« 東照宮と狛犬(2) | トップページ | 東照宮と狛犬(4) »

2022年6月 5日 (日)

東照宮と狛犬(3)

ここで芝東照宮から日光東照宮の方に話を変える。

 

元和二年(1616)に徳川家康が死去すると、まずは静岡市の久能山に埋葬される。
同年中に久能山東照宮が創建されると共に、日光東照宮の建設が始まる。
元和三年(1617)に、久能山から家康の神柩が移送され、日光東照宮に改葬される。
寛永十一年(1634)に、三代将軍家光により、寛永の大造替が始まる。
寛永十三年(1636)、寛永の大造替が一応終了する。
これは家康の二十一回忌に合わせたためである。

 

日光東照宮の奥院には有名な狛犬がある。

Img_9149

Img_9137

Img_9139


私は不勉強で、寛永の大造替が一旦終了した寛永十三年に、狛犬が奉納されたものと思っていたが、そうではないらしい。
「日光市史 中巻」によると、日光東照宮に存在する数多くの燈籠や鳥居などは、家康の年忌にあわせて献納されているが、寛永十三年は二十一回忌であるにもかかわらず、家光の意志により献納がないと言うのだ。
そうだとすれば、造替工事の一環として製作されたものでもない限り、寛永十三年に狛犬を単体で奉納するということはないということになる。

 

そもそも、寛永の大造替は、実は寛永十三年で完了ではない。
寛永十八年(1641)に、奥院の木造の宝塔が石造に造り替えられ、あわせて宝塔の前面に石造の唐門が造営された。
寛永二十年(1643)には、奥院に相輪橖が建立された。
ここまでが寛永の大造替に数えられるようだ。

 

「徳川実紀」の「大猷院殿御実紀」寛永十七年八月六日(1640)の項に「松平右衛門大夫正綱は日光山 廟塔造営の奉行を命ぜられ」とある。
翌十八年の初めから工事が始まり、秋に工事は終了する。
工事終了後の「大猷院殿御実紀」寛永十八年十月三日の項に「松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰朝。日光山 廟塔構造こころいれ成功せしとて。黒木書院に召て御感の旨仰下され。各御刀一口并銀百枚づつ給はり。」との記述がある。
さらに同月廿五日の項には「日光山宝塔成功により。大工頭木原杢義久銀百枚。其他の二人へ五十枚ずつ。石工懸五郎作。石屋又蔵へ金貳万両下され。又蔵には月棒をも下さる。これ構造に心いれ力を尽せしゆへの賞とぞ聞こえし」とある。
なお「日光市史 中巻」では「石工懸五郎作」のことを「阿形五郎作」としている。
件の狛犬には、この「松平右衛門大夫源正綱朝臣」と「秋元但馬守藤原泰朝朝臣」の名が刻まれていることから、狛犬の奉納は寛永十八年のことだろうと考えられる。

Img_9135

Img_9145

 

ちなみに、「造替工事の一環として製作されたものでもない限り、寛永十三年に狛犬を単体で奉納するということはない」と書いたが、「造替工事の一環として製作されたもの」に該当するものが、「飛び越えの獅子」だと考えられる。

Img_9094

Img_9101

 

これについては、様々な議論があるが、今回は関係がないので、これ以上は掘り下げない。

 

 

« 東照宮と狛犬(2) | トップページ | 東照宮と狛犬(4) »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 東照宮と狛犬(2) | トップページ | 東照宮と狛犬(4) »