逃げました。
それを見て海賊たちが大笑いし、その勢いで狛犬にまたがってふざけていると、その狛犬の眼が光りだし、それと同時に波が押し寄せてきて、海賊もろとも、島を包み込んでしまいました。

先日ご紹介したお亀千軒の伝説は徳島県のものですが、菊池寛はその隣の香川県の出身です。
徳島の伝説を知っていて、それをアレンジしたのかもしれません。

また、ほかならぬ≪眼≫を赤く塗るという点では、「赤く塗られた狛犬」のコメント欄にあゆはさんが書き込んでくださった『漢民族の伝説』と共通性があります。

あるいは、読書家で博識の菊池寛のこと、私の知らない種本があったのかもしれません。

いずれにせよ、狛犬の登場する伝説としては、かなり広く流布されたものということになるのでしょう。

2007年10月14日 (日)

狛犬以前の獅子(3)

「日本書紀」によれば、欽明天皇壬申年(552年)に百済の聖明王から仏像と経巻が贈られており、これが公式の仏教伝来とされます。
実際にはこの少し前から仏教は伝来していたようですが、いずれにせよ6世紀の中頃までには伝来していたことになります。

ただ、現存するものとしては、仏教に関わる獅子像が登場するのは7世紀に入ってからのようです。

「日本の美術279 狛犬」が挙げる最初期の例は

それぞれ、厳密な年代には議論があるようですが、7~8世紀のものです。
いずれも獅子が対をなしています。

興味深い点に触れておくと、刺繍釈迦如来説法図の獅子の頭上には角ではない何かがあります。
「日本の美術279 狛犬」では、蓮華文としていますが、獅子頭によく見られ、≪狛犬≫にも受け継がれた獅子の頭上の宝珠を連想させます。

また、玉虫厨子のものは、有翼の獅子と見られています。
中国でも、≪獅子≫の様式が固まるまでには、有翼の獅子がしばしば見られました。
その流れを受けたものでしょうか。

御崎山古墳の「獅噛式環頭」に表現された有角の獅子とともに、最も東まで伝わったグリフィンと言えるのかもしれません。

この他、同時代のものとしては、奈良県・長谷寺の国宝「銅板法華説相図 千仏多宝仏塔」(7世紀末)に浮彫りで描かれている多宝塔の下に対になった獅子がいます。

これらは全て、浮彫りか描かれたものです。全身を立体的に表現したものはないでしょうか。

法隆寺五重塔の初層に弥勒浄土相を表現した塑像群がありますが、その中に1対の獅子像があります。
破損と修復を繰り返しており、和銅四年(711)の創建当時のものではないようですが、同様のものが当初からあったと推測できます。

また、奈良県・当麻寺に木心乾漆像の獅子が残っています。
ただし、ここまでに挙げた対をなした獅子像とは異なり、元来は当麻曼荼羅厨子の一部として、全10体の獅子が上に何かを載せていたということです。

対ということにこだわらなければ、東大寺正倉院の宝物に多くの獅子が見られることは有名です。

手持ちの資料で図像を確認できるものでは

  • 沈香金絵木画水精荘箱(箱の上面の水晶透かし絵に走る獅子)
  • 銀薫炉(球形の薫炉の外側の球体に2頭の獅子と2羽の鳳凰が透かし彫り)
  • 十二支八卦背円鏡(紐の部分が獅子)
  • 柄香炉(炉の縁と柄の端に獅子)
  • 漆密陀絵竜虎櫃(側面の唐草模様の中に座す獅子)
  • 白石火舎(器の5本の脚が後脚で立ち上がった獅子)

が挙げられます。

そして、後の話につながる重要なものに、9点が現存しているという「獅子頭」の存在があります。

以上、資料名を列挙したに過ぎませんが、いずれも当然ながら中国および朝鮮半島の影響を指摘できるものになっています。

2007年10月13日 (土)

狛犬以前の獅子(2)

『三角縁神獣鏡』に刻まれた「獅子」の文字と図像が日本国内で見られる最古例なのか確認できませんでしたが、最初期のものであることは確かでしょう。

では、その後の様子はどうでしょうか。

さらに「獅子」の痕跡を探して見ます。

時代が下がりますが、「獅噛式環頭」が挙げられます。

これは、剣の柄頭を飾るものですが、楕円の環の中に牙をむき出した獅子の顔が図案化されています。

環に獅子が噛みついていると見て、この名で呼ばれます。

6世紀末から7世紀前半の遺物で、全国で30例近く、主に古墳から出土しています。

唐の長安の大明宮跡から出土した類例の存在から、中国から百済を経由して伝わったものではないかと言われているようです。

その代表例であり、とりわけ興味深いものが、島根県の御崎山古墳(6世紀)から出土したものです。

この遺物の獅子は角を2本持っています。

どうやらグリフィンの流れを汲むもののようです。

これは頭部のみの獅子ですが、全身像ではどうでしょうか。

同じ6世紀の奈良県藤ノ木古墳から出土した鞍金具には、前輪の部分に獅子が透かし彫りされています。

その部分の写真を見ると、顔を上に向けて口を大きく開いた姿を側面から捉えたものになっています。

これは私が見方を間違えているのかもしれませんが、頭部に角があるように見えます。

これもグリフィンの流れを汲むのでしょうか。

手元に参照できる資料が少なく、古墳時代のものとしては、この程度しか事例が挙げられません。

参照した資料の少なさを割り引いても、それは古墳時代には「獅子」がまだそれほど多くなかったという事なのかもしれません。

いや、『三角縁神獣鏡』などは数百という数で見つかっていますから、数だけならば多いと言えますが、例が豊富とは言い難いようです。

青銅器としては銅鏡よりも日本的な銅鐸には、「獅子」は描かれていないようですし、古墳を飾る埴輪にも「獅子」のものがあるとは聞きません。

結局、獅子の図像の事例が豊富になるのは、やはり仏教の伝来以後のようです。

次は、それを見てみたいと思います。

2007年10月12日 (金)

狛犬以前の獅子(1)

まずは、日本へのライオン/獅子の伝来について見てみます。

と言っても、ライオン、つまり生きたライオンもしくは中国化されていない写実的なライオンの図像の伝来というのは、江戸時代まで認められませんので、中国化された獅子の伝来ということになります。

古代史上の大きな議論の対象となっているものに『三角縁神獣鏡』があります。
その名の通り、縁の断面が三角形を成し、神仙と霊獣(ここまで使用していた「神獣」の語を用いるとややこしいのでここではこう書きます)の描かれた銅鏡です。

「邪馬台国論争」にはほとんど興味がないため、あまり関心を持たずにいましたが、今回調べてみて、実は獅子の伝来について、注意すべき資料であることを知りました。
と言うのも、『三角縁神獣鏡』の中には銘文が刻まれたものがありますが、その銘文中に「師子(獅子)」の文字が、それも「辟邪」や「天鹿」と併記して刻まれている例が複数あるのです。

例えば、奈良県立橿原考古学研究所による「大和の前期古墳 黒塚古墳 調査概報」(学生社 1999年)には、黒塚古墳から出土した34面の銅鏡(うち33面が『三角縁神獣鏡』)が詳しく紹介されています。そこから「師子」銘のあるものを列挙してみます(銘はその部分の抜粋)。

  • 4号鏡(三角縁銘帯四神四獣鏡)=「師子天鹿其義龍」
  • 16号鏡(三角縁銘帯三神五獣鏡)=「獅子辟邪」
  • 18号鏡(三角縁銘帯三神五獣鏡)=「獅子辟邪」
  • 20号鏡(三角縁銘帯四神四獣鏡)=「師子辟邪」
  • 23号鏡(三角縁銘帯三神五獣鏡)=「師子天鹿其粦龍」
  • 32号鏡(三角縁銘帯四神四獣鏡)=「師子辟邪」

三角縁神獣鏡』は、中国で作られたのか、日本で作られたのかという論争があります。中国製であるとする立場からは、中国から伝来したもの(舶載)と、それを模して日本で作られたもの(仿製)があるとされています。
そのどちらが正しいにせよ、日本で出土していることには変りはないので、古墳時代の初期(3~4世紀)には「獅子」および「辟邪」「天鹿」が、日本に伝わっていたことにはなるでしょう。

ただ、当時の日本人が、「獅子」「辟邪」「天鹿」といった漢字の意味を理解していたのかどうかは何とも言えません。
仿製とされる鏡には、漢字が正しい向きになっていないものや間違っているものが見られます。
漢字を理解せず、単なる文様と見ていた可能性はあるでしょう。

4号鏡の「其義」と23号鏡の「其粦」は、おそらくどちらも「麒麟」を指しているはずです。
23号鏡の方は「麒麟」から偏を取っただけで、表記としてありうるものですが、4号鏡の方は誤記していると言えるでしょう。
「麒麟」の何たるかがわかっていれば、こういう誤記はしないのではないかという気がします。

また、これらの銅鏡に描かれている霊獣が、銘文通りに「獅子」や「辟邪」「天鹿」「麒麟」なのかは、微妙です。
黒塚古墳出土鏡のうち、1号鏡・6号鏡・19号鏡には「龍虎」の銘が、22号鏡には「左龍右虎」、31号鏡には「青龍」の銘が見えます。
つまり、銘文に見える霊獣には「獅子」「虎」「辟邪」「天鹿」「麒麟」「龍」「青龍」があるわけですが、それらを見比べてみて、明確な描き分けがなされているようには見受けられません。

ただし、有角と無角の別はあるようで、「龍虎」銘のあるものならば、それによって有角の霊獣は「龍」、無角のものは「虎」と解することはできます。
とは言え、「左龍右虎」と刻まれた22号鏡でも、左右の霊獣の違いは感じられません。
(もっとも、無銘の8号鏡に描かれた2体の霊獣は明確な描き分けがあり、龍虎と解されています。)

結局、「獅子」銘のある鏡に描かれているのは「獅子」であるとしても、他と比較して間違いなく「獅子」だと言えるほどのはっきりした特徴は、私には見出せませんでした。

2007年10月 8日 (月)

狛犬の歴史-イントロダクション

ここまで、ユーラシアの西方で図像化されたライオンが、様々な形で東アジアに伝来し、実物のライオンから独立した≪獅子≫として図像化され、神獣として制度化されてきた様子を概観してみました。

あくまで狛犬の源流として概観するという前提でしたので、ユーラシアの西方については東アジアに獅子が成立する以前として紀元前の状況に限定し、また東アジアについては、日本で≪狛犬≫が成立したのは遅くとも9世紀とされていますので、中国の唐代までの状況に絞って見てきました。

ここからは、日本における狛犬の歴史を見ていこうと思います。

繰り返しますが、現在のところ、確実に≪狛犬≫が成立していたと認められるのは9世紀、平安時代に入ってからのようです。
そこで、それ以前を、狛犬前史として、ここまでユーラシアで見てきたのと同様、ライオン/獅子の伝来と、「神聖なものと2対1対の神獣」という対形式の成立という二つの側面から見てみます。
その後、狛犬の成立について簡単に考察してみます。
そして、狛犬成立後、現代までの狛犬の変遷を時代ごとに概観してみたいと思います。

2007年10月 5日 (金)

犬嫌い

愛知県知多半島の先に篠島という島があります。

ここにある篠島八王子社は「犬嫌いの神様」として知られています。

篠島では正月三日の夜に八王子社の神が同じ島内の神明神社に渡御するとされており、島民はそれを見ないように、その夜は雨戸を閉めて明かりも消し、物音も立てないようにして家にこもるという風習がある。

ある時、その渡御の最中に犬が吠える声がした。

それ以来、海が荒れて漁が出来なくなってしまったため、島民が八王子社に祈願に行くと、参道の狛犬が台座から転げ落ちていた。

そこで狛犬を台座に据え直したが、次に行くとまた転げ落ちている

そんなことが何度も起ったため、八王子社の神様は犬が嫌いなのだ、ということになり、島内の医徳院という寺に狛犬を移したところ、海は静まった。

狛犬の移設だけでなく、この伝承のため、島では犬を飼うことが禁忌となっているとのことです。

狛犬愛好家にとっては、よく考えるとおかしな話で、犬が吠えたのに、狛犬が排除されなければならないというのは、全く筋が通りません。

狛犬の祖先はライオンなのですから。

しかも、この篠島八王子社のご神体は、伊勢の箕面大社から奉納された獅子頭だというのです。

獅子頭と狛犬は祖先を同じくする仲間です。

『獅子頭がご神体で、狛犬は嫌い』というのは、実に納得がいかない話です。

結局のところ、≪狛犬≫という名称に引きずられ、犬の仲間にされてしまったということでしょう。

似たような話があります。

奈良県吉野町の窪垣内地区には大海人皇子(後の天武天皇)にまつわる云い伝えが残っているそうです。

ある時、大海人皇子が賊に追われ、吉野川に沿って逃げた。

窪垣内に到った時、川渡しの老夫婦が舟をひっくり返して皇子を中に隠した。

ところが、賊の犬が舟の周囲を嗅ぎ回りはじめ、皇子が見つかりそうになる。

そこで、老人が赤い石を投げつけて犬を殺し、皇子は助った。

それ以来、この地区では犬を飼うことが禁忌となった。

この地区内に皇子を助けた翁を祭神とする御霊神社があり、こうした謂れから狛犬がない、というのです。

これもまた、狛犬と犬が同一視されています。

結局のところ、狛犬の正体が何であるかにこだわるのは、特殊な人間だけで、庶民信仰としては「狛犬も犬も一緒」ということなのでしょう。

世界の広さもライオンも知らない近世以前の日本人には、狛犬と獅子の関係も、狛犬と犬の違いも、どうでもいいことだったのでしょう。

そんな瑣末なことよりも、漁の安全の方が大事だし、それで海が静まるのなら理屈に合わないことでも何でもやる、という庶民の素朴さや逞しさを感じます。

2007年10月 4日 (木)

ヘテについて

朝鮮半島における『狛犬の隣人』と言えば、≪ヘテ≫が挙げられます。

ソウル市にある景福宮光化門前のものは、特に有名でしょう。

しかし、この≪ヘテ≫とは一体何なのでしょうか。

「韓国伝統文化事典」(国立国語院編 教育出版株式会社 2006年)の『ヘッテ』の項目からその特徴を取り出して列挙してみると以下のようになります。

  1. 守護神とされる想像上の動物。
  2. 獅子に似て、たてがみの中に鹿に似た角が一つある。
  3. 善悪を判断し、人の争いを見ると、正しくない方を角で突く。
  4. 火事や災いを退治する。
  5. 建物の入口に左右一つずつ立てる。

このうち、(3)から即座にイメージされる神獣が存在します。

≪獬豸≫です。

漢代に成立し、清代に編集された「異物志」によると、≪獬豸≫には一本の角が生えており、人が争うのを見て、善悪を弁別し、角で悪人の方を突く、とあるそうです。

「韓国伝統文化事典」では

ヘッテは中国の古い文献によれば、東北の辺方にいる動物で角が一つある。

と記述していますが、前漢の東方朔の著書という伝説のある「神異経」に、≪獬豸≫は東北の荒野にいるとの記述があるということなので、「韓国伝統文化事典」が≪獬豸≫のことを≪ヘテ≫としていることは間違いないようです。

では、≪獬豸≫が≪ヘテ≫なのでしょうか。

「説文解字」などは≪獬豸≫は牛に似ているとしていますし、「漢書」の注によれば鹿に似ているとしています。
明の太祖・朱元璋の陵墓である明孝陵の参道にある≪獬豸≫像(リンク先の写真の一番手前)は、決して牛や鹿に似ているとは言えませんが、足には蹄があり、牛や鹿を意識していることは確かでしょう。

この点では獅子に似ているという≪ヘテ≫と食い違います。
上のリンク先の写真を見ると、足も獅子風の鉤爪で、蹄ではありません。

一方、≪ヘテ≫に≪海駝≫という漢字を当てている記述もあります。
手持ちの資料が少ないので検索にかけてみると、「鱗を持った水獣」とした記述も見つかります。
現在広く見ることができる光化門型の≪ヘテ≫はそのように作られているようです。

水に関わる神獣であれば、(4)の火事を退治するという特徴にうなずけます。
また、古代オリエント以来、ライオンは水と関わりのある動物として扱われてきました。
その点から、獅子に似た動物である≪ヘテ≫が水と関わりを持つのは、自然な成り行きに見えます。

しかし、≪獬豸≫を水に関連するものとした記述は見つけられませんでした。
鱗についても同様です。

ただし、孝陵の≪獬豸≫像や清の雍正帝の泰陵の≪獬豸≫像には鱗が表現されているようです。

ちなみに、火を避ける一角獣として「山海経」には≪〓疏≫(カンソ。〓は「灌」のさんずいを月偏に換えたもの)というものが挙げられています(これは馬に似た獣とされています)。
また、時代はぐっと下がりますが、沖縄のシーサーにも火難避けの意味があります。

こうして見ると、≪ヘテ≫は≪獬豸≫を母体としつつ、その他の神獣の要素も取り込んだものと考えるのが妥当なように思えます。

この≪ヘテ≫が、朝鮮半島にいつ頃から存在しているのか、はっきり記した資料を見つけられませんでした。

Hete_3 少なくとも李氏朝鮮時代には存在していたと思われますが、例えば、「韓国伝統文化事典」に掲載されている李氏朝鮮後期の『ヘッテ図』(引用写真)という絵に描かれている≪ヘテ≫は、「本草綱目」(16世紀末成立)に掲載された獅子の図とそっくりです。
完全に獅子以外の何ものでもありません。
上のリンク先の陶磁器の≪ヘテ≫も、どうも獅子のように見えます。
あるはずの角も見えません。
この時点でも、≪ヘテ≫の図像にバラつきがあるということでしょう。

その意味からは、光化門型の≪ヘテ≫も、それほど古いものではないのかもしれません。
景福宮の光化門自体は、1397年には完成していたようですが、その時からこの≪ヘテ≫が存在していたのかどうか、調べがつきませんでした。

≪ヘテ≫の謎は、いまだ深いままです。

2007年10月 3日 (水)

朝鮮半島の獅子

「東方へのライオンの伝来」の番外編として、朝鮮半島の状況を見てみます。

実のところ、朝鮮半島については手元にあまり資料を持っていないので、何気なく素通りしようかとも思っていたのですが、日本と中国を繋ぐ橋頭堡である朝鮮半島を無視するわけにはいきませんので、簡単にですが、触れておこうと思います。

≪狛犬≫との関連でよく引き合いに出される資料に、武寧王陵から出土した鎮墓獣があります。
≪狛犬≫も、この鎮墓獣も、ともに一角獣であることが、その理由でしょう。

石造のためか、全体にずんぐりとした豚のような体躯で、四足で立ち、頭部に鉄製の角をはめ込むようになっています。
この角は、鹿角を意識したのか、ギザギザのものになっています。
詳しい記述が見つけられないのですが、どうやら単体で設置されているようです。

武寧王は在位期間502~523年の百済王です。
この時、中国は南北朝時代で、地理的に近い北朝側では北魏の末期になります。

鎮墓獣について書いた時に紹介したように、北魏時代の鎮墓獣は2体1対で蹲踞の姿勢をしたものに移行しています。
四足で立つものを単体で設置するというのは、漢代に盛行した形式ですから、武寧王陵の鎮墓獣は形式としては一時代前の古いものと言えます。

ただし、漢代の鎮墓獣は枝分かれの無い真直ぐな角をしています。
鹿角を持つ鎮墓獣は、さらに前の時代の楚で見られるものです。
鎮墓獣限定で考えるなら、黄河流域と長江流域の両方の特徴を持っている、とも言えるでしょう。

その一方で、≪狛犬≫も、鹿角ほど大きくはないものの、枝分かれをした角を持つことがあるので、確かに注意すべき遺物だと思います。

王陵と言えば、統一新羅の元聖王(在位785~798)の掛陵の前に置かれた石像群の中に獅子が含まれていることがよく知られてます。
基本的には、中国の皇帝陵の制度に倣ったものでしょう。
リンク先の写真を見ても、参道らしい遺構はありませんが、石像が2列になっており、4頭の獅子は2対を成しているものと思われます。

こうした、対になった獅子は、実は朝鮮半島では珍しいようです。

こちらに韓国内で知られている獅子像のめぼしいものが紹介されていますが、仏塔の四隅に置かれていたり、単体で置かれていたりしていて、対にはなっていません。

敢えて言えば、リンク先でも紹介されている、新羅の善徳女王三年(634)に創建された慶州の芬皇寺の塔は、基壇の四隅に獅子がいますが、2体ずつその形式が違っています(背筋を立て胸を張ったタイプと背筋の寝たタイプ)から、2対なのかもしれません。
この塔には仁王が表現されていることも、対の存在をうかがわせます。
しかし、塔の4面にそれぞれ入口があり、その全てに仁王があるという表現になっており、古代朝鮮では「2」よりも「4」が大事だったのだろうか、という思いに駆られます。

加えて、朝鮮半島にある古い仏像でも、仏や菩薩の座の下に獅子を対にするものは、ほとんど見られないようです。

日本への仏教の伝来に朝鮮半島が果たした役割は大きいはずです。
仏像の彫刻形式については、朝鮮半島との類似性というものが具体的に指摘されてもいます。
しかし、それでありながら、狛犬に到る流れを考えれば、「神聖なものに伴なう2体1対の神獣」という形式の象徴とも言え、はずせない要素であるはずの仏像に付随した獅子が、ほとんど無いというのです。

そのような状況だけを見ると、≪狛犬≫に限れば朝鮮半島の影響は小さい、ということになるのかもしれません。

もちろん、朝鮮半島を通じて伝わったと思われるものは多方面に及びますから、その中に仏像以外で≪狛犬≫の成立に関わるものがあると考えることは出来ます。
それについてはいずれ触れることになります。

何にせよ、少ない資料でむやみに話を膨らませるのは良いことではないので、ここはこれで終えたいと思います。

2007年10月 1日 (月)

皇帝とライオン

「東方へのライオンの伝来」の章の初めに、文献に残る西域から中国へのライオンの献上について触れました。

その際、「原典にあたっていないので、それが牡なのか牝なのか、何頭か、献上後どう扱われたかなどについては、よくわかりません」と書きました。

その後、楊衒之「洛陽伽藍記」を見ていたところ、面白い逸話が掲載されていたので、漢代の話ではありませんが、ここでご紹介してみます(昭和49年に平凡社から刊行された「中国古典文学大系 第21巻」入矢義高訳に基づく)。

洛陽の永橋南道の東にあった白象坊と獅子坊という建物の由来について述べた部分に、獅子の献上の話が出てきます。

獅子は波斯国の胡王が献上したものである。献上の途上で、逆賊万俟醜奴に奪われ、賊営に留めて置かれた。永安(528~530)の末に醜奴が打ち滅ぼされて、やっと都に到着した。

献上を受けた北魏の皇帝・孝荘帝は

「朕は、虎は獅子を見れば必ずひれ伏すと聞いている。虎を捜し求めて試みよ」

と命じます。
そこで虎2頭と豹1頭が捕らえられ、送られてきたので、王宮内の庭園である華林園に獅子と虎と豹を集めます。

そこで虎と豹を獅子にひき会わせたが、どれも目を閉じてしまい、顔を上げて見ようとしない。

そこで今度は、以前から華林園で飼育している盲目の熊を連れて来るように命じます。

飼育係が盲の熊を牽いて来たが、獅子の臭いを嗅ぐと、驚き恐れて跳びはね、鎖を曳きずって逃げてしまった。帝は大いに笑われた。

さて、この獅子ですが、普泰元年(531)に広陵王(節閔帝)が即位すると、

「禽獣を囚にするは、則ちその性に違う。宜しく放ちて山林に還らしむべし」

つまり、野生動物をこんな園地で飼うなどというのは生物の本質に反しているから自然に返してやれ、という命を出したため、本国に送り返すことになりました。
しかし、ペルシアは遠いため、送り返す役目の者はたどり着くことができず、途中で獅子を殺して帰国してしまいます。
そこで命令違反として処罰されそうになりましたが、

広陵王は「獅子のためにどうして人を罰せようか」と言って、これを放免した。

という話です。

孝荘帝の話からは、当時、虎と獅子では獅子の方が上位であるとする考えが芽生えていたことがうかがえます。

一方の節閔帝の話は、仏教の行事のひとつである放生会を思い起こさせます。
仏教を重んじた北魏だけのことはあります。

この一連の話が、仏教が中国の神獣の世界の中での獅子の地位を高めた、という考え方に合致するように思うのは、少々牽強付会でしょうか。

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