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2020年1月

2020年1月 3日 (金)

真夏の夜の夢――穏田神社の狛犬はどこから来たか(7)

7.李王家説

 

もうひとつの可能性は、李王家である。
李王家とは、李氏朝鮮(大韓帝国)の王家(高宗・純宗・李垠ら)が明治43年の日韓併合に際して王族として日本の皇族に準じる待遇を与えられたものである。

 

小松宮彰仁親王の三島別邸は、小松宮彰仁親王の没後、明治45年(1912)に李王家に譲与された。
『読売新聞』明治45年6月4日付には「李王家御新邸 故小松大将宮御別邸」との記事があり、三島別邸を李王家に譲与すると書かれている。
李王家の中でも世子と呼ばれた李垠が三島別邸を「昌徳宮」と呼んで、主に夏の別邸として利用した。

 

こうした経緯への礼として、李王家が小松宮頼子妃もしくは小松輝久侯爵に獅子像を贈った可能性も考えられる。

 

三島別邸を引き継いだ李王家では、建物の一部を増築するなどの手を加えている。
また、庭内に遺っている石造物の中には朝鮮半島式の燈籠もあり、明確な記録はないものの、李王家が持ち込んだものである可能性がある。

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だとしたら、その時に獅子像も朝鮮半島から運び込み、小松宮頼子妃に謝礼の品として贈ったとしてもおかしくはない。

 

李垠はその後、大正9年(1920)4月に梨本宮守正王の娘・方子女王と結婚したことで知られている。
それについて「大元帥と皇族軍人 大正・昭和編」(小田部雄次 2016年 吉川弘文館)の中に

 

「朝鮮王室との結婚は、やや格下に思われていた面があったのも事実だが、朝鮮王室の所有する林野、水田、宅地、美術品やその他の利権は、日本の皇族をはるかにしのぐものがあった。李垠と方子は、他の皇族たちから蔑みと嫉妬の交じった感情で見られていた面があり、それだけに、李垠は帝国軍人として模範的な姿を見せようと努力した。」

 

と書かれている。

 

もっとも、李王家は三島別邸を昭和2年に売却している。
その目的は李垠夫妻の世界一周旅行の資金捻出にあったとされる。
その価格はおよそ30万円で、三島市に打診があったが、市の年間予算28万円を超える額だったため、市は購入出来ず、三島在住の実業家・緒明圭造が購入することとなった。
李王家が現金化して自由に出来る資産は限られていたのだろう。
なお、三島別邸は昭和27年(1947)に緒明家から三島市が購入しており、現在は楽寿園として一般公開されている。

 

もう1点、気になることもある。
「渋谷区勢要覧 昭和12年版」によると、常磐松町101には既述の東伏見宮邸の他に、久邇宮別邸、李鍵公邸、李鍝公邸もあった。
李鍵と李鍝はともに李垠の甥にあたり、公族と扱われていた。
「大東京市渋谷区全図」(木谷彰佑著 1932年10月)によると、道路に囲まれた一区画の東半分が東伏見宮邸、西南端が李公邸になっている。そして、道路を挟んで北側に小松侯爵邸がある。
こちらからの繋がりはないのだろうか。

 

李鍝は昭和20年8月7日、前日に広島で原爆に遭い被爆死したが、李鍵は平成2年(1990)まで存命だった。昭和22年に公族の地位を失った後、桃山虔一を名乗り、昭和30年に日本国籍を取得している。
李鍵がいつまで常盤松に住んでいたかわからないが、公族の地位を失った昭和22年ではないかと推測される。
その時に、李邸からすぐ近所の小松邸に移されたという可能性もあるのではないか。

 

さて、東京都神社庁のサイトでは「詳しい出自は不明だが、首の下に「飾帯(しょくたい)」(正装時の飾り帯)を付けていることから朝鮮の狛犬と見られる」としている。
この記述の信憑性については措くとして、確かに、左の像の後ろに反り返ったような姿は、朝鮮半島的には思える。

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ただ、実物を見て思うのは、仮にも朝鮮半島の王家だった者が日本の皇族に贈るものとしては、あまり出来の良いものとは言えないということだ。

 

ただ、極めて歴史的価値が高いということならば話は別である。
時代が古いとか、朝鮮を代表するような建築物に付随したものであるとか、価値を高くする要素は様々に考えられる。

 

『朝鮮総督府月報』大正元年(1912)11月号に李王家に関わる資産として廟(2)、殿(6)、宮(11)、陵(50)、園(12)、壇(1)、墓(31)があることが書かれている。
この113ヶ所もの場所の中には獅子像が設置されている場所だってあっただろう。
そうした所にあったものならば、歴史的価値は高い。

 

しかし、それを解き明かすだけの証拠が見つからない。

 

真相を見つけ出すには、まだ資料を探さないといけないが、とりあえず今わかっていることを書き留めてみた。

 

皆さんはどうお考えになるだろうか?

 

2020年1月 2日 (木)

真夏の夜の夢――穏田神社の狛犬はどこから来たか(6)

6.台湾説

 

ところで、徳水(亭)についての記述で思い浮かべるものがある。
振天府である。

 

振天府とは皇居の一角に存在する施設である。
近代日本にとって最初の本格的対外戦争であった日清戦争では、大量の戦死者・戦病死者が出た。
戦争の終結後、明治天皇が彼等の死を悼み、この歴史上に残る大きな出来事を未来永劫に記念するため、戦死・戦病死した全将兵の肖像と名簿を収め、あわせて日清戦争で使われた軍装や兵器、戦利品(分捕品)を展示するための施設として建設された。
こうした施設は、その後、日本が戦争を行う度に建設されることが慣例化し、懐遠府(北清事変=義和団事件)、建安府(日露戦争)、惇明府(第一次大戦・シベリア出兵)、顕忠府(済南事変・満州事変・上海事変・日中戦争・太平洋戦争)が建立された。一括して御府と呼ばれる。

 

この振天府の付属施設として有光亭という四阿がある。
日清戦争の激戦地・威海衛での戦利品を用いて建築されたもので、柱梁は清軍が威海衛の港口の防御のために用いた防材を、周壁は清軍の砲台にあった石額を用いて築かれている。掲げられた「有光亭」の額は有栖川宮威仁親王が揮毫したもので、額の背面には宮内省文事秘書官股野琢による「有光亭記」が記されている。

 

有光亭と徳水(亭)は、威海衛の防材を用いている点が共通している。
皇居内に建てられている有光亭の方が優先順位が高いのではないかと思われるので、有光亭を建てた後、その余った材料で徳水(亭)を建てたのではないだろうかとも想像するが、証拠は見いだせないでいる。

 

この有光亭の前に台湾から献上された獅子像があったことを本編サイトで取り上げたことがある。
日清戦争終結から5年後の明治33年(1900)に台湾から振天府へ獅子像が贈られている。
下関条約で清国から割譲された台湾で、日本の統治に抵抗する勢力を武力鎮圧した台湾征討は日清戦争の最終局面と言える。
その台湾から振天府へと獅子像が贈られたのだ。

 

実は小松輝久侯爵には台湾との関わりがある。

 

小松輝久侯爵の父である北白川宮能久親王は、台湾征討の際、征討軍として派遣された近衛師団を率いて台湾に入り、その途中に台南で病死している。
陣中死したということで、台湾に作られた台湾神社や台南神社の祭神となった人物である。
その終焉の地たる台南から獅子像が贈られているのである。

 

振天府に獅子像が贈られているなら、小松輝久侯爵に台湾から同様に獅子像が贈られていてもおかしくはない。
あちらこちら流転したと考えるより、小松侯爵邸に直接届いたと考える方が、いいのではないかという気もするのだ。

 

ただ、実際の中国風獅子像は台湾でよく見られるタイプの獅子像ではない。
また、北白川宮を継いだのは小松輝久侯爵の兄である第3王子の成久王だ。
台湾から何か贈られるとしたら成久王に対してだろう。

 

そう考えると、台湾ルートは可能性が低いかもしれない。

 

2020年1月 1日 (水)

真夏の夜の夢――穏田神社の狛犬はどこから来たか(5)

5.日清戦争説――その2

 

小松宮彰仁親王には日清戦争に関わるこんな話も残っている。

 

まず、小松宮彰仁親王の三島別邸だが、ここの庭園には望楼があり、それについて日清戦争の際に持ち帰ったものという伝承が三島市には残っている(リンク先PDFファイルの7ページ)。
三島別邸は明治24年(1891)に建設されたと考えられているので、あり得ないことではないが、裏付けとなるような文書は残っておらず、またこの望楼は現存しないこともあって、検証出来ない。

 

一方、小松宮彰仁親王の渡欧にも同行した医師・土肥慶蔵の「鶚軒游戯」(昭和2年7月9日 改造社)には、このような記述がある。

 

「殿下が軍事に御心掛深き一證ともと思ひて茲に御話申すは、春秋のながめゆかしき墨田の邊、橋場の御別邸内に徳水といふ、流れに臨める小亭があります。是は日清戦争に威海衛の海中に横はりたる敵の防材のみをもて御建築になり、御襖唐紙には劉公島の景色を描かせ玉ひ、引手、釘かくしなど皆武器にかたどらせ玉ひ、床には霊鷹の置物、燭臺には帆綱を形どらせられ、爛間には丁汝昌の官宅にて得しとて海軍省より獻上せる李鴻章筆の「徳在水」の額をかかげさせられ、雪の朝、月の夕に、此亭に入らせられ、所謂治に居て乱を忘れさせ玉はぬ御志のほど、いとも尊く覚えました。」

 

つまり、橋場別邸には日清戦争の戦利品によって建てられた徳水(亭)という名の建物があったというのである。
三島別邸と橋場別邸と場所は異なるが、よく似た話である。
実は、三島別邸の望楼については、「旅順にあった李鴻章邸から移設した」との伝承もあるそうだ。
どちらにも李鴻章の名が出てきて、ますます話が似てくる。

 

この二つのものは同一のものなのではないか。
橋場別邸に建てたものを、何らかの事情で三島別邸に移築したのではないか。

 

後に詳述するが、三島別邸は明治36年2月の小松宮彰仁親王薨去の後、明治45年に李王家に譲渡されている。
一方、橋場別邸は大正3年の頼子妃の死後、少なくとも関東大震災の起こった大正12年までには無くなっている(震災後に製材所用地として橋場の土地を貸し出したとの新聞記事がある)。

 

可能性としては、明治36年12月に頼子妃が赤坂葵町の邸から橋場別邸に居を移すにあたって、徳水(亭)を三島別邸に移築したと考えられる。
そのくらいしかタイミングが思いつかない。

 

ただ、いずれにしても、土肥慶蔵の文章には中国風獅子像の話は出てこない。

 

土肥慶蔵は「鶚軒游戯」の中で三島別邸についても触れ、

 

「さて其庭の踏石燈籠など、一つとして遠国より多年御取寄せの曰くつきの物ならざるなく、若冲の五百羅漢、天明年代の三條大橋の石柱などもその中にありて、孰れも其の散逸せんことを惜しみ玉ひて、御蒐めさせられしものゝよし」

 

と書いている。
ここにも中国風獅子の話は出てこない。
遠国の物と言うが、例示されているのは日本のものなので、外国のものがあったか否か不明だ。

 

果たして、小松宮彰仁親王は中国風獅子を持ち帰ったのだろうか。

 

仮に小松宮彰仁親王が持ち帰ったものだとしても、そこからが大変なのだ。

 

常盤松に小松侯爵邸が出来たのがいつなのか、今のところ確認出来ていない。
ただ、昭和3年の地図には小松侯爵邸らしき区画は存在していない一方で、昭和5年5月17日に小松侯爵の新邸工事現場から火災が発生したとの新聞記事があるので、その頃に小松侯爵邸は常盤松に出来たと考えられる。

 

すると、明治28年の日清戦争終結から昭和5年頃までのおよそ35年間、獅子像はあちらこちら放浪したことになるわけだが、そこまでの手間をかけただろうか。

 

どこか釈然としない。

 

 

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