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2022年6月 4日 (土)

東照宮と狛犬(2)

芝東照宮の元の狛犬の奉納者である松平信一と再建した松平信亨の関係はどうなるのだろうか。

松平家には数多くの系統がある。
松平信一は、父の松平利長が現在の愛知県安城市にあった藤井城を居城としたことから「藤井松平家」と呼ばれる系統の第二代ということになる。
そして、第十代が松平信亨なのである。

ただし、紆余曲折があるので、少し詳しく見てみる。

信一は慶長五年(1600)に土浦藩の初代藩主となるが、嫡男の久清が早世していたため、別系統の桜井松平家から信吉を養子に迎え、慶長九年(1604)に家督を譲った。
信吉は元和三年(1617)に高崎へ、元和五年(1619)に丹波篠山に転封されたが、短期間に度重なった転封が負担となったか、信一より先に、元和六年(1620)に亡くなっている。
信一は寛永元年(1624)まで生きたが、その時には、篠山藩主は信吉の長男・忠国となっていた。
藤井松平家は、忠国の後、信之―忠之―信通―長恒と続き、その間に大和郡山、下総古河、備中庭瀬を経て、羽州上山藩主となった。
藤井松平家は幕末まで上山藩主に留まっている。

しかし、長恒は病弱で子がなかったため、養子を迎えた。
それが信吉の二男で、忠国の弟である忠晴の曽孫にあたる信将である。

信吉は信一の養子だが、信一の娘と結婚しており、忠国・忠晴兄弟は信一の娘から生まれているので、二人は信一とは血の繋がりがあることになる。

忠晴の官位が伊賀守であったため、この系統は忠晴を初代とする伊賀守流藤井松平家とか藤井松平伊賀守家などと呼ばれる。
忠晴の後、忠昭―忠周―忠愛と続いていくのだが、その間に駿河田中、遠州掛川、丹波亀山、武州岩槻、但馬出石を経て、忠周の時に信州上田藩主となっている。

忠晴の子である忠昭と忠周は異母兄弟で、忠晴の遺命により、忠周が忠昭の順養子となって家督を相続した。
それは忠晴が死んだ時点では忠昭の子のうち男子が全て夭逝していたためだった。
ところが、忠昭が天和三年(1689)に亡くなる前年に忠隆が生れた。
このことから、忠昭の死後に家臣間で次期藩主を誰とするかについての争いが生じたが、忠晴の遺命があったため、忠周が藩主となった。
忠周の家督はその三男の忠愛が継いだため、忠隆は藩主になることはなく、寛保三年(1743)に死去した。

この、忠隆の長男・直隆が享保十七年(1732)に長恒の養嗣子となり、改名して信将となるのである。
第三代忠国からの血筋が絶えたので、忠晴の系統から跡継ぎを入れた形になる。

そして、この信将の長男で上山藩主となったのが、狛犬を再建した信亨なのである。

ところで、当時の武将や大名には、本名を諱として使用を避け、日常的には通称を用いる慣習があった。
信一は「勘四郎」の通称を持ち、その猛勇ぶりから「鬼勘四郎」と恐れられたという。
それにあやかったのであろう、藤井松平家で「勘四郎」を名乗った人物は複数存在する。
ただ、三代信吉、四代忠国と続けて「勘四郎」を名乗った後、しばらく「勘四郎」を名乗る者がいなかった。
久し振りにそれを名乗ったのが十代信亨だった。

最初に台座を見た時、「初勘四郎」という字面に違和感を覚えたのだが、藤井松平家における「初代勘四郎」ということを言っているのだろう。
わざわざ「初勘四郎」と刻んだのは、信亨の信一への敬意と共に、その後継者であることへの自負をも込めているのだろう。

信亨は、延享三年(1746)に生まれ、宝暦十一年(1761)に信将の死去により家督を継いだが、寛政二年(1790)に幕命によって家督を長男の信古に譲って隠居することとなった。
というのも、信亨は和歌や俳諧、書画に優れた文化人であったが、それに没頭するあまり藩政を顧みなくなり、藩内に混乱を招いたためだった。
その後、寛政八年(1796)に死去している。

狛犬を再建したのは天明八年(1788)なので、強制的に隠居させられる直前ということになる。
藩財政が窮乏し、藩内が騒然としている時に、華美で豪華な狛犬を奉納したわけで、その点では暗君と評価せざるを得ないだろう。

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