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2019年12月30日 (月)

真夏の夜の夢――穏田神社の狛犬はどこから来たか(3)

3.小松侯爵邸とは

 

しつこく住所を書き込んできたのは、小松宮邸がどこにあったのかを知るためだ。

 

列挙すれば、小松宮彰仁親王家の邸は、別邸も含めて

 

神田区駿河台袋町五番地
赤坂区葵町二番地
浅草区橋場町
静岡県三島市

 

小松宮(東伏見宮)依仁親王家の邸は

 

芝区高輪南町
赤坂区葵町
神奈川県葉山町
麻布区飯倉町六丁目
東京府豊多摩郡渋谷町大字下渋谷常盤松

 

が確認出来る。

 

一方、青山学院だが、現在の青山学院大学のキャンパスは、江戸時代は四国の西条藩松平家の上屋敷だった。
明治維新後、同地は北海道開拓使の東京官園となる。これは北海道開拓のための農業試験場である。
官園としての役割を終えた後、明治16年(1883)に東京英和学校の敷地となる。この東京英和学校が明治27年(1894)に青山学院へと改称した。
ただ、官園全体が同じ時に青山学院になったわけではない。
官園跡地は御料地(第一から第六)となり、青山学院の他、近衛兵営用地となったり、複数の華族が払い下げを受けたり、実践女学校(現実践女子大学)の用地になったりしている。また、青山学院の南側には、皇室に献上する牛乳を生産する御料乳牛場も存在した。
ちなみに、御料乳牛場のあたりは、西条藩上屋敷跡ではなく、それに隣接する薩摩藩下屋敷だった場所である。東伏見宮邸(現常陸宮邸)は薩摩藩下屋敷にあたる。
青山学院と御料乳牛場の間には、東京農業大学の前身である大日本農會附属私立東京農学校が明治31年(1898)10月に小石川区大塚窪町から移転開校している。校舎の他に演習場としての農地があり、広い範囲に及んでいた。
しかし、東京農学校は昭和20年5月25日未明の空襲を受けてキャンパスの大部分を焼失し、昭和21年(1946)に土地を青山学院に売却して、現在地である世田谷区世田谷に移転した。

 

青山学院初等部の位置にあたる場所は、東京農学校の校舎より南で、東京農学校の開校後も御料地として残っている。最初に触れたように、ここに初等部が移転してきたのは昭和39年のことである。

 

さて、青山学院初等部のサイトには「常盤松の地」というフレーズがある。
実は、青山学院初等部の建つ一帯の旧地名が常盤松(後に常磐松)だったのである。

 

と言うことは、東伏見宮の常盤松の邸、つまり今の常陸宮邸の一部が青山学院初等部に残る日本庭園なのかと言えば、そうではない。

 

常盤松の邸が作られて3年後の昭和3年(1928)版の陸軍参謀本部陸地測量部発行の1万分の1地形図を見ると、現在青山学院初等部と常陸宮邸を隔てている道路は既に存在している。
東京都公文書館に大正14年11月11日付の「御料地譲与道路敷組換【実測図】〔豊多摩郡渋谷町大字青山南町7丁目27〕《豊多摩郡》」という文書があり、その対象住所が「豊多摩郡渋谷町大字下落合字常盤松321-1」となっている。この時に御料地の一部を道路用地にしたということは、東伏見宮邸の完成に合わせたものだろう。
つまり、東伏見宮邸と青山学院初等部の日本庭園は、初めから切り離されており、一連の敷地とはなっていないのである。

 

では、この日本庭園は何なのか。

 

「東京市渋谷区地籍図 上巻」(昭和10年(1935) 内山模型製図社)を見ると、日本庭園の位置には「小松輝久侯邸」と記載されている。

 

小松輝久は、北白川宮能久親王の第4王子として明治21年(1888)に生まれた。
実は、小松宮彰仁親王は、この北白川宮輝久王を継嗣にすることを希望していたのだが、既述の通り旧皇室典範は養子を禁じており、またその制定前の明治18年に養嗣子となっていた依仁親王の存在もあってかなわなかった。
そこで、彰仁親王は亡くなる直前に依仁親王の小松宮継嗣を停止したのである。一方で明治43年に輝久王は臣籍降下し、小松侯爵家を創設して、小松宮家の祭祀を継いだ。

 

つまり、東京都神社庁のサイトにあるように、青山学院初等部のあたりは小松侯爵邸だったわけである。
しかし、小松侯爵は小松宮の祭祀は継いだものの、宮家そのものは継ぐことができずに侯爵となったのだから、「小松侯爵(元・小松宮)」と書かれているのは、正しくはない。
元宮であることを示したいのなら「元・北白川宮」でなければならない。

 

そして、青山学院初等部のサイトが「明治維新に活躍された小松宮邸の跡地」と書いているのは、大きな間違いなのである。
青山学院初等部の一部となっている日本庭園のあった邸には明治維新で活躍した小松宮彰仁親王はおろか、一時期小松宮を名乗った東伏見宮依仁親王も住んだことはないのである。
そこに住んでいたのは臣籍降下して侯爵となった小松輝久なのである。
したがって、本来は「小松侯爵邸」と書くべきなのだ。
いや、戦後は華族制度がなくなったので、青山学院がその土地を入手した時点で考えるならば、「小松家」と書くのが正確ということになる。

 

これで、青山学院初等部の日本庭園は小松輝久侯爵邸のものとわかった。
初めに触れたように、東京都神社庁の記載にしたがえば、穏田神社の狛犬は、穏田神社の前はこの小松輝久侯爵邸にあったことになる。
それは間違いないだろう。
では、そこに至るまではどうなっていたのか。
東京都神社庁の記述でも「詳しい出自は不明」となっているが、それを推理してみよう。

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