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2008年4月13日 (日)

ほっかいどうの狛犬―その1

先日、本編サイトに「海外神社の狛犬―台湾の場合」という文章をアップしました。
日本がかつて大日本帝国時代に勢力下に置いた地域に創建された神社に、どのような狛犬が設置されていたのかということを、現存資料が多数残る台湾の事例を基に考察したものです。

さて、「ほっかいどうの狛犬」(丸浦正弘 中西出版 2007年11月)という本が出版されていることを知り、購入しました。

台湾と北海道では何の関係もないようですが、神社を通してみると、共通点があります。
つまり、どちらも、もともと神社信仰を持たない人たちが住んでいる所に日本人が進出して、その後に神社が創建された土地である、という共通点です。
実際、かつて北海道は≪内国植民地≫とも呼ばれたことがあります。
それ故に、この分野の古典である「海外神社の史的研究」(明世堂書店 昭和18年)において、著者の近藤喜博は『北海道』に一章をあてているわけです。

植民地=台湾と内国植民地=北海道では、狛犬の有り様に共通性があるのかないのか。
その点への関心をもって、「ほっかいどうの狛犬」を紐解いてみました。

その前に、概説書を参考に、北海道と本州以南の内地との関係を見てみます。

北海道と内地の間には、考古資料から見て先史時代に既に交流がありました。その時点で北海道に居住し、内地との交流の担い手となった人々が、民族的にどのような人々なのか、現在のアイヌに繋がる人々なのかは、様々に議論のあるところでしょう。
その後、内地の和人が定住的な拠点を北海道内に構えるようになるのは、鎌倉時代頃のようです。
その後の曲折は省きますが、戦国時代を経て、江戸時代に松前藩が成立し、幕藩体制下に入ります。
ただし、松前藩の領域である≪和人地≫は、道南の渡島半島に限られます。一方で、北海道の現地住民であるアイヌとの交易や漁業などの拠点として≪場所≫と呼ばれる地域が設定され、和人の商人らがそこの管理を請負う≪場所請負制度≫という独特の制度が行われていました。その≪場所≫に和人が居住しましたが、これは海岸部に存在していました。
≪和人地≫や≪場所≫以外の内陸部はアイヌの領域とみなされ、幕府もアイヌを直接支配しようとはしませんでした。
しかし、江戸時代後半、南下政策をとるロシアの艦船が北海道周辺に出没するようになると、それに対抗するため、幕府は北海道の領有とアイヌの領民化を実行することになります。
さらに明治新政府が成立すると、開拓民など和人の流入が加速し、アイヌの人口比率は急速に下がり、同化政策もあいまって、北海道からアイヌ色は一掃されていきます。

神社は、当然ながら和人の動きにしたがって、北海道に上陸していきます。
北海道最古を称する神社はいくつかあるようですが、有力なものは檜山郡江差町にある姥神大神宮で、建保四年(1216)の創建とされます。
それが正しいかどうかは別にしても、鎌倉時代には神社が存在していた可能性は高いのでしょう。
和人とアイヌのせめぎあいの中で、神社も生まれたり廃絶したりの消長があったようです。
上の「海外神社の史的研究」では、物証をともなう最古の神社は永享11年(1439)銘の鰐口にその名の見える≪脇沢山神≫であるとしていますが、この神社は現存していません。
江戸時代に入ると、各≪場所≫に神社が招請されることで、渡島半島以外にも神社が広がっていきます。
そして、明治に入り、開拓が進むにつれて、内陸部にも神社が創られていきます。

これがおおよその流れということになります。

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