狛犬の伝説と信仰

2008年7月30日 (水)

権現様

先日、獅子頭の古例を紹介した際に「なお、鎌倉時代末期から獅子頭の遺存例が増えることには、信仰に関わる別の理由が存在していると考えられますが、それは後で別項を立てたいと思います」と書きました。

それが権現様信仰です。

町田市立博物館の図録「獅子頭―東日本を中心に―」(1996年)に収録された『獅子の芸能』(山路興造)という解説文によると、権現様信仰は獅子舞の持つ魔を払う力を修験者が利用して民間信仰に持ち込んだものだと言います。

中世に東北で活動した紀州熊野系の山伏が、神の依り代として獅子頭を≪権現様≫と称して崇め、熊野信仰を広めるにあたって、この権現様で舞を行い、祈祷を行ったのだそうです。
そう言えば、背中に獅子頭の入った箱を背負って歩く熊野修験を描いた絵を見たことがあります。

この権現様信仰は、東北で獅子舞のことを権現舞と呼ぶ例があるように、舞を伴うものであったはずですが、次第に獅子頭そのものへの信仰へと変化していきます。

雑誌『日本の石仏 120号』(2006年冬号)の特集「珍しい石仏120」の中に「権現様」が出てきます。
それによれば、岩手県盛岡市周辺の山では、山中に石造の獅子頭を祀っているところが多数存在するのだそうです。
当然のことながら、石で出来た獅子頭は獅子舞には使用できません。
獅子頭自体が信仰の対象であることの証左でしょう。

「病の信仰と・伝説」(松田義信 東洋出版 2001年)には、山形県西村山郡西川町稲沢の獅子の口諏訪神社にまつわる信仰が紹介されています。
この地方では、頭の病は「鍋かぶり地蔵」(寒河江市)、腹の病は「ドジョウ観音」(山県市)、腰から下の病は「獅子の口様」と言われ、婦人病やいぼ(痔?)・脱腸を患っている人は、この諏訪神社で「おかぐら」と呼ばれる獅子頭を授かって来てお供えすると平癒するとの伝承があるのだそうです。

この「おかぐら」は、同書の写真図版を見ると、獅子頭のミニチュアのようです。
そうした、獅子頭のミニチュア玩具は、これ以外にも存在します。

「日本の郷土玩具」(斎藤良輔 未来社 1962年)では、山形県の酒田ジシや埼玉県の鴻巣練物の弓ジシなど、日本各地の郷土玩具の中に獅子頭が存在していることを紹介しています。

郷土玩具は、現在のオモチャと違い、一種の縁起物であり、民間信仰の一形態でもあります。
そうした郷土玩具の多くは近世以降に広まったものと考えられます。
時代が下がるにしたがって、より一層庶民化していく様子がうかがえます。

それに比べると、狛犬は、それ自体に対する信仰は≪足止め信仰≫が目立つくらいで、上記の獅子頭に対するもののように本格的かつ広範な信仰は見られません。

このあたり、起源を同じくしながら、獅子頭と狛犬でなぜこんなに差が出来てしまったのかと、不思議な気がします。

2007年11月13日 (火)

岩見重太郎

Kono_1_3 京都府宮津市の天橋立のそばにある籠神社。

その参道にある狛犬は、石造のものとしては最古の日本式狛犬で、鎌倉時代にまでさかのぼるものと、一般には知られています。

鎌倉時代ということについては疑義を持たれているものの、これが古い狛犬で、作品として傑作であることは確かです。

Kono_2この狛犬の阿像の右前足には、切断したような痕があります。
これについて、このような伝説が流布されています。

籠神社の狛犬は作者の入神の作であったためか、しばしば天の橋立に暴れ出て、人々を困らせていた。そこで、仇討ちのために宮津にやって来ていた岩見重太郎が、暴れ出た狛犬の脚を切断したところ、怪異がやみ、それ以後は霊験あらたかな魔除の狛犬となった。

彫刻に彫られた動物・怪獣が、あまりの出来の良さに動き出す、という伝説は、左甚五郎伝説など、数多く見られます。
これもそのひとつと言えます。

ここに出てくる岩見重太郎とは、今ではあまり名を知られなくなりましたが、戦前までは人気の高い有名な豪傑の一人でした。
吉川英治が「宮本武蔵」を書くまでは、それより有名だったかもしれません。

宮本武蔵を引き合いに出したのは、実は同時代の人物とされているからです。

手元に明治20年刊の『絵本実録 岩見武勇伝』という本があります。
ここで描かれる岩見重太郎の物語とは、こんな話です。

小早川隆景の家臣・岩見重左衛門の次男である重太郎は、叔父である薄田七郎右衛門の養子となるが、あることから武者修行の旅に出る。
その留守中、実父の重左衛門が広瀬軍蔵ら三人によって騙し討ちされ、死去する。
重太郎の兄である重蔵と妹のお辻は、仇討ちの旅に出るが、重蔵は返り討ちにあい、旅先で身寄りを失ったお辻はやむなく遊女に身を落とす。
そのお辻と偶然再会した重太郎は事の次第を聞き、父と兄の仇を討つため、お辻とともに逃げ出すが、お辻を恋慕する男の姦計により捕らえられ、お辻は牢内で命を落とす。
どうにか牢を抜け出した重太郎が、狒々退治などの遍歴の末にたどり着いたのが宮津。
そこで宮津城主である中村式部大輔氏種の行列の中に仇の三人がいるのを発見。
重太郎は仇討ちの願いを申し出るも、暗君・氏種は家中の侍たちを三人の助太刀に出すことを決め、大勢で重太郎を討ち取ろうとする。
しかし、重太郎はそれをものともせず、天橋立で広瀬軍蔵らを討ち果たす。
仇討ちの後、小早川家に帰参した重太郎は、正式に薄田隼人正と改名し、家臣として仕えるが、小早川隆景の死去にともない浪人する。
それを知った豊臣家からの請いに応じて仕官した隼人正は、大坂夏の陣で、豊臣家に殉じて討ち死にする。

「岩見重太郎」は伝説上の人物ですが、後半生の「薄田隼人正」は実在の人物とされます。
よく知られていない「薄田隼人正」の前半生に、「岩見重太郎」をはめ込んだ形になっています。

さて、伝説というものは、大抵どこかにツッコミどころがあるものです。
「話の主人公が霊に呪い殺されたんなら、誰がこの話を伝えたんだ?」というような。

籠神社の狛犬の伝説の場合は「籠神社の狛犬が鎌倉時代のものだとしたら、岩見重太郎に斬られるまで、300年も暴れていたのかね?」となります。

いくら伝説でも、それは不自然でしょう。

にもかかわらず、こうして岩見重太郎が出てくるのは、この伝説を最初に語り始めた≪作者≫はこの狛犬をそんなに古いものだとは思っていなかったということになるのではないでしょうか。

もちろん、そんな細かいことは気にかけないのが「伝説」というものかもしれませんが。

では、この伝説はいつ頃生まれたものなのでしょうか。

昭和2年に刊行された『丹後史料叢書』全5巻は、丹後地方に関わる近世以前の文献を集めたものですが、近くにある宇良神社の浦島太郎伝説を取り上げた史料は複数あるものの、岩見重太郎伝説は出てきません。
伝説のみならず、籠神社の狛犬について言及した資料すらありません。

先の『絵本実録 岩見武勇伝』には、狛犬の話は出てきません。
ということは、有名な岩見重太郎にあやかって出来た「ローカル伝説」なのでしょう。

そう考えると、岩見重太郎伝説は、かなり新しいものに思えます。

と同時に、誰も300年の差にツッコミを入れずに今でも流布しているということは、今でこそ重要文化財ともてはやされる籠神社の狛犬も、地元では最近まであまり気にかけられていなかったのではないかという気がします。

2007年10月 5日 (金)

犬嫌い

愛知県知多半島の先に篠島という島があります。

ここにある篠島八王子社は「犬嫌いの神様」として知られています。

篠島では正月三日の夜に八王子社の神が同じ島内の神明神社に渡御するとされており、島民はそれを見ないように、その夜は雨戸を閉めて明かりも消し、物音も立てないようにして家にこもるという風習がある。

ある時、その渡御の最中に犬が吠える声がした。

それ以来、海が荒れて漁が出来なくなってしまったため、島民が八王子社に祈願に行くと、参道の狛犬が台座から転げ落ちていた。

そこで狛犬を台座に据え直したが、次に行くとまた転げ落ちている

そんなことが何度も起ったため、八王子社の神様は犬が嫌いなのだ、ということになり、島内の医徳院という寺に狛犬を移したところ、海は静まった。

狛犬の移設だけでなく、この伝承のため、島では犬を飼うことが禁忌となっているとのことです。

狛犬愛好家にとっては、よく考えるとおかしな話で、犬が吠えたのに、狛犬が排除されなければならないというのは、全く筋が通りません。

狛犬の祖先はライオンなのですから。

しかも、この篠島八王子社のご神体は、伊勢の箕面大社から奉納された獅子頭だというのです。

獅子頭と狛犬は祖先を同じくする仲間です。

『獅子頭がご神体で、狛犬は嫌い』というのは、実に納得がいかない話です。

結局のところ、≪狛犬≫という名称に引きずられ、犬の仲間にされてしまったということでしょう。

似たような話があります。

奈良県吉野町の窪垣内地区には大海人皇子(後の天武天皇)にまつわる云い伝えが残っているそうです。

ある時、大海人皇子が賊に追われ、吉野川に沿って逃げた。

窪垣内に到った時、川渡しの老夫婦が舟をひっくり返して皇子を中に隠した。

ところが、賊の犬が舟の周囲を嗅ぎ回りはじめ、皇子が見つかりそうになる。

そこで、老人が赤い石を投げつけて犬を殺し、皇子は助った。

それ以来、この地区では犬を飼うことが禁忌となった。

この地区内に皇子を助けた翁を祭神とする御霊神社があり、こうした謂れから狛犬がない、というのです。

これもまた、狛犬と犬が同一視されています。

結局のところ、狛犬の正体が何であるかにこだわるのは、特殊な人間だけで、庶民信仰としては「狛犬も犬も一緒」ということなのでしょう。

世界の広さもライオンも知らない近世以前の日本人には、狛犬と獅子の関係も、狛犬と犬の違いも、どうでもいいことだったのでしょう。

そんな瑣末なことよりも、漁の安全の方が大事だし、それで海が静まるのなら理屈に合わないことでも何でもやる、という庶民の素朴さや逞しさを感じます。

2007年9月29日 (土)

亀戸天神のおいぬさま

Img_9352 藤で有名な亀戸天神に≪おいぬさま≫と呼ばれるものがあります。
境内の東側にある駐車場との境目あたり、建物の陰になったところに小さな祠があり、そこに祀られています。

祈願しながら、この≪おいぬさま≫に備え付けられている塩を擦り込むと、祈願が成就する、という信仰があります。
ご利益は「病気治癒」「商売繁盛」のようです。

Img_9373 祠があるのは、つい見落としそうな場所で、事実、私も初めて亀戸天神に行った時には気がつきませんでした。

後になってその存在を知り、再訪しましたが、おいぬさまについての説明は、祀られた祠のそばにも、境内の案内図にもありません。
亀戸天神の公式サイトにアクセスしてみましたが、サイト内の≪境内あちこち発見隊≫というページにも、紹介がありません。

そこで、亀戸天神に問い合わせのメールを送ってみました。

由緒についてのはっきりした裏付けがないので、あえて紹介していない、ということでした。

ところで、その由緒ですが、あるサイトに、戦災にあった神社跡から発掘したものを奉納したということが書かれていました。

亀戸天神には、この点も問い合わせてみましたが、やはり明確な事情は記録に残されていないようです。
ただ、元来は亀戸天神の境内にあった摂末社の狛犬だったとされている、とのことです。

私が目にしたことがある亀戸天神の古写真には、狛犬が写っているものはありませんでした。
そのため、亀戸天神には狛犬はなかったものと思っていましたが、摂末社の前にあったものなら、写されていなくても不思議はないかもしれません。

Img_9369 神社には狛犬以外にも≪神使≫と呼ばれる、文字通り「神の使い」の動物像が設置されていることがあります。その中には≪山犬≫や≪犬≫のように、≪おいぬさま≫と呼ばれるにふさわしいものもあります。

塩まみれの上、破損も激しいのでわかりにくいのですが、もしかすると狛犬ではなく、本当に≪犬≫かもしれません。
それは一度塩を拭い取ってきれいにしてみなければ断言できません。

いずれにせよ、写真のようにかなりひどく破損しており、戦災にあったというのは信憑性のあることに思えます。

上記のようなことを考えると、摂末社にあった狛犬が戦災にあって破損し、相棒を失って単体になったため、境内の隅に置いておいたところ、自然発生的に≪おいぬさま≫信仰が始まった、という流れなのではないかと思えます。

私が、「自然発生的に」と考えるのには、理由があります。

亀戸天神がある江東区に、宝塔寺という寺があります。
ここに≪塩舐め地蔵≫あるいは≪いぼ取り地蔵≫と呼ばれるものがあります。
これがやはり、塩を擦り込んで祈願するという形の信仰なのです。

文献的に裏付けを取っていませんが、≪塩舐め地蔵≫の方は江戸時代までさかのぼることが出来る信仰のようです。

地蔵尊像自体には石井某によって小名木川から掘り出され宝塔寺に納められたとの伝承があり、寺の前を通る塩商人が売り物の塩を地蔵に供えたのが、信仰の起源であると伝えられているようです。

江戸時代、東京湾の行徳あたりでは塩を生産しており、そことの間を行き来する商人の交通路に当たっていたようです。
私も発掘にかかわっていた頃、当時の製塩具である焼塩壺に『行徳』の銘があるのを見たことがあります。

名前にあるように≪いぼ取り≫にご利益があるということですが、≪おいぬさま≫の病気治癒と似ています。

先行して≪塩舐め地蔵≫があり、それに倣って≪おいぬさま≫信仰が生まれたというのは、それほど的外れな発想ではないと思います。

現代になっても、こうした民衆信仰は生まれうるという一例のように思えます。

2007年9月13日 (木)

うなる狛犬

東京都大田区に新田神社があります。

時は南北朝時代。
新田義貞の第二子である新田義興は南朝方に立って、東国中心に転戦していたが、足利基氏の家臣・畠山国清の命を受けた竹沢右京亮と江戸遠江守の策略によって、多摩川の矢口の渡で騙まし討ちにあい、主従14名が最後を遂げた。
その後、義興の怨霊が出没したので、それを鎮めるために建てられたのが、この新田神社だと言います。

ちなみに、この時の従者たちを祀ったのが、新田神社から程近い十寄神社(旧名は十騎社)です。

この新田神社の境内に「うなる狛犬」というものが残されています。

阿像1体のみの狛犬で、そばにこういう解説があります。

義興公主従を矢口の渡しでおとしいれた足利基氏家臣の畠山一族の者、またその血縁者末裔が新田神社附近に来ると、きまって雨が降り、この狛犬がうなったという。
しかし、残念ながら戦災で一体が壊れてしまった。

新撰東京名所図会」では、この狛犬がちゃんと台座に載せられ社殿の前に存在している姿が確認できます。
ただし、設置年代までは明記がないのでわかりません。

ところで、伝説は伝説として、これが本当に「うなる狛犬」なのでしょうか。

実は、このようなタイプの狛犬は、19世紀以降に広まったものです。
しかも、実際には、このタイプの狛犬としてもそれほど古い時期のものではないと思えます。
「新撰東京名所図会」の写真に写っている以上、明治44年よりは前のはずですが。

一方の新田義興が矢口の渡で討たれたのは、正平13年(1358)のこと。

神社の鎮座年代はわかりませんが、いずれにせよ、狛犬そのものの年代とは随分と隔たりがあります。

となると、考えられることは二つ。

1)「うなる狛犬」伝説は、この狛犬に対して生れたものではなく、これとは別に本来のものが存在している。

2)「うなる狛犬」伝説は、この狛犬が造られ設置された19世紀以降になって生れたものである。

上記の神社の沿革を書くための参考にした新田神社の公式サイトでは、こんなことが書かれています。

その後、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、境内の不思議な篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めた。また、源内は江戸一族の策謀を卑劣なやり方として、この新田神社の縁起をもとに浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口渡」を脚色し、これが当時の江戸っ子の気質と合ったかのように、大変うけて爆発的な大当たりとなり、江戸庶民の新田詣が始まるのである。現在でもこの「神霊矢口渡」の一部分が各地の歌舞伎場などで上演されている。

源内の生没年は享保13年(1728)~ 安永8年(1780)。
また、「神霊矢口渡」については、歌舞伎辞典というサイトに

1770年(明和【めいわ】7年)に江戸で人形浄瑠璃【にんぎょうじょうるり】の作品として初演されました。平賀源内【ひらがげんない】が福内鬼外【ふくうちきがい】というペンネームで書いた作品で、1794年(寛政【かんせい】6年)に歌舞伎に移されました。

という記述があります。

こうしてみると、18世紀終わり頃に作られた歌舞伎が、19世紀に入っても人気を保ち、それにあやかって「うなる狛犬」の伝説も出来た、という見方が可能なように思えます。

文献などで、「うなる狛犬」伝説が、どこまで時代をさかのぼりうるか確認しないとわかりませんが、状況としては、この見方が妥当なように思えます。

2007年9月 1日 (土)

赤く塗られた狛犬

次に進む前に幕間として、狛犬をめぐる伝説や信仰を紹介してみようと思います。

徳島の狛犬について考察した「猪子芳明の狛犬ギャラリイ」というサイトがありました。

そこに「お亀千軒の狛犬」という伝説が紹介されていました。

今回、ご紹介しようとして久しぶりにアクセスしてみたところ、知らぬうちに閉鎖されていました。
インターネット・アーカイブで保存されているページにリンクをつけておきますが、念のため、ここに転載します。

徳島市の津田川口から4Km位の沖合いに、お亀千軒といわれた大きに島があったといわれています。千軒といわれたほど沢山の漁師が、その島に住んでいたということです。島の人たちは、みんなよく働き、海の幸にも恵まれていたので、平和に暮らしをしていました。
その島には、古くからの言い伝えがありました.それは、島の鎮守の森にある「ししこま」の顔が赤くなると、この島に一大事が起こるということでした。島の人たちは、誰もそれを信じて疑いませんでした。
ところが、その島に一人の怠け者がいました。働きざかりの若者だというのに、海辺で昼寝ばかりしていて、なにか面白し事は起こらないかとか、島の人たちをおどろかせるようないたずらは出来ないものかとか考えていました。
ある日のこと。
「ああ、退屈じゃ。いっちょ、村の者をおどかしてやれ。」と、晩になるのを待ちかねて、鎮守の森に、こっそり忍び込みました。そして、「ししこま」の顔を紅がらで、赤く塗りつぶしてしまいました。
あくる朝。
その島には、いつも朝のお参りをかがさない、信心深いじいさんとばあさんがいましたが、真っ赤になった「ししこま」の顔を見たとたん、腰をぬかすほどびっくり仰天しました。
〔大変だぁー。「ししこま」の顔が真っ赤だぁー。はよう逃げんとあぶないぞー〕と、二人は島を駆け回って言いふらしました。島の人たちも、「それ、一大事じゃ。」と、急いで荷物を取りまとめて、船に積み込み、それぞれに島から逃げ出しました。
あとに残ったのはたった一人、あの怠け者だけだったのでした。
ところが、どうしたことか、空は俄にかき曇り、カミナリがなり、天地が鳴り響くようなものすごい音とともに、島は、あっというまに海の底に沈んでしまいました。
あの怠け者もろとも・・・・。
お亀千軒は、この時沈んでなくなったといわれています。
お亀千軒があったと言われている海上には、今でも引き潮どきになると、その昔、山の頂上だったところが、カメの甲羅のような形をして、波間にに見え隠れしています。

ある本を読んでいて、これとそっくりな伝説に出会いました。

大分県の別府湾にかつて≪瓜生島≫という島があったが、水没して無くなった、という伝説があるそうです。
その水没にまつわる伝説が、≪お亀千軒≫のものとそっくりなのです。

違いは、瓜生島の方は、赤く塗られるのが神社の神像で、塗るのは民の迷信深さに立腹した医者である、という点ぐらいです。

その本には、この伝説の祖形は中国の伝説集「捜神記」にあるとして、その話が紹介されています。
そこで所持している東洋文庫版の「捜神記」をみてみたところ、第326話に『城門の血』という話がありました。
要約すると、こういう話です。

始皇帝の時代、長水県(現・浙江省)でこのような童歌が流行った。

お城のご門が血によごれ
お城は沈んで湖になるぞ

これを耳にした老婆が、心配になり、毎朝城門を見に行っていたところ、門衛の隊長に怪しまれ、捕らえられそうになった。
そこで、老婆が事情を話すと、門衛の隊長は何を思ったか、城門に犬の血を塗りつけた。
それを見た老婆は慌てて逃げ出したが、果たして、町は洪水に襲われ、湖と化してしまった。

確かに、基本は共通しています。

異なっているのは、「捜神記」の話には神仏が関わっていないことです。

この「捜神記」の話を知っていた誰かが、これを日本に置き換えるとともに、神仏とは関わりのなかった話を信仰の大事さを訴える様な内容に構成し直した、ということなのでしょう。

興味深い伝説だと思います。