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2020年4月13日 (月)

伊東忠太の狛犬を追って(1)――「善ちゃんの狛犬」の謎――

かつて、「善ちゃんの狛犬」として狛犬ファンに知られた狛犬がありました。
靖国神社の内堀通り側に開いた鳥居の前に居る狛犬のことです。台座によれば、「昭和八年三月」(1933)に「片倉同族」によって寄進されたものです。

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なぜ「善ちゃんの狛犬」かというと、三遊亭円丈著『THE狛犬コレクション』(立風書房1995年)で紹介されたエピソードからです。それはまとめるとこういうものです。

 

――かつて靖国神社で狛犬のデザインを公募した。それに当選したのが、狛犬では都内有数の石工、青山の石勝だった。そして、当然その製作も請け負った。はじめは石勝こと中村勝五郎がおよその形を作り、配下の職人「善ちゃん」が仕上げをした。この狛犬は完成までに1年半を要したが、「善ちゃん」は途中で病気になってしまった。しかし、気力を振り絞ってこの狛犬を完成させ、その3日後に世を去った。――

 

しかし、調べてみると、『靖国神社百年史 資料編中』(靖国神社 1983年)に、この狛犬についての詳細な記録があり、このエピソードは事実と異なるということがわかりました。
それによると、この狛犬の完成までの経過はこうなります。

 

――岡山県議の鶴田蓑輔は自身が所有する巨大な鳥居用の花崗石素材を靖国神社に奉納したいと思っていたが、その加工・運搬の資金がなかった。製糸業などで財をなした長野県の片倉家では、それを知って、資金援助を申し出た。
片倉家では、この鳥居奉納につき、口頭での申し込みの後、昭和7年10月18日に正式に申請を行い、11月7日に認可の通知がなされた。
その後、12月20日に、鳥居とともに狛犬を奉納したい旨の追加申請を行い、同23日に認可された。
以上の工事については、社務所が指定する工事監督の下、昭和8年6月までに完成することという条件が課された。この工事監督に指定する人物の中に伊東忠太がいた。この伊東忠太によって、鳥居と狛犬の設計がなされた。
鳥居と狛犬は、ともに昭和8年3月奉納と刻まれているが、実際には同年4月12日に竣工し、翌13日に竣成祭が行われた。――

 

事の発端となった鶴田蓑輔は岡山県・北木島の金風呂で明治21年に生まれ、岡山県議の前は北木島が属する笠岡町(現笠岡市)の町長も務めています。北木島の石材業の基礎を作った畑中平之丞の畑中有限会社の後を継いで、北木島石材会社をつくり石材業を発展させた人物です(昭和50年没)。

 

さて、この経緯からわかるように、狛犬は伊東忠太のデザインによるものです。
実際、「伊東忠太建築作品」(城南書院 1941年)には、伊東忠太作品としてこの狛犬の写真が掲載されています。

 

さらに、靖国神社の図書館に「靖国神社鳥居竣成記念写真帖」(片倉家 昭和8年)という資料が残されていました。
その中に「昭和八年四月七日/狛犬彫刻作業」という題箋の付いた写真があり、そこに写っている石工の着ている法被には「茨城石材合資会社」と書かれています。

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実は、「靖国神社百年史」の記述では、狛犬の素材は稲田石となっているのですが、これは茨城県産の石材ですので、茨城石材合資会社が関わることに疑問はありません。
その他に「斎藤」「遠藤」と書かれた法被の人物もいますので、茨城石材合資会社が元請、彼らが下請ということになるのでしょう。
つまり、そもそも石勝が製作したものではなかったのです。
(ただし、稲田石について展示している茨城県笠間市の石の百年館で尋ねたところ、稲田石は硬くて細工には向かないため細工物を制作する職人は稲田にはいないとのことだった。その代り、石が均質で、すが入っていないので大きな石材が取れる利点があるという)。

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