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2008年6月

2008年6月25日 (水)

石工の名前

「日本全国獅子・狛犬ものがたり」(戎光祥出版 2008年5月)という本が出版されました。
狛犬研究の第一人者である上杉千郷先生が執筆された狛犬入門書です。

入門書といっても、結構専門的ですが、これから狛犬についてもっと詳しく知りたいという人には、いい端緒となる本でしょう。
ちょっとエラそうな言い方ですが。

さて、大変面白い本なのですが、ひとつだけどうしても気にかかる点があったので、僭越ながら、少し訂正させていただこうと思います。

書中に再三、東大寺南大門の狛犬(石獅子)が取り上げられています。
『陳和卿作・東大寺鎮座――最古の石造狛犬』という項目(pp77-78)も設けられています。
つまり、上杉先生はこの作者について、≪陳和卿≫であるとしておられるのですが、これは間違っています。

この石獅子は、項目のタイトルにあるように、広い意味での最古の石造狛犬の例として言及されることの多いものです。
その根拠となる文献は、上杉先生も依拠しておられる「東大寺造立供養記」というものです。
その中で≪陳和卿≫についてどのように記載されているかを見てみると、以下のようになっています(参照したのは「群書類従」)。

寿永二年二月十一日。大仏右御手奉鋳之。同年癸卯四月十九日始奉鋳御首。同年五月十八日丙戌。奉鋳既了。首尾経卅九日。前後及十四ヶ度終其功了。鋳物師大工陳和卿也。都宋朝工舎弟陳仏鋳等七人也。日本鋳物師草部是助以下十四人也。

つまり、寿永二年(1183)に行われた大仏の修理の際に、鋳造を行った≪鋳物師大工≫が≪陳和卿≫であるということです。

一方、問題の石獅子についての記述は、こうなっています。

建久七年。中門獅々。堂内石脇士。同四天像。宋人字六郎等四人造之。若日本国石難造。遣価直於大唐所買来也。運賃雑用等凡三千余石也。

建久七年(1196)に≪宋人字六郎等四人≫が大仏殿内の石造の脇士と四天像とともに獅子を製作したということです( これについて宋人の≪宇六郎≫としている文章を読んだことがありますが、これは『あざな』が≪六郎≫と読むべきものでしょう)。

≪陳和卿≫は寿永二年(1183)に大仏の修繕部分を鋳造し、≪六郎≫等が建久七年(1196)に中門の獅子を製作しているわけです。
その間には13年の年月の差があり、名前の伝わり方が違うことからしても、同一人物ということはありえないでしょう(実は、上杉先生もp114では『陳和卿が中国から石を運び中国の石工に彫らせたもの』と書いておられますが)。

では、この宋人の≪六郎≫が何者であるかということになりますが、これについて「日本史リブレット29 石造物が語る中世職能集団」(山川均 山川出版社 2006年8月)では奈良市の般若寺にある花崗岩製笠塔婆に刻まれた銘文に基づき、中世に一派を成した石工集団≪伊派≫の祖である≪伊行末≫である、としています。

銘文には、≪伊行末≫は中国の明州、現在の浙江省寧波の出身で、東大寺修築のために来日し、大仏殿石壇などの修築に功績を残し、没年は文応元年(1260)、笠塔婆はその一周忌に息子である伊行吉が造立したものである、ということが記載されているそうです。

であるならば、≪六郎≫=≪伊行末≫とするのは、妥当な判断であろうと思います。

それにしても、≪鋳物師大工≫である≪陳和卿≫は文献上に名が残っているにもかかわらず、石工である≪伊行末≫は≪六郎≫などという中途半端な日本名しか記録されませんでした。
没年から判断して≪伊行末≫の来日時の年齢がかなり若かったであろうことを割り引いても、このことからは当時における石工の地位の低さを感じます。
しかも、≪宋人字六郎等四人≫と書かれていながら、本名が推定できるのは≪伊行末≫のみだと言います。

そのただ一人である≪伊行末≫の名を、狛犬学の権威である上杉先生には、きちんと書き残して欲しかったな、というこの一点が、どうしても残念なのです。

2008年6月17日 (火)

琵琶と狛犬

何か≪狛犬≫に関係する文献がないかと「群書類従」に目を通している時に、ちょっと面白いものが目にとまりました。

「順徳院御琵琶合」というものです。
承久二年三月二日(1220)に行われた『琵琶合せ』という行事の記録です。

『琵琶合せ』というのは、どうやら名器とされる琵琶を集めて、一対一でその音色や音勢を比べて、優劣を決める遊びのようなもののようです。
この時、26台の琵琶によって、『琵琶合せ』が全十三番行われています。

その「三番」として「左花園 右狛犬」とあります。
つまり≪花園≫と≪狛犬≫という銘を持つ2台が『琵琶合せ』されたわけです。

その2台の評価と勝敗についての文章は、そんなに長いものではないので、以下に書き写してみます。

花園。有音勢。新造の琵琶也。凡近代の琵琶。五嶺嘉木五折殊材たやすからねば。半以花梨木造て。其中には聊りやらめく所あり。
狛犬。孝定琵琶也。本名師子丸。もとはこはいろかはきたるやうにて。したたかなるばかりなり。孝道伝得て後。様々につくろはしむといへども。無殊事。然近日仰孝道て。随造様てその音ことなる事をしらむため。折文梓割香檀て。新に造五六之琵琶これを試。次孝道造改此琵琶。仍其音事外に心づよくなれり。音勢もとよりはちいさくなりたれども。こはいろすこぶるしなある所出来。然而猶花園普通の琵琶にとりてはよきびはなり。仍為勝。

琵琶に詳しくないので材質や構造を指すのであろう専門用語についてはわかりませんが、大雑把に言えば、

≪花園≫は新しい琵琶であり、一方の≪狛犬≫は孝定から孝道に伝わった琵琶で、孝道によって改造されたもの。改造によって音勢は少し失われたが、音色は良くなった。しかし、≪花園≫は、歴史の無い普通の琵琶にしては良いものなので、こちらの勝ちとする。

といったところでしょうか。

ちなみに、『孝定』『孝道』とは、当時の琵琶の名手である藤原孝定・藤原孝道の父子のことでしょう。
名人親子が所蔵した琵琶が新作の琵琶に敗れるという皮肉な結果になったようです。

さて、面白いというのは、≪狛犬≫について「本名師子丸」と書かれていることです。
つまり、現在は≪狛犬≫と呼ばれているけれども、本来の名は≪師子丸≫である、ということです。
藤原孝道による改造によって名称が変わったのか、それ以前に変更されていたのか、そのあたりはわかりませんが、≪師子丸≫が≪狛犬≫になったわけです。

それが、≪獅子≫と≪狛犬≫の関係を前提とした改名であることは間違いないでしょう。

ところで、≪師子丸≫という名は、この琵琶にとどまらず、琴などいくつかの楽器にも用いられている名のようです。
また、同じ名を持つ琵琶にまつわる伝承が「三代実録」などに記載されているそうです。

藤原貞敏は、渡唐し、琵琶師に師事して曲を習い、それを会得し、帰国にあたって≪玄象≫≪青山≫≪師子丸≫の三台の琵琶を譲り受けた。ところが、海が荒れて、船が出港できない。これは、龍神が名器の音色を惜しんでいるのだろうということで、龍神に奉げるために≪師子丸≫を海に沈めたところ、海がおさまったので、残りの2台の名器を日本に持ち帰った。

要約すると、こういう話です。 ≪師子丸≫の名が複数見られるのは、これにちなんだのでしょうか。
もちろん、海に沈められたのですから、≪狛犬≫と改名された琵琶は、これとは別物です。

それにしても、この≪狛犬≫という琵琶は、その後どうなったのでしょうか。
「狛犬 琵琶」で検索をかけてみましたが、特に何もひっかかってきません。
専門家にとってはともかく、ネット上で網にかかるレベルでは、名を残していないようです。

狛犬ファンとしては、ちょっと残念なところです。

2008年6月16日 (月)

起源説のまとめ

さて、以上の起源説をまとめてみます。

狛犬の正体としては

  1. 犬説
  2. 狆説
  3. 兕説
  4. 麒麟説
  5. 狻猊説
  6. 白虎説

由来としては

  1. ホノスセリ説
  2. 隼人の犬吠え説
  3. 三韓の犬説

を取り上げてみました。

ここまでの文章でお気付きになったと思いますが、そのほとんどが江戸時代の文化元年(1804)にまとめられた「狛犬考」にすでに登場しているものです。
そうではないのは、狛犬の正体としての『狆説』『麒麟説』『白虎説』くらいです。

私の最新の研究への目配りが足りないのかもしれませんが、反面、現在においては狛犬の起源は古代オリエントのライオン像で、日本には獅子として仏教と前後して伝わり、その影響を受けて成立した、という流れで、ほぼ理解が一本化しているということでもあるでしょう。

「狛犬考」は江戸時代にまとめられたものですが、これらの諸説が江戸時代に登場したものなのか、それ以前からあるものをまとめたのが江戸時代だったのか、私の史料調査がまだ不足しており、はっきりしたことは言えません。
ただ、狛犬と兕を結びつけるような見方が古くからあったのを除けば、他はそれほど時代を遡らないのではないか、という気がしてなりません。
特に、由来については、江戸時代の国学の発展の中から生じた説のように思えます。
考え方があまりに内向き、言い換えれば鎖国的に感じられるからです。

ただ、隼人の犬吠えに獅子舞・狛犬舞との共通点が見られるなど、簡単に退けることの出来ない興味深い点もあります。

狛犬の起源説としては、いずれも一長一短、ものによっては的外れな部分もありますが、狛犬を生み出した古代日本文化の雰囲気を知るのには、必要な通り道と思えばよいのではないでしょうか。

2008年6月15日 (日)

神功皇后と高麗犬

江戸時代にまとめられた「狛犬考」に、神功皇后にちなんだ説が紹介されています。
これを≪三韓の犬≫説としましょう。

これには複数のバージョンがあります。

「狛犬考」では、まず『或人説曰』として

神功皇后、三韓を退治の時、弓筈にて三韓は日本の犬也と岩石にしるし給ふと、其縁によりて三韓の犬、二六時中、宮内を守護するこころにて、狛犬を宮内に用いるといへり

また、『一説曰』として

神功皇后ノ三韓ヲ征伐シ玉ヒシ時、高麗ニイタリ玉ヘハ、犬来タリテ先手ヲセシヨリ、軍旅ススミテ其功ヲトゲ玉ヒシユヘニ、其形ヲ作リテ高麗犬ト名付ケ、神社ノ守護神トナセリトイヘリ

と書かれています。

さらに、「神像と獅子狛犬の話」(高木豊秋 昭和12年)では

(五)神功皇后三韓を討従へ給ひ、高麗人の率ゐ来つた犬に門戸を守らしめられしに起こる。故に獅子に作るのは誤りである。

(七)或は、神功皇后の御時、三韓降伏して、永く犬の如く臣属するを誓つたので、その形を神前に留めたと云ふ故事に基き、これを高麗犬と呼ぶこととなつた。

ともあります。
ちなみに(六)と(八)には「狛犬考」の二説と同じことが書かれています。

いずれにせよ、神功皇后が三韓を討伐して、これを従わせたことから、≪高麗犬≫となった、ということになります。

さて、「日本書紀」にも、もちろんこの『神功皇后の三韓討伐』は記載されていますが、上記のような話は出てきません。
「日本書紀」では、神功皇后の軍がやって来ると知った新羅の王は戦うことなく、

「今より以後、長く乾坤に与しく、伏ひて飼部と為らむ。(略)」

と言って降伏し、それを知った高麗(高句麗)・百済の王も、

「今より以後は、永く西蕃と称ひつつ、朝貢絶たじ」

と言って降伏しています。

新羅王の言う『飼部(みまかひ)』は、大雑把に言えば馬の飼育係であり、高麗王・百済王の言う『西蕃(にしのとなり)』は、つまり西方の蛮族ですから、どちらも犬ではありません。

ではどこから出た説なのか、ということになりますが、残念ながら、私は古文献に詳しくないので、よくわかりません。

ただ、『神功皇后の三韓討伐』は、もちろん伝説ですし、その点からすると、後付けの起源説としか思えません。

2008年6月14日 (土)

隼人と狛犬

「延喜式」の「隼人司」の項目について、昨日触れました。
そこには、隼人が『吠える』場合として

  • 凡元日即位蕃客入朝等儀。
  • 凡踐祚大甞日。
  • 凡遠従駕行者。(略)其駕経国界及山川道路之曲。
  • 凡行幸経宿者。

と記載されています(参照したのは「国史大系」版)。

このうち、『其駕経国界及山川道路之曲』という規定に、興味をひかれます。
この記述は、国の境界や山川・道路が曲がっている所を通過する時には、≪隼人の犬吠え≫が行われるということでしょう。
つまり、これは明らかに≪道の祓い≫です。

それは≪獅子舞≫に通じるものです。

現在でも、獅子舞は祭の際に神輿の先に立って舞われる場合がありますが、これは≪道の祓い≫のための行為です。
制度化された獅子舞は、中国から伝わった伎楽に端を発すると思われますが、その伎楽において、すでに獅子は、行列の露払い役として登場しています。
獅子と同時に登場する赤顔長鼻の人物を≪治道≫と呼ぶところに、≪道の祓い≫という意図が見えます。

いずれ別に「狛犬と獅子舞」という項目を立て、そこで詳しく触れるつもりですが、宮中の舞楽の中には『狛犬』という演目があります。
清少納言は「枕草子」において、行幸から還御する天皇の御輿の先に立って獅子舞とともにその『狛犬』が舞われたことを記しています。
これもまた≪道の祓い≫ということでしょう。

この≪道の祓い≫という点で、舞楽としての『狛犬』と≪隼人の犬吠え≫に類似性があるとなると、ドメスティック過ぎると言って≪隼人の犬吠え≫説を退けるのは、ためらわれます。

また、現存する狛犬の中に、面白いものがあります。

福岡県宗像市の宗像大社の木造神殿狛犬です。

私は実見していませんが、写真で見る限りでは、その体形は、ライオンや犬というよりも、猿か人のように見えます。
隼人をモデルにしたものだと言われれば、そうかもしれないと答えたくなるような代物です。

もっとも、作風からは鎌倉時代のものと推測されているようで、早い時期のものとは言え、狛犬の始まりに位置付けることが可能とは思えません。
また、極めて特殊な姿であり、他に類例がないのも弱いところです。

ただ、それこそ≪隼人の犬吠え≫が次第に行われなくなる時期のものであり、気になる存在であることは確かです。

2008年6月13日 (金)

≪隼人の犬吠え≫説

≪ホノスセリ≫説の流れにある、と言うより、それと一体になったものが≪隼人の犬吠え≫説です。

江戸時代にまとめられた「狛犬考」にもすでに見られる説ですが、ごく最近、2004年に刊行された「福岡城の瓦師――菅原道真・櫛田神社・神殿狛犬――」(荻野忠行 創言社)でも、この説が大きく取り上げられています。

古代の宮中で、特定の行事にあたって、宮門の警護にあたる隼人が、群臣の出入りにあわせて、犬の吠えるような声を発することを≪隼人の犬吠え≫と言います。
この門を守って犬吠えする隼人の姿にちなんだものが狛犬である、とするのがこの説です。

昨日、「この『俳優』とは、単に演技をなす者ということを指すのではなく、ある行為をもって臣従し守護するというような意味を持ちます」と書いた『ある行為』とは、この犬吠えのことです。
実は、わざと触れなかったのですが、「日本書紀」では、火闌降命と彦火火出見尊の逸話について「一書に曰はく」として、以下の記述があります。

火酢芹命(注=火闌降命)の苗裔、諸の隼人等、今に至るまでに天皇の宮墻の傍を離れずして、代に吠ゆる狗して奉事る者なり。

これは言ってみれば、神話の一部ですが、歴代の天皇の記述としても、履中天皇の即位前紀に『近習隼人』と見え、清寧天皇元年には雄略天皇陵で哀号して死んだ隼人のことが見えます。
ただ、岩波文庫版「日本書紀」の補注では、実際に史実と受け取れるのは天武天皇十一年(682)に隼人が方物を貢したという記事以後と推測しています。
ちなみに、この時、大隈隼人と阿多隼人が相撲をし、大隅隼人が勝ったとの記述があります。

また、10世紀前半の延喜年間にまとめられた「延喜式」には「隼人司」の項目があり、宮中における隼人の役割や待遇について記載されています。
もちろん、そこには≪犬吠え≫についての規定も記されています。

さて、上記の本の著者である荻野氏はこう書きます。

「記紀」神話の朝廷守護をした後、八世紀初期に姿を消した阿多隼人の狗(犬)の吠声は、日本犬・日本狼・狐への信仰とも結びついていたにちがいない。阿多隼人は、天皇・皇后を守護し鎮魂する任務をもっていたのであり、隼人司が廃止されたので、獅子像の影響をうけて、犬像=狛犬・駒犬像として創作されたのではなかろうか。

「八世紀初期に姿を消した」というのは、著者によれば、その頃に阿多隼人が薩摩隼人に吸収されてしまうということのようです。
と同時に、それによって、≪隼人の犬吠え≫も姿を消すとお考えのようで、その代わりに登場したのが狛犬像であるというのが骨子のようです。

ただ、正続「群書類従」を見てみると、そこに収められている「六条院御即位記」に

源雅頼(右大弁)。入自会昌門東戸。于時隼人吠犬。

という記述が見出せます。
六条天皇の即位は永万元年(1165)なので、12世紀頃までは形式的にでも犬吠えは行われていたことになります。
となると、≪隼人の犬吠え≫の消滅によって、それが狛犬像に置き換わったという考え方は、少なくとも成り立たないことになります。

そもそも、この説の源流となっている海幸彦山幸彦の話は、構造を同じくする類話が日本から東南アジアにかけて広く分布していることが知られており、日本独自のものというわけではありません。
私には、広く伝わる伝説を用いて、大和政権による九州支配を正当化するとともに、隼人側には皇統につながる系譜を与えることでその地位を保証するという、極めて政治的な行為に思えます。

それを狛犬という存在の根拠にするのは、ドメスティックに過ぎるように感じられます。

2008年6月12日 (木)

≪ホノスセリ≫説

続いては、狛犬はなぜ存在するようになったのか、ということの由来についての諸説を取り上げます。

まずは、≪ホノスセリ≫説です。

江戸時代に編纂された「狛犬考」では、「徒然草奥儀抄(高屋近文微斎)曰」として、こう書きます。

獅子狛犬は、火闌降命ノ事ヨリ起テ禁門ニモ亦神前ニモ護ルヨシナレトモ、其形犬ニアラス、獅子也

『火闌降命ノ事』とは、火闌降命(ホノスセリノミコト)と彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の逸話に基づくということを指します。
つまり、いわゆる海幸彦(=火闌降命)と山幸彦(=彦火火出見尊)の話です。

海の民である火闌降命と山の民である彦火火出見尊の兄弟は、ある日、お互いの道具を取り替えて火闌降命が山へ、彦火火出見尊が海へと向かう。
結局、どちらも収穫がないままその日を終えるが、彦火火出見尊が火闌降命の釣針を紛失したため、火闌降命は彦火火出見尊を責め、新しい釣針を作って許しを請う彦火火出見尊に、元の針を取り戻すよう要求する。
悩む彦火火出見尊だが、塩土老翁(シオツツノオジ)の導きで海神(ワタツミ)の宮に行き、釣針を取り戻すとともに、潮満瓊(シオミチノタマ)と潮涸瓊(シオヒノタマ)を与えられ、それによって火闌降命を屈服させ、謝罪させる。

これが話の概略ですが、弟・彦火火出見尊に屈した兄の火闌降命は、謝罪に加えて、「今より以後、吾は汝の俳優(わざをき)の民たらむ」(岩波文庫版「日本書紀」より)と誓います。
この『俳優』とは、単に演技をなす者ということを指すのではなく、ある行為をもって臣従し守護するというような意味を持ちます。
つまり、彦火火出見尊の守護となると誓った火闌降命にちなんだものが、天皇を守護するために置かれている狛犬である、と考えるのが、この≪ホノスセリ≫説です。

これだけでは守護はともかく、狛犬という動物の姿であることとのつながりが見えませんが、「日本書紀」には同じ物語の異説も収録されており、そこには火闌降命の言葉がこう書かれています。

「吾已に過てり。今より以往は、吾が子孫の八十連属に、恒に汝の俳人と為らむ。一に云はく、狗人といふ。請ふ、哀びたまへ。」

ここは、異説の中にさらに異説を挿入するという構造になっており、「一に云はく、狗人といふ。」が異説に挿入された異説です。
子々孫々まで『狗人』となることを誓った火闌降命から、狛犬になった、ということになります。

ここでその系譜の前後関係を見てみます。

火闌降命と彦火火出見尊の兄弟は、高天原から葦原中国に降臨した天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギノミコト)が、大山祗神(オオヤマツミノカミ)の娘・木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)との間にもうけた子になります。

彦火火出見尊は海神の娘・豊玉姫(トヨタマヒメ)との間に、彦波瀲武鸕[茲鳥]草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)をもうけます。
その彦波瀲武鸕[茲鳥]草葺不合尊が豊玉姫の妹、つまり自身からは叔母にあたる玉依姫(タマヨリヒメ)との間に四男をもうけますが、その末弟が神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)で、これが神武天皇となります。

一方の火闌降命ですが、「日本書紀」では、『吾田君小橋等が本祖なり』と書きます。この吾田君小橋とは、九州南部を根拠とした隼人のうち現在の鹿児島県西部にいた阿多隼人の有力者であるとされます。

ここから、次に取り上げる≪隼人の狗吠え≫説へとつながっていきます。

2008年6月11日 (水)

「狛」をめぐって

上杉千郷先生の「狛犬事典」に、「狛」という字から導かれた説が紹介されています。

≪白虎≫がもとである、という説です。

こう書けば想像がつくように、「狛」という字の旁の「白」の意味を重視して、それを≪四神≫と称される、4種の霊獣と絡めた説です。

≪四神≫とは、玄武・朱雀・青龍・白虎で、名前に表れているように、黒・赤・青・白の4色に対応しています。
さらに、それぞれ、北・南・東・西の方位に対応しています。

「狛」という字の旁の「白」は、この西の白に由来するものだという考え方から、≪狛犬≫を≪白虎≫に結びつけたものです。

確かに、天子南面の考え方に従って、北側にいて南面する天皇の前方の左右に狛犬を配したならば、天皇から見て左=東が≪獅子≫で、右=西が≪狛犬≫という配置になります。
うまく≪白虎≫の位置に≪狛犬≫が当てはまりそうですが、よく考えてみれば、「それならば≪獅子≫は≪青龍≫なのか?」という問題が生じてしまいます。
しかも、≪青龍≫には角がありますが、≪白虎≫には角がありませんから、そのままだと、無角の≪獅子≫と有角の≪狛犬≫という基本原則と、逆になってしまいます。

それに、いま私は「天子南面」としましたが、宮中の公事を記した「禁秘抄」では清涼殿の御帳の前の南北に狛犬を置くと書かれています。
つまり、狛犬の位置は西とは限りません。

もちろん、この説の言わんとするのは、「白」=「西」=霊界の方向、という観念の流れであって、実際の方位ということではないのでしょうが、それにしても、少々無理があるように思えます。

ちなみに、「狛犬=麒麟」説の坂元義種氏は、『狛犬の名の由来』(「古代の日本と渡来の文化」〔上田正昭編 1997年〕所収)という論文で、「コマ」を表す漢字が

「貊」→「[犭百]」→「狛」

と変化していったと述べています。
これが正しいならば、初めに「白」ありきとはいきません。

その一方で坂元氏は、最終的に「狛」の字に行き着いて、その結果として≪狛犬≫の体色が「白」になったとも述べています。
「類従雑要抄」において、≪師子≫の色を黄、≪胡摩犬≫の色を白としていることを念頭に置いてのことでしょう。

しかし、なんとなく、こじつけのように感じられてしまいます。

2008年6月10日 (火)

獅子か狻猊か

高木豊秋(梅田義彦)の「神像と獅子狛犬の話」(会通社 昭和12年)という、狛犬本の古典の中で、狛犬の起源についての諸説が紹介されています。
その最初に、こうあります。

(一)鬼魅邪気を避ける為めに置かれるしるしで、獅子よりも猛き狻猊といふものの姿である。それが高麗から伝はつたから「こまいぬ」と名づけられたのであらう。但し、角あるを狻猊の牡とし、角なきを牝とするは不可である。

≪狻猊≫には「しゆんげい」とルビが打たれていますが、正確には「さんげい」と読んだ方が良いようです。

明治時代に刊行された「新撰東京名所図会」では、狛犬のことを様々な呼び方で表現しています。
狛犬、獅子はもちろんのこと、これに素材名を足して、石狛、石獅、石狗、石駒といった表現が用いられています。
その中に≪石猊≫および≪木猊≫というものがあります。

また、平河天神社の部分では、同社の狛犬の、現在は失われている銘文(嘉永五年〔1852〕)が紹介されており、そこには「雙猊」と、単独で「猊」という用いられ方をしています。

確かに≪狛犬≫を≪狻猊≫とする見方があったようです。

この≪狻猊≫を、現代の漢和辞典で調べると、≪獅子≫と同義とされています。
用例として、仏の座る『獅子座』と同じ意味で『猊座』という言葉も出てきます。

「和漢三才図会」でも『獅子』の項目に別称として出てきています。

しかし、上記の引用文では「獅子よりも猛き狻猊」と書き、≪獅子≫と≪狻猊≫を別物として扱っています。

また、「中国獅子雕塑芸術」(朱国栄 上海書店 1996年)という本には、中国においてライオンは、初めは≪狻麂≫(日本語読みするなら「さんき」)と訳されたが、既に存在した≪狻猊≫と混同されたため、改めて≪獅子≫と訳されたと書かれています。
確かに漢代初めに成立した字典「爾雅」では≪狻麂≫の項目が立てられ、「即師子也」との記述があります。
これに従えば、≪獅子≫は≪狻麂≫で、≪狻猊≫はそれとは別の猛獣ということになります。

では、≪狻猊≫とはどういうものなのでしょうか。

中国には、「龍が九子を産む」という説があるそうです。
その龍から生まれたが、龍になれなかった九種類の神獣の一種が≪狻猊≫だとされます。
例えば、高士奇の「天禄識餘」には『形は獅子に似て、煙火を好む』とあるそうです。

しかし、「幻想動物の文化誌 天翔るシンボルたち」(張競 農文協 2002年)によれば、そうした説は元末明初、つまり14世紀頃に生まれたもののようで、考え方としては、新しいものということになります。

とは言え、≪狻猊≫が≪獅子≫とよく似たものであることは、それ以前からの考え方なのでしょう。

≪獅子≫とよく似た≪狻猊≫が≪狛犬≫の起源ならば、現存する狛犬が角と口元を除いて獅子と造型上の相違がないこともうまく説明でき、狛犬の起源説としてはすっきりします。

ただ、私の手近には資料が乏しく、≪狻猊≫がどのくらい時代を遡りうる神獣なのか、よくわかりませんし、実態(特に角の問題)もはっきりしません。

≪狛犬≫が≪狻猊≫であるかどうか、私には今のところわかりません。

2008年6月 9日 (月)

角から見た狛犬―その3

話を戻します。

坂元氏の「狛犬=麒麟」説ですが、いくつか根拠が挙げられています。

例えば、本文ではなく注の部分にですが、「禁秘抄考註」の中に狛犬について「今見其形麒麟也」という記述があるということが指摘されています。

一方、本文中で大きな根拠としているのは「類従雑要抄」の付図のようです。
Kirin これがそうです。

そこには確かに「獅子。胡摩犬。」として、獅子とともに麒麟としか見えないものが描かれています。
つまり、足に蹄を持ち、首が長く、その首には鱗らしき蛇腹があり、髭をはやした一角獣です。

これが本来の狛犬の姿なのでしょうか?

ただ、いかんせん、実物が存在しません。
再三繰り返していますが、現存する狛犬像は、角と口元を除けば(厳密にはたてがみの毛並みなどもありますが)対をなす2体の姿に決定的な差はなく、言うなれば共に≪獅子≫の姿になっています。
確実に平安時代のものと言える狛犬は存在しませんが、鎌倉時代には確実に両方とも≪獅子≫である狛犬が存在しています。
≪狛犬≫とは≪麒麟≫のことであるとするならば、当然、それ以前の時代に、麒麟形の≪狛犬≫が存在したはずです。
しかし、現存していません。

逆に、それ以後の文献の記述にどう書かれていようとも、その時代に存在した共に獅子の姿をした≪狛犬≫を基準として考えるべきですし、それと乖離したものであるなら、その記述内容を疑うべきです。

もう一点、この論の弱いところは、肝心の「類従雑要抄」の図です。
坂元氏が参照する「群書類従」所収の「類従雑要抄」には、確かに「獅子。胡摩犬。」の図が掲載されています。
しかし、京都大学付属図書館がweb上に公開している「類従雑要抄」にはその図がありません。

両者を比較してみると、坂元氏がこの論文に引用した「獅子。胡摩犬。」と「鎮子。」(犀形鎮子)の2図だけが、京都大学付属図書館蔵本にはないのです。
Sai そう思って見直してみると、「群書類従」の方では、この2図だけ、図のタイトルが〔 〕に入っています。

これは、この2図が後の加筆であるということを示しているのではないでしょうか。

だとすれば、この図が表しているのは≪狛犬≫の起源が≪麒麟≫であるということではなく、この図が描き加えられた時代に、狛犬と麒麟を同一視する考え方が存在していた、ということを指しているに過ぎないことになります。

狛犬の源流が麒麟である可能性はあると思いますが、それを論証するには別の切り口が必要なのではないでしょうか。

(090913追記)

「類従雑要抄」は平安時代後期に編集されたものですが、江戸時代の元禄17年(1704)に、その内容を検討し、彩色した図に改めた「類従雑要抄指図巻」が製作されました。

麒麟形の≪狛犬≫の図は、その時に付加されたもののようです。

狛犬の起源を考えるのに、江戸時代に成立した資料を持ち出すのは、妥当なこととは思えません。

2008年6月 8日 (日)

角から見た狛犬―その2

坂元義種氏による「狛犬の原像について」(「日本古代国家の展開」所収 1995年刊)という論文があり、その中で、狛犬の源流は麒麟(より細かく言えば≪麟≫)であると唱えられています。

論の大半は伎楽・舞楽と狛犬の関わりについて述べ、≪兕≫と狛犬のことにも触れて、日本において、狛犬は、当初は蹄を持った一角の神獣とみなされていたのではないかと示唆した上で、狛犬の実像は≪麒麟≫であるとしています。

確かに、≪兕≫は牛に似ているとされ、その牛は蹄を持った動物です。

また、狛犬と類似点も多い辟邪・天禄のうち、一角の辟邪については、南朝の頃には≪麒麟≫と称されていたと、曽布川寛氏は「中国美術の図像と様式」(中央公論美術出版 平成18年)の中で指摘しています。

してみると、狛犬も元来は蹄を持った動物ではなかったかと考えることは自然なことですし、源流を麒麟に求めるのも理に適ったことのように思えます。

そもそも、角と言えば、鹿や牛といった蹄を持った動物が連想されやすく、その結果、一角の神獣・幻獣も、蹄を持ったものが多く創造されています。

古代の伝説的な地誌「山海経」を試みに探してみると

かんそ(「かん」:[灌]の[氵]を[月]にしたもの、「そ」:[流] の[氵]を[足]にしたもの)=その状は馬の如く、一つの角が鍍金してある(北山経)

ぼつ馬(「ぼつ」:[馬]偏に[孛])=牛の尾で白い身、一つの角(北山経)

とうとう(「とう」:[羊]偏に[東])=その状は羊の如く、一つの角、一つの目――目は耳の後にあり(北山経)

といったものが見つかります。

また、東洋の一角の神獣を代表するものに≪獬豸≫がいます。
「和漢三才図会」の図版では、蹄があるようには描かれていませんが、文中では「三才図会」からとして「状如羊一角四足」、「説文解字」からとして「似鹿一角」という記述があります。
足についての言及はありませんが、羊も鹿も蹄があります。

このように、一角獣としての狛犬という側面を見ると、蹄のある神獣に起源を求めるのは、妥当なことに思えます。

もっとも、「山海経」を見ると、こんなものも存在します。

猙(そう)=その状は赤い豹の如く、五つの尾、一つの角(西山経)

駮(はく)=その状は馬の如くで白い身、黒い尾、一つの角、虎の牙と爪(西山経)

このうち、≪猙≫などは、「五つの尾」というところが、狛犬像の、ライオンの紐状の尾とは異なる、あの派手な尻尾の姿を彷彿とさせます。
しかも、ヒョウはライオン同様ネコ科ですし、なんとなく気にならないこともありません。

結局、神獣である以上、どうとでも定義でき、何とでも結び付けられる、ということかもしれません。

2008年6月 7日 (土)

角から見た狛犬―その1

改めて確認しますが、広義の≪狛犬≫は、獅子と狛犬という2種類の神獣を1対にしたものを指す総称で、狭義の狛犬はその対のうちの一方の神獣を指す言葉です。
そして、獅子との比較のうえで、狭義の狛犬の特徴とされるのが「角」です。

狛犬について定義した最初期の文献である「類従雑要抄」には、狛犬には角があるということは記述されていますが、角の本数や形状には触れられていません。
しかし、現存する古い狛犬から判断すると、角は1本、真直ぐな角か、鹿のような枝分かれした角に作られています。

この狛犬には1本の角があるという点に注目して、様々な一角の神獣が、狛犬の起源として取り上げられてきました。

江戸時代にまとめられた「狛犬考」に取り上げられているのは≪兕(じ)≫です。

≪兕≫とは、中国古代の辞書「爾雅」(神宮文庫蔵本の影印本 汲古書院 昭和48年刊)によると、

兕似牛 一角青色重千斤

とあります。

この≪兕≫について、「延喜式」の「左衛門府」に以下のような記述があるといいます。

凡大儀之日、居兕像於会昌門左、事畢返収本府(右府居右)

つまり、大儀(元日や即位式など)の際には左衛門府においては会昌門の左に、右衛門府においては会昌門の右に≪兕≫の像を置くというわけです。
明らかに1対で門の守護獣として用いられており、その意味で狛犬との類似性が指摘できます。
ただし、事後に返却するということですから、常時設置されるものではないようです。

さらに「文安御即位調度図」という文献には

狛犬形 以銅鋳之、有銅座如磐石、前有銅柱一尺余、左衛門府式云、兕像云々、其体狛犬也云々

という記述があります。
ここでは≪兕≫と狛犬を同一視しているようにも読めます。

ただし、これは後のことにも関わりますが、記述自体は「兕は狛犬の姿をしている」と述べているに過ぎず、「兕とは狛犬のことである」とも、「兕と呼び習わしてはいるものの、現在その実態は狛犬である」とも解釈可能です。

ちなみに、その記述は、『狛犬形』という図版に添えられた文章の中にあります。
その図がこれです。

Komainu3

≪兕≫の定義にあるような牛の姿には、まったく見えません。
名の通り狛犬です。

「文安御即位調度図」は文安元年(1444)に藤原光忠によって書写された旨の記載があります(参照したのは「群書類従」所収のもの)。
つまり、狛犬の起源を云々するには、かなり年代的には新しいものです。

そうしたことを考えると、私には「兕と呼び習わしてはいるものの、現在その実態は狛犬である」と解すべきではないかと思えます。

事実、「続群書類従」所収の「二条院御即位記」の中に、このような記述がありました。

会昌門内東西掖壇上。左右衛門府各居銅鋳狛犬形一頭。(各北面。或云光像云々。然而装束記并年々記狛犬也。)

( )内は、小文字の注記です。
ここでいう「光像」とは「兕像」の誤記か印刷の誤植でしょう。

つまり、左右衛門府に置かれるのは≪兕≫であるとも言うが、「装束記」「年々記」という史料には≪狛犬≫とされている、という注です。

二条天皇の即位は保元三年(1158)ですから、「文安御即位調度図」のおよそ300年前には、すでに会昌門に狛犬が用いられていたことになります。
しかも、その時点で≪兕≫とするのはあたらないという注がついているのです。

やはり、「文安御即位調度図」の記述も「名称は兕だが、実態は狛犬である」と、読み解き、≪兕≫と≪狛犬≫は異なるものと考えるべきではないでしょうか。

2008年6月 6日 (金)

郷土玩具の≪こまいぬ≫

「狛犬=狆」説の筆者は「日本書紀」の中に≪高麗犬≫の語が出ていると言うが、岩波文庫版ではそのような記述は見当たらなかった、ということを書きました。

仮に、岩波文庫版が底本にしたのとは別の写本には≪高麗犬≫の語があるとして、さらにそれが筆者の言うように狆、あるいは少なくとも短吻種犬を指すものだとすると、何となく筋が通りそうなものが存在しています。

日本の伝統的な玩具の中に、≪こま犬≫と呼ばれるものが存在しているのです。

Komainu2 上の写真は京都市内のみやげ物店で買ったもの。
下の写真は東京の穴八幡神社で購入したものです。

見てお分かりのように、その姿は犬です。
しかも、まさしく狆です。

狆を≪高麗犬≫と呼ぶという事実があるのなら、この狆の玩具が≪こま犬≫であるのも当然ということになるでしょう。

写真のものは土を焼いたものですが、同様の姿をしたものに張子で作られた≪犬張子≫というものがあります。
近世以降、庶民にも広がっていきますが、元をたどれば宮中や貴族の間で用いられた≪犬筥≫と呼ばれるものに行き着くとされます。

山田徳兵衛「日本人形史」(昭和36年 角川書店)にはこう書かれています。

室町時代より上流家庭では犬張子を天児・這子とともに幼児の祓に用いた。室町時代には犬箱ともいったように、むかしのものは箱の形で足がない。製作はむかしも張子細工で、長さは三十六センチほどあった。男犬・女犬を一対用い、箱のなかに守り札などを入れて、幼児の枕もとにおいたり、また宮参りのおりに携えたりした。嫁入りにも持参した。

小林すみ江「人形歳時記」(平成8年 婦女界出版社)によれば、お伽犬、宿直犬などとも言い、皇室では皇子・皇女の誕生の際には現在でも誂えられるそうです。

≪犬筥≫にせよ≪犬張子≫にせよ、その造型は狆に基づくものと思われます。
「狛犬=狆」説では、狆が変じて狛犬になったと考えるわけですが、こうして幼児の魔除けという、狛犬的な役割を担いながら、造形的にも狆の姿を保ったものが存在しているわけです。
つまり、狆→犬筥→犬張子という流れが、現に存在しているのです。

この流れを無視して、狆を狛犬と結び付けようとするのは、うがち過ぎだろうと、私には思えます。

狆の姿をした玩具に≪こま犬≫という名が付いていることとともに、もうひとつ気になることがあります。

それは、狛犬の玩具がないことです。

手元にある数種類の郷土玩具関連の書籍を確認しても、面白いことに獅子頭を小型化した玩具は存在するものの、狛犬はありません。

上記とは別の≪こまイヌ≫というものはあります。

これは岡山県の吉備津神社で頒布されている小型の土人形で、犬2匹(立ち姿と座り姿)と鳩1羽を一組として、総称して≪こまイヌ≫と呼ばれています。鳩が混じるものの、やはりこれも犬です。
斎藤良輔「日本の郷土玩具」(未来社 昭和37年)によれば、

祭神の吉備津彦尊が、祟神天皇の十年に四道将軍の一人として、この吉備国に派遣され、百済国の王子温羅と戦ったとき、イヌ(犬飼氏)とトリ(鳥飼氏)が道案内をつとめて尊を助け、ついに大勝した、という伝説にちなんだものだ。

とあります。

結局のところ、≪こまいぬ≫という名の玩具はいずれも犬で、狛犬は玩具には見られないのです。

このことは、一体何を意味しているのでしょうか。
犬、とりわけ狆を≪こまいぬ≫と呼ぶことの方が先にあったから、犬の玩具を≪こまいぬ≫と呼ぶのでしょうか。

ただ、玩具類の中でも、こうした≪人形≫類は、江戸時代以降に一般に広まったものと考えられます。
≪こまいぬ≫の名も、当然、近世になって与えられたもので、そこにそれ以前の歴史が反映されていると言えるのかどうか、疑問があります。

くどいようですが、近世になってから、『犬』の文字に引きずられて、犬でも、特に狆に関して≪こまいぬ≫と呼ぶようになったのではないかと思えてなりません。

2008年6月 5日 (木)

狛犬は犬か―その4

「動物信仰事典」(芦田正次郎 北辰堂 平成11年)の『犬・戌』の項目にはこうあります。

犬そのものへの信仰は、その多産と安産性にとどまっているが、守護性についての信仰は、唐獅子と習合した形の「狛犬」によることになった。もっとも狛犬像の中には、純然とした犬像のものもあるが、極めて数は少ない。

ここで言う「習合」とは、「もっとも…」以下の記述に鑑みて、意味的なことにとどまらず、造形的なものも含まれていると考えてもいいでしょう。
つまり、狛犬は、犬と獅子を融合して造型されたものということです。

ありえないことではないだろうと思いますが、やはりひっかかるのは、現存する狛犬が、古いものでも左右の造型に差がないことです。

繰り返しますが、広義の総称としての狛犬は≪獅子≫と狭義の≪狛犬≫を対にしたものです。
その造型上の差は、ほぼ角の有無と口の開閉に集約されると言うことが出来ます。

≪狛犬≫を犬と獅子の融合だとするのなら、なぜ、その≪獅子≫との間に造型上の差がないのでしょうか。

考えてみれば、≪獅子≫の起源は実在するライオンだとしても、身近にライオンが存在しない日本人にとっては想像上の動物であり、その点は≪狛犬≫と変わりはありません。
想像上の動物を具体的に表現する時に、実在する動物のイメージに引きずられることは、ごく自然のことでしょう。
古今東西の神獣・幻獣の多くが、実在の動物のパーツを組み合わせたものになりがちなのも、理由は同じことだと思います。

≪獅子≫も≪狛犬≫も、身近にいる実在の四足獣である犬に肉付けして表現されたと考えるべきなのであって、≪狛犬≫だけを取り出して、≪獅子≫と別に考える必要はないのではないでしょうか。

狛犬が、ライオンよりも犬っぽい雰囲気を持っているからといって、その起源に犬を持ち出すことは、必ずしも適切なことではないのではないかと、私には思えます。
むしろ、「犬」という文字からの連想で後世になって持ち込まれた、後付けの起源説のように感じられるのです。

2008年6月 4日 (水)

狛犬は犬か―その3

「狛犬=狆」説の妥当性とは別に、筆者の指摘の中で、興味深い点があります。

それは、「日本書紀」の中に『高麗犬』という表現が登場しているというものです。

こちらに書いたように、≪こまいぬ≫という言葉の最古例は延暦二十年(801)、「多度神宮寺伽藍縁起流記資財帳」に見えるものであろうと考えられます。
養老四年(720)成立の「日本書紀」にこの語があるなら、それは≪こまいぬ≫という言葉の最古例であり、また少なくとも≪こまいぬ≫という語自体は、≪狆≫に由来する可能性があることになり、言葉の成り立ちを考える上で重要なことです。

そこで、ワイド版岩波文庫の「日本書紀」を確認してみました。
この版には、読み下し文と元の漢文の両方が収録されているので、どちらとも確認してみましたが、残念ながら『高麗犬』の語は見つかりませんでした。

昨日触れたように、天武天皇の章に新羅からの犬の献上についての記述が三度登場しますが、そこでは『狗』、『犬三頭』、『犬二狗』と表記されていて、『高麗犬』とはされていません。

「日本書紀」は原本は現存せず、複数の写本が残っているという状況なので、筆者が参照したのが、岩波文庫版とは別の写本に基づくものなのかもしれませんし、あるいは斜め読みなので見落としたのかもしれません。

ただ、別の写本に『高麗犬』という表現があったとしても、それが無いものも存在しているのなら、後の時代になって新たに書き加えられたものである可能性があります。
また、斜め読みで見落としたとしても、少なくとも犬の献上についての描写は上記の通りです。

仮に、『高麗犬』が「日本書紀」成立当時からある表現で、狆のような短吻種犬を指す語なのだとすると、これも昨日触れた「続日本紀」の聖武天皇の章にある『蜀狗一匹』との記述はどうなるのでしょう。
筆者は、この記述を狆の伝来の証拠とし、『蜀狗』を短吻種犬と考えています。
「日本書紀」の時点で『高麗犬』という言葉が存在していたのなら、その77年後の延暦十六年(797)に成立した「続日本紀」で、同じ短吻種犬、同じ新羅からの献上品であるものが、『高麗犬』とされていないのは、矛盾したことだと思うのですが。

ちなみに、筆者はこの「続日本紀」の記述を元に「狛犬発祥物語」という文章を書いておられますが、『蜀狗一匹』と記載されているものを勝手に「牡と牝のつがい」にしてしまっています。
また、「続日本紀」には、この『蜀狗』の死についての記載はなく、もちろん、それを悲しんで像を作らせたとの記載もありません。

なお、同じ文章で「狛」という字の起源を、狆に求めているのは、ナンセンスというものでしょう。
それこそ、「日本書紀」に既に『出雲臣狛』などの人名が登場していますから、それだけでありえない話なのはわかります。

私が検証のために確認したのは「日本書紀」と「続日本紀」だけですので、それ以外に根拠とした文献があるのかもしれませんが、それが明示されていない以上、こう判断する他ありません。

結局のところ、「狛犬=狆」説は、文字通り「物語」である、ということになるでしょうか。

2008年6月 3日 (火)

狛犬は犬か―その2

今は存在しない本編サイトの掲示板に、以前、「狛犬の起源は狆である」とする書き込みがありました。
≪狆≫は犬の一種ですから、これもつまりは「狛犬は犬である」とする説です。

詳しくはご本人のサイトをご参照いただくとして、その要旨は「朝鮮から送られた狆を愛玩した聖武天皇が、その狆が亡くなった後、その姿をとどめるために作らせた狆の像が狛犬の起源である」ということです。

確かに、「続日本紀」の聖武天皇の章、天平四年(732)五月十九日の項目において、新羅の使者から献上されたものの中に『蜀狗一匹』が含まれています(参照したのは講談社学術文庫の現代語訳版で原文にはあたっていない)。

また、筆者も触れているように、「日本書紀」(参照したのは岩波文庫版)を見ると、これより前の天武天皇の章に朝鮮半島からの犬の献上についての記述があります。
筆者はそのうちの一度しか言及していませんが、確認した限りでは下記の三度献上されています。

天武天皇八年(679)十月甲子(十七日)に、新羅の使者から贈られたものの中に『狗』が含まれています。
天武天皇十四年(685)五月辛未(二十六日)に、やはり新羅から『犬三頭』が贈られています。
朱鳥元年(686)四月戊子(十九日)にも、新羅から『犬二狗』が贈られたことが記載されています。

これらの犬の献上が、わざわざ記録に残されたからには、これは当時の日本にはいなかった短吻種犬(狆のような顔の詰まった犬種)であるとする筆者の考えは可能なものではあろうと思います。

しかし、仮にこれらの≪狆≫と思われる犬をモデルにした像が当時存在したとしても、それだけでは狆の像が後に狛犬に置き換わったことを述べているに過ぎず、狆が狛犬に変化したとは言い難いのではないでしょうか。

そもそも、狆の渡来より前に仏像に伴った獅子像が伝来しています。
愛玩動物である≪狆≫と、神聖なものの守護獣である≪獅子≫と、どちらがより狛犬的かと言えば、やはりそれは獅子でしょう。
したがって、日本的な狛犬の成立については、獅子像から直接に起こったと考える方が自然で、狆を持ち出す必要はないと思われます。

また、狆とライオンと狛犬の特徴を比較して、狆と狛犬の類似性を述べておられますが、その場合比較の対象とするべき狛犬は、古例であればあるほど良いはずであり、同時に、狆が狛犬に変化したとするなら、古例であるほど狆に近い姿をしているということになるはずです。
しかし、平安時代の古例と目される狛犬は、必ずしも鼻面が短いとは言えません。
少なくとも、狆のように潰れた顔ではありません。
何しろ、カナダ人もライオンだと思ったくらいですから。

また、狛犬は本来≪獅子≫と≪狛犬≫が対になったものですが、獅子は獅子が起源で、狛犬は狆が起源とするには、実際に現存する狛犬像で対になった左右の神獣の間に造形的な差がないという問題もあります。
確かに、犬っぽく見えるものも存在しますが、その場合、獅子もそのように作られています。
つまり、獅子自体を、そういう犬っぽいものとして捉えているわけで、狛犬だけを取り出して、狆に似ていると言っても、説得力がありません。

もっとも、現存する狛犬で、年代の特定出来ている平安時代のものはなく、概ね10世紀以降のものと考えられていますから、狆の伝来時期とは少なくとも200年ばかりずれています。
その意味では、そもそも狛犬の古例と狆を比較しても意味がないのかもしれません。

2008年6月 2日 (月)

狛犬は犬か―その1

≪狛犬≫は、「犬」の文字が使われているため、犬と混同されがちです。
そうした事例として、こういう話を取り上げたこともあります。

私自身は、ここまで、ごく曖昧に≪こまいぬ≫とは架空の生物で、「≪高麗≫すなわち外国の≪犬≫のような動物」を意味している、という把握の上に立ってきたわけですが、当然、狛犬の起源説の中にも、≪犬≫を字義通りにとって、狛犬は犬であるとするものも存在します。

孫引きになりますが、江戸時代の文化元年(1804)にまとめられた「狛犬考」という書物に、白井宗因の説として

高麗犬は此犬也、其義見記、王室今尚有銅犬、而諸社階除、置獅子者非也

とか、

コマイヌハ、高麗犬也、然ルヲ獅子ノ形ニ非也

という文章が出てきます。
つまり、狛犬は犬であって、獅子の姿に作るのは間違いだ、というわけです。

白井宗因は江戸時代初期の上方の神道家で、「神社便覧」や「神社啓蒙」といった著書があるそうです。
この人は、強い廃仏思想の持ち主だったようです。

白井宗因自身の原典にあたっていないので、前後の文脈は不明です。
しかし、白井宗因の廃仏思想をもっていたということから判断すると、この「狛犬=犬≠獅子」説は、神道と仏教を切り離すため、仏教との関係性が深い獅子と狛犬を無関係のものとしたいという意志が込められているように感じられます。

白井宗因が何を根拠としているのかわかりませんが、「狛犬考」でも否定的な取り上げ方をされており、牽強付会な説のように思われます。

2008年6月 1日 (日)

狛犬の起源説

ここまで、現存する狛犬を元にして狛犬を定義し(「狛犬の定義」)、それをライオンを源流とするものとして、古代オリエントから東アジアへのライオンの図像の伝播と(「狛犬の源流」・「東方へのライオンの伝来」)、日本に伝わった獅子が狛犬としてどのように発展していったか(「狛犬の歴史」)について概観してみました。

これは主に、形状に基づき、考古遺物などの具体的な物的資料をたどって、ユーラシア大陸全体に見られる≪ライオン文化≫の一つの流れとして、ユーラシア大陸の中の日本という巨視的な位置付けから概観してみたものです。

それに対して、この章では、日本において、狛犬をどういうものとして把握してきたのかという点について見てみます。

故に「狛犬の起源」ではなく「狛犬の起源説」とカテゴリーのタイトルをつけました。

日本人は、狛犬の起源はどういうものであると考えてきたのか、なぜそれを受け入れ、狛犬というものを作り出していったのか。

それを確認してみたいと思います。

・狛犬の正体は何の動物なのか?

・狛犬はどのような由来で存在しているのか?

この二つの切り口から、狛犬の起源説を見ていきたいと思います。

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