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2021年12月

2021年12月 3日 (金)

話が長い狛犬(4)

この狛犬は、本編サイトでも紹介しているが、長い銘文というと、どうしても思い出すので、改めて取り上げてみる。

 

三重県津市にある三重県護国神社の社前にはブロンズ製の狛犬がある。
特異な姿をしているうえに、口元は阿阿になっている奇妙な狛犬だ。

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この狛犬の台座にはブロンズ製の銘板が嵌め込まれている。

 

向って右側の台座には

 

「奉納/青銅狛犬 壹對/昭和三十二年十月吉日/桑名市矢田町/遺族 伊藤軍市郎/右世話人/桑名市江場町/水谷喜郎/桑名市東方町/平林儀三郎/鈴鹿市若松町/樋口博」

 

とある。

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一方、左側には、以下の文章が刻まれている。

 

「狛犬由来記
 桑名市矢田町/遺族伊藤軍市郎氏献納
此の青銅狛犬は大東亜/戦に應召せるも疎開先に/て終戦となり無傷のまま/鍋吉工場に復員せり
今回護国神社造営に際/志英霊奉護の御使として/卒先奉納さる寔に奇特の/至りにて其の敬神篤志永/く後昆に可傳
 昭和三十二年十月造営竣工記念
 三重県護国神社宮司 林栄治記」

 

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また、石造の台座部分には

 

「御造営記念/狛犬台石奉納/四日市/山本石材有限会社/山本□□」

 

の文字が見える。

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三重県護国神社は明治2年(1869)に津藩主・藤堂高猷が津八幡宮に設けた表忠社を起源とし、「招魂社」「官祭招魂社」と社名を変え、昭和14年(1939)に三重縣護國神社となった。
現在地に移ったのは明治42年(1909)だが、昭和20年7月(1945)の空襲により被災。
焼け残った本殿を含め、再建造営されたのが昭和32年(1957)で、この青銅狛犬は、その際に奉納されたものということになる。

 

この狛犬について、三重県護国神社のサイトに詳述されている。

 

なぜ、この狛犬が阿像のみの1対なのかについての記述は、疑問だらけだが、一旦、不問に付すとして、ここに重要なことが書かれている。
奉納者を「桑名市の鍋吉鋳造所の鋳物師 伊藤軍市郎氏」としていることだ。
銘文ではそこまでは明記されていない。

 

そこで「伊藤軍市郎」を検索してみたところ、どうやら伊藤軍市郎の鍋吉鋳造所は梵鐘を多く手がけていたようで、以下の寺院の梵鐘は伊藤軍市郎の作とされている。

 

正願寺(岐阜県安八郡神戸町)昭和23年8月奉納
瑞応寺(三重県員弁郡東員町)昭和23年10月奉納
了順寺(三重県桑名市)昭和33年4月奉納
影現寺(奈良県葛城市)昭和36年4月奉納

 

影現寺以外は、戦時中の供出で失われた梵鐘を再建したものであることが伝わっているようだ。

 

銘文の「鍋吉工場」が鋳造所で、「伊藤軍市郎」が鋳物師だとなると、様々に考えるべきことがある。

 

鋳物師のような金属加工の専門家は、金属類回収令にどのように関わったのか。
軍需物資の生産には、どう関与したのか。

 

そうした過程の中で、伊藤軍市郎はどう振る舞い、そして、狛犬はなぜ鍋吉鋳造所に残されたのか。

 

いろいろな可能性が思い浮かぶ。

 

○供出された青銅狛犬を鋳つぶして金属材料にするため、鍋吉鋳造所に運び込まれたが、伊藤軍市郎はこの狛犬を鋳つぶすことをためらい、作業を後回しにしたため、「無傷」で終戦後まで残された。

 

○この狛犬は鋳物師である伊藤軍市郎自身の作品で、一度はどこかの神社に設置されたが、鋳つぶすために戻されてきたので、供出したくなかった伊藤軍市郎が隠匿しておいた。

 

○銘文に「遺族 伊藤軍市郎」とあるように、伊藤家の誰かが戦死しており、狛犬はその人物が作ったものであるため、遺品として供出せずに置いておいた。

 

といった想像ができる。

 

もちろん、いずれも根拠のない妄想に過ぎず、真相はわからない。

 

だが、真相はどうあれ、狛犬のたどった数奇な運命の中に、伊藤軍市郎の苦悩が感じられる。

 

2021年12月 2日 (木)

話が長い狛犬(3)

群馬県高崎市南町の愛宕神社に昭和9年11月(1934)奉納の狛犬がある。

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阿像側に

 

「奉納者/高崎菊菓会員/発起人/武井文策/昭和九年十一月/高崎市外田中/刻 永井數惠」

 

「高崎製菓業組合/組合長/清野義一郎/高崎市南町
 高崎市菓子商組合/副組合長/須永松太郎/高崎市八島町
 高崎市菓子商組合/理事/井上秀武/高崎市本町
 高崎市製菓業組合/副組合長/武井文策/高崎市中紺屋町」

 

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とあり、吽像側に

 

「高崎菓子業組合聯合会長/高崎商工会議所副会頭/高崎市本町/石坂実
 群馬県菓子業組合聯合会長/高崎商工会議所議員/高崎市連雀町/清水浜吉
 高崎市菓子業組合理事/高崎市中紺屋町/中島理一
 全国パン業組合理事長/高崎市桧物町/松浦福三郎」

 

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とある。

 

さらに、吽像側には、このような銘文が刻まれている。

 

「昭和九年十一月/天皇陛下統監陸軍特別/大演習於群馬栃木埼玉/三縣平野置大本営於群/馬縣廳舎□□観兵式於/乗附練兵場賜□於歩兵/第十五聯隊営庭於演習/関係下賜十六菊花御紋/章入菓子者數萬人恭□/賞功奨□尚歯犒労以博/愛民之聖慮也焉□官豫/卜場於群馬會館使精業/者謹製之人皆斎戒沐浴/専念全社□□當時従事/者中高崎在住別記八/名□盟稱菊菓會醵費以/石刻狛犬一對獻之當社/□永記念光栄是因感恩/頌□之誠意也/昭和九年十二月□旦□需關吉清竝書」
(□は判読できなかった)

 

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昭和9年11月に北関東で大規模な軍事演習=陸軍特別大演習が行われた。
大元帥たる昭和天皇は、もちろんこれに参加している。
演習は11月11日から13日まで行われ、11月14日には観兵式が開かれた。
その後、11月15日から17日まで行幸が行われ、18日に皇居に還御している。

 

台座の銘文によれば、この際に下賜された菊の紋章の入った菓子の製造を、群馬県の製菓業者が請け負い、そのうちの高崎市内の業者8名が、その栄誉の記念に菊菓会を結成し、狛犬を奉納したということになる。

 

この大演習と行幸について記録した「昭和九年陸軍特別大演習並地方行幸足利市記録」(昭和11年11月25日 足利市役所)には

 

「今般陸軍特別大演習に際し、思召を以て、高齢者・篤行者及軍人遺族竝傷痍軍人に對して、御紋菓御下賜の沙汰あり」

 

との記述がある。
そして、「昭和九年陸軍特別大演習並地方行幸高崎市記録」(昭和10年6月25日 高崎市)には「御紋章入御菓子の謹製」との項があり、以下のように書かれている。

 

「大演習賜饌竝高齢者及傷痍軍人等御下賜用の御紋章入御菓子謹製に関しては、前橋、高崎両市の菓子業者十六名謹製の御下命を拝受し、群馬会館内商品陳列室を謹製所として諸般の準備を整へ、十月一日午前十一時より金井宮廷係長、前橋、高崎両市長、両商工會議所會頭外来賓多数列席し、厳粛なる修抜式を挙行して、謹製に着手し、厳選せられたる従業員七十名は、毎朝六時起床し、朝食の後制服を著け、宮城を遙拝して謹製に當れり、かくて十月二十八日謹製を了し、宮内省掛員に納付申上げたり。」

 

そして、高崎市内の8業者が列挙されている。

 

高崎市本町 徳若商店 石坂實
同 連雀町 日英堂  清水濱吉
同 中紺屋町 高榮堂 中島理一
同 南町       清野義一郎
同 中紺屋町     武井文策
同 本町 亀鶴堂   井上たま
同 檜物町 松浦製菓 松浦福三郎
同 八島町 梅玉堂  須永松太郎

 

狛犬の台座では店の名前がなかったが、こちらには店名がある。
また、台座では井上秀武となっているが、こちらでは井上たまとなっている。
おそらく、これは母子なのだろう。
主人が死んで息子が後を継いだが、店の名義が母親の方だったのではないか。

 

そして、「昭和九年陸軍特別大演習並地方行幸記念写真帖」(昭和10年4月25日 群馬県)を見てみると、その中に「御紋菓謹製」「御紋菓」という写真が掲載されている。
これが彼らが製造した御菓子だろう。

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ちなみに、前橋側の業者名がわからないかと思い、「昭和九年陸軍特別大演習並地方行幸前橋市記録」(昭和11年8月15日 前橋市)を確認してみたが、業者名はおろか、下命を受けたことの記述も見当たらなかった。

 

私はまだ、前橋市内の狛犬を見に行ったことがないのだが、前橋側の業者は狛犬を奉納したりしてはいないのだろうか。
それとも、高崎の真似になると思って、狛犬以外のものを記念としたか。

 

前橋に行く際の宿題が出来てしまった。

 

しかし、演習が行われたのが昭和9年11月なのに、同じ月に狛犬が奉納されているのは、いささか仕事が早すぎる気もする。
とは言え、菓子の製造自体は10月1日から始まっているし、業者の選定はそれ以前のことだろうから、選定を受けてすぐに狛犬を発注すれば、間に合わないこともないだろう。

 

あるいは、狛犬の奉納自体は後日で、日付だけ大演習のあった11月にした可能性も考えられる。

 

いずれにせよ製菓業者たちの得意気な顔が見えるようである。

2021年12月 1日 (水)

話が長い狛犬(2)

東京都稲城市の坂浜天満神社には、4対の狛犬がある。

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嘉永4年(1851)、明治33年(1900)、明治42年(1909)、大正11年(1922)のもので、狛犬好きなら訪れる価値のある神社だ。

そのうちの大正11年奉納の狛犬は、名工と言われる溝口の石工・内藤慶雲の作だ。
意外にも向って右から吽―阿となっている。

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そのうちの阿像に以下の銘文が刻まれている。

 

「献狛狗之記
是係榎本長吉君所建設君/武州南多摩郡稲城村坂濵/人父三次郎母代君其次男/也幼而懐志漂遇四方師事/箕輪氏専究農蚕具改良之/事君資性質實修道*徳特/敬神念篤氏深愛君娶以其/□作女後従氏倶出東京益/鋭意農具改良偶有所感祈/願天満宮得霊護斯業最熾/矣感激之餘奉献石狗兩體/以謝併長禱霊□云爾
大正十一年三月廿五日
従五位勲三等香山剛毅謹誌」
(*=「冫」に「亟」、「涵」の異字か □は判読できなかった)

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奉納者の榎本長吉の名は『人事興信録』(第八版 昭和3年)に見ることが出来る。
職業は農具製造業。
明治8年(1875)生まれで、明治45年(1912)に分家して独立している。
妻は箕輪庄左衛門の二女サクとなっている。
銘文中にある「師事箕輪氏」とは、この箕輪庄左衛門のことで、「娶以其□作女」の「作」が妻のサクのことだと思われる。
現住所は浅草になっているので、稲城から東京に出て、農具製造で一家をなしたということだろう。
残念ながら、その農具製造業がその後どうなったのかは、検索しただけではわからなかった。

 

一方、銘文を書いた香山剛毅だが、検索してみると陸軍主計に同名の人物がいる。
昭和2年12月に従四位に叙任された際の公文書が残っており、それによると大正12年6月30日に正五位に任ぜられ、昭和2年12月16日に陸軍主計総監となっている。
また、明治42(1902)年12月1日付「官報 第7932号」には、「任陸軍三等主計正 陸軍一等主計従六位勲五等 香山剛毅」との記載がある。
これらから判断すると、狛犬が奉納された大正11年3月時点で「従五位勲三等」であったとして不自然な点はないので、これは同一人物だろう。

 

だとすると、なぜ陸軍主計が狛犬の奉納についての銘文を書いたのか、榎本長吉と香山剛毅の関係はどんなものだったのか、気になる。
しかし、これ以上の情報は見つからなかった。

 

関係性ということでは、もう一つ気になることがある。

 

問題の狛犬の前に、明治42年(1909)奉納の狛犬がある。
こちらには「上染屋/石工 村野正季」とある。
同じ稲城市内の北辰妙見宮に、「上染屋住/霞山村野正年彫」と刻まれた明治39年(1906)の狛犬があるが、同じ石工グループの作品ということになるのだろう。
これはこれでよく出来た狛犬だが、スケール感では内藤慶雲のものには及ばない。

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この狛犬の奉納者が「願主 榎本金藏」となっている。

 

この榎本金藏と榎本長吉の関係が気になる。
同じ榎本姓だけに、親族である可能性はある。
榎本長吉は榎本三次郎の次男と銘文にある。
仮に、榎本金藏が榎本三次郎の長男だと想像してみる。
すると、長男より大きな狛犬を、次男が同じ神社に奉納したことになる。
分家して家を出た次男が成功して、長男より大きな狛犬を奉納したと考えると、なかなか微妙なものを感じてしまう。

 

実際のところはわからないが、そんな想像を逞しくしてしまう狛犬である。

 

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