« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »

2007年12月

2007年12月28日 (金)

神の名の下の蛮行

「イエズス会宣教師が見た日本の神々」(ゲオルグ・シュールハンマー著 安田一郎訳 2007年 青土社)という本を書店で見つけました。
原書は1923年にドイツで刊行されたもので、フランシスコ・ザビエルについて研究していたドイツ人宣教師が、イエズス会士の書簡などから神道に関する文章を抜書きしてまとめたものです。

その中に興味深い記述がありました。

オルガンティーノの1577年の書簡にある記述だそうで、大まかな事の次第はこういうことです。

摂津の国の領主はオルガンティーノに、領内の一向宗徒をキリスト教に改宗させることを許可した。
ところが、領主の夢枕に天神=菅原道真が立ち、その後、諸事が上手く運んだため、これは天神様のご利益であるとして、天神様への感謝の祭礼を執り行うことにした。
その祭礼の最中、天神様が神主に憑依して、オルガンティーノらの所業を非難し始めたところ、何者かが神主に対して投石を始め、そのため祭礼に集まった人々は逃げ出した。

注釈によれば、この現場となったのは高槻市の上宮天満宮と推測されています。
書簡の年代から、事件は1577年よりも少し前ということになると思われます。
ということは、この領主とは高山右近もしくはその父の飛騨守友照ではないかと思われますが、いずれも熱心なキリシタンであり、その夢枕に道真が立ったので、その祭礼を開こうとしたというのは、解せない感じがしなくもありません。

それはともかくとして、興味をひかれたのは、神主(に憑依した道真)が非難したオルガンティーノらの所業です。

(略)ちょっとまえに、私は、四百人の人をここで洗礼し、それから彼の神殿に入って、私につき従ったキリスト教徒によってそこにある彫像を取り除かせました。キリスト教徒の少年たちが、早くも彫像の頭を切り落としていました。そのなかには、二頭の獅子[アマイヌとコマイヌ]がありました。異教徒たちは、この獅子を神の従者だと言っていました。私はそれをタカクスクィ[高槻]の砦〈略〉にもって行かせました。

つまり、オルガンティーノ主導のもと、キリスト教徒たちが天神社の神像類を破壊したが、その中に狛犬も含まれていた、という話です。

ちなみに、この本の表記は少々ややこしくなっていて、[ ]内は著者の、〈 〉内(ここでは省略した)は訳者の注釈となっています。

乱暴な話ですが、キリスト教に限らず、宗教の本質にはこうした排他性が不可避的に備わっていますから、避け得ない衝突ではあるでしょう。
こうした例は少なからずあったはずです。

私の手元には、その頃の外国人側から見た資料としてはモンタヌスの「日本誌」とケンペルの「日本誌」があります。

モンタヌスは、豊後におけるキリシタンとなった領主による寺社の破壊に触れていますが、これは大友宗麟のことでしょうか。
ケンペルは寺社の破壊について記述していませんが、イエズス会士たちの強引な布教が後のキリシタン弾圧を招いたとして批判しています。
ただし、その強引な布教方法に寺社の破壊が含まれるのかどうか、判然としません。

いずれにせよ、キリスト教が日本国内で広がっていく中で、日本の宗教との衝突が生じ、その結果として失われた狛犬が少なからず存在したであろう事が、この書簡からはうかがえます。

人間の信仰心は、狛犬も含む豊かな<美>を生み出す一方で、信仰の相違から他者のそれを<美>とは認めず、平然と破壊できる恐ろしさも持っています。

これを昔話だと言い切れる我々であれば幸せなのですが。

2007年12月26日 (水)

風獅爺(2)

Keirin さて、以上を箇条書きに要約すると、風獅爺とは

1)向かってくる邪気や災厄を防ぐ辟邪物である。
2)立ち上がった獅子の姿を中心にいくつかのバリエーションがある。
3)中心となるのは石造のものである。
4)集落の外周部に設置するものと建物に設置するものがある。

ということになります。

Shokokou こうした特長は、沖縄のシーサーとも共通するもので、故に風獅爺はシーサーの源流のひとつと考えられるわけですが、逆に風獅爺の源流を考えた場合、こうした特長を持つものとして、よく知られたものがあります。

≪石敢当≫です。

中国で生まれたもので、日本では沖縄のものが知られていますが、実は日本全土に広く見られます。
金門島でも瓊林蔡氏宗祠のすぐそばで見つけました。

Sekikantou_1 切石や自然石に『石敢当』とか『泰山石敢当』という文字を刻んだものです。
文字の由来は、≪石≫という名の英雄が、≪敢当≫=無敵であったことにちなんだとか、≪石敢当≫自体が人物名だとする俗説がありますが、史実ではないようです。
おそらくは石そのものの呪力への信仰であろうとされています。
中国の唐代には存在していたと考えられています。

Sekikantou_2 石敢当は、風獅爺同様、向かってくる邪気を防ぐ辟邪物です。
丁字路の突き当たりや袋小路、家の角や四辻に設置します。
瓊林蔡氏宗祠近くのもののように壁面に埋め込んでしまうものや、単立させるものなど様々なものがあります。

様々なものの中には、石の上部に獅子の顔を浮き彫りにし、その下に『石敢当』の文字を刻んだものがあります。
今回の訪問では見られませんでしたが、金門島にもこの種のものが存在しています。

窪徳忠の著書によれば、すぐそばの厦門には石敢当の一種として、「長身の棒状の石獅」があると言います(「増訂 沖縄の習俗と信仰――中国との比較研究――」1974年 東京大学東洋文化研究所)。
図版が無いのでわかりませんが、これは立った姿の風獅爺を連想させる表現です。

また、「金門風獅爺と辟邪信仰」には、金門島の西門里には胸に『石敢当』の文字を刻んだ風獅爺があると書かれています。
写真を見る限り、ある程度は古いもののようですが、実はこれ自体は民国八十五年(1996)に台北で購入したものだということで、由来などは判然としません。

この他、中城正堯は福建省泉州市で見つけた壁に埋め込まれた石獅を紹介しています(「アジア魔除け曼荼羅」1997年 NTT出版)が、これは蔡氏宗祠の風獅爺とよく似ています。

同じ中城正堯が金門島と台湾の間にある澎湖列島で見つけた辟邪石塔を紹介しています。
これは、集落の四方の入り口に小さな切石を台座に載せて立てたもので、『蕭元帥』とか『劉元帥』などという文字が刻まれています。
やはり魔除けの辟邪物です。
『石敢当』を人名とする俗説があることを考えると、その同類とみていいように思えます。

また、「中国獅子雕塑芸術」(朱国栄 1996年 上海書店出版社)に紹介されている獅子像の中には、風獅爺のように棒状になっているわけではありませんが、後足で立ち上がった獅子像が見られます。
造形の母体は南方系獅子で、地域的には長江下流の南京や上海の周辺に多く見られるようです。
残念ながら福建省の例は挙がっていませんが、地域的にそれほどかけ離れているわけではありません。

以上を考え合わせてみると、風獅爺は石敢当と獅子像が融合して出来たものと考えることができるのではないでしょうか。

一方、既に触れたように、風獅爺には建物に設置するものがありますが、その中に≪屋頂風獅爺≫と呼ばれるものがあります。
もっぱら陶器製で、屋根の上に置かれるものです。

Shogun 大きく口を開けた獅子で、獅子のみのものと、獅子に武人が乗ったものがあります。
武人が乗ったものは特に≪瓦将軍≫とも呼ばれているようです。
おそらく、厳密には武人が≪瓦将軍≫なのでしょう。
(写真は宜蘭の河東堂獅子博物館の展示品)。

この≪瓦将軍≫タイプのものを、窪徳忠は台南で見たと言い、中城正堯は泉州のものを紹介しています。

これは、屋根に載せる獅子という点で、沖縄のシーサーのうち屋根獅子と呼ばれるものと非常に類似しており、これもまたシーサーの源流と言えるものだと思われます。

こうしてみると、沖縄でシーサーと呼ばれているものは、事実上、風獅爺そのものである、という気がします。

2007年12月25日 (火)

風獅爺(1)

以前、狛犬とシーサーの関係について、こんな文章を書きました。

この度、そこでシーサーの源流のひとつとして挙げた風獅爺を、台湾の金門島まで実際に観に行く機会に恵まれました。
その見聞をもとに、狛犬の隣人として風獅爺についてまとめてみます。

なお、以下の記述は、日本参道狛犬研究会会員のくにさんが個人的に翻訳された「金門風獅爺與辟邪信仰」(楊天厚・林麗寬著 2000年 稲田出版有限公司)に大きく依拠しています。

Youtaku_a 金門島は、台湾とは言っても、中国福建省厦門市の目前数キロの地点に浮かぶ島です。
古来、台湾海峡の交通の要衝として重要視されてきました。

この金門島は、乱伐によって森林が失われた島です。
伝説的には、清朝に対抗したかの鄭成功が軍艦を造るために木を切りつくした、とも言われますが、実際にはそれ以前に、元代に始まった製塩業に大量の薪が必要だったことや、明代に猛威を振るった倭寇の影響などがあり、以後も軍事的要衝としてたびたび戦渦に巻き込まれたことが、その原因であるようです。

Youtaku_b 元々、強い季節風の吹き荒れる島であった金門島は、森林を失ったことでさらに風害がひどくなり、それが鎮まることを願って人々が建てたものが風獅爺です。
ただし、人々が風獅爺の力によって防ごうとしているのは、現実的な風害だけではなく、いわゆる邪気といったものも、その中に含まれます。

ひとくちに風獅爺と言っても、その姿やあり方は一様ではありません。

Youtaku_c まずその姿ですが、金門島の風獅爺を代表する姿は、後脚で立った獅子を円柱状に作ったものです。
立ち上がっているために空いた前足には様々な呪物を持っています。
筆と印を持つもの、球と彩帯を持つもの、旗を持つものなどがあります。
後足の間にひょうたんの形で男性器を表したものはオスとされ、無いものはメスと見られているようです。

Sami 一方、南方系中国獅子を風獅爺としているものもあります。
沙美という集落にあるものを実際に見てきました。
これには風獅爺の別の呼び方である≪石獅爺≫の文字が刻まれています。

Gosuitou_a また、どこか日本の狛犬を思わせる蹲踞したタイプのものも見られます。
後水頭汶徳宮前の風獅爺は、色付けされていなければ、日本の神社にあっても、違和感がありません。

ちなみに、この色付けについて、現地ガイドは、金門島に駐留するようになった台湾軍の兵士たちがやり始めたことで、それ以前は着色されてはいなかったと話していましたが、正確なところはわかりません。

小型の風獅爺で、正面を向いて蹲踞しながら、腹の下を彫り抜いていないものがあります。
顔は扁平で、全体に四角い感じで、正面から見ると小さな石碑のような形をしています。
残念ながら、今回は実物を見ることが出来ませんでしたが、その姿は佐賀県に広く見られる≪肥前狛犬≫と呼ばれるものによく似ています。

Anki 金門島は石材の産出地でもあるので多くは石像ですが、セメントなどを用いた塑像や、陶器のものもあります。

さて、こうした風獅爺の設置場所は、大きく二つに分けられます。

まず、集落の外周部に設置され、集落を守る役割を与えられた、いわば≪公的≫な風獅爺があります。
集落の外周部に台座を設置し、その上に単体で設置されたものがほとんどです。

Gosuitou_b 実際に見てみて興味深かったのはその立地で、集落にある廟の敷地内やその周辺に設置されている例が目につきました。
風獅爺の設置場所は乩童(タンキー)と呼ばれる呪術師(現地ガイドは風水師と言っていた)が神託によって決めるということのようですが、集落におけるそうした霊的な場所というのは、廟と重なるものなのでしょう。
ただし、廟の建物の向きと、風獅爺の顔の向きはほとんど一致していません。

また、道路の交差したり分岐したりする場所にも設置されています。
道教では、長く真っ直ぐな道は邪気を発すると考えるようで、それを避けるためのものなのでしょう。

これに対し、個別の建物に設置される≪私的≫な風獅爺もあります。

Saisi_1 「金門風獅爺與辟邪信仰」ではそうした例をいくつも挙げていますが、今回実際に見ることが出来たのは瓊林という集落にある蔡氏宗祠と呼ばれる建物に設置された風獅爺です。
蔡氏宗祠は、蔡という姓を持つ一族の祖先の位牌を祀った祠です。
この風獅爺は、建物が入り組んで路地になっている中で、その路地が真っ直ぐその建物の裏側の壁面にぶつかってくる場所に、建物の壁面に埋め込まれるようにして設置されています。
これも路地をやって来る邪気から建物、ひいてはその中の人間などを守るものでしょう。

Saisi_2 金門島では、集落ではなく、こうした特定の建物に対して設置されたものも風獅爺と呼んでいます。

« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »