« 東照宮と狛犬(4) | トップページ | 東照宮と狛犬(6) »

2022年6月 7日 (火)

東照宮と狛犬(5)

徳川家康の聖地である久能山東照宮も日光東照宮も、江戸城からは遠く、簡単には参拝できない。
そのために、江戸城内にも東照宮が設けられた。

 

それが紅葉山東照宮である。
「徳川実紀」には「紅葉山御宮」と表記されている。
二代将軍・秀忠が江戸城本丸と西の丸の間にある紅葉山に創建した。

 

元和四年(1618)に創建され、明治維新まで存在した。
現在、日光東照宮には黒田長政奉納の石鳥居が存在するが、「徳川実紀」の「台徳院殿御実紀」元和四年二月三日の項に「紅葉山 御宮構造せらるるによて。黒田筑前守長政石華表を獻ぜしめらる。」との記述があるので、日光よりも前に紅葉山にも鳥居を奉納していたようだ。
また時代が下がるが、「大猷院殿御実紀」寛永三年九月十七日(1626)の項に「此日松平右衛門佐忠之。紅葉山 御宮に石の鳥居を献ず。」とあるので、少なくとも2基の石鳥居があったことになる。
ただ、狛犬についての記述は見つけられなかった。

 

だが、江戸城内あったのは紅葉山東照宮だけではなかった。
実は、本丸と二の丸にも東照宮があったのである。

 

本丸東照宮は秀忠によって、本丸天主台下に元和八年(1622)に創建されたが、寛永十二年(1635)に廃され、その建物は浅草寺に下げ渡されている。

 

これと入れ替わるように、三代将軍・家光によって二の丸東照宮が創建された。
本丸東照宮を下げ渡された浅草寺側の史料では、寛永十二年には既に存在していたように書かれているが、「徳川実紀」の「大猷院殿御実紀」寛永十四年九月十七日の項に「本城二丸 御宮上棟あり」とあり、大工頭などが褒賞を受けている。
そして、同月二十六日の項には「正遷宮戌上刻と定られ」とあり、「神輿二座を仮殿より 本宮に導き奉る」と書かれている。
どちらの記述も正しいとするならば、寛永十二年段階で存在したのは仮殿で、寛永十四年(1637)により本格的な物が造営されたのだろう。

 

仙波東照宮に遺る手水鉢には「御本城御社御寶前 寛永十四丁丑暦九月十七日」「奉献上 御手水鉢 佐久間右近将監 藤原朝臣真勝」と刻まれている。
これは上棟式の日付と一致するので、元々は二の丸東照宮に対して奉納された物と窺い知ることが出来る。

 

一方、仙波東照宮の狛犬の台座には「根来出雲守」と刻まれているが、年号はない。

Img_6962

Img_6968

Img_6974


上記の寛永十四年九月二十六日の項に、二の丸東照宮の正遷宮の法会の出席者として「持筒頭にて作事奉行勤めし根来小左次盛正」の名がある。
そして、「御宮の構造心力を尽し。速成の功御感浅からずとて、盛正従五位下に叙せられ。出雲守にあらたむ。」と書かれている。
つまり、「根来出雲守」である。

 

ただ、ここで注意が必要だ。

 

「徳川実紀」に従うなら、根来盛正が出雲守となったのは、この寛永十四年九月二十六日以降のことであるということになるのだ。
この時系列で考えると、おそらく出雲守を授かったお礼に、狛犬を奉納したのだろう。

 

ということは、手水鉢と同時に狛犬も奉納されたとは考えにくい。
何年も後ということはないだろうが、手水鉢よりは、いくらか遅れて狛犬が奉納されたはずである。

 

ただ、もうひとつの可能性としては、奉納後に出雲守を授かったので、後から彫り込んだという状況があり得る。
日光東照宮の狛犬が胴体に直接名前が彫られているのに対して、仙波東照宮の狛犬は薄い台座に無理矢理文字を彫ったようにも見える。
これは、根来盛正は二の丸東照宮正遷宮の際に授かるまで官職がなかったので、狛犬に名を刻むことが出来なかったということなのではないか。
そして、官職を授かったので名を刻むことが出来ることになったが、狛犬は奉納済みなので、別の台座に名を刻んで、それを二の丸に運び込んで台座だけ交換したとは考えられないか。
その場合は手水鉢と同時でもおかしくはない。

 

寛永十四年なら日光東照宮奥院の狛犬の寛永十八年(1641)より前になる。
だが、寛永十四年以降ということだと、二の丸東照宮の狛犬とは、どちらが先なのか、微妙な関係になる。
ただ、御府内で現存最古である目黒不動尊の狛犬よりも古いことは間違いない。

 

« 東照宮と狛犬(4) | トップページ | 東照宮と狛犬(6) »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 東照宮と狛犬(4) | トップページ | 東照宮と狛犬(6) »