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2008年4月

2008年4月30日 (水)

カナダ先住民と狛犬―その1

カナダの木彫家、ジョン・マーストンとルーク・マーストンの兄弟と話しをする機会がありました。

彼らは、カナダの先住民のうち、ブリティッシュコロンビア州のバンクーバー島に居住する≪コースト・セイリッシュ(沿岸セイリッシュ)≫と呼ばれる部族に属しています。
カナダの先住民は、現在総称して“ファーストネーションズ”と呼ばれていますが、大別するといわゆる“インディアン”と、かつては≪エスキモー≫と呼ばれていた“イヌイット”と、インディアンと白人の混血である“メティス”に三分されます。
北アメリカ大陸のカナダとアメリカにまたがって居住する“インディアン”のうち、大陸北西部の太平洋沿岸部に住む人々は、漁業を生業としており、豊富な水産物に支えられて、狩猟中心の内陸部の“インディアン”より定住性が高く、独自の文化を育んできたと言います。
≪コースト・セイリッシュ≫もその一つです。

≪コースト・セイリッシュ≫には、信仰習俗に関わる木彫として、よく知られた“インディアン”文化の一つである≪トーテムポール≫の他、儀式用の仮面も存在しています。
マーストン兄弟は、こうした伝統的な木彫を学び、それを基礎とした作品を制作している若いアーティストです。

さて、そのマーストン兄弟に、まずは「狛犬を知っているか?」と尋ねました。
残念ながら彼らは狛犬を知りませんでしたが、「これが狛犬だ」と言いながら、京都国立博物館の図録「獅子・狛犬」を見せたところ、「これはライオンかい?」と問い返してきました。

これは興味深いことです。図録に掲載されているのは鎌倉時代までの神殿狛犬です。
もちろん、実物のライオンを知らない工人が制作したものです。
ライオンを知らない日本人が作った狛犬を見て、狛犬を知らないカナダ人はライオンだと思ったわけです。

次に尋ねたのは、「≪コースト・セイリッシュ≫には、狛犬に該当するものは存在するのか?」ということでした。
はじめ、狛犬の説明として「神聖な存在や場所を守る動物」と言ったところ、「自分たちにとっては、それは熊だ」と答えました。
そこで、「狛犬は、神聖な存在や場所の前方に、左右一対にして置かれるものだが、熊の像をそのような置き方をするか?」と続けて尋ねたところ、「そういうことはしない」という答えでした。
「集落の入口に男女の人間の像を対にして立てるが、それは『歓迎』を意味するものだ」とも答えました。

拙い英語で、短時間に聞き出せたことは、この程度でした。

2008年4月15日 (火)

ほっかいどうの狛犬―その3

さて、問題は(1)の≪現地に存在する狛犬に類似の神獣≫です。

これが成立するためには、大前提としてアイヌの信仰習俗の中に狛犬に類似したものが存在しなければなりません。
しかし、19世紀のアイヌの信仰について調査したジョン・バチラーの「アイヌの伝承と民俗」(安田一郎訳 青土社 1995年)を読むと、アイヌには様々な動物への信仰が存在しているものの、狛犬のように、それ自体は崇拝の対象とならず、神聖なものに付随して、その神聖なものや空間を守護するような神獣は存在していないようです。

ある本に掲載された有名な熊送りの祭=イヨマンテの様子を描いた絵を見ると、熊の横たえられた祭壇状の空間の手前の左右にささら状のものが設置されているのが描かれていました。
これは≪イナウ≫と呼ばれる、木を削って作られた「木幣」のようです。
同様にイヨマンテを描いた別の絵では、同じ場所に木の枝らしきものが描かれており、アイヌにおいては神聖な場所の清浄を保つ力を植物(特に木)に求めていたのではないかとも思えます。
もしそうであれば、動物が植物に置き換わっているだけで、狛犬的と言えなくもありません。

しかし、「アイヌの伝承と民俗」によれば、これは熊への捧げものであって、避邪物ではないようです。

ただ、避邪のための≪イナウ≫も存在しており、「アイヌの伝承と民俗」には、近隣の村で伝染病が発生した際に、その村に近い側の村の端に病気を避けるために、鳥を象った≪イナウ≫を設置するということが紹介されています。

しかし、これを狛犬に類似しているものと見るのは無理があるでしょう。
そして、実際、そんなイナウを想像させるような狛犬は、存在していないようです。

つまり、(1)は北海道においては成立していない、ということになりそうです。

ただ、敢えて言えば、著者が半分冗談のように紹介している「擬狛犬」に、その可能性を感じます。

「擬狛犬」とは、えりも町にある歌露稲荷神社にあるもので、「擬」とある通り、その実態は狛犬ではありません。
社殿の前になぜか対になるように設置された自然石のことを指しています。
著者は、昭和の後半に現在の社殿が建てられた時に置かれたのではないかと推測しています。

私がこれを敢えて取り上げるのは、「アイヌの伝承と民俗」の『呪物崇拝(c)』という章において、アイヌにおける石信仰を取り上げる中で、以下のような事例が紹介されているからです。

有珠に住むオプルツという名のアイヌが、自分の小屋の側に高さ4フィートの彫刻されていない自然石を立てていて、著者の解釈するところでは、オプルツは時々これに敬意を払い、その石から保護と幸福を保証されていると考えている、というのです。

明確には書かれていませんし、より積極的な意味があるようにも思えますが、この石を避邪物と解することは可能でしょう。

著者は、「狛犬を設える予算がなかった」ためにこのようなことをしたのだろうと推測していますが、アイヌの石信仰に由来するという可能性はないだろうかと、考えてみたいのです。

妄想に近いものではあるのですが。

2008年4月14日 (月)

ほっかいどうの狛犬―その2

さて、本編サイトの文章で、海外神社における狛犬を捉えるのに、

1)現地に存在する狛犬に類似の神獣
2)日本の狛犬
3)日本の狛犬に似せて現地で製作された狛犬

というふうに3分割する枠組みを提示しましたが、北海道の狛犬は、この枠組みに当てはめて考えることができるでしょうか。

もっとも、(2)と(3)の関係は日本国内においても、広域型と在地型の狛犬として成立し得る関係です。

「ほっかいどうの狛犬」によれば、北海道では広域型の狛犬としては、北前船との関係が濃い浪花系、出雲系の狛犬、瀬戸内海の尾道型や備前伊部焼の狛犬、近代以降の岡崎系狛犬が見られます。
また、年代ははっきりしないものの越前笏谷石狛犬も確認されています。

一方の在地型として、著者は石工名由来の山崎型・鏑城型・岡田型・田中型と地域名由来の道央型・道南型の6グループを設定されています。また、グループをなさないものの、内地にはない独特の容姿をした狛犬たちも紹介されています。
これらの在地型狛犬には、広域型をモデルとしてそれにアレンジを加えたと考えうるものの他に、全く類例のないタイプのものも存在しています。

北海道で狛犬を製作したのは間違いなく和人の石工のはずですが、にも関わらずこうした結果が生まれるのは、著者も指摘するように、元々は細工物を手掛けていなかった石工が、他に石工がいない環境の中、狛犬を作らざるを得ない状況があったからでしょう。

台湾の狛犬についての考察の中で、台湾狛犬の製作者について、

例えば、もし、台湾に渡った日本人の石工が製作したならば、日本の自分が修行した地域に典型的な狛犬を作るだろうから、日本で類例が見られるものになると考えられる。
その観点に立てば、台湾狛犬は台湾人の石工が製作したと考えることもできる。

と書きました。
しかし、こうしたことから考えると、石工の不足から、細工物を製作した経験の無い日本人石工がやむなく狛犬を製作したという状況が生じた可能性は、北海道も台湾も同様だったのではないかと思えます。

台湾狛犬の作り手も日本人と考える方がいいのかもしれません。

2008年4月13日 (日)

ほっかいどうの狛犬―その1

先日、本編サイトに「海外神社の狛犬―台湾の場合」という文章をアップしました。
日本がかつて大日本帝国時代に勢力下に置いた地域に創建された神社に、どのような狛犬が設置されていたのかということを、現存資料が多数残る台湾の事例を基に考察したものです。

さて、「ほっかいどうの狛犬」(丸浦正弘 中西出版 2007年11月)という本が出版されていることを知り、購入しました。

台湾と北海道では何の関係もないようですが、神社を通してみると、共通点があります。
つまり、どちらも、もともと神社信仰を持たない人たちが住んでいる所に日本人が進出して、その後に神社が創建された土地である、という共通点です。
実際、かつて北海道は≪内国植民地≫とも呼ばれたことがあります。
それ故に、この分野の古典である「海外神社の史的研究」(明世堂書店 昭和18年)において、著者の近藤喜博は『北海道』に一章をあてているわけです。

植民地=台湾と内国植民地=北海道では、狛犬の有り様に共通性があるのかないのか。
その点への関心をもって、「ほっかいどうの狛犬」を紐解いてみました。

その前に、概説書を参考に、北海道と本州以南の内地との関係を見てみます。

北海道と内地の間には、考古資料から見て先史時代に既に交流がありました。その時点で北海道に居住し、内地との交流の担い手となった人々が、民族的にどのような人々なのか、現在のアイヌに繋がる人々なのかは、様々に議論のあるところでしょう。
その後、内地の和人が定住的な拠点を北海道内に構えるようになるのは、鎌倉時代頃のようです。
その後の曲折は省きますが、戦国時代を経て、江戸時代に松前藩が成立し、幕藩体制下に入ります。
ただし、松前藩の領域である≪和人地≫は、道南の渡島半島に限られます。一方で、北海道の現地住民であるアイヌとの交易や漁業などの拠点として≪場所≫と呼ばれる地域が設定され、和人の商人らがそこの管理を請負う≪場所請負制度≫という独特の制度が行われていました。その≪場所≫に和人が居住しましたが、これは海岸部に存在していました。
≪和人地≫や≪場所≫以外の内陸部はアイヌの領域とみなされ、幕府もアイヌを直接支配しようとはしませんでした。
しかし、江戸時代後半、南下政策をとるロシアの艦船が北海道周辺に出没するようになると、それに対抗するため、幕府は北海道の領有とアイヌの領民化を実行することになります。
さらに明治新政府が成立すると、開拓民など和人の流入が加速し、アイヌの人口比率は急速に下がり、同化政策もあいまって、北海道からアイヌ色は一掃されていきます。

神社は、当然ながら和人の動きにしたがって、北海道に上陸していきます。
北海道最古を称する神社はいくつかあるようですが、有力なものは檜山郡江差町にある姥神大神宮で、建保四年(1216)の創建とされます。
それが正しいかどうかは別にしても、鎌倉時代には神社が存在していた可能性は高いのでしょう。
和人とアイヌのせめぎあいの中で、神社も生まれたり廃絶したりの消長があったようです。
上の「海外神社の史的研究」では、物証をともなう最古の神社は永享11年(1439)銘の鰐口にその名の見える≪脇沢山神≫であるとしていますが、この神社は現存していません。
江戸時代に入ると、各≪場所≫に神社が招請されることで、渡島半島以外にも神社が広がっていきます。
そして、明治に入り、開拓が進むにつれて、内陸部にも神社が創られていきます。

これがおおよその流れということになります。

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