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2008年2月

2008年2月10日 (日)

明治以降(3)

ところで、明治以降の狛犬には、画一化とは別の方向性も見えます。
それは伝統回帰とか、伝統への憧れといったものです。

つまり、歴史的に古く名品として著名な狛犬を模した参道狛犬が多く作られているということです。

量産型の代表、岡崎古代型狛犬はすでに触れたように大宝神社の神殿狛犬を模しています。
東京の鳥越神社の狛犬は、なぜか遠く離れた奈良の手向山神社の神殿狛犬を模しています。
逆に、東京都府中市の大国魂神社や、京都の八坂神社のものは、自社に伝わる古い神殿狛犬を模しています。

神殿狛犬以外では、和様の石造狛犬として現存最古とされている京都府宮津市の籠神社の狛犬を模したものが靖国神社や各地の護国神社で見られます。

単により古いものを求めただけで、偶然なのかもしれませんが、以上の狛犬は何れも鎌倉時代の狛犬とされているものばかりです(籠神社には異説もありますが)。

見た目にはバリエーションが増えますが、考え方として根底は繋がっており、少なくともこれを狛犬の個性化とは呼べないでしょう。

もう一つのパターンとして、≪作家もの狛犬≫の出現もあります。

この場合の≪作家もの≫とは、例えば幕末の名工・丹波佐吉のような優れた職人の作品ということではなく、芸術家などが独自にデザインしたものを指しています。
単発のものもありますが、靖国神社他の伊東忠太結城神社他の北村西望など、複数存在するものも見られます。

さて、今まで素材別にも言及してきましたので、ここでも触れておきます。

金属製の狛犬は、多く造られました。
上で触れた八坂神社のものや結城神社の≪西望狛犬≫もそうですし、捜せば全国に広く見られます。
ただ、残念なことに、戦時中、物資不足に陥ってもなお戦争の継続を求めた大日本帝国は、昭和17年、金属製品の供出を国民に命じたため、金属製の狛犬も少なからず供出され、失われてしまいました。
八坂神社には、もう1対金属製の狛犬がありましたが、供出されていますし、清水寺のものも供出されています。
三重県護国神社には、供出から帰還したという狛犬がありますが、これは稀有な例でしょう。
戦争がさらに継続されていたら、明治以降の新作のものは、軒並み鋳潰されていたかもしれません。

陶磁器では、昭和40年代までは伊部焼狛犬が製作されていたことが書物からわかりますが、その後も参道狛犬として継続して生産されているのかどうかは、個人的には岡山にゆかりもないのでよくわかりません。
ただ、製作されているにしても、それほどの数は作られていないのではないかと思います。

それ以外では佐賀県有田市の陶山神社のものであるとか、岐阜県瑞浪市の八王子神社の≪日本最大の狛犬≫といったものが散発的に製作されています。

目新しいところでは、コンクリート・セメント製の狛犬が存在しています。
新しい時代になって新素材が生まれれば、それによって狛犬が作られる可能性がまだあるということでしょうか。

以上をまとめれば、

  1. 神道の画一化にともない狛犬も画一化する。
  2. 伝統的狛犬を模したものが登場する。
  3. 作家ものが登場する。
  4. 新素材としてセメントが加わる。

これで現代に到達しましたので、今後、新たな展開が生まれることに期待しつつ、「狛犬の歴史」の概観を終えます。

2008年2月 6日 (水)

明治以降(2)

さて、国家神道によって用意された狛犬画一化への道ですが、実際には、国家神道体制下の大日本帝国時代には、岡崎系狛犬が完全に主流を成すというところまでは到っていません。
皮肉なことに、新しく作られる狛犬がほとんど岡崎系一色(二種類あるので二色でしょうか)になってしまうのは、国家神道から自由になったはずの戦後のことです。

昭和10年代後半までは、それ以前からあるタイプの狛犬が根強く作られていました。

私の住む青梅市を例にとると、昭和15年までは江戸唐獅子型の狛犬が主流で、昭和16年から岡崎現代型に切り替わっています。
それどころか、再建という事情があるにせよ、昭和40年代になってもまだ江戸唐獅子型が造られています。

地域によって違いはあると思いますが、岡崎から遠く、特徴ある在地型の狛犬が存在していたところでは、同様のことが言えるようです。

また、岡崎系狛犬が生まれる前の明治時代には、加賀逆立ち狛犬(厳密には幕末成立かもしれませんが)や越前新式狛犬など、新たな狛犬のスタイルが生み出されており、それらも数多く造られていました。

なぜ国家神道が崩壊したはずの戦後に画一化が進んだのかについては、こんな想像をしています。

  • 戦争で石工も多く犠牲になり、技術やスタイルの伝承が途切れた。
  • 戦時中の反動から一般国民の神社への関心が薄れたため、誰も狛犬のスタイルにこだわらなくなった。
  • 反面、神社関係者には国家神道による神道の画一化への意志が残っており、一般国民の神社への関心が薄くなった分、そうした人たちの思惑が強く働いた。

もっとも、三点目については、神社関係者の中で狛犬への関心が必ずしも高くはないことを、経験上、感じていますので、ありえない事のような気もします。
現在の狛犬学の第一人者である上杉千郷先生は、自身が神職でもあり、かつて宮司を務めた長崎市の諏訪神社の狛犬に様々な特徴付けを行ってきました(あまり大きな声で言ってはいけないかもしれませんが、≪銭洗い狛犬≫など、上杉先生の発案であることをご本人から伺いました)。
そのことからすると、むしろ、神社関係者の狛犬への関心の低さが狛犬の画一化を招いたのかもしれません。

現在では、価格面の問題などもあり、国内の石材業者は≪取り次ぎ業者≫となって、狛犬の製造そのものは、中国などの海外に発注するという事態も生じているようです。

これは狛犬に限らず、日本の産業全体に言えることなのでしょうが。

2008年2月 5日 (火)

明治以降(1)

明治政府は、地域ごとの独立性の高い幕藩体制にあった日本を、近代的な国民国家へと一体化していくにあたって、国民統合の理念のひとつに神道を置きました。
つまり国家神道です。

まずはいわゆる神仏分離令によって、長い年月にわたって習合状態にあった神道と仏教を切り離します。
狛犬については、これによって神社に属するものとして扱われることになり、寺院の狛犬は珍しいものになっていきます。

また、神社を統廃合して数を整理し、官幣社・国幣社・府県社・郷社・村社・無格社といった社格を与えて秩序化していきます。
当然その過程で狛犬が移動したり、失われたりしたと考えられます。

そして、民間信仰など雑多な要素を含んでいた神道を、記紀神話を軸に天皇を中心として再構成します。
その際に、祭式や儀礼も統一的なものにまとめ上げられていきます。
当然、神社の社殿形式や、調度類にも一定の規格が作られます。
そうした神道の画一化の流れは当然狛犬にも波及します。

小寺慶昭「京都狛犬巡り」には、神殿狛犬について内務省が「獅子は、開口して金箔を押し、毛髪には緑青を塗り、金の毛描を施し、狛犬は、閉口して銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛描を施す。何れも州浜型の台に据う」という基準を設けたと書かれています。
これは「類従雑要抄」などに見られる獅子・狛犬の定義を≪正統≫のものとして、標準化したということでしょう(角についての言及がないのは気になりますが)。
残念ながら出典は明示されておらず、私としては根拠となる法令や通達を記した文書を探す努力をしていないのですが、これによって、新しく整えられた神殿狛犬は、みな同じスタイルへと統一されたとということは、実際に神社を訪ねて拝殿を覗き込んで神殿狛犬の姿を見ると、何となく納得が出来ます。

石造参道狛犬については、そのような明確な≪指導≫が行われたのかどうか、定かではありません。
しかし、実際の状況として、同様のことは石造参道狛犬にも起こります。
それが、岡崎系狛犬の登場と普及、です。

愛知県岡崎市周辺はもともと石材業の盛んな所で古い狛犬もあるのですが、ここで言う岡崎系狛犬というのは、現代型と古代型と言われる2種類のものを指しています。

現代型は、小寺慶昭氏が「コマヤン」と愛称をつけたことで、狛犬愛好家には馴染みのある狛犬です。
明治時代末頃に、浪花系狛犬を祖形として生み出されたものと、考えています。
大正の初めには、まだ形式が安定していませんでしたが、大正の終わりから昭和の初めにかけて画一化が進み、これが全国に広がっていきます。

古代型というのは、滋賀県の大宝神社の鎌倉時代のものとされる神殿狛犬を模したものです。
現代型よりも後から生まれたようで、把握している限りでは昭和10年代以降、大量に普及していきます。

日本国内に広く普及したのみならず、大日本帝国が版図を広げ、それに従って神社が海外進出していくのにともない、岡崎系狛犬も海を渡ります。

満洲国の首都・新京の新京神社に現代型狛犬があったこと、あるいは台湾の鹿港神社に古代型狛犬があったことがわかっています。

2008年2月 4日 (月)

日本人とライオン

日本人が、≪獅子≫という形でライオンを知ったのは、おそらく奈良時代以前のことです。

しかし、それは中国文化というフィルターを通過したものであって、現実のライオンとはかけ離れていました。

では、日本人が現実のライオンを知るのはいつ頃のことでしょうか。

生きたライオンということになると、幕末になるようです。

「江戸東京年表」(2002年 小学館)によれば、出典の明示はありませんが、慶応二年(1866)一月に「芝白金清正公(せいしょうこう)門前明地に、牝ライオンの見せ物が出る」との記述があります。

ただ、生きたライオンが日本に上陸する前に、西洋からの情報として、ライオンの図像が伝わっていました。

日本の洋画家の先駆けとして知られる司馬江漢の随筆「春波楼筆記」(文化八年=1811年)の中にこんな記述があります(有朋堂文庫「名家随筆集下」に収録されたものに基づく)。

源内はヨンストンスと云ふ蘭書は、五六十金の物にて、家財夜具までも売り払ひ、此書を得たり。此蘭書は、世界中の生類を集めたる本にて、獅子、龍、其外日本人見ざる所の物を生写にしたる事、かずかぎりなし。今は此書も所持したる者ありけるが、其頃はかつてなし。

平賀源内について書いた箇所の一部分です。
源内が家財を売り払ってまで購入した「ヨンストンスと云ふ蘭書」には、「日本人見ざる所」の獅子が生き写しにされていた、というわけです。

この「ヨンストンスと云ふ蘭書」とは、ヤン・ヨンストン(1603~75)の「動物図譜」という著書のことを指しています。

「動物図譜」は、幕府の御文庫にあったものを、八代将軍・徳川吉宗が命じて研究させたというもので、それによって蘭学が花開いた、重要な書物だということです。

平賀源内が家財を売り払ってこれを購入したのは明和五年(1768)のことだそうです。

この「動物図譜」を参照して描かれた『ライオン図』というものがあります。

小田野直武(1749~80)や宋紫石(1715~86)のものが知られています。

こうして見ると、実物のライオンが日本にやって来るより100年以上前に、海外から伝来した書物の図版によって、それまで親しんできた≪唐獅子≫とは違う≪獅子≫が存在していることを、日本人は知りはじめたということになるでしょう。

しかしながら、この、いわば≪本物の獅子≫についての情報は、日本人の獅子観、ひいては狛犬観を覆しはしなかったように思えます。

上記の小田野直武や宋紫石の作品に描かれた≪ライオン≫は、≪ライオン≫というより≪唐獅子≫に見えます。

また、参道狛犬が急増するのは、「動物図譜」が世に知られるようになった後の18世紀後半から19世紀のことですが、そのデザインの中に≪ライオン≫を感じさせるものは見られません。

江戸時代後半までに積み上げられた狛犬1000年の歴史は、≪本物≫をも駆逐するほどのものに成長していたということでしょう。

なんだか、幕末になって≪正しいキリスト教≫に接しながら、自分たちの信仰に固執した≪隠れキリシタン≫の姿のようでもあります。

ところで、現在はちょっとした神社ならどこでも手に入れることのできる『破魔矢』は、平賀源内が創案して新田神社で売り出されたのが始まりだとされているようです。

そんなふうに神社とも縁があり、しかも新し物好きでアイデアマンだった平賀源内が、手に入れた「動物図譜」を元に、「これぞ本物の狛犬!」と称して、ライオンそのものの姿をした狛犬を作らせていたら、ちょっと面白かったのにな、などと、ふと考えてしまいます。

もっとも、全国の神社にリアルなライオン像ばかりがゴロゴロ存在していたら、狛犬好きにはなっていなかったかもしれませんが。

2008年2月 3日 (日)

江戸時代(3)

江戸時代には金属製の参道狛犬も登場します。

東京では新宿区の花園神社(文政4年=1821)、渋谷区神宮前の熊野神社(慶応元年=1865)、大阪では中央区の御霊神社、藤井寺市の道明寺天満宮(元文3年=1738)などが知られています。
厳密には参道狛犬とは言えないかもしれませんが、日光東照宮奥の院には有名な石造参道狛犬の他に、唐門前にも金属製の狛犬が一対存在します。
唐門が造られたのが慶安3年(1650)ということなので、その頃のものでしょうか。

これらは銅製(青銅製)ですが、岩手県の黒石寺のものは鋳鉄製で、屋外に露座で設置されるものとしては珍しいものです。

ところで、「大阪狛犬の謎」の中で著者の小寺慶昭氏は、上記の御霊神社の狛犬について調査し、元和年間(1615~1624)のものと推定しています。
それが正しければ、日光東照宮の石造参道狛犬よりも古く、明確に参道狛犬とわかるものとしては現存最古のものの可能性が出てきます。
ただ、先日の設置年代の分布から見ると、大阪の狛犬としては突出して古いことが、少し引っかかります。

陶磁器のものも多く作られていました。

「陶磁のこま犬百面相」展の図録(愛知県陶磁資料館 2005年)を見ると、種類も豊富になっていることがわかります。
前の時代の形式を引き継いだものもあれば、石造参道こま犬を意識したようなものもありますが、かなり独創的なものも多く見られます。

それらは基本的に小型のものですが、陶器の狛犬でも参道狛犬として作られた大型のものがあります。
それが備前伊部焼狛犬です。
岡山の伊部地方の窯で焼かれたもので、京都、金沢、新潟、東京といった遠隔地でもその存在が確認されています。
つまり、広域型の狛犬でもあります。

この他、瓦の産地では瓦製の参道狛犬も確認できます。

木彫の神殿狛犬は数多く存在するはずですが、室町時代で触れたように研究上はほとんど言及されなくなるので、どのような状況になっているのか、すぐにはわかりません。
丹念に地方誌などを見ていけば、具体例を拾い出せるのでしょうが、今のところ私にはその気力はありません。

狛犬そのものではないのですが、もう一点触れておくと、江戸時代には参道に置くための神使の像が作られ始めます。
参道に置くものでなければ、それ以前からあったと思われます。
陶磁器の狛犬では、香取型と呼ばれるものは山犬型とも呼ばれていると上記の図録にはあり、山犬(狼)を意識したものではないかとの意見もあります。
神狐の像などで知られる伏見人形は桃山時代には存在していたと考えられていますから、小型の狐像なら存在したでしょう。
それらより大型で、参道に置かれるものは、おそらくは参道狛犬の影響から誕生したものと思われます。

以上、江戸時代の狛犬の特徴は、

  1. 参道狛犬が流行したが、その普及は早い地域でも18世紀からで、17世紀まで遡るものは少なく、19世紀に爆発的に普及した。
  2. 広域型の参道狛犬と在地型の参道狛犬がある。
  3. 様々な素材の参道狛犬が登場した。
  4. 参道狛犬に触発され神使も参道に置かれるようになった。

となるでしょうか。
室町時代に引続き、神殿狛犬は影が薄くなっています。

2008年2月 2日 (土)

江戸時代(2)

さて、この参道狛犬は、その普及の仕方で2種類に分けることが出来ます。

生産地から遠く離れた場所まで流通した広域型の狛犬と、普及範囲が特定の地域内に留まる在地型の狛犬です。

広域型としては、浪花系、出雲系の狛犬が知られています。
その名の通り浪花、すなわち大坂周辺と出雲で生産された石造狛犬で、そこから日本全国に普及していったものです。

これらの普及地域は、北前船の航路上であるということが、指摘されています。

たくさんの荷物を運ぶ船というのは、逆に空荷では浮き上がりすぎて船が安定しないという特徴があります。
そこで、そのような場合に船を安定させるために重石を載せます。
いわゆる≪バラスト≫です。
バラストがただの石ならば、荷物の量が増えて不要になれば、海などに捨てるだけですが、バラストとして石造品を積載しておけば、これを降ろす時にそれ自体を販売することができます。

そうした理由から北前船の発着地である大坂の周辺で製作された狛犬=浪花系の狛犬が、本州全体に普及したという説があります。
出雲も中途の寄港地として同様の背景があると言えます。

浪花系狛犬のバリエーションについては「大阪狛犬の謎」(小寺慶昭 ナカニシヤ出版 2003年11月30日)に詳しく考察されていますが、突然ガラリとパターンが変わるということはなく、基本的にはマイナーチェンジの繰り返しという印象を受けます。

これに対し、出雲系狛犬は前脚をかがめ尻を高く上げた、俗に「出雲狛犬」と呼ばれるものと、蹲踞の姿勢で太い縦尾を持つ、俗に「丹後狛犬」と呼ばれるものの2種類があります。

浪花系や出雲系には及ばないものの、一定以上の地域に普及したものが他にもあります。

俗に「尾道狛犬」と言われる両前足を玉に乗せた姿の狛犬は、瀬戸内海周辺、本州側にも四国側にも広く見られます。
実見していませんが、新潟や北海道にもあるようです。

また、私が「江戸狛犬」や「江戸唐獅子」と呼んでいる狛犬は、江戸のみならず関東平野一帯に広く見られます。

一方の在地型の狛犬は、まだ全国を歩き尽くしてはいないので、どのくらいあるのかわかりませんが、いくつかその存在が知られています。
日本参道狛犬研究会の「参道狛犬大研究」では、江戸時代までさかのぼるものとしては秋田狛犬仙台狛犬肥前狛犬などを挙げています。
また「京都狛犬巡り」では、萩狛犬白川狛犬(京都)の存在を指摘しています。

このうち肥前狛犬や仙台狛犬は独自性の高いものですが、秋田狛犬や萩狛犬などは、上記の広域型の狛犬の普及後にそれを参照して生まれたものではないかと考えています。
他の地域でもそうしたものが多いように思えます。

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