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2022年6月

2022年6月10日 (金)

東照宮と狛犬(8)

さて、松平信一の没年(1624)から、狛犬の奉納は最初の安国殿に対してなされたことになる。
その安国殿は移築され、さらに、三度目の安国殿は場所を移動している。

松平信亨によって狛犬が再建されているわけだから、再建奉納された天明八年(1788)より前に信一の狛犬は破損したか、失われたかして、再建が必要な状況になっていたことになる。

何かそうした記録はないかと国立公文書館や東京都公文書館に残っている安国殿に関する古文書をあたってみたが、社殿などの修復工事の記載はあるものの、狛犬への明確な言及はない。

安国殿への町人の参拝が可能になったのが、寛永十八年(1641)に造立された三度目の安国殿からだとしても、目黒不動尊に狛犬が奉納された承応三年(1654)よりは前ということになる。

ただ、三度目の安国殿は場所を移動しているわけだから、信一の狛犬もそこに移設されていなければ、町人の目に触れることはない。

信一の奉納した狛犬が、木造の神殿狛犬だった場合、最初の安国殿が開山堂として移築された時に、一緒に移された可能性がある。
社殿新築にあたって、殿内の調度を新しくすることはよくあることだからだ。
あるいは三度目の社殿が新築された際に、二度目の社殿に残されたかも知れない。

ただ、石造参道狛犬であれば、また事情は異なる。
参道狛犬は建物の外にあるので、建物が改築されても、そこに残っているはずだ。
問題は三度目の造営で場所が移動していることだが、狛犬の移設は難しいことではない。

現に二の丸東照宮の狛犬は仙波東照宮に移設されている。

信一は狛犬を奉納したのか。
それは石造参道狛犬だったのか。

そうあって欲しいと、私は思うのだが、いまのところ信亨が狛犬の台座に刻ませた「再建」という文字しか、信一が狛犬を奉納したという証拠はない。

最後に、願望と妄想を書いてみる。

信一が奉納したのは笏谷石狛犬ではなかったか。

家康所縁の地である愛知県岡崎市の糟目犬頭神社には慶長十年(1605)銘の小型(総高21.5㎝)の笏谷石狛犬と慶長十五年(1610)銘の笏谷石狛犬(高さ75.5~77㎝)がある。
後者は初代岡崎藩主本多豊後守康重の奉納によるもの。
前者は康重が糟目犬頭神社に笏谷石製の鳥居を奉納した際に、それを請け負った市川猪兵衛正重が、そのお礼として製作・奉納したものとされる。

笏谷石狛犬の存在が三河まで知られていたのなら、三河時代から家康を知る信一が笏谷石狛犬を奉納する意味はあると感じるのだがどうだろう。

もちろん、日光や仙波の東照宮の狛犬を見ると、形式的にも、造形的にも、技術的にも、きちんとしたもので、見よう見真似で作った稚拙なものではない。
その時点では江戸周辺には、ちゃんと狛犬の作れる石工がいたわけで、関東圏外から狛犬を持ち込まなければいけない理由はない。

ただ、信一の安国殿への奉納は、それよりも20年あまり前になる。
信一が最初の安国殿竣工時に奉納したなら、すぐに用意できたのは笏谷石狛犬だったのではないかという妄想が浮んでくるのだ。

ちなみに、信一が狛犬を奉納したであろう時期に越前福井藩主だったのは、あの松平忠直である。
なんだか、安国殿の狛犬用に笏谷石を融通することを拒みそうなキャラクターではある。

それはそれとして、信一の奉納したのが笏谷石狛犬だとすると、石造ではあるが参道狛犬ではなかったと思われるので、町人が初めて見た参道狛犬という可能性は低くなってしまう。
そこは残念だが、江戸御府内に笏谷石狛犬があったと考えるのは、ちょっと楽しい。

2022年6月 9日 (木)

東照宮と狛犬(7)

さて、日光東照宮、江戸城の各東照宮、仙波東照宮の関係性を見たところで、話を最初に戻す。

 

芝東照宮の先代の狛犬が、台座の銘の通り松平伊豆守信一の奉納によるものだとすると、その没年から考えて、寛永元年(1624)以前に奉納されたことになる。

 

日光東照宮の推定寛永十八年(1641)よりも、仙波東照宮の推定寛永十四年(1637)頃よりも、20年は前のことになる。

 

ここで思うのは、「石造参道狛犬として《再建》された狛犬の、先代も石造参道狛犬なのではないか?」ということだ。

 

だとしたら、日光東照宮・仙波東照宮よりも古い石造参道狛犬が江戸御府内に存在したということになる。
つまり、それは江戸御府内最古の参道狛犬ということになる。

 

また、江戸城内と違って、庶民が目にできた可能性がある。
時代が下がるが、「江戸名所図会」では参道狛犬を含めて安国殿が描かれている。
そして、本文には「四月十七日は、御祭礼にて、参拝を許さるるゆゑに、詣する人多し」と書かれている。
町人も参拝可能だったのだ。
これがどの時点からなのかはっきりしないが、安国殿成立の当初からであれば、江戸の町人が最初に目にした石造参道狛犬だった可能性すらある。

 

ところが、松平信一が狛犬を奉納したという記述が見つけられない。

 

「徳川実紀」に、松平信一の訃報記事が掲載されていることには最初に触れた。
そこには、戦での経歴や養子の件などは記述されているが、安国殿への狛犬奉納については言及がない。

 

国立公文書館に残る「御宮御記録抜書」には、安国殿は三度建てられていると書かれている(改行位置は調整した)。

 

「最初之御宮ハ元和二年十月御造営則今之開山堂是之
 貳度目之御宮寛永十一年御造営則今之黒本尊堂是之
 三度目之御宮ハ寛永十八年御造営則今之丸山之御宮是之」

 

ただ、同じ文書のこれより前の部分に「元和二年十月二日御作事御取掛り翌年春二月御成就□之」とあるので、ここでの造営年は着工年を意味しているようだ。

 

まとめると、最初の安国殿は家康の死の翌年、元和三年(1617)に竣工。
これは二度目の造営の際に移築され、増上寺の開山堂となった。
二度目は寛永十一年(1634)造営で、この時の安国殿は、後に増上寺の黒本尊堂となった。
三度目は寛永十八年(1641)造営で、それが現在のものだとある。

 

国立公文書館のデジタルアーカイブにある「三縁山安国殿ノ大権現御影」という文書によると、二度目の安国殿が「火ノ用心等覚束ナシ」という理由で、三度目の造営では境内の丸山という場所に移して新築している。

 

そして、それが現在のものであるということは、維新後に芝東照宮となった安国殿はそれだということになるわけである。

 

「江戸名所図会」の記述が、寛永十八年以降のことを言っているとしても、それでもなお目黒不動尊の狛犬が奉納されるよりも前の話なので、江戸の町人が見た最初の狛犬である可能性は出て来ることになる。

 

 

2022年6月 8日 (水)

東照宮と狛犬(6)

さて、では二の丸東照宮の狛犬が、なぜ仙波東照宮にあるのか。
単に江戸城から運ばれてきたというわけではない。

 

慶安四年(1651)、家光が没し、家綱が四代将軍となる。
承応二年(1653)から、江戸城内の紅葉山東照宮と台徳院霊廟(秀忠の廟)の修理が行われ、あわせて大猷院霊廟(家光の廟)の修造が始まる。
承応三年(1654)にこれらの工事が終わった際、二の丸東照宮の神位が紅葉山東照宮に遷され、二の丸東照宮は廃止となる。

 

要するに、家康を深く信奉する家光の強い思い入れによって維持されていた二の丸東照宮は、江戸城内に2ヶ所も東照宮が存在する必要はないという判断によって一つにまとめられたと考えられる。

 

そして、明暦二年(1656)に、二の丸東照宮の建物は仙波東照宮に移築されるのである。
「徳川実紀」の「厳有院殿御実紀」によると、明暦二年七月三日の項に「松平伊豆守信綱は川越仙波 正遷宮に□て。代参の暇給ひ。御手づから帷子羽織を下さる。」とあり、さらに明暦二年七月七日の項に「松平伊豆守信綱仙波より帰謁し。肴一種をささぐ。」とある。
明暦二年七月に仙波で正遷宮が行われ、松平伊豆守信綱が将軍家綱の代参を行ったことがわかる。
そして、明暦二年七月廿五日の項には「二丸 内宮の廃跡に石塁を築かしめらる。こは神田臺より城内を見込が故とぞ。」との記述があり、二の丸東照宮が撤去された後に石塁が築かれたことが知れる。

 

ただし、これには異説があるようで、例えば、川越八幡宮のサイトでは仙波東照宮の沿革について

 

「ところが寛永15年(1638)1月28日、川越街に大火災が起こり、仙の神社、堂塔、門前屋敷まで延焼してしまいました。これを聞いた3代将軍徳川家光は、直接東照宮再建の計画を立て、同年3月、川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行に命じ、天海僧正を導師として、寛永17年(1640)5月竣工しました。現在の社殿はこのときのものです。」

 

と書いている。

 

ただし、堀田正盛は火災後の寛永十五年三月八日をもって信州松本藩に転封されており、川越の再建を担ったのは替わって川越藩主となった松平伊豆守信綱だった。
明暦二年の正遷宮に代参しているのも、それ故であろう。

 

さて、他のサイトを見ると、仙波東照宮以外にも、三芳野神社と川越氷川神社境内の八坂神社も、二の丸東照宮の移築先の候補に挙げられている。

 

勝手に解釈すると、仙波東照宮は再建されたばかりなので、狛犬と手水鉢だけを拝領して、建物については他に譲った、ということかも知れない。

 

こうした経緯を考えると、仙波東照宮の狛犬は、確かに二の丸東照宮の狛犬で、日光東照宮奥院の狛犬と同時期に作られた、江戸御府内で最古の可能性のある狛犬ということになる。

 

江戸御府内から出て、川越に行ってしまったのは惜しい気もするが、そのまま江戸城にあったら現存していないかも知れないと思うと、結果的に良かったなとも思う。

 

 

2022年6月 7日 (火)

東照宮と狛犬(5)

徳川家康の聖地である久能山東照宮も日光東照宮も、江戸城からは遠く、簡単には参拝できない。
そのために、江戸城内にも東照宮が設けられた。

 

それが紅葉山東照宮である。
「徳川実紀」には「紅葉山御宮」と表記されている。
二代将軍・秀忠が江戸城本丸と西の丸の間にある紅葉山に創建した。

 

元和四年(1618)に創建され、明治維新まで存在した。
現在、日光東照宮には黒田長政奉納の石鳥居が存在するが、「徳川実紀」の「台徳院殿御実紀」元和四年二月三日の項に「紅葉山 御宮構造せらるるによて。黒田筑前守長政石華表を獻ぜしめらる。」との記述があるので、日光よりも前に紅葉山にも鳥居を奉納していたようだ。
また時代が下がるが、「大猷院殿御実紀」寛永三年九月十七日(1626)の項に「此日松平右衛門佐忠之。紅葉山 御宮に石の鳥居を献ず。」とあるので、少なくとも2基の石鳥居があったことになる。
ただ、狛犬についての記述は見つけられなかった。

 

だが、江戸城内あったのは紅葉山東照宮だけではなかった。
実は、本丸と二の丸にも東照宮があったのである。

 

本丸東照宮は秀忠によって、本丸天主台下に元和八年(1622)に創建されたが、寛永十二年(1635)に廃され、その建物は浅草寺に下げ渡されている。

 

これと入れ替わるように、三代将軍・家光によって二の丸東照宮が創建された。
本丸東照宮を下げ渡された浅草寺側の史料では、寛永十二年には既に存在していたように書かれているが、「徳川実紀」の「大猷院殿御実紀」寛永十四年九月十七日の項に「本城二丸 御宮上棟あり」とあり、大工頭などが褒賞を受けている。
そして、同月二十六日の項には「正遷宮戌上刻と定られ」とあり、「神輿二座を仮殿より 本宮に導き奉る」と書かれている。
どちらの記述も正しいとするならば、寛永十二年段階で存在したのは仮殿で、寛永十四年(1637)により本格的な物が造営されたのだろう。

 

仙波東照宮に遺る手水鉢には「御本城御社御寶前 寛永十四丁丑暦九月十七日」「奉献上 御手水鉢 佐久間右近将監 藤原朝臣真勝」と刻まれている。
これは上棟式の日付と一致するので、元々は二の丸東照宮に対して奉納された物と窺い知ることが出来る。

 

一方、仙波東照宮の狛犬の台座には「根来出雲守」と刻まれているが、年号はない。

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上記の寛永十四年九月二十六日の項に、二の丸東照宮の正遷宮の法会の出席者として「持筒頭にて作事奉行勤めし根来小左次盛正」の名がある。
そして、「御宮の構造心力を尽し。速成の功御感浅からずとて、盛正従五位下に叙せられ。出雲守にあらたむ。」と書かれている。
つまり、「根来出雲守」である。

 

ただ、ここで注意が必要だ。

 

「徳川実紀」に従うなら、根来盛正が出雲守となったのは、この寛永十四年九月二十六日以降のことであるということになるのだ。
この時系列で考えると、おそらく出雲守を授かったお礼に、狛犬を奉納したのだろう。

 

ということは、手水鉢と同時に狛犬も奉納されたとは考えにくい。
何年も後ということはないだろうが、手水鉢よりは、いくらか遅れて狛犬が奉納されたはずである。

 

ただ、もうひとつの可能性としては、奉納後に出雲守を授かったので、後から彫り込んだという状況があり得る。
日光東照宮の狛犬が胴体に直接名前が彫られているのに対して、仙波東照宮の狛犬は薄い台座に無理矢理文字を彫ったようにも見える。
これは、根来盛正は二の丸東照宮正遷宮の際に授かるまで官職がなかったので、狛犬に名を刻むことが出来なかったということなのではないか。
そして、官職を授かったので名を刻むことが出来ることになったが、狛犬は奉納済みなので、別の台座に名を刻んで、それを二の丸に運び込んで台座だけ交換したとは考えられないか。
その場合は手水鉢と同時でもおかしくはない。

 

寛永十四年なら日光東照宮奥院の狛犬の寛永十八年(1641)より前になる。
だが、寛永十四年以降ということだと、二の丸東照宮の狛犬とは、どちらが先なのか、微妙な関係になる。
ただ、御府内で現存最古である目黒不動尊の狛犬よりも古いことは間違いない。

 

2022年6月 6日 (月)

東照宮と狛犬(4)

さて、日光東照宮の狛犬に対しては、狛犬についての古典的名著「狛犬をさがして」(橋本万平 昭和60年 精興社)で、こう評価している。

「関東地方から以西、近畿、中国にかけての表日本で、最初に造られた石造狛犬は、日光の東照宮の徳川家康のお墓の前に一対置かれている寛永十三年(一六三六)に造られたものである。」
「神社に狛犬を置いてあるということを、日光で知った江戸の人達は、自分達の町の神社に狛犬を奉納するようになった。」

この説の妥当性について議論すべきではあるが、ここでは話は拡げない。

ただ、江戸の中心地、いわゆる江戸御府内では、現存する最古の狛犬は、目黒不動尊の承応三年(1654)のもので、日光東照宮のものよりは新しいことは確かだ。
そして、それ以降に、石造参道狛犬が一気に広まっていくことも事実ではある。

だが、目黒不動尊よりも古い狛犬が江戸御府内にあったかも知れない。
それは江戸城内だ。
一般人は立ち入れない場所ではあるが、そこに石造参道狛犬が存在した可能性がある。
しかも、それは現存している。

それが、埼玉県川越市にある仙波東照宮の狛犬だ。
仙波東照宮は川越の古刹・喜多院の境内に存在する。

既述のように、家康の霊柩は久能山東照宮から日光東照宮へと移された。
もちろん、一日では移動できないので、各所に立寄りながら進んで行くことになる。

「徳川実紀」の「台徳院殿御実紀」にルートと行程が記載されている。
それによれば、元和三年(1617)三月十五日に久能山を出発し、吉原・三島・小田原・中原・府中・仙波・忍・佐野・鹿沼を経て、四月四日に日光に到着している。

仙波での霊柩の安置所が喜多院だった。
家康の霊柩は23~27日の4泊5日の間、喜多院に留まっている。
その間に、喜多院の住職だった天海僧正が法会を行っている。
この縁から、天海が寛永十年(1633)に仙波東照宮を創建した。

江戸城内の狛犬の話がなぜ川越に飛ぶのか。

実は、仙波東照宮には石造参道狛犬が存在するのだが、この狛犬は手水鉢とともに明暦二年(1656)に江戸城から運ばれて来たものとされているのだ。

それについて考えるには、まず江戸城内の出来事を確認する必要がある。

2022年6月 5日 (日)

東照宮と狛犬(3)

ここで芝東照宮から日光東照宮の方に話を変える。

 

元和二年(1616)に徳川家康が死去すると、まずは静岡市の久能山に埋葬される。
同年中に久能山東照宮が創建されると共に、日光東照宮の建設が始まる。
元和三年(1617)に、久能山から家康の神柩が移送され、日光東照宮に改葬される。
寛永十一年(1634)に、三代将軍家光により、寛永の大造替が始まる。
寛永十三年(1636)、寛永の大造替が一応終了する。
これは家康の二十一回忌に合わせたためである。

 

日光東照宮の奥院には有名な狛犬がある。

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私は不勉強で、寛永の大造替が一旦終了した寛永十三年に、狛犬が奉納されたものと思っていたが、そうではないらしい。
「日光市史 中巻」によると、日光東照宮に存在する数多くの燈籠や鳥居などは、家康の年忌にあわせて献納されているが、寛永十三年は二十一回忌であるにもかかわらず、家光の意志により献納がないと言うのだ。
そうだとすれば、造替工事の一環として製作されたものでもない限り、寛永十三年に狛犬を単体で奉納するということはないということになる。

 

そもそも、寛永の大造替は、実は寛永十三年で完了ではない。
寛永十八年(1641)に、奥院の木造の宝塔が石造に造り替えられ、あわせて宝塔の前面に石造の唐門が造営された。
寛永二十年(1643)には、奥院に相輪橖が建立された。
ここまでが寛永の大造替に数えられるようだ。

 

「徳川実紀」の「大猷院殿御実紀」寛永十七年八月六日(1640)の項に「松平右衛門大夫正綱は日光山 廟塔造営の奉行を命ぜられ」とある。
翌十八年の初めから工事が始まり、秋に工事は終了する。
工事終了後の「大猷院殿御実紀」寛永十八年十月三日の項に「松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰朝。日光山 廟塔構造こころいれ成功せしとて。黒木書院に召て御感の旨仰下され。各御刀一口并銀百枚づつ給はり。」との記述がある。
さらに同月廿五日の項には「日光山宝塔成功により。大工頭木原杢義久銀百枚。其他の二人へ五十枚ずつ。石工懸五郎作。石屋又蔵へ金貳万両下され。又蔵には月棒をも下さる。これ構造に心いれ力を尽せしゆへの賞とぞ聞こえし」とある。
なお「日光市史 中巻」では「石工懸五郎作」のことを「阿形五郎作」としている。
件の狛犬には、この「松平右衛門大夫源正綱朝臣」と「秋元但馬守藤原泰朝朝臣」の名が刻まれていることから、狛犬の奉納は寛永十八年のことだろうと考えられる。

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ちなみに、「造替工事の一環として製作されたものでもない限り、寛永十三年に狛犬を単体で奉納するということはない」と書いたが、「造替工事の一環として製作されたもの」に該当するものが、「飛び越えの獅子」だと考えられる。

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これについては、様々な議論があるが、今回は関係がないので、これ以上は掘り下げない。

 

 

2022年6月 4日 (土)

東照宮と狛犬(2)

芝東照宮の元の狛犬の奉納者である松平信一と再建した松平信亨の関係はどうなるのだろうか。

松平家には数多くの系統がある。
松平信一は、父の松平利長が現在の愛知県安城市にあった藤井城を居城としたことから「藤井松平家」と呼ばれる系統の第二代ということになる。
そして、第十代が松平信亨なのである。

ただし、紆余曲折があるので、少し詳しく見てみる。

信一は慶長五年(1600)に土浦藩の初代藩主となるが、嫡男の久清が早世していたため、別系統の桜井松平家から信吉を養子に迎え、慶長九年(1604)に家督を譲った。
信吉は元和三年(1617)に高崎へ、元和五年(1619)に丹波篠山に転封されたが、短期間に度重なった転封が負担となったか、信一より先に、元和六年(1620)に亡くなっている。
信一は寛永元年(1624)まで生きたが、その時には、篠山藩主は信吉の長男・忠国となっていた。
藤井松平家は、忠国の後、信之―忠之―信通―長恒と続き、その間に大和郡山、下総古河、備中庭瀬を経て、羽州上山藩主となった。
藤井松平家は幕末まで上山藩主に留まっている。

しかし、長恒は病弱で子がなかったため、養子を迎えた。
それが信吉の二男で、忠国の弟である忠晴の曽孫にあたる信将である。

信吉は信一の養子だが、信一の娘と結婚しており、忠国・忠晴兄弟は信一の娘から生まれているので、二人は信一とは血の繋がりがあることになる。

忠晴の官位が伊賀守であったため、この系統は忠晴を初代とする伊賀守流藤井松平家とか藤井松平伊賀守家などと呼ばれる。
忠晴の後、忠昭―忠周―忠愛と続いていくのだが、その間に駿河田中、遠州掛川、丹波亀山、武州岩槻、但馬出石を経て、忠周の時に信州上田藩主となっている。

忠晴の子である忠昭と忠周は異母兄弟で、忠晴の遺命により、忠周が忠昭の順養子となって家督を相続した。
それは忠晴が死んだ時点では忠昭の子のうち男子が全て夭逝していたためだった。
ところが、忠昭が天和三年(1689)に亡くなる前年に忠隆が生れた。
このことから、忠昭の死後に家臣間で次期藩主を誰とするかについての争いが生じたが、忠晴の遺命があったため、忠周が藩主となった。
忠周の家督はその三男の忠愛が継いだため、忠隆は藩主になることはなく、寛保三年(1743)に死去した。

この、忠隆の長男・直隆が享保十七年(1732)に長恒の養嗣子となり、改名して信将となるのである。
第三代忠国からの血筋が絶えたので、忠晴の系統から跡継ぎを入れた形になる。

そして、この信将の長男で上山藩主となったのが、狛犬を再建した信亨なのである。

ところで、当時の武将や大名には、本名を諱として使用を避け、日常的には通称を用いる慣習があった。
信一は「勘四郎」の通称を持ち、その猛勇ぶりから「鬼勘四郎」と恐れられたという。
それにあやかったのであろう、藤井松平家で「勘四郎」を名乗った人物は複数存在する。
ただ、三代信吉、四代忠国と続けて「勘四郎」を名乗った後、しばらく「勘四郎」を名乗る者がいなかった。
久し振りにそれを名乗ったのが十代信亨だった。

最初に台座を見た時、「初勘四郎」という字面に違和感を覚えたのだが、藤井松平家における「初代勘四郎」ということを言っているのだろう。
わざわざ「初勘四郎」と刻んだのは、信亨の信一への敬意と共に、その後継者であることへの自負をも込めているのだろう。

信亨は、延享三年(1746)に生まれ、宝暦十一年(1761)に信将の死去により家督を継いだが、寛政二年(1790)に幕命によって家督を長男の信古に譲って隠居することとなった。
というのも、信亨は和歌や俳諧、書画に優れた文化人であったが、それに没頭するあまり藩政を顧みなくなり、藩内に混乱を招いたためだった。
その後、寛政八年(1796)に死去している。

狛犬を再建したのは天明八年(1788)なので、強制的に隠居させられる直前ということになる。
藩財政が窮乏し、藩内が騒然としている時に、華美で豪華な狛犬を奉納したわけで、その点では暗君と評価せざるを得ないだろう。

2022年6月 3日 (金)

東照宮と狛犬(1)

故あって、芝東照宮の狛犬の情報を確認し直していた。
そして、もしかするととても重要なことを見落としていたのではないか、と思うに至った。

 

芝東照宮の狛犬は、天明八年(1788)の狛犬として知られている。
18世紀後半の江戸らしい、重厚で華美な狛犬だ。
台座には注連縄が表現され、装飾性も高い。

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だが、正確に言うと、吽像の台座には、こう刻まれている。

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羽州上山城主
従五位下
松平山城守源朝臣信亨
再建之
天明八戊申年
正月吉祥日

 

つまり、この狛犬は再建されたものということになる。

 

そして、対する阿像の台座には、こう刻まれている。

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従四位下 初勘四郎
伊豆守源朝臣信一
奉献

 

馬鹿な私は、この人物が吽像に刻まれた松平信亨と共に、この狛犬を再建したのだと思い込んでしまっていた。

 

しかし、歴代伊豆守の中で、「従四位下」「勘四郎」「信一」という条件を満たすのは、この人物のことなのだ。

 

松平信一。

 

徳川家康に直接仕えた人物であり、三河一向一揆や長篠合戦にも参加している古参で、土浦藩の初代藩主などに任じられている。
「徳川実紀」の「大猷院殿御実紀」寛永元年七月十六日の項に、その死亡記事が出ており、経歴にも言及されている。
生没年は天文八年(1539)~寛永元年(1624)。

 

天明八年から見て、160年あまりも前に物故した人物なのだ。

 

芝東照宮は、明治の神仏分離以前に増上寺境内に存在した安国殿が前身だ。
その安国殿(家康の院号・安国院にちなむ)は、家康の死の翌年、元和三年(1617)に建立された。

 

つまり、台座の記載に従うならば、安国殿建立から信一が死ぬ寛永元年までの8年の間に、信一によって先代の狛犬が奉納され、それを信亨が天明八年に再建したということになる。

 

この没年が重要になる。

 

 

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