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2020年1月 1日 (水)

真夏の夜の夢――穏田神社の狛犬はどこから来たか(5)

5.日清戦争説――その2

 

小松宮彰仁親王には日清戦争に関わるこんな話も残っている。

 

まず、小松宮彰仁親王の三島別邸だが、ここの庭園には望楼があり、それについて日清戦争の際に持ち帰ったものという伝承が三島市には残っている(リンク先PDFファイルの7ページ)。
三島別邸は明治24年(1891)に建設されたと考えられているので、あり得ないことではないが、裏付けとなるような文書は残っておらず、またこの望楼は現存しないこともあって、検証出来ない。

 

一方、小松宮彰仁親王の渡欧にも同行した医師・土肥慶蔵の「鶚軒游戯」(昭和2年7月9日 改造社)には、このような記述がある。

 

「殿下が軍事に御心掛深き一證ともと思ひて茲に御話申すは、春秋のながめゆかしき墨田の邊、橋場の御別邸内に徳水といふ、流れに臨める小亭があります。是は日清戦争に威海衛の海中に横はりたる敵の防材のみをもて御建築になり、御襖唐紙には劉公島の景色を描かせ玉ひ、引手、釘かくしなど皆武器にかたどらせ玉ひ、床には霊鷹の置物、燭臺には帆綱を形どらせられ、爛間には丁汝昌の官宅にて得しとて海軍省より獻上せる李鴻章筆の「徳在水」の額をかかげさせられ、雪の朝、月の夕に、此亭に入らせられ、所謂治に居て乱を忘れさせ玉はぬ御志のほど、いとも尊く覚えました。」

 

つまり、橋場別邸には日清戦争の戦利品によって建てられた徳水(亭)という名の建物があったというのである。
三島別邸と橋場別邸と場所は異なるが、よく似た話である。
実は、三島別邸の望楼については、「旅順にあった李鴻章邸から移設した」との伝承もあるそうだ。
どちらにも李鴻章の名が出てきて、ますます話が似てくる。

 

この二つのものは同一のものなのではないか。
橋場別邸に建てたものを、何らかの事情で三島別邸に移築したのではないか。

 

後に詳述するが、三島別邸は明治36年2月の小松宮彰仁親王薨去の後、明治45年に李王家に譲渡されている。
一方、橋場別邸は大正3年の頼子妃の死後、少なくとも関東大震災の起こった大正12年までには無くなっている(震災後に製材所用地として橋場の土地を貸し出したとの新聞記事がある)。

 

可能性としては、明治36年12月に頼子妃が赤坂葵町の邸から橋場別邸に居を移すにあたって、徳水(亭)を三島別邸に移築したと考えられる。
そのくらいしかタイミングが思いつかない。

 

ただ、いずれにしても、土肥慶蔵の文章には中国風獅子像の話は出てこない。

 

土肥慶蔵は「鶚軒游戯」の中で三島別邸についても触れ、

 

「さて其庭の踏石燈籠など、一つとして遠国より多年御取寄せの曰くつきの物ならざるなく、若冲の五百羅漢、天明年代の三條大橋の石柱などもその中にありて、孰れも其の散逸せんことを惜しみ玉ひて、御蒐めさせられしものゝよし」

 

と書いている。
ここにも中国風獅子の話は出てこない。
遠国の物と言うが、例示されているのは日本のものなので、外国のものがあったか否か不明だ。

 

果たして、小松宮彰仁親王は中国風獅子を持ち帰ったのだろうか。

 

仮に小松宮彰仁親王が持ち帰ったものだとしても、そこからが大変なのだ。

 

常盤松に小松侯爵邸が出来たのがいつなのか、今のところ確認出来ていない。
ただ、昭和3年の地図には小松侯爵邸らしき区画は存在していない一方で、昭和5年5月17日に小松侯爵の新邸工事現場から火災が発生したとの新聞記事があるので、その頃に小松侯爵邸は常盤松に出来たと考えられる。

 

すると、明治28年の日清戦争終結から昭和5年頃までのおよそ35年間、獅子像はあちらこちら放浪したことになるわけだが、そこまでの手間をかけただろうか。

 

どこか釈然としない。

 

 

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