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2022年6月 8日 (水)

東照宮と狛犬(6)

さて、では二の丸東照宮の狛犬が、なぜ仙波東照宮にあるのか。
単に江戸城から運ばれてきたというわけではない。

 

慶安四年(1651)、家光が没し、家綱が四代将軍となる。
承応二年(1653)から、江戸城内の紅葉山東照宮と台徳院霊廟(秀忠の廟)の修理が行われ、あわせて大猷院霊廟(家光の廟)の修造が始まる。
承応三年(1654)にこれらの工事が終わった際、二の丸東照宮の神位が紅葉山東照宮に遷され、二の丸東照宮は廃止となる。

 

要するに、家康を深く信奉する家光の強い思い入れによって維持されていた二の丸東照宮は、江戸城内に2ヶ所も東照宮が存在する必要はないという判断によって一つにまとめられたと考えられる。

 

そして、明暦二年(1656)に、二の丸東照宮の建物は仙波東照宮に移築されるのである。
「徳川実紀」の「厳有院殿御実紀」によると、明暦二年七月三日の項に「松平伊豆守信綱は川越仙波 正遷宮に□て。代参の暇給ひ。御手づから帷子羽織を下さる。」とあり、さらに明暦二年七月七日の項に「松平伊豆守信綱仙波より帰謁し。肴一種をささぐ。」とある。
明暦二年七月に仙波で正遷宮が行われ、松平伊豆守信綱が将軍家綱の代参を行ったことがわかる。
そして、明暦二年七月廿五日の項には「二丸 内宮の廃跡に石塁を築かしめらる。こは神田臺より城内を見込が故とぞ。」との記述があり、二の丸東照宮が撤去された後に石塁が築かれたことが知れる。

 

ただし、これには異説があるようで、例えば、川越八幡宮のサイトでは仙波東照宮の沿革について

 

「ところが寛永15年(1638)1月28日、川越街に大火災が起こり、仙の神社、堂塔、門前屋敷まで延焼してしまいました。これを聞いた3代将軍徳川家光は、直接東照宮再建の計画を立て、同年3月、川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行に命じ、天海僧正を導師として、寛永17年(1640)5月竣工しました。現在の社殿はこのときのものです。」

 

と書いている。

 

ただし、堀田正盛は火災後の寛永十五年三月八日をもって信州松本藩に転封されており、川越の再建を担ったのは替わって川越藩主となった松平伊豆守信綱だった。
明暦二年の正遷宮に代参しているのも、それ故であろう。

 

さて、他のサイトを見ると、仙波東照宮以外にも、三芳野神社と川越氷川神社境内の八坂神社も、二の丸東照宮の移築先の候補に挙げられている。

 

勝手に解釈すると、仙波東照宮は再建されたばかりなので、狛犬と手水鉢だけを拝領して、建物については他に譲った、ということかも知れない。

 

こうした経緯を考えると、仙波東照宮の狛犬は、確かに二の丸東照宮の狛犬で、日光東照宮奥院の狛犬と同時期に作られた、江戸御府内で最古の可能性のある狛犬ということになる。

 

江戸御府内から出て、川越に行ってしまったのは惜しい気もするが、そのまま江戸城にあったら現存していないかも知れないと思うと、結果的に良かったなとも思う。

 

 

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