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2020年11月

2020年11月12日 (木)

狛犬スッタモンダ(2)

さて、牛天神北野神社の狛犬の作者として「運慶」の名が出てくる。
前回の各種記述から、「江戸名所図会」「江戸志」が成立した18世紀後半には、この狛犬は運慶の作と言われていたことはわかる。
前回、徳川光圀の名が息子の松平頼常よりも前面に出てきてしまったのは明治以降だと推測してみたが、それより前から運慶の名は出ていたことになる。

 

だが、果たしてこれは運慶作の狛犬なのだろうか。

 

運慶作とされる狛犬としては重要文化財に指定されている八坂神社の狛犬がある。

 

https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/3511

 

リンク先に写真がないので、私が持っている古い絵葉書のものを載せておく。
これをモデルにしたものが、現在東山通り側の楼門の前にある狛犬だ。

Photo_20201111233301

その他、検索してみると、いくつか運慶作とされる狛犬が見つかる。

 

談山神社

 

http://www.tanzan.or.jp/about/culture.html

 

大國魂神社

 

https://www.ookunitamajinja.or.jp/homotsu/homotsu-03.php

 

清水寺境内の地主神社には、運慶奉納とされる狛犬があるようだ。

 

https://www.jishujinja.or.jp/history/monogatari/winter.html

 

手向山八幡宮の狛犬も運慶作とされているようだ。

 

http://www.komainu.org/nara/narasi/tamukeyama/tamukeyama.html

 

一方、運慶の子・湛慶の作とされる狛犬が高山寺にある。

 

https://kosanji.com/about/national_treasure/

 

こちらには、阿形の洲浜座の裏に「嘉禄元年」(1225)の銘があると言うことなので、その分信憑性が高い。
ちなみに、運慶はこの前年に亡くなっている。

 

重文指定されている八坂神社のものと、高山寺のものは、作風に似た感じがあるように思う。
これが慶派の作風だとすると、談山神社や大國魂神社のものも少し怪しげに見えてくる。

手向山八幡宮のものに関しては、伊東史朗氏があえて古い時代の作風を取り入れたのではないかと考察されている論考があり、八坂神社・高山寺のスタイルとかけ離れているのは、それで説明はつく。

 

https://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/15/015_sakuhin_a.pdf

 

しかしながら、牛天神のものが運慶の作とは信じがたい。

 

牛天神の神殿狛犬の写真と、神社の見解はこちらにある(ページの下の方)。

 

http://blog.livedoor.jp/km1133462-komainu_fun/archives/1603199.html

 

そもそも、御所・宮中というのは有職故実によって形成されてると言っても良い。
一度作られた形式は、みだりには手を加えたり変更したりしない。
当然、狛犬も、時代によって新調されたり、補修されたりしただろうが、前例を踏襲したものと思われる。
そう考えた時、現在京都御所にある狛犬と比較して、牛天神のものは随分と姿が異なる。

 

http://www15.plala.or.jp/timebox/top/05komamori/75/seiryoden.html

 

牛天神の狛犬が、御所から江戸城、水戸家を経てやって来た狛犬だとしたら、それは奇異な事に思える。

 

実は、「寺社書上」を見ると、興味深い事がわかる。
当時は神仏習合だったので、牛天神の境内にも本地堂があり、そこに十一面観世音が本尊として祀られているのだが、それについて「木立像丈七寸運慶ノ作」と書かれている。
さらに末社の護摩堂には不動明王が祀られており、それについても「木立像運慶作丈一尺一寸八分」とある。

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また、金杉天満宮の別当・龍門寺(現在は廃寺)についての記述もあるのだが、そちらには本尊の阿弥陀如来、脇侍の観音勢至、いずれについても「恵心僧都作」と書かれている。

 

平安時代の恵心僧都(源信)、鎌倉時代の運慶の作品が、そういくつも転がっているはずはない。
ここまで来ると、神社の箔をつけるために、有名人の名を騙ったのだろうと疑いたくなる。

 

例えば、ヨーロッパの教会では信者を集めるために、自分の教会には「聖遺物」(キリスト教の偉人の骨や所持品など)があると喧伝する事が多々あった。
時に、その「聖遺物」の争奪戦が行われたりもしたという事を「盗みの文化誌」(泥棒研究会編著 青弓社 1995年)という本によって知った。
もちろん、「聖遺物」がそんなにいくつも都合よく存在するわけはなく、捏造されたものも存在した。
オカルト界で有名な「トリノの聖骸布」なども、結局はそういうものなのだと私は思っている。

 

仏教でも、釈迦の骨が入っているという仏舎利の中身を世界中から集めたら、「北京原人の逆襲」もビックリの巨人ができあがるだろう。

 

宗教とは、人間の聖性と俗性、その両方の極地を示すものなのだ。

 

だから神社から言われた事を素直に受け入れるような事はためらわれる。

 

一応、そういう結論にしておく。

 

2020年11月11日 (水)

狛犬スッタモンダ(1)

『東京スッタモンダ』(旅行読売臨時増刊 2020年9月15日 旅行読売出版社)という書籍に「狛犬ライターと行く 狛犬さんぽ」(ミノシマタカコ)というコーナーがあった。

 

その中に、文京区にある牛天神北野神社の神殿狛犬が紹介されている。
そこにはこうある。

 

「また、本殿には徳川光圀公が寄贈した狛犬が。黄金色に輝く木製で、なんと鎌倉時代の仏師・運慶が手がけた貴重なもの。」

 

神社からそう説明されたから、そう書いているのだろうが、色々と引っかかる所がある。

 

まず来歴について考えてみる。

 

この狛犬のことは、「江戸名所図会」の「牛天神社」の項目にも記述がある。
そこにはこうある(ちくま学芸文庫版に基づく。文中の註は略した)。

 

「降魔狗(社壇に収む。鎌倉仏師運慶の作なりといふ。往古、大猷公、禁闕にありしを江戸の大城へ移させたまひ、その後水戸黄門光圀卿に賜せられしを、讃州の太守頼常君当社崇敬厚く、元禄五年壬申社壇重修の頃寄附せられたりといへり)。」

 

「江戸名所図会」同様、江戸時代に編集された地誌「江戸志」では、以下のように書いている(国会図書館デジタルアーカイブから読み下し)。

 

「當社の獅子降魔狗は運慶の作にして往古ハ禁中にありしを 御城の宝器となりしを水戸黄門公拝領在て讃州太守頼常公に進せされ其後元禄五壬申年五月讃州太守當社御造営の節かの降魔狗御寄附ありいつの頃よりかこのこま狗へ遠近の老若種々の願をいのるに叶はすといふ事なし」

Photo_20201111231601

また、江戸の寺社についての資料に、「寺社書上」というものがある。
国会図書館による解題には「寺社書上」についてこう書かれている。

 

「江戸幕府は文化7年(1810)に地誌編輯局を新設して、武蔵国の地誌「新編武蔵風土記」の編集を始めたが、江戸府のことは別に編するのが適当と考えられ、文政9年(1826)から「御府内風土記」の編集を始め、史料蒐集に着手した。文政12年(1829)に同書は完成したが、明治5年(1872)宮城火災のおりに焼失した。しかし編集に備えた資料はその災をまぬがれて今日に伝わり、「御府内備考」と称されている。これらの資料は主として町々および各寺社からの書上げさせたものに基づくものである。
 つまりこの「寺社書上」と「町方書上」(当館請求記号:803-1)は、「御府内風土記」の史料として提出させたものであり、文政8年(1825)から同12年(1829)までのものであるが、江戸地誌として重要であるだけでなく、史料としても貴重なものである。(以下略)」

 

つまり寺社自身の自己申告によるものだが、そこに、当時は金杉天満宮と呼ばれていた牛天神北野神社の項目もあり、そこにはこうある(国会図書館デジタルアーカイブから読み下し)。

 

「當社の獅子降魔狗は運慶の作にして往古ハ禁中に在しを大猷院様御代御城の御宝器となりしを水戸中納言光圀公拝領在て其後讃州の太守頼常公の進せられ頼常公當社を殊に御信神在て其後元禄五年壬申五月當社御造営の節降魔狗御寄附在り何時よりか此降魔狗へ遠近の老若種々の願を祈に叶ハすといふことなし
実に此降魔狗ハ不動□の□尊にして無明降伏の大力士不二の古體なればいつれの人か神かならんや」

Photo_20201111231701

私の読み下しなので、不正確な所はあるが、内容はわかる。
つまり、元々京都の御所(禁闕・禁中)にあったものを徳川家光(大猷公)が江戸城に移し、その後、徳川光圀が拝領し、さらに光圀の子で讃岐高松藩主となった松平頼常が譲り受け、頼常が牛天神の社殿の改修造営を行った際に牛天神に寄附した、と言うことになる。

 

ここでまず言える事は、牛天神との関わりが深いのは光圀ではなく、その息子である頼常であると言うことだ。
社殿の建て替えまでしてくれた頼常の名前を飛ばして、ビッグネームである光圀の方に話を寄せていくというのは、恩知らずと言われても仕方がないだろう。

 

もっとも、明治23年(1890)に刊行された「東京名所図絵」という本には、

 

「當社の降魔狗は鎌倉の佛工運慶の作なりと云ふ往昔禁闕にありしを将軍家乞ひ得て江戸城に移されしを後ち水戸家に賜はりしを故ありて當社に寄附せられしと云ふ」

 

と記述されている。
過去の記述と矛盾はないが、「故ありて」の部分に事の次第が覆われてしまって、誤解を生じる余地を生んでいる。

 

このあたりからの流れで、明治時代以降に水戸光圀の名前が前面に出てきてしまったのだろう。

 

ところで気になるのは、「寺社書上」と「江戸志」の記述が、文言まで酷似している事だ。
「寺社書上」の記述は、項目の最後に「丙戌」とあるので、文政9年(1826)に書かれたもの。
一方、「江戸志」は安永2年(1773)の成立という。
考えられるのは、両者が共通して参照した資料が存在するか、「寺社書上」の方が「江戸志」をなぞったか、である。

後者だとすると、当時の金杉天満宮には、狛犬についての口伝は残っていたが、明確な根拠となる文書類は存在しなかったという事になる。
前者の可能性は薄いだろう。
実際問題として現在では徳川光圀寄贈と喧伝されているわけだから、前者のような資料が存在したとは思えない。


つまり、口伝を元に「江戸志」や「江戸名所図会」が書かれ、それを元にして「寺社書上」が書かれたという、完全なマッチポンプ状態なのではないかと言うことだ。
そうなると、そもそも狛犬の来歴が正しいかどうかすら、保証の限りではないという事になってしまう。
さすがに、松平頼常による社殿改修までもが事実ではないという事はないと思うが、狛犬が頼常の寄附かどうかは確証がない。
改修工事のあった元禄5年(1692)から「江戸志」成立まででも約180年、そこから「寺社書上」提出まで約50年、伝承に尾ひれが付くには十分すぎる時間である。

 

真相は如何に?

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