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2022年6月10日 (金)

東照宮と狛犬(8)

さて、松平信一の没年(1624)から、狛犬の奉納は最初の安国殿に対してなされたことになる。
その安国殿は移築され、さらに、三度目の安国殿は場所を移動している。

松平信亨によって狛犬が再建されているわけだから、再建奉納された天明八年(1788)より前に信一の狛犬は破損したか、失われたかして、再建が必要な状況になっていたことになる。

何かそうした記録はないかと国立公文書館や東京都公文書館に残っている安国殿に関する古文書をあたってみたが、社殿などの修復工事の記載はあるものの、狛犬への明確な言及はない。

安国殿への町人の参拝が可能になったのが、寛永十八年(1641)に造立された三度目の安国殿からだとしても、目黒不動尊に狛犬が奉納された承応三年(1654)よりは前ということになる。

ただ、三度目の安国殿は場所を移動しているわけだから、信一の狛犬もそこに移設されていなければ、町人の目に触れることはない。

信一の奉納した狛犬が、木造の神殿狛犬だった場合、最初の安国殿が開山堂として移築された時に、一緒に移された可能性がある。
社殿新築にあたって、殿内の調度を新しくすることはよくあることだからだ。
あるいは三度目の社殿が新築された際に、二度目の社殿に残されたかも知れない。

ただ、石造参道狛犬であれば、また事情は異なる。
参道狛犬は建物の外にあるので、建物が改築されても、そこに残っているはずだ。
問題は三度目の造営で場所が移動していることだが、狛犬の移設は難しいことではない。

現に二の丸東照宮の狛犬は仙波東照宮に移設されている。

信一は狛犬を奉納したのか。
それは石造参道狛犬だったのか。

そうあって欲しいと、私は思うのだが、いまのところ信亨が狛犬の台座に刻ませた「再建」という文字しか、信一が狛犬を奉納したという証拠はない。

最後に、願望と妄想を書いてみる。

信一が奉納したのは笏谷石狛犬ではなかったか。

家康所縁の地である愛知県岡崎市の糟目犬頭神社には慶長十年(1605)銘の小型(総高21.5㎝)の笏谷石狛犬と慶長十五年(1610)銘の笏谷石狛犬(高さ75.5~77㎝)がある。
後者は初代岡崎藩主本多豊後守康重の奉納によるもの。
前者は康重が糟目犬頭神社に笏谷石製の鳥居を奉納した際に、それを請け負った市川猪兵衛正重が、そのお礼として製作・奉納したものとされる。

笏谷石狛犬の存在が三河まで知られていたのなら、三河時代から家康を知る信一が笏谷石狛犬を奉納する意味はあると感じるのだがどうだろう。

もちろん、日光や仙波の東照宮の狛犬を見ると、形式的にも、造形的にも、技術的にも、きちんとしたもので、見よう見真似で作った稚拙なものではない。
その時点では江戸周辺には、ちゃんと狛犬の作れる石工がいたわけで、関東圏外から狛犬を持ち込まなければいけない理由はない。

ただ、信一の安国殿への奉納は、それよりも20年あまり前になる。
信一が最初の安国殿竣工時に奉納したなら、すぐに用意できたのは笏谷石狛犬だったのではないかという妄想が浮んでくるのだ。

ちなみに、信一が狛犬を奉納したであろう時期に越前福井藩主だったのは、あの松平忠直である。
なんだか、安国殿の狛犬用に笏谷石を融通することを拒みそうなキャラクターではある。

それはそれとして、信一の奉納したのが笏谷石狛犬だとすると、石造ではあるが参道狛犬ではなかったと思われるので、町人が初めて見た参道狛犬という可能性は低くなってしまう。
そこは残念だが、江戸御府内に笏谷石狛犬があったと考えるのは、ちょっと楽しい。

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