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2019年12月31日 (火)

真夏の夜の夢――穏田神社の狛犬はどこから来たか(4)

4.日清戦争説

 

小松侯爵が小松宮の祭祀を継いだのなら、常盤松の邸内社にあった狛犬が小松宮彰仁親王ゆかりの品であってもおかしくはない。
また、その姿は異国風である。それも胸飾りをつけている点からすれば中国風と言ってもいいだろう。

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そして、それが中国風であるのなら、日清戦争に関係したものだと考えるのも、飛躍したことではない。
なぜならば、小松宮彰仁親王は日清戦争に従軍しているからだ。

 

当初、参謀総長であった有栖川宮熾仁親王が急逝したため、小松宮彰仁親王がその後を継いで明治28年(1895)1月26日に二代目の参謀総長となり、さらに3月16日に征清大総督となった。
そして、4月13日に広島から旅順に向けて出発。
4月18日に旅順口に到着するが、既に3月19日には下関講和会議が始まっており、旅順到着前日の4月17日には下関条約が調印されていたため、戦闘には参加することなく、5月18日に旅順を離れ、5月22日に京都の大本営に凱旋している。
現地滞在はわずかに1ヶ月である。
また、日清戦争時の野戦衛生長官だった石黒忠悳の「懐旧九十年」によると、旅順に皇族が宿舎とするにふさわしい建物がなかったため、乗船していた威海丸に宿泊していたという。
となると、最小限にしか旅順(清国)に接していないと言える。

 

新聞報道を見ると、軍務に関しては「黒木・乃木・長谷川等の諸将は大総督宮殿下と隔日会議せらる」(『読売新聞』明治28年4月28日)といった程度の消息しかない。
それどころか、旅順到着直後の4月21日には清国俳優の演劇を観て、その俳優に金50円を下賜している(『読売新聞』明治28年5月10日)。
もはや戦時の緊迫感はない。

 

一方、こんな報道もある。

 

「●小松大総督宮殿下献上の猛鷲」(『読売新聞』明治28年5月17日)
「●小松宮殿下に目出金魚を献ず」(『読売新聞』明治28年5月29日)

 

前者は、小松宮の御座船・威海丸に鷲が飛来し、これを捕獲して飼育し、陛下に献上したというもので、後者は、旅順の龔道台邸の金魚を長谷川旅団長が獲って愛玩し、小松宮の凱旋に際し献納したというものである。

 

もし、小松宮彰仁親王が中国から狛犬(中国なので厳密には獅子)を持ち帰ったとしたら、このあたりの記事の枠内で報じられそうなものだが、その報道はない。

 

ただ、日清戦争に際して、清国から持ち帰られた狛犬が実際に存在している。
それが靖国神社の狛犬である。
本編サイトでも取り上げているが、「靖国神社百年史 資料編」には、概ねこんなことが書かれている。

 

明治28年(1895)、先述の石黒忠悳が山縣有朋を訪ね、従軍の思い出話を交わした際、野戦病院にあてられた清国海城の三学寺にあった狛犬の「古奇愛すべき」ものであったことを話したところ、山縣は「陛下の叡覧に供して大御心の程を慰め奉りたい」と言い、すぐに取り寄せる手配をした。
そこで、石黒は満州に留まっていた奥中将に連絡を取り、寺より譲り受けて日本に運ぶように依頼した。
奥から石黒への書簡によると、大きな獅子は新しいもので見苦しい、青石のものは時代のあるものだが、四つあるものの対になったものがなく、大小も揃っていない、そこで青石のもののうち形の良いもの一つと、白石のもので時代がありそうなものを一対調達したと言う。
山縣の希望通り、これらは明治天皇に献上され、叡覧の上、白石の一対は靖国神社に、青石の一体は山縣に下賜された。

 

その記述通り、靖国神社には白石の1対が現存しているし、また、山縣に下賜された青石の獅子も、栃木県矢板市の山縣有朋記念館に現存している。

 

この例のように、日清戦争時に日本軍の大総督だった小松宮彰仁親王が戦勝記念に中国から獅子像を持ち帰ったとしたら、話はわかりやすい。

 

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