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2008年7月

2008年7月30日 (水)

権現様

先日、獅子頭の古例を紹介した際に「なお、鎌倉時代末期から獅子頭の遺存例が増えることには、信仰に関わる別の理由が存在していると考えられますが、それは後で別項を立てたいと思います」と書きました。

それが権現様信仰です。

町田市立博物館の図録「獅子頭―東日本を中心に―」(1996年)に収録された『獅子の芸能』(山路興造)という解説文によると、権現様信仰は獅子舞の持つ魔を払う力を修験者が利用して民間信仰に持ち込んだものだと言います。

中世に東北で活動した紀州熊野系の山伏が、神の依り代として獅子頭を≪権現様≫と称して崇め、熊野信仰を広めるにあたって、この権現様で舞を行い、祈祷を行ったのだそうです。
そう言えば、背中に獅子頭の入った箱を背負って歩く熊野修験を描いた絵を見たことがあります。

この権現様信仰は、東北で獅子舞のことを権現舞と呼ぶ例があるように、舞を伴うものであったはずですが、次第に獅子頭そのものへの信仰へと変化していきます。

雑誌『日本の石仏 120号』(2006年冬号)の特集「珍しい石仏120」の中に「権現様」が出てきます。
それによれば、岩手県盛岡市周辺の山では、山中に石造の獅子頭を祀っているところが多数存在するのだそうです。
当然のことながら、石で出来た獅子頭は獅子舞には使用できません。
獅子頭自体が信仰の対象であることの証左でしょう。

「病の信仰と・伝説」(松田義信 東洋出版 2001年)には、山形県西村山郡西川町稲沢の獅子の口諏訪神社にまつわる信仰が紹介されています。
この地方では、頭の病は「鍋かぶり地蔵」(寒河江市)、腹の病は「ドジョウ観音」(山県市)、腰から下の病は「獅子の口様」と言われ、婦人病やいぼ(痔?)・脱腸を患っている人は、この諏訪神社で「おかぐら」と呼ばれる獅子頭を授かって来てお供えすると平癒するとの伝承があるのだそうです。

この「おかぐら」は、同書の写真図版を見ると、獅子頭のミニチュアのようです。
そうした、獅子頭のミニチュア玩具は、これ以外にも存在します。

「日本の郷土玩具」(斎藤良輔 未来社 1962年)では、山形県の酒田ジシや埼玉県の鴻巣練物の弓ジシなど、日本各地の郷土玩具の中に獅子頭が存在していることを紹介しています。

郷土玩具は、現在のオモチャと違い、一種の縁起物であり、民間信仰の一形態でもあります。
そうした郷土玩具の多くは近世以降に広まったものと考えられます。
時代が下がるにしたがって、より一層庶民化していく様子がうかがえます。

それに比べると、狛犬は、それ自体に対する信仰は≪足止め信仰≫が目立つくらいで、上記の獅子頭に対するもののように本格的かつ広範な信仰は見られません。

このあたり、起源を同じくしながら、獅子頭と狛犬でなぜこんなに差が出来てしまったのかと、不思議な気がします。

2008年7月29日 (火)

狛犬と獅子舞――まとめ

以上をまとめてみます。

1)舞楽の≪狛犬≫は、その頭に角があるのかどうかということも含めて、実態ははっきりとしない。

2)通常は舞楽の≪狛犬≫が調度の『狛犬』に先行するものとして、『獅子』『狛犬』の組み合わせは舞楽に由来すると考えるが、≪獅子≫舞と≪狛犬≫舞は行幸の時のみ特別に番となる非正規の組み合わせであることを念頭に置けば、調度から舞楽への影響ということも考慮するべきではないか。

3)獅子舞の≪獅子≫と調度の『狛犬』の姿を比較してみると、『狛犬』と同じ木彫である獅子頭は、狛犬よりデフォルメされてはいるが共通する特徴を持っている。しかし、全身の姿として考えると、日本の『狛犬』よりは、中国の獅子との共通点が多いように思われる。

長々と書き連ねてきましたが、まとめてしまうと、こういうことになります。

結局のところ、≪狛犬≫がいつ頃どのような形で成立したのか、ということがはっきりしない以上、推論にも限界があります。
もちろん、対する『狛犬』の方の成立が明確でないことも、何がしかの結論を導き出すことを不可能にしています。

狛犬に関心を持って古文献の調査をする人が増えれば、今回取り上げたもの以外の、まだ知られていない文献が見つかるかもしれません。
獅子頭や『狛犬』の未知のものが見つかる可能性は、低いとは思いますが、皆無ではないでしょう。

今はそうした発見を待つしかないのかもしれません。

2008年7月28日 (月)

獅子舞と中国獅子

(2)(3)で取り上げたたてがみ他の植毛のことですが、遺存している獅子頭に植毛痕があることから予測できることです。
しかし、長めの直毛であるという点は遺存例からはわかりませんでした。
調度の『狛犬』でも、直毛主体のたてがみを持つ例はあります。
ただ、完全に直毛のみのものはあまりなく、どこかに巻毛が含まれます。
特に、下顎のラインに沿った衿状の毛には、たいてい巻毛が混じります。

その点では、直毛しかない獅子舞と『狛犬』には差があります。

次に、(5)の「背中に毛がある」ことについて。

現在見られる獅子舞では、一部を除いて胴体は毛のない布(緑地に唐草模様が広く見られる)を用いていますが、この「年中行事絵巻」のものには毛があります。
しかし、よく見ると、毛は身体全体は覆わず、どの獅子舞も被っている布の端が見えています。
また、毛は、頭部から尻尾までつながる帯状の部分から左右に垂れ下がる形になっています。

これはもしかすると、体毛を表しているのではなく、たてがみの一部なのではないでしょうか。

というのも、中国の獅子像には、このように背筋に沿って尻尾まで続くたてがみというものがしばしば見られるのです。
古い時代のものは実物を見ていないため背中の様子がわかりませんが、実見したことのある比較的新しい時代のものでは、少なくともそのようなたてがみが見られます。

一方、これは『狛犬』にはまったく見られない特徴です。

(6)の「小ぶりの尻尾」ですが、このようなシンプルで小さい尻尾というのは、やはり『狛犬』には見られないものです。
そして、これも時代の新しいものとの比較になりますが、中国獅子では、主に北獅において、尻尾を小さく作って強調しない作風というものが見られるのです。

この(5)(6)の特徴は他の資料でも見られます。

町田市立博物館の図録で取り上げている「北野天神縁起絵巻」は室町時代のものですが、そこに描かれた獅子舞は、顔の感じは異なるものの(5)(6)の特徴を持っています。
2001年に開催された「天神さまの美術」展(東京国立博物館他)の図録には、成立年代は室町時代から江戸時代と「年中行事絵巻」より下るものの、複数の天満宮の「縁起絵」が掲載されており、そこでも確認できます。

ちなみに「天神さまの美術」展の図録に掲載された大阪天満宮所蔵の「天神縁起絵」に描かれた獅子舞は、有角と無角の2頭が神輿の前を並んで進んでいるように描かれています。
しかも、獅子頭はともに赤であるものの、胴の布は桃色(有角)と青(無角)になっています。
これは江戸時代の作品ですが、何に基づいてこのように描いたのか興味深いところです。

閑話休題。

以上から言えることは、同じ木彫である『狛犬』と獅子頭には、獅子頭の方が極端にデフォルメされているものの共通した特徴が見られるが、獅子舞の全身像となると、『狛犬』よりも中国の獅子像により近い部分がある、となるでしょうか。

いずれにせよ、舞楽の≪狛犬≫と調度の『狛犬』の関係は、一方が他方に転じたというような単純なものではないことは間違いないでしょう。

2008年7月27日 (日)

獅子舞の全身像

以上のように、獅子頭については遺存例からその特徴を確認することが出来ます。

ただ、遺存している獅子頭でも、痕跡からたてがみ、眉、ヒゲに何らかの毛が植え込まれていたことはわかりますが、それらの毛はわずかしか残存しておらず、全体としてどのような形状だったのかまではわかりません。
また、胴体に関しては何らかの被り物をしたはずですが、現存していないようで、全身像は不明です。

そうした現物資料からは確認できない点について、しばしば参照されるのが、「年中行事絵巻」です。

平安時代末期に成立した原本は既に失われているようですが、多くの模本が残っています。
以下リンクをつけてあるのは、京都大学図書館がweb上に公開しているものです。

この京都大学文学部所蔵のものからは、都合10頭の獅子舞が発見できました。

まず、巻七の『稲荷祭』の部分に8頭が描かれています。

・楽器を持った人物たちとともに待機しているような2頭の獅子(a・b)
・一団の人々の前で踊る1頭の獅子(c)
・纏のようなものを掲げた列の前を行く5頭の獅子(d・e・f・g・h)

そして、巻十一の『祗園御霊会』の部分に2頭です。

・矛のようなものを持った一団の前で踊る1頭の獅子(i)
・矛のようなものを持った一団の後、神輿の前方で踊る1頭の獅子(j)

これらのうち(c)は、獅子頭の眉・上下の唇・鼻を特に黒くしています。
これは伊奈冨神社の獅子頭の彩色とよく似ており、この絵巻の正確性に対する信用度を高めてくれます。

なお、京都国立博物館の図録「獅子・狛犬」では、別の模本をもとに、(d)~(h)のうちの1頭に角があるとし、それを無角の『師子』と有角の『狛犬』としています。
確かにそちらに掲載された図版(どの模本のものか明記はない)では角があるように見えますが、こちらの京都大学文学部所蔵本では、角ははっきりしません。

さて、これら10頭の姿ですが、細部には違いがわずかに見られるものの、おおむね同様な姿をしています。
その特徴を以下に挙げてみます。

1)二人立ち。
2)たてがみは植毛されていて、直毛。たてがみの中に御幣が混じっている。
3)眉、上顎、下顎に植毛されている。直毛。ものによって植毛されている部分は同じではなく、有無もあるが、この部分にまったく植毛が無いというのは(i)だけ。
4)耳はすべて立耳。
5)背中に毛がある(『稲荷祭』のものはすべて2段だが、『祗園御霊会』のものは1段)。直毛。
6)尻尾はからだ全体にくらべると小ぶり。根元を束ねた直毛。

(1)は文献からもそう判断できます。
また、(4)は獅子頭の遺存例から、おおむね確認できる範囲であり、既に触れています。

それ以外の点については項を改めて、検討してみます。

2008年7月26日 (土)

獅子頭と『狛犬』――その3

形状ではありませんが、獅子頭の彩色を見ると、『狛犬』と異なり赤が大胆に用いられているという特徴があります。
狛犬でも、口の中や鼻の部分に赤い彩色が残っているものがあり、その部分を赤くしていたのであろうことはわかります。
しかし獅子頭ではその他に、目の周りや耳の内側にも赤が使われています。

伊奈冨神社・津波倉神社などは、むしろ赤が全体の基調をなす色となっています。

さて、獅子頭と『狛犬』で、もっともよく似ている部分は上唇から鼻にかけての形状ではないかと思われます。

つまり、それは

  • 上唇が大きくうねっている。
  • 上唇の真中でそのうねりが角度をつけてぶつかっていて、そこから唇が割れているような感じになっている。
  • その上唇が割れている先端部分の真上に正面から見てスペードもしくはクローバー型の鼻が乗っている。

というものです。

その結果、当然ながら鼻が顔全体の一番前に出ている格好になります。

眼の形状の時と同様、獅子頭の方が表現が大袈裟になっていますが、獅子頭が口を開閉する以上、それはおかしなことではないでしょう。

この上唇から鼻にかけての形状は、獅子頭では風流系獅子の一部を除けば、ほぼ全て見られますし、調度の『狛犬』、つまり神殿狛犬もそれは同様のようです。

これが猛獣を表すお決まりの表現方法なのでしょう。

そう考えると、花尾八幡宮の獅子頭は、非常に特異なものと言えます。

口先が割れたり捲れ上がったりすることなく、なかばクチバシ状に前に突き出し、鼻が後ろに下がっているのは、この獅子頭だけです。
ちなみに、リンク先には獅子頭の写真が2点ありますが、目の釣り上がった方がここで取り上げている元亨二年(1322)銘のもので、目の丸いもう一つはこれと対とされる無銘のものです。
無銘のものの方は、やや唇が捲れ上がっていますが、鼻が後にある点は同じです。

こうして明らかに違っていると、角の問題同様、これは同じ獅子頭としてよいのか、考えてしまいます。
≪獅子≫舞とは別の舞の頭なのではないかという気がしてきます。

それとも、それは単なる考え過ぎで、他とは違う系列の工人が作ったというだけのことなのでしょうか。

ちなみに、角のことで触れた伊奈冨神社のものも、この花尾八幡宮のものも、銘文には奉納した年銘はあるものの、これが獅子頭なのか、そうではないのかなどの明記はありません。

残念なことです。

2008年7月25日 (金)

獅子頭と『狛犬』――その2

次に目を見てみます。

獅子頭では、目が非常に強調されています。

眉間側が幅が広く、目尻側で閉じる、膨らんだ三角形の輪郭の中に、丸く膨らんだ眼球がある、あるいは輪郭全体を埋めるようにアーモンド形に膨らんだ眼球がある、という形状自体は調度の『狛犬』とも共通しています。
しかし、獅子頭は『狛犬』に比べて、顔のバランス全体の中で目が大きくデフォルメされています。

それだけでは足りないのか、御調八幡宮花尾八幡宮のものでは、瞳の部分に銅板が貼り付けられています。
いまはくすんでいますが、本来は銅鏡のごとく輝いていたのでしょう。
舞い踊る度に目がピカピカ光ったに違いありません。

現存する古い『狛犬』ではこの技法は見られません。
逆に、鎌倉時代以降の狛犬に見られる≪玉眼≫の技法は獅子頭には見られないようです。

≪玉眼≫とは、「両瞼の間を内えぐりに達するまで貫いて、内側から眼よりやや大きめの薄く磨いた水晶をあて、瞳や目尻、目頭のくま、あるいは血管まで絵具で彩り、錦をあてがい、全体を木で押さえる技法」(「狛犬事典」より)です。
激しく動かすものには向かない技法とは言えるでしょう。

金属板と言えば、獅子頭の場合、歯のかみ合わせの部分に鉄板を貼っているものがあります。
踊る時に、口を開閉して、歯をカチカチと打ち鳴らすのでしょう。
正倉院のものにも既に見られ、防府天満宮のものにも残っています。

調度である『狛犬』には不要のものです。

『狛犬』と言えば角です。
古い『狛犬』でも、どちらも角の無い『獅子』を1対にしたものも存在しますが、やはり、基本的には角が欲しいところです。

例示した古い獅子頭のうち、法隆寺と伊奈冨神社のものに角があります。

このうち法隆寺のものは対で、一方の頭上には角があり、他方には宝珠があるという、後年の獅子頭や参道狛犬に見られるパターンを先取りしたものとなっています。
ただ、この角と宝珠は後補とされます。
その後補の意味は、もともと角と宝珠はあったが、現在のものは後に補修されたものだ、ということなのか、もともとは無かったものを後から補い足した、ということなのか、よくわかりません。

伊奈冨神社のものは、本体から彫り出された角で、元から存在したことは確かなようです。
ちょんまげのように頭に張り付いた枝角です。

江戸時代より前の獅子頭で角があるものは少ないようで、町田市立美術館の図録ではこれら以外には富岡美術館所蔵の貞和三年(1347)銘のものしか挙げられていません。

そもそも文献との対応関係からして角のあるものを≪獅子≫頭と呼んでよいものなのか、「蘇芳菲」や≪狛犬≫である可能性はないのか、などと考えてしまいます。

2008年7月24日 (木)

獅子頭と『狛犬』――その1

例に挙げた古い獅子頭の外見上の特徴を見てみましょう。
そして、同時に、それを調度の『狛犬』と比較してみたいと思います。

資料の参照元である町田市立博物館の図録の解説(田邊三郎助)では、獅子頭には外形上二系統があるとしています。
全体がヘルメットのようにカサ高のものと、扁平なものです。

≪カサ高≫系統は法隆寺・伊奈冨神社・津波倉神社・防府天満宮、≪扁平≫系統は御調八幡宮・丹生神社としています。
これに従うならば、例示したもののうち言及のないものは、知立神社・須波阿須疑神社は≪カサ高≫系統、真木倉神社・諏訪神社(山梨)・諏訪神社(岐阜)・花尾八幡宮・熊野座神社が≪扁平≫系統になります。

この二系統は何を意味するのでしょうか。
製作した工人の流派なのでしょうか。
それとも、舞が異なるのでしょうか。
それはよくわかりません。

『狛犬』にこうした二系統が見られるでしょうか。
東寺のものは≪カサ高≫に見えますが、大宝神社のものは≪扁平≫に見えなくもありません。
ただ、曖昧なもので、はっきり分けられるようなものではなさそうです。

次に耳を見てみます。

調度の『狛犬』の場合、対をなす左右で耳の形状を異にする場合があります。
鎌倉時代以降は阿像が垂耳、吽像が立耳に統一されていくようですが、それ以前ではそれが逆であったり、左右ともに同じだったりと、それぞれで違います。

獅子頭ではどうでしょうか。

正倉院のもので写真のある1点は、耳が極端に大きい立耳です。
『狛犬』では、こういうバランスのものは見られません。

正倉院のものは耳がしっかり固定されているようですが、例示したもののうち、これ以外は別材で作った耳を穴に差し込んだだけで、可動式になっているものが多いようです。
そのため、耳が失われているものが多く、耳の状態が分るのは法隆寺・伊奈冨神社・真木倉神社・津波倉神社・防府天満宮・知立神社・須波阿須疑神社のものだけです。
このうち津波倉神社・防府天満宮だけが垂耳で、あとは立耳になっています。

真木倉神社のものは、ウサギのように細長い立耳で、これも『狛犬』には見られないタイプですが、獅子頭では後年のものでわずかながら類例が見られます。

例示したもののうち、対になっているのは法隆寺だけで、これはいま触れたようにどちらも立耳になっています。
一方、防府天満宮の獅子頭は、実は修理された正平十年(1355)に、同時にこれを模して新たに作られた獅子頭が存在し、これと対のものとして扱われてきました。
そちらは立耳になっており、この獅子頭は立耳と垂耳の組み合わせになっています。

ちなみに、町田市立博物館の図録のカラー図版(リンク先の写真と同じもの)では正平十年(1355)修理の方の耳は立てたような状態で写真が撮られていますが、耳の形は、明らかに途中で折れており、垂耳が本来の姿だと思われます。
事実、解説文の方に付された別アングルからの写真では耳は垂耳となっています。
可動式の耳のため、踊りの中でカラー図版のような位置に動かすこともあるのかもしれませんが、基本的には垂耳であろうと思われます。

それはさておき、南北朝の頃にこういう立耳と垂耳の組み合わせが見られるというのは、どこか『狛犬』と歩調をあわせているようにも感じられます。

2008年7月23日 (水)

獅子頭の古例

以上のように、舞楽の≪狛犬≫の実態は、正確に把握することが出来ません。
ただ、「蘇芳菲」を含めて考えることで、≪狛犬≫も広義の獅子舞の一種で、頭や被り物を含めた外観の形態上、≪獅子≫とあまり大きな差はなかったであろうと推測することは許されると思います。

一方、調度の『狛犬』は、狭義の『狛犬』と『獅子』の組合せが正式のものとされつつも、『狛犬』と『獅子』の間には、角を除けば大きな差はないということが、現存資料から確認できます。

ということであれば、獅子舞の外観と調度の『狛犬』の姿を比較してみることは、無意味なことではないでしょう。

そこで、以下、その点を見ていきたいと思います。

それについては、狛犬の成立に関しての考察ということが前提ですので、『狛犬』、獅子舞とも初期の古い資料を対象にしたいところです。

『狛犬』に関しては、以前、「狛犬の歴史」の章で古い時代のもの列挙しました

ここでは、まず、獅子頭の古例を列挙したいと思います。

○奈良時代
正倉院 9点=天平勝宝四年(752)の大仏開眼会に使用と推定

○平安時代
・法隆寺 1対
御調八幡宮(広島) 1点

○鎌倉時代
・日置八幡宮(愛知) 建長四年(1252)*
・伊奈冨神社(三重) 弘安三年(1280)
・丹生神社(広島) 正安三年(1301)
・真木倉神社(岐阜) 嘉元三年(1305)
諏訪神社(山梨) 嘉元三年(1305)
諏訪神社(岐阜) 嘉元四年(1306)(リンク先では4月15日の項目を見てください)
花尾八幡宮(山口) 元亨二年(1322)
津波倉神社(石川) 元亨二年(1322)
・熊野座神社(熊本) 嘉暦三年(1328)
防府天満宮(山口) 正平十年(1355)修理

図録「獅子頭―西日本を中心に―」(町田市立博物館 1997年)の解説文に列挙されているものから、鎌倉時代までのものを並べてみました。
(*:日置八幡宮に関しては新聞報道に基づく)
この他、年銘はないものの鎌倉時代のものとして知立神社(愛知)と須波阿須疑神社(福井)のものも図録には掲載されています。

なお、ここでは省きましたが、南北朝・室町時代以降の獅子頭は数多く現存しています。

文献上に残る記述と比べて、奈良・平安時代の資料が、非常に手薄に感じられます。
『狛犬』も決して多くは残っていませんが、それと比較してもわずかです。

これは結局、獅子頭は実際に儀式や祭礼で使用されるため、消耗、破損してしまうためでしょう。
もちろん、貴重品ですから、極力補修しながら用いたでしょうし、使われなくなっても保管はしていたのでしょうが、儀式や祭礼が連綿と続いていく以上、現役の獅子頭の方が重視されるのは致し方のないことでしょう。

ちなみに、鎌倉時代末期から獅子頭の遺存例が増えることには、信仰に関わる別の理由が存在していると考えられますが、それは後で別項を立てたいと思います。

2008年7月22日 (火)

≪狛犬≫と「狛龍」

さらなる泥沼にはまり込んでみましょう。

「蘇芳菲」と「別番様」である「狛龍」ですが、「教訓抄」では

乗小馬形二人舞之。

とあります。
また、昨日触れた「雑秘別録」の

右にこまがたをつくりて。人のりたるやうにて。

との記述にある「こまがた」は「駒形=小馬形」であり、「狛龍」は馬に乗っているような格好で舞うようです。
ということは、その馬こそが「狛龍」ということになるのでしょう。

ところで、舞楽の≪狛犬≫の正式な番舞は、記録を見る限りでは「還城楽」であろうと、先日書きました。
その「還城楽」について、「舞楽小録」(1313年成立)には、こう書かれています。

還城楽。(略)答舞。落蹲。

つまり、番舞は「落蹲」であるというわけです。

この「落蹲」について「枕草子」の二〇五段に

舞は駿河舞。求子、いとおかし。太平楽、太刀などぞうたてあれど、いとおもしろし。唐土に敵どちなどして舞ひけむなど聞くに。
鳥の舞。抜頭は髪振上げたるまみなどはうとましけれど、楽もなほいとおもしろし。落蹲は二人して膝踏みて舞ひたる。こまがた。

という記述があります。
これに従うならば、「落蹲」は「こまがた」であると言うことになります。

≪狛犬≫の番に舞われる「還城楽」の番舞は「落蹲」で、それは「こまがた」、すなわち「狛龍」である、という尻取りのようなつながりが出来上がります。

では、≪狛犬≫は「狛龍」なのでしょうか。

「狛犬の原像について」(「日本古代国家の展開 上」所収)の筆者である坂元義種氏は、その可能性を指摘しておられます。
≪獅子≫≪狛犬≫が番になっているのは、「蘇芳菲」と「狛龍」の番が起因になっているとして、

なによりも蘇芳菲は師子であったし、狛龍と狛犬は「狛」を共有し、しかもともに獣と関係があったのである。

そこで「蘇芳菲」と「狛龍」の組合せが≪獅子≫と≪狛犬≫に転化した、とのお考えです。

しかし、「蘇芳菲」を「師子」に、「狛龍」を「狛犬」に置き換えるには、角があるのは「蘇芳菲」の方で、それでは獅子というより狛犬ですし、「狛龍」は上述のように馬で、しかも馬の被り物をするのではなく、乗るのですから、狛犬にも獅子にも遠い気がします。

どうにも無理を感じます。

ただ、「教訓抄」の「蘇芳菲」の項目には

蘇芳菲ノ作法。事外違タリ。然者。古キヲ正説トスヘシ。

とあり、「狛龍」でも

此舞之舞之体。古記ニハ頗相違シタリ。

と書かれていますから、「教訓抄」が成立した13世紀の時点での実態が、古くから伝えられているものとは変化してしまっていることは間違いないのでしょう。

結局のところ、文献を渉猟して見ても、決定的なことは籔の中で、混乱していくばかりです。

収拾もつかないので、そろそろこのあたりにしておこうと思います。

2008年7月21日 (月)

「蘇芳菲」と≪狛犬≫――その2

≪獅子≫舞は現代にも伝わっていますから、その姿はわかります。

一方、≪狛犬≫舞は現存しないため、どのようなものかは分りません。
先日「教訓抄」などの記述を取り上げましたが、≪二人立ち≫で口取りを二人伴なうことは分りますが、≪狛犬≫頭がどのようなものかは不明です。
角がある、あるいはその痕跡がある≪獅子≫頭は現存していますが、それを≪狛犬≫と結びつけるのは、結局のところ調度の『狛犬』からの推測であって、その推測が正しいのかどうかは明確ではありません。

「蘇芳菲」も、現代には伝わっていないようです。
ただ、「教訓抄」から、獅子のような姿で、頭上に角があり、子を二人伴なうことが分ります。
しかし、≪一人立ち≫か≪二人立ち≫かは明記されていません。

この≪獅子≫≪狛犬≫「蘇芳菲」の三者の関係はどのようなことになるのでしょうか。

「教訓抄」には、「蘇芳菲」について、昨日触れた以外に、このようにも書かれています。

此曲五月節会。舞御輿之御前。是従弘仁初。競馬行幸奏之。対右狛龍。(小馬形乗。)

つまり、「蘇芳菲」も行幸の行列の前で舞われるものなのです。

同様の事は、「雑秘別録」(1227年成立。「続群書類従」所収)の「蘇芳菲」の項目にもあります。

五月会に武徳殿のこ五月くらべ馬の行幸の御こしのさきに。左にししがしらをかづき。右にこまがたをつくりて。人のりたるやうにて。二行にたちて。左にはそはんび(蘇芳菲)。右にはこまりよう(高麗龍)をふきて。まふよしする也。

ところで、このどちらにも、「蘇芳菲」とともに「狛龍」という演目が舞われています。

実は、「教訓抄」では「別番様」として≪獅子≫≪狛犬≫とともに「蘇芳菲」と「狛龍」も挙げられています。
つまり、常の番舞ではないけれども、行幸の際には番にするということで、そのあたりも、≪狛犬≫と非常によく似ています。

ただし、今のことからも分るように、≪狛犬≫と「蘇芳菲」は、明確に別の舞楽と認識されています。

しかし、「龍鳴抄」(1133年成立。「続群書類従」所収)という史料では「蘇芳菲」について

拍子九。新楽。まひのていこまいぬににたり。二あり。くらべむまの行幸に是をす。船楽にもするによりて。日記に古楽としるしたり。それによりて。世の人これを古楽といふ。もし古楽にあぐる時にはこころあるべし。はじめの拍子をおきて。つぎよりあぐ。

と書いています。
当時の人から見ても「蘇芳菲」と≪狛犬≫は類似していたわけです。

「狛龍」はとりあえず別として、行幸の前で舞われる≪獅子≫≪狛犬≫「蘇芳菲」の三者は、合い似たものであったのでしょう。
つまり、基本的にはいずれも≪獅子≫舞で、伴奏の音楽こそ違えど、姿としては角の有無など、比較的差が少ないものであったのでしょう。

2008年7月20日 (日)

「蘇芳菲」と≪狛犬≫――その1

話を少し変えます。
この先は蛇足のようなものですが、≪狛犬≫舞と≪獅子≫舞に関係を持ちそうな話題をいくつか取り上げてみます。

上杉千郷先生の「狛犬事典」の第11章の4『行幸の先払いをする獅子舞』の項目に、ある図版が掲載されています。
古代の舞楽を論じる際によく参照されるものに「信西古楽図」というものがあります。
その中のある絵をあげて、このようにキャプションが付されています。

舞楽「狛犬」の図 「蘇芳菲」ともいわれる(『信西古楽図』)

実は、「信西古楽図」のここに挙げられている部分には舞の演目が書かれていません。
ただ、頭上に枝角があることから、多くの論者がこれを≪狛犬≫舞を表した図と考えてきました。
しかし、「教訓抄」に記載された「蘇芳菲」という舞楽の描写が、この図に極めて類似していることから、この図を「蘇芳菲」とする意見もあります。

そのことを指しているのでしょう。

ちなみにその描写とは、

蘇芳菲身。師子姿ナリ。頭如犬頭也。(口細面長。)中実装束如左乗尻装束也。(木帽子。踏懸。糸鞋也。)在子二人。装束如犬。(在面帽子。ハキモノナシ。)
(略)
古記云。(略)此舞体如師子。頭ニ有一角。頭色金色。其身色。詠子二人。面形如出色白。蒙紺帽子。如犬蚑之。

頭に角があること、子を二人伴なうこと、子は履物がない(裸足)であること、などがこの図と一致します。

ただ、すぐにこれを「蘇芳菲」とは言い切れないのは、「信西古楽図」の中には、別に「蘇芳菲」と書かれた図が存在しているからです(リンク先の図の左が「蘇芳菲」とされる図、ちなみに右が「還城楽」)。
そこで、「蘇芳菲」と書かれた図の方は、誤記で、実際は別の舞であるとする説もあります。

「信西古楽図」自体は、日本の古い舞楽の姿を写したものではなく、中国の典籍を書写したものという説が、現在は有力なようです。
だとすると、日本の舞楽とは異なる部分があって当然でしょう。
また、≪狛犬≫が日本で成立したものなら、そこに描かれている可能性は低いということにもなります。

ただ、中国では他の名前で呼ばれていたものを、日本では≪狛犬≫と呼ぶようになったという可能性もあります。

それが「蘇芳菲」なのでしょうか?

2008年7月19日 (土)

舞楽が先か、調度が先か

行幸と舞楽の≪獅子≫≪狛犬≫の関係は、天皇の御座と調度の『獅子』『狛犬』の関係と類似しています。

しかし、舞楽では≪獅子≫≪狛犬≫は番としては非正規のものでした。
それに対して、調度では『獅子』『狛犬』が正規の組合せになっています。

そう考えると、舞楽と調度の関係には、少々すっきりしないものがあります。

ここで発想を変えてみます。

≪獅子≫≪狛犬≫の組合せは、確かに存在するものの、正式な組合せではありませんでした。
にもかかわらず、なぜ≪獅子≫舞と≪狛犬≫舞は番として舞われたのでしょうか。

私には、通説とは逆の考え方が可能な気がします。

つまり、≪獅子≫舞と≪狛犬≫舞が番舞なので調度としての『獅子』『狛犬』が成立した、のではなくて、調度としての『獅子』『狛犬』の存在を前提として、天皇の前を祓う時だけ≪獅子≫舞と≪狛犬≫舞は番として舞われた、と解釈可能なのではないかと思えるのです。

舞楽の≪狛犬≫が、調度の『狛犬』よりも先にあると考えるのは、確認できる最古の≪こまいぬ≫の語の用例が、舞楽にまつわるものだからです。
しかし、最古といっても年代的は、9世紀初頭のことであり、この時点で≪獅子≫と番で舞われたのかどうかは不明です。
番舞としての≪獅子≫≪狛犬≫を記述したと思われる「枕草子」まで200年ほどの時の隔たりがあります。

一方、調度の『狛犬』を、仏像に付随する獅子像に由来すると考えるならば、そうした獅子像の古例は7世紀に遡ります。

とは言え、調度としての≪狛犬≫に、舞楽としての「狛犬」の成立より明らかに古いものが現存していない以上、これは空論でしかありません。

ただ、舞楽の≪獅子≫≪狛犬≫が、正規の番舞であるならば、何もこんなひねくれたことは考えないのですが、そんな非正規な組合せのものが、天皇の前に置かれる調度として正規なものになってしまうのが、どうしても解せないのです。

このあたりは今後の課題としたいところです。

2008年7月18日 (金)

≪獅子≫と≪狛犬≫の番

昨日触れた「教訓抄」ですが、これは、宮中の楽人の家柄である狛近真が宮中の舞楽について詳述した文献です。

その巻七で「別番様」として「師子」と「狛犬」を併記しています。
ちなみに言うと、その直前には「舞番様」という項目があるので、つまり、「獅子」と「狛犬」は正式の番舞ではないけれども、場合によっては番で舞われることもある、ということのようです。

ここには注記があって、

師子 無答。御願供養舞之。
狛犬 相撲節舞之。有別乱声。序破舞。

と書かれています。
併記されてはいるものの「師子」は「無答」となっているのです。
つまり、本来「師子」は番舞を持たないもののようです。

また、さらに、「造物」という項目で、狛近真は「今尾張得業(圓憲)譜」からの引用として

ウチマカセテハ。師子狛犬トソ。ツカヰ侍ヘケントン。師子ノ答ニモ。狛犬不舞。定有由緒歟。

という記述があります。
うちまかせて獅子と狛犬を番にすることもあるが、獅子の答に狛犬は舞わないもので、そこには何か由緒があるのであろう、ということでしょう。

では、獅子と狛犬を番として舞うのは、どういう場合なのでしょうか。

清少納言の「枕草子」には、以下の記述があります。

二〇八段には、賀茂詣での行幸について

還らせ給ふ御輿の先に、獅子、狛犬など舞ひ、あはれさる事のあらむ、時鳥うち鳴き、頃のほどさへ似るものなかりけむかし。

とあります。
「獅子、狛犬など」とありますから、必ずしも番舞だったとは言い切れませんが、行幸から帰る天皇の輿の前で獅子と狛犬が舞われたということを述べています。

また二六二段は、その冒頭に調度としての『獅子』『狛犬』についての描写もありますが、後半には

おはしまし着きたれば、大門のもとに高麗、唐土の楽して、獅子、狛犬をどり舞ひ、乱声の音、鼓の音にものもおぼへず。こは、生きて仏の国などに来にけるにやあらむと、空に響きあがるやうにおぼゆ。

との記述もあります(参照:「枕草子総索引」松村博司監修 右文書院 昭和42年)。
これは、法興院の積善寺で行われる一切経供養への行幸の場面で、≪門≫との結びつきも感じさせますが、獅子と狛犬が行幸に関係があることは確かでしょう。

つまり、舞楽においては本来は番にはならない獅子と狛犬が、行幸=天皇の前では番になるということになります。

これは、天皇の前に置かれる調度としての『獅子』『狛犬』と重なります。

2008年7月17日 (木)

≪狛犬≫舞とは

そもそも、≪狛犬≫舞とは、どのようなものなのでしょうか。

舞楽の≪狛犬≫は、現在は失われており、その実態はわかりません。
それがどのようなものであったかは古文献によるしかありません。

例えば、狛近真「教訓抄」(1233成立)には、≪狛犬≫について以下のように記述されています。

(略)相撲用之。舞欲出之時。先吹乱声。(大乱声。)打毬之時。右方以此為勝負楽。仍毎取球発。舞者二人用。[有龍]〈クチトリ〉二人。(用右近将曹以下府生以上)

〈 〉はルビ、( )は小文字の注です。
伴奏の仕方や舞の手順などは煩雑なので省きましたが、つまり、この舞が行われるのは「相撲」の時と「打毬」の時で、≪狛犬≫は二人立ち、これに「口取り」が二人付き添う、ということです。

また、「舞曲口伝」(1509年成立。「群書類従」所収)では

此ハ打毬ノ時。右方為勝負楽。当代コレモナシ。

とあります。
記述は「教訓抄」を下敷きにしているのでしょうが、遅くとも16世紀までには行われなくなっていたようです。

さて、「舞楽要録」(「群書類従」所収)という文献には、様々な行事にともなって行われた舞楽の演題が記録されています。
そのうち『相撲節(すまいのせち)』の項目には、延長六年(928)から保元三年(1158)までの記録があります。
「教訓抄」の指摘通り、ここに≪狛犬≫の記録があり、右舞として≪狛犬≫が13回登場しています。

その際の左舞が獅子舞ならば話が早いのですが、「還城楽」が9回、「見蛇楽」が2回、「陵王」が1回、番の明記がないのが1回となっています。
「舞曲口伝」によれば、「還城楽」と「見蛇楽」は同じものだということなので、実質的には13回中11回は同じ舞と番だったことになります。
これが「狛犬」の正式な番ということになるのでしょう。

「舞曲口伝」によれば、「還城楽」とは、蛇を好んで食べる西国の人(つまり西域の異国人)が蛇を手に入れて悦ぶ姿を模したものだとされていて、獅子は登場しないようです。
一方、一度だけ登場する「陵王」にも、やはり獅子は関係がないようです。

また、番舞の明記がないものは、≪狛犬≫が単独で舞われたということでしょうが、実は直前に「崑崙」の番として「見蛇楽」が舞われており、≪狛犬≫と「見蛇楽(還城楽)」との結びつきを感じなくもありません。

では、「獅子」と「狛犬」は番舞にはならないのでしょうか。

2008年7月16日 (水)

獅子舞と狛犬舞

狛犬についての疑問に、なぜ『獅子』と『狛犬』という2種類の異なる神獣を一対としているのか、という問題があります。

もっとも、既に触れているように、2種類の異なる神獣を対とするということ自体は、ユーラシア全体に散見することができる現象であって、日本だけに特異なこととまでは言えません。
しかし、なぜ『獅子』と『狛犬』なのか、ということについては、ユーラシア全体で見られると言うだけでは回答になりません。

この問題について考察する際に、必ず通らねばならないのが、舞楽です。

かつての宮中の舞楽の中に≪狛犬≫という演目が存在していたことは、複数の古文献に記述があり、多くの狛犬についての概説書がそのことに言及しています。
そして、その≪狛犬≫舞と≪獅子≫舞が組のものとして並立していたことから『獅子』と『狛犬』が対のものとなった、という考え方があります。

年代がはっきりしている最も古い≪こまいぬ≫という言葉の事例が、舞楽に用いる『狛犬頭』であったことは、既にご紹介しています
そのことから考えても、舞楽の影響で『獅子』+『狛犬』という形式が整えられたと考えることは、妥当なことだと思います。

宮中の舞楽においては「番舞」といって、2種類の舞を一組として交互に演じるという慣習があったようです。
区別としては「左舞」「右舞」と呼んだようです。
舞楽の種類自体には呉楽、唐楽、新楽、高麗楽などがあったようですが、≪狛犬≫は高麗楽に属し、高麗楽は番としては必ず右舞として舞われたようです。

≪獅子≫舞と≪狛犬≫舞は、「番舞」であり、≪獅子≫舞が「左舞」、≪狛犬≫舞が「右舞」として演じられたことから、『獅子』と『狛犬』が一組となり、しかも天皇から見て左に『獅子』、右に『狛犬』を置くようになった、というのが、狛犬の成立について、よく行われる説明です。

しかし、具体的に見ていくと、話はそこまで単純でもないようです。

そこで、以下に詳しく見ていきます。

2008年7月15日 (火)

風流系獅子舞

古野清人「獅子の民俗」(岩崎美術社 1968年)には、風流系獅子舞の由来記の内容がいくつか記録されています。
風流系獅子舞は、そうした秘伝の由来記を持つことで、意識的に伝承されたという側面を持っているようです。
また、いくつかの流派があり、由来記にも何種類かの系統があるようです。
由来記には、その源流を10世紀あたりに置くものもありますが、それは伝説であって、実態を表してはいないでしょう。

そうした中の、栃木県河内郡羽黒村関白(現・宇都宮市)に残る関白流の「天下一関白神獅子開起由来記」の内容が紹介されています。

奥州の親分・蔵宗と蔵安が略奪等の狼藉を働くので、民が都に訴え出たところ、延喜十二年(912)に藤原利仁が鎮守府将軍として討伐にやって来た。
官軍は激戦の末、賊を打ち破るが、都に帰還しようとしたところ藤原利仁が病死してしまう。
腹心の青木角太夫と青木左近将監一角は、やむなく亡骸を埋葬しようとした。
ところが一天掻き曇って暗夜のようになってしまった。
そこで、「宇宙の麒麟に象って首を三つ刻み」、これを家臣に冠らせ舞わせたところ、たちまち雲が晴れて、晴天白日となった。

この他、まだ細かいことが書かれていますが、問題は風流系獅子舞の頭について麒麟を象ったものと説明していることです。

先日、≪狛犬=麒麟≫説に触れました。

江戸時代に普及したと考えられる風流系獅子舞の、したがってこれもまた江戸時代に書かれたであろう由来記に、獅子頭の原形を麒麟とする説明がなされているというのは、私には興味深いことに感じられました。

ところで、風流系獅子舞の特徴は≪一人立ち≫ということです。
やはり一人立ちで演じる鹿踊りや大道芸として知られる角兵衛獅子もこの系譜にあるとされます。

こうした≪一人立ち≫の獅子舞の一種と考えられるものに新潟県の弥彦神社の『天犬舞』があります。

「弥彦神社の舞楽」というパンフレットによると、この天犬舞は9歳前後の男子が「頭に天犬面、赤熊毛を垂らし、紅梅の水干、大口をつけ、首を天地左右にふりながら舞う」というものだそうです。

「神像と獅子狛犬の話」(高木豊秋 会通社 昭和12年)の中に、狛犬の異称について言及されています。
その中に、≪高麗犬≫≪胡麻犬≫と並べて≪天犬≫が挙げられています。

つまり、狛犬=天犬ということになりますから、≪天犬≫舞とは≪狛犬≫舞に他ならないことになります。

これから触れる≪狛犬≫舞は、すでに失われてしまった舞楽ですが、『天犬舞』はそれを今に伝えるものなのでしょうか?

しかし、≪一人立ち≫獅子舞は、近世以降に普及したものと思われますから、時代的には合いません。
とは言え、気になるところです。

以上、あまりにも簡単ですが、獅子舞について概観してみました。

続いて、本題である狛犬との関わりについて見ていきます。

2008年7月14日 (月)

日本の獅子舞の種類

日本の獅子舞は、大きく二つの系統に分かれています。
一つは伎楽・舞楽系獅子舞、もう一つは風流系獅子舞です。

伎楽はやがて日本化されて舞楽へと変じ、獅子舞を残して他は廃れます。
獅子舞は宮中や寺社の行事として定着し、地方にも広がっていきます。
そして、中世以降、熊野修験や伊勢神宮の御師などによって民衆にも浸透していきます。

その流れにあるのが伎楽・舞楽系獅子舞です。

形態としては二人一組で一頭の獅子を演じる≪二人立ち≫の獅子舞です。

「日本書紀」では、伎楽を伝えた百済人・味摩之はこれを『呉』に学んだと言っています。
『呉』とは、つまり中国の南部ということになります。
先に触れた中国の南獅と呼ばれる獅子舞は、胴体部分は幌状の布を被る形式のものでした。
日本の伎楽・舞楽系獅子舞も、ほとんどは布を被ります。
その点では、日本の伎楽・舞楽系獅子舞は南獅系と言えるのかもしれません。

ただ、沖縄の獅子舞は胴体が毛皮状になっていて、北獅系の特徴を持っています。
また、平安時代末期に成立した「年中行事絵巻」に描かれた獅子舞には胴体に長い毛があります。

さらに言えば、南獅には角があるということですが、日本の伎楽・舞楽系獅子舞には角がありません。

どうも要素が混在しているようです。

一方、風流系獅子舞は、一人で一頭の獅子を演じる≪一人立ち≫の獅子舞です。
通常、三頭の獅子が登場するので『三匹獅子舞』とも呼ばれます。

頭の形状も興味深いものです。
多くは三頭の内訳を雄二匹、雌一匹としており、雄は横並びの二本の角を持ち、雌は宝珠を載せています。
雄の角は、一方は普通の真直ぐな角で、もう一方は捻りのはいった角であったり、剣状の角になったりしています。

関西で生まれ育った私は、東京多摩地域に移り住むまで、この風流系獅子舞を見たことがありませんでしたし、存在自体知りませんでした。
それも当然で、この風流系獅子舞は関東以北に普及しているもので、西日本では、基本的に見られません。

例外は、江戸時代に埼玉の川越から国替えになった酒井氏によって福井の小浜に持ち込まれた雲浜獅子と、仙台の伊達氏が分国の際に愛媛の宇和島にもたらした八ツ鹿踊りの二つだと言います。

このことからも推測できるように、風流系獅子舞は江戸幕府成立後に、なかば政策的に普及がなされたもののようです。
また、獅子頭の形状も、上記のように狛犬からはかなりかけ離れたもので、両者の間にあまり関係性はないようにも思えます。

したがって、この後の考察の中ではこの風流系獅子舞のことは出てきませんが、何点か指摘しておきたいことがあるので、項を改めて触れておきます。

2008年7月13日 (日)

日本への伝来

≪獅子舞≫は、伎楽の一部として中国から伝来したと考えるのが一般的だと書きました。

「日本書紀」(岩波文庫版)によれば、推古天皇二十年(612)に

又百済人味摩之、帰化けり。曰はく、「呉に学びて、伎楽の儛を得たり」といふ。則ち桜井に安置らしめて、少年を集へて、伎楽の儛を習はしむ。是に、真野首弟子・新漢済文、二の人、習ひて其の儛を伝ふ。此今、大市首・辟田首等が祖なり。

とあり、厳密な史実と言えるかどうかは分りませんが、これが伎楽の伝来の記録とされます。

この伎楽の全容はわからないそうですが、後にも触れる「教訓抄」という文献には、伎楽について説明する以下のような文章があります。

此舞者聖徳太子之御時。従百済国被渡舞師。(未摩子云。)所伝置伎楽曲也。而古老云。楊梅神ノ御相伝ト云。(可尋之。)
先禰取。(盤渉調音。)次調子。(謂之道行音声。或道行拍子曰云々。)是以為行道。立次第者。先師子。次踊物。次笛吹。次帽冠。次打物。(三鼓二人。銅拍子二人。)
先獅子舞(略)
次呉公(略)
次迦楼羅(略)
次波羅門(略)
次崑崙(略)
次力士(略)
次大孤(略)
次酔胡(略)
次武徳楽(略)

参照したのは「群書類従」で、( )は小文字の注です。

最初の注にある『未摩子』は「日本書紀」に言う『味摩之』のことでしょう。
全体の初めに獅子舞があり、以下各種の踊りが行われるという形式のようです。

完成した形式として伎楽が伝来したのならば、獅子舞の伝来もその時であったと言うことができるでしょう。

一方、現存する最古の獅子頭は、正倉院に残る九頭で、天平勝宝四年(752)の東大寺大仏開眼会に用いられたものと推定されています。
この獅子頭は、伎楽用のものと考えられていますが、実際には伎楽そのものの内容は仏教とは特に結びつきのないものであったようです。

結局、伎楽はそうした信仰との結びつきが弱かったためか、次第に廃れていきます。
ただ、獅子舞だけが魔除けなどの宗教的な功能を持つことで生きのび、後には民衆の芸能にまで成長したということになるようです。

2008年7月12日 (土)

中国の獅子舞

日本への獅子舞の伝来の前に、中国を見てみます。

以前、中国へのライオンの伝来は前漢代であろうということを書きました。

「漢書」の「礼楽誌」には、「象人はいまの魚蝦獅子を戯る者なり」という魏の孟康による注があるそうです。
注の時代は下がるものの、ライオンの伝来と近い時期に獅子の姿を模して踊るなり演じるなりする行為が存在していたものと思われます。

一方、北魏の楊衒之の「洛陽伽藍記」では、長秋寺の項に

四月四日の降誕会には、この像をかつぎ出して都を練る習わしで、魔除けの獅子が先き払いをつとめた。
(訳は平凡社「中国古典文学大系21 洛陽伽藍記 水経注(抄)」による)

とありますので、遅くとも6世紀までには、獅子舞は行列の先に立って道を祓う役割をもって仏教に取り込まれていたと考えられます。

ところで、現在の中国の獅子舞には大きく二つの系統があるようです。
おおむね長江を境にして、北獅と南獅に分れるということです。
どちらも、二人一組で一頭の獅子を演じるという点では共通していますが、形態的には、北獅が胴部が毛皮状で、曲芸的な要素をもつのに対し、南獅は毛のない幌状で、頭には角があり、武術的な要素をもつという点で違いがあると言います。

南獅の角のある獅子頭というのがいかなる物なのか、はっきりと示した史料が手元になく具体的な姿がよくわかりません。
上記のリンク先の写真からすると、頭上にある瘤か宝珠に近いものが、ここで言う角のようです。
角がある獅子頭というと、後に触れる舞楽の≪狛犬≫と何か関連があるようにも感じますが、この角の形は少しイメージに合いません。

また、中国の獅子頭の古いものはどのような姿なのか気になりますが、手元の資料には例がなく、web上でも見つけられませんでした。

ちなみに、北獅・南獅というのは、彫刻としての中国獅子が北方系と南方系に分れていることを連想させます。
北方系は山西・山東・河北・河南・陝西・遼寧・甘粛・湖北・安徽の各省に分布し、南方系は福建・広東・広西の各省および海南・台湾に分布しているとされていますので、地域的にも一致します。

ただし、彫刻としての中国獅子がそのようにはっきりと別れるのは、明代以降とされます。

獅子舞の方はどうなのでしょうか。
上記のリンク先では、北獅の成立を清代とする説を取り上げています。

となると、二系統にはっきり分かれるのは、彫刻としての獅子よりもさらに新しいということになります。

2008年7月11日 (金)

獅子舞の源流

≪獅子舞≫とは、演者が≪獅子≫という動物を模した≪獅子頭≫という仮面の一種を被って舞い踊る行為です。

このような、人間が動物に扮して踊るという行為、あるいは仮面や頭を用いて他者に扮して踊るという行為は、地球上のあらゆる場所で見ることが出来るといっていいでしょう。
日本でも、縄文時代の遺跡から多くの仮面が出土していますから、古来そうした行為が存在していたことが想像できます。

しかし、こと≪獅子舞≫に関して言えば、≪獅子≫=ライオンが日本には生息していない以上、外来の文化であること疑いようはありません。
そこで≪獅子舞≫は、伎楽の一部として中国から伝来したと考えるのが一般的です。

しかし、その中国にも≪獅子≫=ライオンは生息していません。
また、伎楽もその起源はいわゆる西域だと考えられています。

かつてのアジアライオンの生息地は、インドから西アジアの一帯ですから、当然、その辺りに獅子舞の源流があると見ていいのでしょう。
一般的には、現在もある種の獅子舞が存在しているインドが、起源だと考えられているようです。

ただ、イスラム教成立以前の西アジアにまったく獅子舞がなかったのかどうかは、よくわかりません。
偶像崇拝を嫌うイスラム教によって廃絶された可能性はあるようにも思えるのですが、調べがつきませんでした。

「狛犬事典」の中で上杉千郷先生は、古代オリエントの王たちがライオン狩りし、捕らえたライオンを調教した名残が獅子舞だとしておられます。
ただ、古代オリエントにおいて獅子舞の痕跡があるのかどうかには言及はありません。

また、アフリカにもライオンを模した踊りは存在しそうですが、狛犬とは距離がありそうなので、十分調べておらず、確認できませんでした。

ちなみに、日本人がイメージするような形式の獅子舞が存在するのはユーラシア大陸の中央アジア以東のようです。
そこに共通するのは、インドを除いて実際にはライオンが生息していない地域であるという点と、仏教が伝播した地域であるという点です。

つまり、現実のライオンではなく、信仰と結びついた神格化された≪獅子≫であるということが、獅子舞の普及と発展に寄与したということなのでしょう。

2008年7月10日 (木)

狛犬と獅子舞――イントロダクション

狛犬の成り立ちに深く関わっていると考えられているものに、舞楽があります。

例えば、年代がはっきりしている最も古い≪こまいぬ≫という言葉の事例が、舞楽に用いる『狛犬頭』であったことは、既にご紹介しています

また、舞楽において≪獅子≫舞と≪狛犬≫舞が存在し、並立していたことが、調度としての広義の『狛犬』が、狭義の『獅子』と『狛犬』の組合せによって成り立っていることに関係しているとも言われます。

そこで、この章では、狛犬と舞楽の関わりについて考えてみます。

それについては、現在は失われている≪狛犬≫舞よりも、現在も存在し、より普遍的な存在である≪獅子≫舞を話の軸に据えてみたいと思います。

話の順番としては、まず獅子舞自体の歴史について概観してみます。
その後、≪獅子≫舞と≪狛犬≫舞の関係について考察し、それがどのように狛犬と関わっているのかを考えてみたいと思います。
また、獅子頭を中心とした獅子舞の造型と狛犬の造型に何らかの関係があるのかについても、考えてみたいと思います。

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