« 2009年7月 | トップページ | 2020年1月 »

2019年12月

2019年12月31日 (火)

真夏の夜の夢――穏田神社の狛犬はどこから来たか(4)

4.日清戦争説

 

小松侯爵が小松宮の祭祀を継いだのなら、常盤松の邸内社にあった狛犬が小松宮彰仁親王ゆかりの品であってもおかしくはない。
また、その姿は異国風である。それも胸飾りをつけている点からすれば中国風と言ってもいいだろう。

Pb171692

Pb171704


そして、それが中国風であるのなら、日清戦争に関係したものだと考えるのも、飛躍したことではない。
なぜならば、小松宮彰仁親王は日清戦争に従軍しているからだ。

 

当初、参謀総長であった有栖川宮熾仁親王が急逝したため、小松宮彰仁親王がその後を継いで明治28年(1895)1月26日に二代目の参謀総長となり、さらに3月16日に征清大総督となった。
そして、4月13日に広島から旅順に向けて出発。
4月18日に旅順口に到着するが、既に3月19日には下関講和会議が始まっており、旅順到着前日の4月17日には下関条約が調印されていたため、戦闘には参加することなく、5月18日に旅順を離れ、5月22日に京都の大本営に凱旋している。
現地滞在はわずかに1ヶ月である。
また、日清戦争時の野戦衛生長官だった石黒忠悳の「懐旧九十年」によると、旅順に皇族が宿舎とするにふさわしい建物がなかったため、乗船していた威海丸に宿泊していたという。
となると、最小限にしか旅順(清国)に接していないと言える。

 

新聞報道を見ると、軍務に関しては「黒木・乃木・長谷川等の諸将は大総督宮殿下と隔日会議せらる」(『読売新聞』明治28年4月28日)といった程度の消息しかない。
それどころか、旅順到着直後の4月21日には清国俳優の演劇を観て、その俳優に金50円を下賜している(『読売新聞』明治28年5月10日)。
もはや戦時の緊迫感はない。

 

一方、こんな報道もある。

 

「●小松大総督宮殿下献上の猛鷲」(『読売新聞』明治28年5月17日)
「●小松宮殿下に目出金魚を献ず」(『読売新聞』明治28年5月29日)

 

前者は、小松宮の御座船・威海丸に鷲が飛来し、これを捕獲して飼育し、陛下に献上したというもので、後者は、旅順の龔道台邸の金魚を長谷川旅団長が獲って愛玩し、小松宮の凱旋に際し献納したというものである。

 

もし、小松宮彰仁親王が中国から狛犬(中国なので厳密には獅子)を持ち帰ったとしたら、このあたりの記事の枠内で報じられそうなものだが、その報道はない。

 

ただ、日清戦争に際して、清国から持ち帰られた狛犬が実際に存在している。
それが靖国神社の狛犬である。
本編サイトでも取り上げているが、「靖国神社百年史 資料編」には、概ねこんなことが書かれている。

 

明治28年(1895)、先述の石黒忠悳が山縣有朋を訪ね、従軍の思い出話を交わした際、野戦病院にあてられた清国海城の三学寺にあった狛犬の「古奇愛すべき」ものであったことを話したところ、山縣は「陛下の叡覧に供して大御心の程を慰め奉りたい」と言い、すぐに取り寄せる手配をした。
そこで、石黒は満州に留まっていた奥中将に連絡を取り、寺より譲り受けて日本に運ぶように依頼した。
奥から石黒への書簡によると、大きな獅子は新しいもので見苦しい、青石のものは時代のあるものだが、四つあるものの対になったものがなく、大小も揃っていない、そこで青石のもののうち形の良いもの一つと、白石のもので時代がありそうなものを一対調達したと言う。
山縣の希望通り、これらは明治天皇に献上され、叡覧の上、白石の一対は靖国神社に、青石の一体は山縣に下賜された。

 

その記述通り、靖国神社には白石の1対が現存しているし、また、山縣に下賜された青石の獅子も、栃木県矢板市の山縣有朋記念館に現存している。

 

この例のように、日清戦争時に日本軍の大総督だった小松宮彰仁親王が戦勝記念に中国から獅子像を持ち帰ったとしたら、話はわかりやすい。

 

2019年12月30日 (月)

真夏の夜の夢――穏田神社の狛犬はどこから来たか(3)

3.小松侯爵邸とは

 

しつこく住所を書き込んできたのは、小松宮邸がどこにあったのかを知るためだ。

 

列挙すれば、小松宮彰仁親王家の邸は、別邸も含めて

 

神田区駿河台袋町五番地
赤坂区葵町二番地
浅草区橋場町
静岡県三島市

 

小松宮(東伏見宮)依仁親王家の邸は

 

芝区高輪南町
赤坂区葵町
神奈川県葉山町
麻布区飯倉町六丁目
東京府豊多摩郡渋谷町大字下渋谷常盤松

 

が確認出来る。

 

一方、青山学院だが、現在の青山学院大学のキャンパスは、江戸時代は四国の西条藩松平家の上屋敷だった。
明治維新後、同地は北海道開拓使の東京官園となる。これは北海道開拓のための農業試験場である。
官園としての役割を終えた後、明治16年(1883)に東京英和学校の敷地となる。この東京英和学校が明治27年(1894)に青山学院へと改称した。
ただ、官園全体が同じ時に青山学院になったわけではない。
官園跡地は御料地(第一から第六)となり、青山学院の他、近衛兵営用地となったり、複数の華族が払い下げを受けたり、実践女学校(現実践女子大学)の用地になったりしている。また、青山学院の南側には、皇室に献上する牛乳を生産する御料乳牛場も存在した。
ちなみに、御料乳牛場のあたりは、西条藩上屋敷跡ではなく、それに隣接する薩摩藩下屋敷だった場所である。東伏見宮邸(現常陸宮邸)は薩摩藩下屋敷にあたる。
青山学院と御料乳牛場の間には、東京農業大学の前身である大日本農會附属私立東京農学校が明治31年(1898)10月に小石川区大塚窪町から移転開校している。校舎の他に演習場としての農地があり、広い範囲に及んでいた。
しかし、東京農学校は昭和20年5月25日未明の空襲を受けてキャンパスの大部分を焼失し、昭和21年(1946)に土地を青山学院に売却して、現在地である世田谷区世田谷に移転した。

 

青山学院初等部の位置にあたる場所は、東京農学校の校舎より南で、東京農学校の開校後も御料地として残っている。最初に触れたように、ここに初等部が移転してきたのは昭和39年のことである。

 

さて、青山学院初等部のサイトには「常盤松の地」というフレーズがある。
実は、青山学院初等部の建つ一帯の旧地名が常盤松(後に常磐松)だったのである。

 

と言うことは、東伏見宮の常盤松の邸、つまり今の常陸宮邸の一部が青山学院初等部に残る日本庭園なのかと言えば、そうではない。

 

常盤松の邸が作られて3年後の昭和3年(1928)版の陸軍参謀本部陸地測量部発行の1万分の1地形図を見ると、現在青山学院初等部と常陸宮邸を隔てている道路は既に存在している。
東京都公文書館に大正14年11月11日付の「御料地譲与道路敷組換【実測図】〔豊多摩郡渋谷町大字青山南町7丁目27〕《豊多摩郡》」という文書があり、その対象住所が「豊多摩郡渋谷町大字下落合字常盤松321-1」となっている。この時に御料地の一部を道路用地にしたということは、東伏見宮邸の完成に合わせたものだろう。
つまり、東伏見宮邸と青山学院初等部の日本庭園は、初めから切り離されており、一連の敷地とはなっていないのである。

 

では、この日本庭園は何なのか。

 

「東京市渋谷区地籍図 上巻」(昭和10年(1935) 内山模型製図社)を見ると、日本庭園の位置には「小松輝久侯邸」と記載されている。

 

小松輝久は、北白川宮能久親王の第4王子として明治21年(1888)に生まれた。
実は、小松宮彰仁親王は、この北白川宮輝久王を継嗣にすることを希望していたのだが、既述の通り旧皇室典範は養子を禁じており、またその制定前の明治18年に養嗣子となっていた依仁親王の存在もあってかなわなかった。
そこで、彰仁親王は亡くなる直前に依仁親王の小松宮継嗣を停止したのである。一方で明治43年に輝久王は臣籍降下し、小松侯爵家を創設して、小松宮家の祭祀を継いだ。

 

つまり、東京都神社庁のサイトにあるように、青山学院初等部のあたりは小松侯爵邸だったわけである。
しかし、小松侯爵は小松宮の祭祀は継いだものの、宮家そのものは継ぐことができずに侯爵となったのだから、「小松侯爵(元・小松宮)」と書かれているのは、正しくはない。
元宮であることを示したいのなら「元・北白川宮」でなければならない。

 

そして、青山学院初等部のサイトが「明治維新に活躍された小松宮邸の跡地」と書いているのは、大きな間違いなのである。
青山学院初等部の一部となっている日本庭園のあった邸には明治維新で活躍した小松宮彰仁親王はおろか、一時期小松宮を名乗った東伏見宮依仁親王も住んだことはないのである。
そこに住んでいたのは臣籍降下して侯爵となった小松輝久なのである。
したがって、本来は「小松侯爵邸」と書くべきなのだ。
いや、戦後は華族制度がなくなったので、青山学院がその土地を入手した時点で考えるならば、「小松家」と書くのが正確ということになる。

 

これで、青山学院初等部の日本庭園は小松輝久侯爵邸のものとわかった。
初めに触れたように、東京都神社庁の記載にしたがえば、穏田神社の狛犬は、穏田神社の前はこの小松輝久侯爵邸にあったことになる。
それは間違いないだろう。
では、そこに至るまではどうなっていたのか。
東京都神社庁の記述でも「詳しい出自は不明」となっているが、それを推理してみよう。

2019年12月29日 (日)

真夏の夜の夢――穏田神社の狛犬はどこから来たか(2)

2.二人の小松宮――邸はどこにあったか

 

青山学院初等部のサイトには「明治維新に活躍された小松宮」とあるが、皇族の中で小松宮を名乗った人物は二人しかおらず、そのうち明治維新に関わったのは小松宮彰仁親王である。

 

小松宮彰仁親王は、伏見宮邦家親王の第8王子として弘化3年(1846)に生まれた。出家して仁和寺門跡となったが、慶応2年(1866)に還俗して仁和寺宮となり、戊辰戦争に参加した。維新後、明治3年(1870)に東伏見宮に改称したが、さらに明治15年(1882)に小松宮に改称した。これは、仁和寺の寺域がかつて小松郷と呼ばれたことにちなんだものと言う。
日露戦争前年の明治36年(1903)2月18日に薨去している。享年57歳(西暦による満年齢)。

 

さて、官報・公文書と新聞報道を総合すると、その住居は明治3年に上京してしばらくは大名の旧藩邸などを借用する形で転々としていたが、明治12年(1879)6月21日に神田区駿河台袋町五番地(現千代田区神田駿河台)に邸を新築して移転した(ちなみに、駿河台袋町の邸跡は大正5年(1916)に明治大学の所有地となり、現在は明治大学リバティタワーが建っている)。
さらに、明治30年9月27日に赤坂区葵町二番地(現港区虎ノ門)に新築移転している。
この他、浅草区橋場町(現台東区橋場)と静岡県三島市に別邸があった。

 

彰仁親王には跡継ぎがなかったため、弟の定麿王(慶応3年(1867)生誕)が明治18年(1885)に養嗣子となり、小松宮依仁親王を名乗っていた。
これが、もう一人の小松宮である。
しかし、明治36年(1903)2月2日に彰仁親王の情願により依仁親王の小松宮継嗣は停止された。そのため、依仁親王は東伏見宮家を創立した。上記の通り、東伏見宮は彰仁親王の旧称でもある。
この直後に彰仁親王が亡くなったことで、皇族としての小松宮は断絶した(彰仁親王夫人の小松宮頼子妃が大正3年(1914)に亡くなるまで宮家は存続)。
依仁親王は大正11年(1922)6月26日に薨去。享年54歳(西暦による満年齢)。

 

さて、依仁親王が東伏見宮の新称号となったことを伝える新聞記事ではその時点での住所は「芝区高輪南町」となっている。
その後、明治36年12月29日に小松宮頼子妃が赤坂葵町から浅草区橋場町に移転し、東伏見宮依仁親王が明治37年(1904)2月10日に赤坂葵町の邸に入る。
依仁親王は大正3年(1914)に葉山に別邸を建て、そこで亡くなったのだが、その時点でも本邸は赤坂葵町であった。
なお葉山別邸は、昭和28年(1953)以降はイエズス孝女会葉山修道院となっている。

 

依仁親王薨去の翌年、大正12年(1923)9月1日に関東大震災が発生すると、依仁親王夫人の東伏見宮周子妃は、麻布区飯倉町六丁目の德川頼倫侯爵旧邸に仮寓することになる。
その後、大正14年(1925)12月18日、東京府豊多摩郡渋谷町大字下渋谷常盤松321番地(のち東京市に編入され渋谷区常磐松101)に新築された邸に養子同然であった邦英王とともに移転する。
なお、赤坂葵町の邸は昭和2年には撤去されている。
邦英王は久邇宮邦彦王第3王子だが、跡継ぎのいない依仁親王と周子妃が養育していた。しかし、明治22年制定の旧皇室典範が皇族の養子を禁止していたため、邦英王は東伏見宮を継げず、臣籍降下して東伏見伯爵となった。

 

東伏見宮周子妃(昭和22年(1947)に皇籍離脱して東伏見周子)は昭和30年(1955)に亡くなるが、その住まいであった常磐松の邸には紆余曲折がある。
昭和21年、GHQは戦時利得の没収を目的として財産税法を施行した。
東伏見周子没後に出た『朝日新聞』昭和30年3月14日の記事「遺産は公共事業へ 故東伏見周子さん 遺言状で寄付望む」にはこうある。

 

「戦後は東京渋谷の常磐松御殿(いまの東宮仮御所)も財産税として物納、箱根仙石原の別荘、葉山の別邸も次々と売り払った。」

 

ここで言っている「物納」とは、昭和22年に皇室財産が国有財産に払い下げられたことを指しているのだろう。
この時、常磐松の周辺では、常盤松第二御料地(4,513㎡)は普通国有財産となり、常盤松御用邸(19,822㎡)は皇室用財産とされた。
つまり、GHQの指導で皇室財産にも課税される方向になったため、一旦国有とした上で、皇族が専用で使用するようにしたというわけである。

 

一方、「いまの東宮仮御所」という記述だが、昭和25年(1950)2月18日の「宮内庁告示第二号」に

 

「皇太子殿下御在所は、東京都澁谷区常磐松町百一番地常盤松御用邸内に定められ、東宮仮御所と称する。」

 

とある。
その後、昭和35年(1960)に当時の明仁皇太子が現在の赤坂東宮御所に移転すると、昭和38年(1963)11月に東宮仮御所跡に入ったのが常陸宮である。

 

土地勘のある方はピンとくるだろう。
現在の青山学院初等部のそばに常陸宮邸が存在している。
そこがかつての東伏見宮邸だったのである。

 

2019年12月28日 (土)

真夏の夜の夢――穏田神社の狛犬はどこから来たか(1)

1.発端

 

2019年の夏、変な夢を見た。

 

青山学院大学のキャンパス内を歩いていて半分土に埋もれた狛犬を見つける、という内容の夢だ。

 

ネタとしてFacebookに書き込んだところ、狛犬さがし隊副隊長の田村愛明氏からコメントがついた。
それは、渋谷区の穏田神社の狛犬が、現在の青山学院初等部にあったものだという内容だった。
穏田神社には2対の狛犬があるが、そのうちの写真の狛犬がそれだと言う。

Pb171684

Pb171702

ただの夢だと思ったのに、青山学院の敷地内に狛犬は存在したというわけだ。

 

調べてみると、東京都神社庁のサイトにこのような記述があった。

 

「「地球上のいかなる生物にも似ていないのが特徴」(永瀬嘉平『狛犬考』より引用)と表現されるように独特の風貌が目を引く。この狛大はもともと小松侯爵(元・小松宮)邸(現青山学院初等部のあたり)にあったもの。空襲によって全焼した神社を再建すべく、侯爵邸の邸内社を譲り受けることになり、その際一緒に狛犬も移築された。詳しい出自は不明だが、首の下に「飾帯(しょくたい)」(正装時の飾り帯)を付けていることから朝鮮の狛犬と見られる。」

 

穏田神社は昭和20年5月25日の空襲によって被災し、神輿庫を除いて神社施設が全て失われたという。
その再建にあたって、小松宮邸から狛犬ともども邸内社が移設されたというのである。
「移築は深夜、牛車によって行われた。右側に狛犬が見える。(昭和25年)」という写真も添えられているので、移設は昭和25年に行われたのであろう。

 

一方、元々狛犬があったという青山学院初等部のサイトには、このように書かれている。

 

「初等部の校舎は、青山学院の渋谷キャンパスの南側に位置し、六本木通り、高速3号線を挟み常磐松の地にあります。この地には、1964年(昭和39年)に現在の女子短期大学の校舎がある旧校舎から移ってきました。
現在の地においては、現在の校舎が2代目ということになります。
この地は、初等部が移って来る前には、明治維新に活躍された小松宮邸の跡地でした。当時の庭の一部が残されていました。春日灯籠に菊の紋章が入っていたり、庭石が京都の産であったりということからよくわかります。
初等部校庭中央にそびえ立つ楠木やけやきも小松宮邸当時のものであると言われています。
初等部南側にある庭が、その小松宮邸オリジナルの日本庭園です。」

 

つまり、昭和39年に初等部の新校舎が出来て移転してきた時に、日本庭園が残されていて、それは小松宮邸の一部である、ということになる。

 

さて、私は疑り深い性格である。
なんとなく引っかかるものがあったので、調べてみることにした。

 

« 2009年7月 | トップページ | 2020年1月 »