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2020年4月

2020年4月18日 (土)

伊東忠太の狛犬を追って(6)――樺太に残る謎――

かつて私が一部写真提供した「僕の見た大日本帝国」(西牟田靖 2005年)および「写真で読む 僕の見た「大日本帝国」」(西牟田靖 2006年)の中に、ロシア・サハリン州立博物館前にある1対の石像が紹介されています。

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特に後者には「ユジノサハリンスクの狛犬」という一項があります。

 

このユジノサハリンスクの狛犬が靖国神社型狛犬なのです。

 

自分ではまだ訪ねていないので、こちらのブログを参照してください。

 

現地では、樺太護国神社にあったものとされており、実際、古写真から、そのことは裏付けることができます。

 

こちらこちらをご覧ください。

 

日露戦争で日本領となった北緯50度以南の樺太、いわゆる南樺太には、日本統治時代に多くの神社が作られました。
その代表であり、最高位の官幣大社だったのが樺太神社です。
これは伊東忠太によって設計されました。

 

樺太護国神社は、その樺太神社に隣接していましたが、伊東忠太の設計ではありません。そこになぜ靖国神社型の狛犬があったのでしょうか。
その事情は判然としませんが、その作者については意外なところから判明しました。

 

靖国神社の狛犬の原型を製作した新海竹藏について調べるうちに、彼を追悼して出された「新海竹藏作品集」(国画会彫刻部 1969年)に行きあたりました。その巻末の年譜に、昭和10年(1935)9月に新海竹藏が、「樺太護国神社に建立の狛犬を製作」との記述があるのです。
さらに、同じ昭和10年の4月には「山形県護国神社社頭の狛犬成り24日献納式」との記述もあります。

 

同じ時期に製作されたのなら、姿が似ているのかもしれないと思い、樺太は遠いので、山形市に足を運んでみました。

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実際に見てみると、山形県護国神社の狛犬は、頭部の角度が異なるだけで、靖国神社型狛犬と言ってもいいような特徴的なものです。

 

その一方で、尻尾は靖国神社とは異なります。
それは、むしろweb上で見ることのできる樺太護国神社のものとよく似ています。

 

これらの狛犬について、伊東忠太の関与があったのか、はっきりしたことはわかりません。
なんと言っても、山形県は伊東忠太の出身地であり、新海竹蔵の出身地でもあります。
ただ、「伊東忠太建築作品」に掲載がないところを見ると、関与はないのでしょう。
と言うことは、伊東忠太の狛犬のデザインを新海竹藏が流用したのではないでしょうか。

伊東忠太には話を通していたのか、新海竹蔵が伯父・新海竹太郎以来の関係性の中で、勝手知ったるものとして独自にデザインを使用したのか。

山形県護国神社はそれでいいとして、樺太護国神社の方はどういう事情があったのか。

はっきりしないことがまだありますが、今わかる範囲でご紹介してみました。

 

最後に少しおまけ。

参照したブログの写真を見ると、博物館の庭に鯨の骨が置かれています。

実は、以前こんなことを書いたことがあります。

野外に置かれた骨が、何年くらい持ちこたえられるものかわかりませんが、もしかしたら、かつてどこかの神社の鳥居だったのではないかと、想像してしまいます。

謎はつきません。

2020年4月17日 (金)

伊東忠太の狛犬を追って(5)――靖国神社と弥生神社――

さて、靖国神社のすぐそば、北の丸公園に靖国神社型狛犬があります。

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日本武道館のすぐそばにある田安門の脇にある石段の下に、それはあります。
その石段を登った先にあるのは弥生慰霊堂です。

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弥生慰霊堂は、警視庁と東京消防庁の殉職者を祀る施設で、警察・消防版“靖国神社”とも言えます。

 

その靖国神社は、明治維新に伴う内戦である戊辰戦争を契機として、明治2年(1969)6月29日に建立された東京招魂社を起源に持ちます。
明治12年(1879)6月4日に社号が靖国神社に改められ、別格官幣社に列せられます。
そして、日本の敗戦を受けて、昭和21年に単立の宗教法人となり、今日に至ります。

 

一方、弥生慰霊堂にはもう少し紆余曲折があります。

 

弥生慰霊堂は、明治18年(1885)10月7日、弥生神社として創建されます。東京市本郷区向ヶ丘弥生町に建てられたので、弥生神社と称されたのでしょう。
明治20年(1887)に、芝公園に移転。施設も拡充されます。
しかし、明治23年(1890)4月には、鍛冶橋の警視庁本庁構内に移転し、さらに明治31年(1898)には青山墓地内の警視庁用地内に移転します。
その後、昭和6年(1931)10月に、麹町区隼町に再移転しています。
戦時下の昭和20年(1945)5月25日、東京への空襲で被災。
敗戦後、昭和21年(1946)3月に出された「国家神道の廃止に関するマッカーサー指令」により、弥生神社は廃止となります。
そこで、弥生廟奉賛会を設立し、昭和22年(1947)10月に弥生廟として現在地である北の丸公園に新たに建立されます。元々そこに警察関連施設があったからでしょう。
さらに、昭和58年(1983)に、無宗教化され、弥生慰霊堂と改称されます。

 

さて、弥生慰霊堂について調べているうちに、このような記述に出会いました。

 

「当時の記録をみると西南の役で戦死した警察職員は、招魂社(今の靖国神社)に合祀されたが、同じように国家社会のために一身を捧げた警視庁警察職員には、その功に報いるなんらの栄誉もなかったことが、弥生神社創建の直接の動機となったようである」
(「弥生廟に思う」小佐野基房『自警』昭和44年11月号 上記の来歴もこの記事を参照した)

 

西南戦争の際、元士族である西郷軍の抜刀攻撃により、徴兵制度で生まれた平民を主とする政府軍は苦戦を強いられました。
そこで、支援のため参加していた警察官により構成された警視隊の中から、剣術に優れた者を選抜して抜刀隊を編成し、西郷軍に対抗、戦果をあげました。
当時、警察官の多くは元士族であったため、こうした策が可能になったわけです。

 

この部隊の戦死者は東京招魂社、後の靖国神社に合祀されましたが、一般の殉職警察官の追悼施設がないので、弥生神社を設立した、ということです。
裏返せば、靖国神社の考える国への奉仕とは、通常の治安維持にはなく、戦争のみにあるということもできるでしょう。

 

もっとも、軍隊と警察は、どちらも武力を有する治安維持組織でありながら、しばしば対立することもある存在です。
ゴー・ストップ事件などはその象徴でしょう。
その意味では、靖国神社は軍隊への帰属意識が強く、警察に対しての意識は薄いということなのでしょう。
ちなみに、靖国神社の下部組織と言える全国の護国神社で、殉職警察官も祀っていることがサイトなどに明記されているのは、富山県護国神社・福井県護国神社・愛媛県護国神社・鹿児島県護国神社・大分県護国神社・栃木県護国神社くらいでした(2018年調べ)。

 

さて、戦後、北の丸公園に新たに建立された弥生慰霊堂(当時は弥生廟)の建設についての記述が「弥生廟奉賛会の中間報告」(川崎宗武 『自警』昭和22年5月号)の中にありました。

 

「▼一月十三日 警察練習所九段分校に於て役員会を開催、弥生廟建設敷地を風光絶佳の同所構内に決定、建設型式その他には、武本、川崎常任理事、岡山、日野常任幹事に於て研究することに決定。
次で工博伊東忠太先生、宮内省、神社本庁終戦連絡事務局に就て種々研究調査しました。」

 

弥生慰霊堂の狛犬には、何の記載もなく詳細が分らないのですが、この記述からすると、伊東忠太本人が何らかの形で関わっていた可能性があります。
であれば、靖国神社の狛犬と同型であることに不思議はありません。

 

国に尽くして殉職しても靖国神社には入れてもらえない警察・消防関係者を祀る施設に、せめて靖国神社と同じ狛犬を、という願いを持った人がいたとしても不思議はない、というのは私の妄想にしても、警察・消防版靖国神社を象徴する狛犬と考えることは出来るでしょう。

 

2020年4月16日 (木)

伊東忠太の狛犬を追って(4)――様々な伊東忠太狛犬・続き――

もうひとつ、異色のものとしては昭和9年(1934)に竣工の築地本願寺の入り口階段の上にある獅子像があります。
これは、靖国神社型狛犬に基本的には似ていますが、翼が備わっており、グリフィンと呼ぶべき姿になっています。

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あわせて、もう一つの、ふっくらしたタイプも見てみましょう。

 

千葉県市川市にある中山法華経寺の境内に伊東忠太の設計で昭和6年(1931)に建てられた聖教殿(宝殿)の前に一対の狛犬がいます。
また、聖教殿の建物自体にも獅子のレリーフが見られます。

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「伊東忠太建築作品」には、「石材彫刻原型 新海竹蔵」と書かれていますので、この狛犬(石獅)も獅子のレリーフも新海竹蔵が原型を製作したということでしょう。
(聖教殿は年に一度の曝書期間のみ公開され、それ以外の時期は閉門されている)

 

 

祇園閣(京都市)は昭和3年(1928)に大倉喜八郎が別邸・真葛荘の敷地内に建設した望楼で、設計は伊東忠太です。
祇園祭の山鉾を模したデザインで、入口の前に狛犬が一対あります。
現在は、大倉別邸跡地に移転してきた寺院・大雲院の敷地となっています(通常非公開、特別公開期間のみ見学可能)。

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ただ、この狛犬については、「伊東忠太建築作品」では写真に写っておらず、図面にも記載がありません。
中山法華経寺聖教殿のものと共通性は感じられますが、建築当初からここに存在したのか、伊東忠太が関わっているのか、やや疑問が残ります。

 

ちなみに、祇園閣のある京都市には伊東忠太設計の本願寺伝道院もあります。
明治45年(1912)に真宗信徒生命保険株式会社本館として建てられたもので、建物の周囲には特異なデザインの動物・怪獣像が配置されていますが、入口前のものが獅子像と思われます。
靖国神社型でも、ふっくら型でもありませんが、参考までに。

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一方、祇園閣とは逆に、「伊東忠太建築作品」に掲載されているものの、確認出来ずにいるものに名古屋市の覚王山日泰寺仏舎利奉安塔の石獅があります。
奉安塔の前に門があり、その中には入れないため、存在を確認出来ていません。

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2020年4月15日 (水)

伊東忠太の狛犬を追って(3)――様々な伊東忠太狛犬――

ここで、伊東忠太がデザインした狛犬について、見直してみましょう。

 

伊東忠太は数多くの神社・寺院・宗教的モニュメントの設計に関わっており、それらに様々な動物・怪獣像を設置したことで知られています。
中でも獅子・狛犬像は数多く存在します。

 

概観して見ると、デザインには大きく二つのタイプが見られます。
一つは靖国神社のような細身のシャープなタイプ。
もう一つは、豊満なふっくらしたタイプ。

 

まずは靖国神社の狛犬に通じるデザインのものを靖国神社型狛犬として、追いかけてみます。

 

私が把握している限りでもっとも古い靖国神社型狛犬は、伊東忠太が設計して明治44年(1911)に完成した、静岡県袋井市にある可睡斎護国塔にあります。
くしくも、日露戦争の戦死者の霊を祀るために建設された施設という点が、靖国神社とのつながりを感じさせます。

 

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その入口階段の柱の上に1対の狛犬が据えられています。
これは狛犬として独立したものと言うよりも、建築物に付随する装飾と呼ぶべきかもしれませんが、実体化したものとして、最初のものとは言うことができるでしょう。
靖国神社のもの同様、細い尻尾をしていますが、体の側面に流しており、また、なぜか右から吽―阿に設置されています。

 

このデザインの元は中国の獅子像だとされています。
伊東忠太が目にしたものと同じかどうかは分かりませんが、実際によく似たものが存在しています。
「中国獅」(積木文化 2006年)に掲載の北斉の獅子像と、出光美術館の「シルクロードの宝物」展の図録(出光美術館 2001年)に掲載の唐の獅子像を例示してみます。

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狛犬として独立したものでは、新潟県弥彦村の弥彦神社のものが、もっとも古いと言われています。
明治45年(1912)に社殿が焼失した弥彦神社の再建にあたって、大正5年(1916)に設置されたもので、弥彦神社によれば「匠案 伊東忠太 原型 新海竹太郎 石工 酒井八右衛門」であるとされています。

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これについて「伊東忠太建築作品」には記載はありませんが、東京文化財研究所の「新海竹太郎関連ガラス乾板データベース」の中に大正5年製作の石膏原型の写真が存在します。

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靖国神社のものと比べると、中国風の胸飾りをしており、肩のあたりに霊気のようなものが表現されています。
一方で、日本の狛犬に通じる毛並み豊かな尻尾をしており、吽像の頭上には角と考えられる丸い突起があります。

ちなみに、新海竹太郎は、靖国神社の狛犬の原型を作った新海竹蔵の伯父で、彫刻家です。
新海家は米沢藩の仏師の家系ということで、米沢出身である伊東忠太とのつながりが想像できます。

 

年代的には、この後、上杉神社、靖国神社と続きます。

 

また、「靖国神社鳥居竣成記念写真帖」には、「諏訪郡三澤村岡谷/熊野神社/昭和八年九月一日」という題箋の付いた写真があり、そこに狛犬が写っています。

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これは、片倉館からは諏訪湖対岸の岡谷市川岸上にある熊野神社のことで、狛犬も現存しています。

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これは、靖国神社のものを、台座の形状までそっくりに、しかし大きさは半分くらいに作ったものです。
ここは、片倉財閥の創立者・初代片倉兼太郎、二代片倉兼太郎の兄弟の生家のすぐ近くで、片倉家は熊野神社に隣接する真福寺の檀家でもあります。
残念ながら台座には何も刻まれておらず、詳しいことは分かりませんが、こうした事情から考えて、片倉家が靖国神社の狛犬と同じものを作らせて、奉納したものと推測できます。

 

 

2020年4月14日 (火)

伊東忠太の狛犬を追って(2)――「善ちゃんの狛犬」の謎・続き――

この狛犬には、もうひとつ、別の伝説があります。

 

長野県諏訪市に、靖国神社への鳥居奉納に協力し、狛犬奉納を行った片倉家の二代片倉兼太郎が昭和3年(1928)に作った“片倉館”という施設があります。
ここに靖国神社の狛犬の原型というものが残されています。

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前回触れた「靖国神社鳥居竣成記念写真帖」の中に「昭和八年四月七日/狛犬模型」という写真が含まれており、また、作業風景や集合写真の中に実際の狛犬と共に写り込んでもいます。
写真はモノクロですが、現在のものとは色が明らかに違います。
これは、後に着色したものでしょう。

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弾くと高い軽い音が響くので、石膏原型なのだと思われます。

 

これについて、片倉館では「靖国神社奉納/狛犬原型/高村光太郎作」と書かれた札を添えています。
しかし、「伊東忠太建築作品」を見ると、これが重大な勘違いであることがわかります。
そこには「狛犬 昭和八年三月片倉氏奉献 博士原案 新海竹藏彫刻 花崗石造」と記載されているのです。
もちろん、これは新海竹藏が石を彫ったという意味ではなく、原型を制作したということです。

 

新海竹蔵は、高村光太郎ほど世に名を知られてはいませんが、彫刻家として数多くの業績を残しています。
どこで名前が入れ替わったのかはわかりませんが、誤伝であることは間違いありません。

 

こうして見ると、靖国神社の伊東忠太の狛犬には、根拠のない伝説ばかりがつきまとっているようです。

 

ところが、そうでもないのではないかと思うものを見つけました。

 

山形県米沢市の米沢城跡に上杉神社があります。
そこに1対の狛犬があります。
それが、伊東忠太の狛犬なのです。

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境内に掲げられた由緒書に、以下のようなことが書かれています。

 

――大正八年米沢市の大火後同十二年米沢出身建築界の泰斗伊東忠太博士の設計により現在の神殿を始め一切を竣成したのである。――

 

補足すると、大正8年(1919)の米沢市大火によって社殿が焼失したため伊東忠太の設計により大正9年9月起工、大正12年4月に竣成した、ということになります。

 

狛犬の台座には「大正十二年四月」(1923)と刻まれており、再興された社殿の竣成時に、この狛犬も同時に設置されていたものと判断できます。

これも「伊東忠太建築作品」に掲載されており、「狛犬 一対 総高八尺二寸 稲田産小花崗石造 博士原案 深見宗一彫刻」と記載されています。確かに狛犬の台に「彫刻師 深見宗一」とあります。


そして、台座にはこれを彫った石工の名前も刻まれていました。

 

 石工 東京 瀧山善太郎

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「善太郎」となると、いやでも「善ちゃん」を思い浮かべてしまいます。
「善ちゃん」伝説は、靖国神社ではなく、この上杉神社の狛犬に対するものだったのでしょうか。

 

東京の石工なので、全日本参道狛犬研究会編「参道狛犬大研究――東京23区参道狛犬完全データ――」(ミーナ出版 2000年)を確認してみたところ、1対、瀧山善太郎の名が刻まれた狛犬があることがわかりました。
乃木神社の狛犬です。

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この狛犬の台座には「彫刻原型 長谷川栄作/同 石工 滝山善太郎」とあります。
面白いことに、上杉神社のものは伊東忠太デザインであり、こちらは長谷川栄作による原型がある、つまり、いずれも伝統的な狛犬とは異なる、芸術家によって独自にデザインされたものということになります。
瀧山善太郎は、そうした芸術家に重用された石工だったのかもしれません。

 

しかし、乃木神社の狛犬は昭和3年(1928)に設置されたものです。
つまり、上杉神社の後にも生きていることになります。

 

「善ちゃん」伝説では、狛犬を作り上げて死ぬわけですから、実は上杉神社の狛犬こそが「善ちゃん」の狛犬だとは言えなくなってしまいます。

 

とは言え、「善ちゃん」が瀧山善太郎なら、「善ちゃん」伝説にも、何かひとかけらの真実が含まれているように思えます。

 

2020年4月13日 (月)

伊東忠太の狛犬を追って(1)――「善ちゃんの狛犬」の謎――

かつて、「善ちゃんの狛犬」として狛犬ファンに知られた狛犬がありました。
靖国神社の内堀通り側に開いた鳥居の前に居る狛犬のことです。台座によれば、「昭和八年三月」(1933)に「片倉同族」によって寄進されたものです。

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なぜ「善ちゃんの狛犬」かというと、三遊亭円丈著『THE狛犬コレクション』(立風書房1995年)で紹介されたエピソードからです。それはまとめるとこういうものです。

 

――かつて靖国神社で狛犬のデザインを公募した。それに当選したのが、狛犬では都内有数の石工、青山の石勝だった。そして、当然その製作も請け負った。はじめは石勝こと中村勝五郎がおよその形を作り、配下の職人「善ちゃん」が仕上げをした。この狛犬は完成までに1年半を要したが、「善ちゃん」は途中で病気になってしまった。しかし、気力を振り絞ってこの狛犬を完成させ、その3日後に世を去った。――

 

しかし、調べてみると、『靖国神社百年史 資料編中』(靖国神社 1983年)に、この狛犬についての詳細な記録があり、このエピソードは事実と異なるということがわかりました。
それによると、この狛犬の完成までの経過はこうなります。

 

――岡山県議の鶴田蓑輔は自身が所有する巨大な鳥居用の花崗石素材を靖国神社に奉納したいと思っていたが、その加工・運搬の資金がなかった。製糸業などで財をなした長野県の片倉家では、それを知って、資金援助を申し出た。
片倉家では、この鳥居奉納につき、口頭での申し込みの後、昭和7年10月18日に正式に申請を行い、11月7日に認可の通知がなされた。
その後、12月20日に、鳥居とともに狛犬を奉納したい旨の追加申請を行い、同23日に認可された。
以上の工事については、社務所が指定する工事監督の下、昭和8年6月までに完成することという条件が課された。この工事監督に指定する人物の中に伊東忠太がいた。この伊東忠太によって、鳥居と狛犬の設計がなされた。
鳥居と狛犬は、ともに昭和8年3月奉納と刻まれているが、実際には同年4月12日に竣工し、翌13日に竣成祭が行われた。――

 

事の発端となった鶴田蓑輔は岡山県・北木島の金風呂で明治21年に生まれ、岡山県議の前は北木島が属する笠岡町(現笠岡市)の町長も務めています。北木島の石材業の基礎を作った畑中平之丞の畑中有限会社の後を継いで、北木島石材会社をつくり石材業を発展させた人物です(昭和50年没)。

 

さて、この経緯からわかるように、狛犬は伊東忠太のデザインによるものです。
実際、「伊東忠太建築作品」(城南書院 1941年)には、伊東忠太作品としてこの狛犬の写真が掲載されています。

 

さらに、靖国神社の図書館に「靖国神社鳥居竣成記念写真帖」(片倉家 昭和8年)という資料が残されていました。
その中に「昭和八年四月七日/狛犬彫刻作業」という題箋の付いた写真があり、そこに写っている石工の着ている法被には「茨城石材合資会社」と書かれています。

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実は、「靖国神社百年史」の記述では、狛犬の素材は稲田石となっているのですが、これは茨城県産の石材ですので、茨城石材合資会社が関わることに疑問はありません。
その他に「斎藤」「遠藤」と書かれた法被の人物もいますので、茨城石材合資会社が元請、彼らが下請ということになるのでしょう。
つまり、そもそも石勝が製作したものではなかったのです。
(ただし、稲田石について展示している茨城県笠間市の石の百年館で尋ねたところ、稲田石は硬くて細工には向かないため細工物を制作する職人は稲田にはいないとのことだった。その代り、石が均質で、すが入っていないので大きな石材が取れる利点があるという)。

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