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2007年11月

2007年11月13日 (火)

岩見重太郎

Kono_1_3 京都府宮津市の天橋立のそばにある籠神社。

その参道にある狛犬は、石造のものとしては最古の日本式狛犬で、鎌倉時代にまでさかのぼるものと、一般には知られています。

鎌倉時代ということについては疑義を持たれているものの、これが古い狛犬で、作品として傑作であることは確かです。

Kono_2この狛犬の阿像の右前足には、切断したような痕があります。
これについて、このような伝説が流布されています。

籠神社の狛犬は作者の入神の作であったためか、しばしば天の橋立に暴れ出て、人々を困らせていた。そこで、仇討ちのために宮津にやって来ていた岩見重太郎が、暴れ出た狛犬の脚を切断したところ、怪異がやみ、それ以後は霊験あらたかな魔除の狛犬となった。

彫刻に彫られた動物・怪獣が、あまりの出来の良さに動き出す、という伝説は、左甚五郎伝説など、数多く見られます。
これもそのひとつと言えます。

ここに出てくる岩見重太郎とは、今ではあまり名を知られなくなりましたが、戦前までは人気の高い有名な豪傑の一人でした。
吉川英治が「宮本武蔵」を書くまでは、それより有名だったかもしれません。

宮本武蔵を引き合いに出したのは、実は同時代の人物とされているからです。

手元に明治20年刊の『絵本実録 岩見武勇伝』という本があります。
ここで描かれる岩見重太郎の物語とは、こんな話です。

小早川隆景の家臣・岩見重左衛門の次男である重太郎は、叔父である薄田七郎右衛門の養子となるが、あることから武者修行の旅に出る。
その留守中、実父の重左衛門が広瀬軍蔵ら三人によって騙し討ちされ、死去する。
重太郎の兄である重蔵と妹のお辻は、仇討ちの旅に出るが、重蔵は返り討ちにあい、旅先で身寄りを失ったお辻はやむなく遊女に身を落とす。
そのお辻と偶然再会した重太郎は事の次第を聞き、父と兄の仇を討つため、お辻とともに逃げ出すが、お辻を恋慕する男の姦計により捕らえられ、お辻は牢内で命を落とす。
どうにか牢を抜け出した重太郎が、狒々退治などの遍歴の末にたどり着いたのが宮津。
そこで宮津城主である中村式部大輔氏種の行列の中に仇の三人がいるのを発見。
重太郎は仇討ちの願いを申し出るも、暗君・氏種は家中の侍たちを三人の助太刀に出すことを決め、大勢で重太郎を討ち取ろうとする。
しかし、重太郎はそれをものともせず、天橋立で広瀬軍蔵らを討ち果たす。
仇討ちの後、小早川家に帰参した重太郎は、正式に薄田隼人正と改名し、家臣として仕えるが、小早川隆景の死去にともない浪人する。
それを知った豊臣家からの請いに応じて仕官した隼人正は、大坂夏の陣で、豊臣家に殉じて討ち死にする。

「岩見重太郎」は伝説上の人物ですが、後半生の「薄田隼人正」は実在の人物とされます。
よく知られていない「薄田隼人正」の前半生に、「岩見重太郎」をはめ込んだ形になっています。

さて、伝説というものは、大抵どこかにツッコミどころがあるものです。
「話の主人公が霊に呪い殺されたんなら、誰がこの話を伝えたんだ?」というような。

籠神社の狛犬の伝説の場合は「籠神社の狛犬が鎌倉時代のものだとしたら、岩見重太郎に斬られるまで、300年も暴れていたのかね?」となります。

いくら伝説でも、それは不自然でしょう。

にもかかわらず、こうして岩見重太郎が出てくるのは、この伝説を最初に語り始めた≪作者≫はこの狛犬をそんなに古いものだとは思っていなかったということになるのではないでしょうか。

もちろん、そんな細かいことは気にかけないのが「伝説」というものかもしれませんが。

では、この伝説はいつ頃生まれたものなのでしょうか。

昭和2年に刊行された『丹後史料叢書』全5巻は、丹後地方に関わる近世以前の文献を集めたものですが、近くにある宇良神社の浦島太郎伝説を取り上げた史料は複数あるものの、岩見重太郎伝説は出てきません。
伝説のみならず、籠神社の狛犬について言及した資料すらありません。

先の『絵本実録 岩見武勇伝』には、狛犬の話は出てきません。
ということは、有名な岩見重太郎にあやかって出来た「ローカル伝説」なのでしょう。

そう考えると、岩見重太郎伝説は、かなり新しいものに思えます。

と同時に、誰も300年の差にツッコミを入れずに今でも流布しているということは、今でこそ重要文化財ともてはやされる籠神社の狛犬も、地元では最近まであまり気にかけられていなかったのではないかという気がします。

2007年11月12日 (月)

鎌倉時代(3)

さて、もうひとつの新しい要素である陶製の狛犬です。

陶磁器の狛犬は、鎌倉時代の末頃、13世紀末から14世紀初の時期に登場したようです。
産地は瀬戸・美濃地方で、高さ20cm内外の小型のものです。
江戸時代より前のものは、高さに比較して前後が詰まっていて、背筋を立てて、前脚を長く真直ぐに突っ張った形のものがほとんどです。

分布地域も瀬戸・美濃地方を中心とした愛知・岐阜・長野の各県に集中しています。
ただ、この地域から離れた場所でも伝世品や出土品が散見されます。

その伝播には山伏など修験者が関わっていたと考えられています。
時代は室町時代に入りますが、初期のものの一つである愛知・伊勝八幡宮伝世のものに「応永廿五戊戌歳/十二月朔日/熊野/願主浄通」(1413)との墨書銘があることが、その根拠になっています。
ただ、江戸時代より前のものでは有銘のものはこれを含めて4点しかないとのことなので、全てを同様に考えることができるのかは何とも言えません。

初期の伝世品は、代表的作例をもとにして≪伊勝型≫(伊勝八幡宮)、≪根津型≫(根津美術館)、≪深川型≫(愛知県瀬戸市・深川神社)、≪香取型≫(香取神宮)などに分けられています。
この分野で大きな足跡を残した本多静雄は、このうちの≪根津型≫を鎌倉時代まで遡ると考えていたようですが、窯跡の発掘成果などから、現在は否定的なようです。
そのため、伝世品としては鎌倉時代のものはないということになりますが、窯跡から破片が出土しているので、生産されていたことは間違いありません。
愛知県陶磁資料館他で行われた『陶磁のこま犬百面相』展覧会図録の表によれば、鎌倉時代の狛犬片が出土しているのは瀬戸の窯跡(洞山窯など)ばかりのようで、美濃よりも瀬戸が先行していたようです。

このような状況なので、具体例への言及は次の時代にまわしたいと思います。

もう一点、絵画作品に触れておきます。

神仏習合の思想に基づく≪神道曼荼羅≫と呼ばれる絵図があります。
平安時代には製作されていたようですが、現存するものは鎌倉時代のものまでしか遡れないようです。

この中に、神社の社殿が描かれたものがありますが、それを見ると、社殿の外側の縁の部分に向かい合わせに狛犬が置かれています。

平安時代のところで挙げた狛犬に関する文献は舞楽の狛犬か宮中の狛犬に関するもので、社寺の狛犬がどういう状況であるかを記したものはありませんでした。
しかし、こうした絵図によって、現在でもしばしば見られるように外縁に狛犬が置かれていたことがわかります。

あたりまえに見えるようなことでも、やはり裏付けは必要だと思うので、指摘しておきます。

以上、鎌倉時代についてまとめてみると、以下のようになります。

  1. 遺存例が前代より大幅に増加し、狛犬が広範囲に普及したことがうかがえる。
  2. 石造、陶製、また金属でも鉄製という形で、新しい素材のものが出現する。
  3. 付随品が出現する(大宝神社の鈴)。
  4. 九州北部に石造中国獅子、東海・中部に陶製狛犬と、地域的な特徴が出始める。

というところでしょうか。

2007年11月 7日 (水)

鎌倉時代(2)

さて、鎌倉時代には、狛犬に新しい要素が加わります。石造および陶製の狛犬の登場です。

まずは石造狛犬について。

石造≪狛犬≫と言いながら、狛犬や石造美術についての書物が紹介する最初期の例は、いずれも中国式の獅子です。
狛犬が中国から伝来した獅子から発展してきたと考えるならば、また、木造神殿狛犬が既に独自の形態を整えていることからすれば、ここで話を中国式の獅子に戻すのはやや釈然としませんが、先達に倣って、触れておきます。

最も有名なのは、何度か言及している東大寺南大門の獅子像です。

治承四年(1180)の平重衡による南都焼討ちによって被害を受けた東大寺の再建のため、当時の中国・宋から陳和卿らの工人が招かれます。
『東大寺造立供養記』という文献に、その工人のうち「宋人六郎ら四人」によって建久七年(1196)に「中門石獅子」などが製作されたことが記されています。
なお、「宋人六郎」とは、中世日本で一派をなした伊派と呼ばれる石工集団の祖である伊行末のことであると推定されています。

この獅子は、わざわざ石を中国から取り寄せて製作したことが記されており、中国の石で、中国の石工が製作した、事実上の外国製品です。
そのため、既に「阿吽」が定着している日本でありながら、左右双方とも口を開いた姿をしています。
派手な瓔珞を着け、尻尾が背中に張り付いて平面的に表現された平尾である点や、背中をそらし、前足を斜め前に突っ張った姿勢も、中国的な姿と言えます。

しかし、全体で見てこれとそっくりと言えるような類例は、手元の資料で見る範囲では中国には見当たらず、また、日本国内でも、これに追随したものは近代まで現れないという、孤高の存在とも言えます。

東大寺のものとは違う小型のもので、玉取り子取りになった中国式獅子が、北九州を中心に複数現存しています。
いずれも福岡の宗像神社観世音寺太祖宮上宮飯盛神社(*)などにあり、福岡以外では京都・由岐神社ものが知られています。
(*080120追記:ここに一緒に載せてしまいましたが、飯盛神社のものは時代は南北朝とされているようです)

このうち、宗像神社のものには「奉施入宗像宮第三御前宝前建仁元年辛酉藤原支房」との銘が背中に刻まれていると言い、1202年に納められたものとわかります。

これらは中国からの輸入品と見られていますが、何点かはそれを模したものではないかとされます。

面白いのは、そうでありながら、いずれも『阿吽』になっていることです。

ただし、宗像神社のものは、よく見ると、口を閉じているのは玉取りの側で、玉にからむ綬帯と呼ばれる紐を噛んでいるために口を閉じているのがわかります。
中国式の獅子には『阿吽』は基本的にないとされますが、このような子取りは口を開き、玉取りは綬帯を噛むというスタイルは、中国にも見られます。

その一方で、写真でみる限りでは、他のものは、玉取りが口を閉じているにも関わらず綬帯が明確には表現されていません。
これは、宗像神社のものは中国製で、他は日本で模倣されたものという可能性を示すのではないかと、ふと考えましたが、どうでしょうか。

もっとも、詳細に見比べると、子取りの側が口を閉じるものがあったり、玉を抱いているものと踏んでいるものがあったり、台座の形が違ったりと様々です。
当時の日本の狛犬には付随物は基本的にありませんし、台座のスタイルなども、日本にはないものです。
となると、日本で勝手にアレンジしたとは思われず、複数のパターンの獅子が伝来していたのではないかと思えます。

現存数を大きく上回る数の獅子像が伝わっていたのではないかと想像できます。

もちろん、石造の日本式狛犬も出現します。

「日本石造美術事典」(川勝政太郎 東京堂出版 昭和59年再版)では、京都・籠神社と奈良・都祁水分神社のものが挙げられています。

この他、「狛犬をさがして」(橋本万平 精興社 昭和60年)には佐賀県唐津市の八坂神社の狛犬も挙げられていますが、手元の資料やweb上ではどのようなものか確認できませんでした。

いずれも無銘で、年代は推定のものです。

このうち、籠神社のものに関しては非常に有名である半面、本当に鎌倉時代のものなのかについては疑問も持たれています。

それは、(1)小型のものが多い中、特に大型である、(2)当時は参道狛犬がまだなかった、(3)風雪が厳しいことに加え、大きな地震も繰り返し発生している丹後半島で、大きな破損もなく現代まで残っているのは不自然だ、というようなことからです。

ただ、東大寺南大門の獅子像は大型ですし、きちんと現存しています。

当初はあのような形で門内にあったとすれば、上の疑義を払拭することは不可能ではありません。

問題は、東大寺南大門のように狛犬を納められるような空間を両袖に持つような大きな門が、かつての籠神社にあったかどうかですが、それは確認できていません。

2007年11月 6日 (火)

鎌倉時代(1)

鎌倉時代に入ると、狛犬の遺存例が増えてきます。

木造の神殿狛犬としては、滋賀・大宝神社、京都・峰定寺)、京都・八坂神社、京都・高山寺(4対)、和歌山・丹生都比売神社、京都・藤森神社の9対が京都国立博物館の図録『獅子・狛犬』に紹介されており、それ以外に『日本の美術279 狛犬』では広島・厳島神社、奈良・手向山神社、奈良・大神神社、兵庫・高売布神社、京都・宇良神社、京都・宇治神社、愛知・瀧山寺、鳥取・三仏寺奥院、石川・白山比咩神社、東京・大国魂神社の名が挙げられています。
丹念に各地の地誌を調べれば、もっと例は出てくるでしょう。

先日、姫路市の書写山円教寺に伝わる狛犬の頭部に弘長元年(1261)銘があることに触れましたが、高売布神社のものには永仁五年(1297)の墨書が阿像の底部にあるそうです。
高山寺のものには、嘉禄元年(1225)に造られたものを天保十年(1839)に補修した旨の墨書がありますが、書かれた場所が州浜座なので、狛犬のことなのかは不明です。
また、藤森神社のものには徳治二年(1307)の銘があります。

共通した作風としては、全体に、どっしりと肉付きが良く、たてがみが豊かであるという印象を受けます。

上記のうち、高山寺の狛犬はそのうちの3対につき、湛慶の作とする説があります。
京博の展示で見たことがありますが、高さ30cmほどの小型の狛犬で、可愛らしい印象があります。

これと、八坂神社・丹生都比売神社あたりの作風が、鎌倉時代を代表するものだと思われます。

一方、この時代の名品として名高いのが大宝神社狛犬です。
これは、現在、石造参道狛犬として広く見られる≪岡崎古代型≫と言われるタイプのもののモデルとなった狛犬です。
引き締まった精悍な体躯、猛々しい表情で、彩色も良く残っており、素晴らしいものです。

しかし、それ以上に注目したいのは、この狛犬が胸元に鈴をつけている点です。

現在広く見られる石造参道狛犬には、玉や牡丹、またそう呼んで良いならば子供など、様々な付随物を伴なう例があります。
狛犬の祖先と言うべき中国獅子にも付随物は多く見られます。

この狛犬の鈴は、日本式の狛犬が付随物を持つ例としては現存最古のものになるのです。
と同時に、これをモデルにした≪岡崎古代型≫以外には、あまり追随したものがない特殊な例でもあります。

鈴そのものの由来は、中国獅子や、文殊菩薩を乗せた獅子座の獅子に見られる瓔珞であろうと思われます。瓔珞では、帯と言うよりバンドに近いようなものに、房飾りや鈴が取り付けられているという形で表現されていますが、この狛犬は鈴しか表現していないという点で特異です。

この狛犬の作者は何を考えてこの狛犬を製作したのか、興味深いところです。

鎌倉時代の金属製狛犬としては、宇都宮市の二荒山神社のものと宮崎・高千穂神社のものが知られています。
いずれも鉄製です。

二荒山神社のものには建治三年(1277)銘が背中に陽刻されています。
その姿は≪狛犬≫ではなく、和犬です。
それでは神使ではないのかと、若干≪狛犬≫と呼ぶことにためらいを覚えますが、「鉄製狛犬」として伝わっているので、従っておきます。

2007年11月 3日 (土)

平安時代(2)

以上の他に、絵画作品として、「賢聖障子」の狛犬がよく取り上げられます。

これは御所の紫宸殿に設置されたもので、中国古代の賢聖名臣32人の絵が描かれたものです。
Shouji 紫宸殿の母屋と北廂を隔てる部分にあるもので、その中央に扉があり、その左右に獅子と狛犬が描かれています(左の写真は京博の図録より引用した仁和寺のもの)。
『古今著聞集』の記述を根拠に9世紀には「賢聖障子」の狛犬の絵が存在していたとする説がありますが、賢聖障子に狛犬が加わるのはもっと後だとする説もあります。それでも、平安時代末期には存在していたようです。

現存する古いものとしては、仁和寺に伝わるものが知られていますが、これは時代が下がるものです。
そこに描かれた姿は、非常に典型的なものであり、狛犬像の一つの基準と言えます。
ただし、それが当初から同じような姿だったのかは、定かではありません。

さて、これらは当然「殿上」にあるものです。

したがって、平安時代は「神殿狛犬」の時代と言えますが、注意すべき狛犬の存在が指摘されています。

『薬師寺縁起』に、天禄四年(973)に薬師寺が火災に遭い、南大門の東西にあった高さ七尺の師子形が焼失し、寛弘九年(1012)に再造を開始したという記載があるというのです。

現在でも、神社の随身門や寺院の山門の門内の両袖に狛犬が据えられている例が多くあります。
その古例としては、現在は東大寺南大門にある石製獅子像が有名ですが、指摘の通りであれば、それより200年以上前の10世紀の中頃には、そうした狛犬が存在していたことになります。

こうした門内の狛犬は、「建物の中」と判断されて、神殿狛犬のうちに含められがちです。
また、実態として、神殿狛犬同様の木製の狛犬であることがほとんどではあります。
しかし、神殿内のものが神聖なものに直接随っているのに対して、門内の狛犬は門獣として空間を守護しているので、その点では参道狛犬寄りで考えていいのではないでしょうか。

ところで、この狛犬の高さ七尺というのは、いささか大き過ぎる気がします。

時代によって基準となる尺は異なりますが、それでも1尺は少なくとも約30cmあります。
したがって七尺ならば2mを越えてしまいます。
京博の図録に掲載された6対の遺存例がおよそ50cm~85cmの大きさであることから見て、単独でその大きさというのは考えにくいものがあります。

これは台座も含めての大きさなのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、御上神社や薬師寺の狛犬に見られる州浜座のような薄いものではない、ちゃんとした、しかも大きな台座があったことになります。

いろいろな点で興味深い事例と言えます。

以上をまとめると平安時代は

  1. 狛犬が形式を整えた時代である。
  2. 主たるものは神殿狛犬だが、門に据える門獣としての狛犬も存在した。
  3. その様式には「奈良様」と「和様」がある。
  4. 木製のものと金属製のものが見られる。
  5. 鎮子・香炉・灯明台のような調度用品の中に狛犬の形をしたものがあった。

となるでしょうか。

2007年11月 2日 (金)

平安時代(1)

ここからは時代ごとの狛犬に関わる事柄をまとめていきたいと思います。

まずは平安時代。
8世紀末から12世紀末に及ぶ長い時代であり、文化的にも遣唐使廃止(894年)以前の国際的な唐風文化、その後展開した国風文化があり、末期には日宋貿易の活発化により再び盛んに外来の文物が流入してくるという、多様な時代でもあります。

狛犬は、この平安時代の初めである9世紀には成立していたと思われることには触れました。

先日は、「舞楽の狛犬」との対比上「調度としての狛犬」という言い方をしましたが、狛犬愛好家は、「参道狛犬」との対比からこれを一般的に「神殿狛犬」と呼んでいます。宮中や寺社の建物内に置かれた狛犬のことです。

もっとも御所は神殿ではありませんから、宮中も含めて考えるならば、清涼殿への昇殿を許された身分の者を「殿上人」と呼ぶことにちなんで、「殿上狛犬」と呼びたいと個人的には思っているのですが、まあそれはいいでしょう。

宮中では特に、天皇・皇后・中宮の御座の前に狛犬が置かれていたようです。
清涼殿・紫宸殿に置かれた狛犬は天皇に対するものですし、また、先日触れた『類従雑要抄』の記事は「后宮」、つまり皇后に対するものであり、『枕草子』のものは中宮に対するものです。

京都御所には、清涼殿の狛犬が現存していますが、これは時代的には平安時代までさかのぼれるものではないと考えられています。
そのため、現存する平安時代のものとされる狛犬はいずれも寺社のものです。

京博図録『獅子・狛犬』では、平安時代のものとして、京都・教王護国寺(東寺)の2対(ただし、そのうちの1対吽像が南北朝時代の後補)、石川・白山比咩神社、滋賀・御上神社、奈良・薬師寺、広島・厳島神社の6対が挙げられています。

この図録の解説文の筆者である伊東史朗氏は、『日本の美術279 狛犬』で、薬師寺のものを「奈良様」、白山比咩神社・御上神社・厳島神社のものを「和様」と呼んでいます。
名称は彫刻史におけるものなのでしょう。
その是非は別として、そうしたグループ分けができることは確かです。
大まかに言うと、「奈良様」のものは雄渾で胸を張り前を見据えた姿をしていますが(したがって東寺のものもここに含められます)、「和様」のものはおとなしげで首が短く顔がやや俯いた姿をしています。

基本的には、唐風文化の頃には「奈良様」、国風文化の時代には「和様」という対応関係が成立するのでしょうが、狛犬だけで判断する限り、現存数も少なく、明確な年代が特定できるものがないので、そこまで言い切れるのかどうか定かではありません。

これらはいずれも木製ですが、金属製のものもありました。

奈良・春日神社の古神宝の狛犬は銅製で、平安時代末期のものとされます。
ただし、現存するのは1体のみで、対になっていたのかどうかなどはわかりません。
役割も主として鎮子(御簾が舞い上がらないように押さえる重し)であっただろうと思われます。

また、『皇代記』に、後朱雀天皇が長暦三年(1039)に金銀の獅子・狛犬を伊勢神宮に奉納したとの記述があるそうです。
ただ、原典にあたっていないので、ここで言う「金銀」が、金属であるのか、木彫の上に箔押ししたものなのか、はっきりしません。

一方、10世紀後半に成立した『宇津保物語』には

夜に入りて続松参る。居丈三尺ばかりの白銀の狛犬、口仰げて八つ据ゑて沈を唐の細組して、続松に長く結ひて、夜一夜灯したり。(吹上)

大いなる白銀の狛犬四つに、腹に同じ火取据ゑて、香の合はせの薫物絶えず焚きて、御帳の隅々に据ゑたり。(蔵開)

という描写があります。
「吹上の巻」の描写は松明を立てるための灯明台として用いられた狛犬、「蔵開の巻」の描写は香炉としての狛犬、ということでしょう。
これは物語ですし、高価な香木である沈香を松明にする(吹上)というのは、いささか非現実的な行為ではありますが、灯明台あるいは香炉としての狛犬が存在していたことをうかがわせます。
そして、そうした用途である以上、ここで言う「白銀」は、金属であろうと思われます。

もちろん、それも含めて物語上の空想かもしれませんが。

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