狛犬こぼれ話

2008年6月17日 (火)

琵琶と狛犬

何か≪狛犬≫に関係する文献がないかと「群書類従」に目を通している時に、ちょっと面白いものが目にとまりました。

「順徳院御琵琶合」というものです。
承久二年三月二日(1220)に行われた『琵琶合せ』という行事の記録です。

『琵琶合せ』というのは、どうやら名器とされる琵琶を集めて、一対一でその音色や音勢を比べて、優劣を決める遊びのようなもののようです。
この時、26台の琵琶によって、『琵琶合せ』が全十三番行われています。

その「三番」として「左花園 右狛犬」とあります。
つまり≪花園≫と≪狛犬≫という銘を持つ2台が『琵琶合せ』されたわけです。

その2台の評価と勝敗についての文章は、そんなに長いものではないので、以下に書き写してみます。

花園。有音勢。新造の琵琶也。凡近代の琵琶。五嶺嘉木五折殊材たやすからねば。半以花梨木造て。其中には聊りやらめく所あり。
狛犬。孝定琵琶也。本名師子丸。もとはこはいろかはきたるやうにて。したたかなるばかりなり。孝道伝得て後。様々につくろはしむといへども。無殊事。然近日仰孝道て。随造様てその音ことなる事をしらむため。折文梓割香檀て。新に造五六之琵琶これを試。次孝道造改此琵琶。仍其音事外に心づよくなれり。音勢もとよりはちいさくなりたれども。こはいろすこぶるしなある所出来。然而猶花園普通の琵琶にとりてはよきびはなり。仍為勝。

琵琶に詳しくないので材質や構造を指すのであろう専門用語についてはわかりませんが、大雑把に言えば、

≪花園≫は新しい琵琶であり、一方の≪狛犬≫は孝定から孝道に伝わった琵琶で、孝道によって改造されたもの。改造によって音勢は少し失われたが、音色は良くなった。しかし、≪花園≫は、歴史の無い普通の琵琶にしては良いものなので、こちらの勝ちとする。

といったところでしょうか。

ちなみに、『孝定』『孝道』とは、当時の琵琶の名手である藤原孝定・藤原孝道の父子のことでしょう。
名人親子が所蔵した琵琶が新作の琵琶に敗れるという皮肉な結果になったようです。

さて、面白いというのは、≪狛犬≫について「本名師子丸」と書かれていることです。
つまり、現在は≪狛犬≫と呼ばれているけれども、本来の名は≪師子丸≫である、ということです。
藤原孝道による改造によって名称が変わったのか、それ以前に変更されていたのか、そのあたりはわかりませんが、≪師子丸≫が≪狛犬≫になったわけです。

それが、≪獅子≫と≪狛犬≫の関係を前提とした改名であることは間違いないでしょう。

ところで、≪師子丸≫という名は、この琵琶にとどまらず、琴などいくつかの楽器にも用いられている名のようです。
また、同じ名を持つ琵琶にまつわる伝承が「三代実録」などに記載されているそうです。

藤原貞敏は、渡唐し、琵琶師に師事して曲を習い、それを会得し、帰国にあたって≪玄象≫≪青山≫≪師子丸≫の三台の琵琶を譲り受けた。ところが、海が荒れて、船が出港できない。これは、龍神が名器の音色を惜しんでいるのだろうということで、龍神に奉げるために≪師子丸≫を海に沈めたところ、海がおさまったので、残りの2台の名器を日本に持ち帰った。

要約すると、こういう話です。 ≪師子丸≫の名が複数見られるのは、これにちなんだのでしょうか。
もちろん、海に沈められたのですから、≪狛犬≫と改名された琵琶は、これとは別物です。

それにしても、この≪狛犬≫という琵琶は、その後どうなったのでしょうか。
「狛犬 琵琶」で検索をかけてみましたが、特に何もひっかかってきません。
専門家にとってはともかく、ネット上で網にかかるレベルでは、名を残していないようです。

狛犬ファンとしては、ちょっと残念なところです。

2008年6月 6日 (金)

郷土玩具の≪こまいぬ≫

「狛犬=狆」説の筆者は「日本書紀」の中に≪高麗犬≫の語が出ていると言うが、岩波文庫版ではそのような記述は見当たらなかった、ということを書きました。

仮に、岩波文庫版が底本にしたのとは別の写本には≪高麗犬≫の語があるとして、さらにそれが筆者の言うように狆、あるいは少なくとも短吻種犬を指すものだとすると、何となく筋が通りそうなものが存在しています。

日本の伝統的な玩具の中に、≪こま犬≫と呼ばれるものが存在しているのです。

Komainu2 上の写真は京都市内のみやげ物店で買ったもの。
下の写真は東京の穴八幡神社で購入したものです。

見てお分かりのように、その姿は犬です。
しかも、まさしく狆です。

狆を≪高麗犬≫と呼ぶという事実があるのなら、この狆の玩具が≪こま犬≫であるのも当然ということになるでしょう。

写真のものは土を焼いたものですが、同様の姿をしたものに張子で作られた≪犬張子≫というものがあります。
近世以降、庶民にも広がっていきますが、元をたどれば宮中や貴族の間で用いられた≪犬筥≫と呼ばれるものに行き着くとされます。

山田徳兵衛「日本人形史」(昭和36年 角川書店)にはこう書かれています。

室町時代より上流家庭では犬張子を天児・這子とともに幼児の祓に用いた。室町時代には犬箱ともいったように、むかしのものは箱の形で足がない。製作はむかしも張子細工で、長さは三十六センチほどあった。男犬・女犬を一対用い、箱のなかに守り札などを入れて、幼児の枕もとにおいたり、また宮参りのおりに携えたりした。嫁入りにも持参した。

小林すみ江「人形歳時記」(平成8年 婦女界出版社)によれば、お伽犬、宿直犬などとも言い、皇室では皇子・皇女の誕生の際には現在でも誂えられるそうです。

≪犬筥≫にせよ≪犬張子≫にせよ、その造型は狆に基づくものと思われます。
「狛犬=狆」説では、狆が変じて狛犬になったと考えるわけですが、こうして幼児の魔除けという、狛犬的な役割を担いながら、造形的にも狆の姿を保ったものが存在しているわけです。
つまり、狆→犬筥→犬張子という流れが、現に存在しているのです。

この流れを無視して、狆を狛犬と結び付けようとするのは、うがち過ぎだろうと、私には思えます。

狆の姿をした玩具に≪こま犬≫という名が付いていることとともに、もうひとつ気になることがあります。

それは、狛犬の玩具がないことです。

手元にある数種類の郷土玩具関連の書籍を確認しても、面白いことに獅子頭を小型化した玩具は存在するものの、狛犬はありません。

上記とは別の≪こまイヌ≫というものはあります。

これは岡山県の吉備津神社で頒布されている小型の土人形で、犬2匹(立ち姿と座り姿)と鳩1羽を一組として、総称して≪こまイヌ≫と呼ばれています。鳩が混じるものの、やはりこれも犬です。
斎藤良輔「日本の郷土玩具」(未来社 昭和37年)によれば、

祭神の吉備津彦尊が、祟神天皇の十年に四道将軍の一人として、この吉備国に派遣され、百済国の王子温羅と戦ったとき、イヌ(犬飼氏)とトリ(鳥飼氏)が道案内をつとめて尊を助け、ついに大勝した、という伝説にちなんだものだ。

とあります。

結局のところ、≪こまいぬ≫という名の玩具はいずれも犬で、狛犬は玩具には見られないのです。

このことは、一体何を意味しているのでしょうか。
犬、とりわけ狆を≪こまいぬ≫と呼ぶことの方が先にあったから、犬の玩具を≪こまいぬ≫と呼ぶのでしょうか。

ただ、玩具類の中でも、こうした≪人形≫類は、江戸時代以降に一般に広まったものと考えられます。
≪こまいぬ≫の名も、当然、近世になって与えられたもので、そこにそれ以前の歴史が反映されていると言えるのかどうか、疑問があります。

くどいようですが、近世になってから、『犬』の文字に引きずられて、犬でも、特に狆に関して≪こまいぬ≫と呼ぶようになったのではないかと思えてなりません。

2008年5月 1日 (木)

カナダ先住民と狛犬―その2

さて、マーストン兄弟とのたどたどしい会話の内容について、カナダ先住民の文化についての資料によって掘り下げてみようと考えました。

まず、「自分たちにとっては、神聖な存在や場所を守る動物は熊だ」という言葉ですが、これは言葉通り守り神であるか、彼らの属する≪半族≫を指しているか、≪クレスト≫のことを指しているのではないかと思われます。

≪半族≫制度というのは、一つの部族社会が二つの系統に分れているというもの。
一つの社会の中にワタリガラス族とワシ族とか、クマ族とオオカミ族といった二系統があり、婚姻は必ず異なる半族との間で行われるといった決まりがあると言います。

ちなみに、彼らの世界観の中では、人間と動物は密接な存在だとされているようです。 ≪コースト・セイリッシュ≫には儀式用の仮面があると書きましたが、その儀式用の仮面の中に動物から人間に変身する姿を表現したものがあります。
これは面白いもので、動物の顔の真中が二つに割れてその中に人間の顔がある、という作りになっています。
どうやら、儀式の際に踊りながらこれを開いたり閉じたりするようです。

ところで、興味深いのは、この変身する仮面の動物の顔を開いた状態が、人間の顔を挟んで二頭の動物がいる状態に見えなくもないのです。
それは、殷墟婦好墓から出土した銅鉞に刻まれた、中央に人間の顔を配し、その左右に神獣が2体描かれている図案によく似ているようにも思えます。

≪クレスト≫というのは、紋章のようなもので、それぞれの家系に属しているものです。
この≪クレスト≫はトーテムポールにも刻まれています。

そのトーテムポールですが、「Totem Poles of the Pacific Northwest Coast」(Edward Malin TIMBER PRESS 1986)という本によると、何種類かあるようです。
正確な学術用語がわからないのですが、記念柱(The Memorial Pole)、家の柱(The House Pole)、埋葬柱(Mortuary Pole)、紋章柱あるいは自由柱(The Heraldic or Free-Standing Poles)、家の前の柱(House Frontal Poles)、その他の直立する彫刻(Other Vertical Sculptures)というものが挙げられています。

名称だけ見ると、記念柱や紋章柱・自由柱というものには≪辟邪≫のニュアンスはないような感じで、一方、家の柱、埋葬柱、家の前の柱には、≪辟邪≫のニュアンスが感じられなくもありません。
しかし、いずれも一貫して、一族の≪クレスト≫やその歴史・伝承を刻んでいるもので、辟邪物としての意味はないようです。

ちなみに、マーストン兄弟が言う「歓迎を意味する人間の像」というのは、その他の直立する彫刻に含まれ、厳密にはトーテムポールではないようです。

アイヌに狛犬らしきものが存在しなかったように、カナダ先住民にもそれらしいものは存在しないようです。

2008年4月30日 (水)

カナダ先住民と狛犬―その1

カナダの木彫家、ジョン・マーストンとルーク・マーストンの兄弟と話しをする機会がありました。

彼らは、カナダの先住民のうち、ブリティッシュコロンビア州のバンクーバー島に居住する≪コースト・セイリッシュ(沿岸セイリッシュ)≫と呼ばれる部族に属しています。
カナダの先住民は、現在総称して“ファーストネーションズ”と呼ばれていますが、大別するといわゆる“インディアン”と、かつては≪エスキモー≫と呼ばれていた“イヌイット”と、インディアンと白人の混血である“メティス”に三分されます。
北アメリカ大陸のカナダとアメリカにまたがって居住する“インディアン”のうち、大陸北西部の太平洋沿岸部に住む人々は、漁業を生業としており、豊富な水産物に支えられて、狩猟中心の内陸部の“インディアン”より定住性が高く、独自の文化を育んできたと言います。
≪コースト・セイリッシュ≫もその一つです。

≪コースト・セイリッシュ≫には、信仰習俗に関わる木彫として、よく知られた“インディアン”文化の一つである≪トーテムポール≫の他、儀式用の仮面も存在しています。
マーストン兄弟は、こうした伝統的な木彫を学び、それを基礎とした作品を制作している若いアーティストです。

さて、そのマーストン兄弟に、まずは「狛犬を知っているか?」と尋ねました。
残念ながら彼らは狛犬を知りませんでしたが、「これが狛犬だ」と言いながら、京都国立博物館の図録「獅子・狛犬」を見せたところ、「これはライオンかい?」と問い返してきました。

これは興味深いことです。図録に掲載されているのは鎌倉時代までの神殿狛犬です。
もちろん、実物のライオンを知らない工人が制作したものです。
ライオンを知らない日本人が作った狛犬を見て、狛犬を知らないカナダ人はライオンだと思ったわけです。

次に尋ねたのは、「≪コースト・セイリッシュ≫には、狛犬に該当するものは存在するのか?」ということでした。
はじめ、狛犬の説明として「神聖な存在や場所を守る動物」と言ったところ、「自分たちにとっては、それは熊だ」と答えました。
そこで、「狛犬は、神聖な存在や場所の前方に、左右一対にして置かれるものだが、熊の像をそのような置き方をするか?」と続けて尋ねたところ、「そういうことはしない」という答えでした。
「集落の入口に男女の人間の像を対にして立てるが、それは『歓迎』を意味するものだ」とも答えました。

拙い英語で、短時間に聞き出せたことは、この程度でした。

2008年2月 4日 (月)

日本人とライオン

日本人が、≪獅子≫という形でライオンを知ったのは、おそらく奈良時代以前のことです。

しかし、それは中国文化というフィルターを通過したものであって、現実のライオンとはかけ離れていました。

では、日本人が現実のライオンを知るのはいつ頃のことでしょうか。

生きたライオンということになると、幕末になるようです。

「江戸東京年表」(2002年 小学館)によれば、出典の明示はありませんが、慶応二年(1866)一月に「芝白金清正公(せいしょうこう)門前明地に、牝ライオンの見せ物が出る」との記述があります。

ただ、生きたライオンが日本に上陸する前に、西洋からの情報として、ライオンの図像が伝わっていました。

日本の洋画家の先駆けとして知られる司馬江漢の随筆「春波楼筆記」(文化八年=1811年)の中にこんな記述があります(有朋堂文庫「名家随筆集下」に収録されたものに基づく)。

源内はヨンストンスと云ふ蘭書は、五六十金の物にて、家財夜具までも売り払ひ、此書を得たり。此蘭書は、世界中の生類を集めたる本にて、獅子、龍、其外日本人見ざる所の物を生写にしたる事、かずかぎりなし。今は此書も所持したる者ありけるが、其頃はかつてなし。

平賀源内について書いた箇所の一部分です。
源内が家財を売り払ってまで購入した「ヨンストンスと云ふ蘭書」には、「日本人見ざる所」の獅子が生き写しにされていた、というわけです。

この「ヨンストンスと云ふ蘭書」とは、ヤン・ヨンストン(1603~75)の「動物図譜」という著書のことを指しています。

「動物図譜」は、幕府の御文庫にあったものを、八代将軍・徳川吉宗が命じて研究させたというもので、それによって蘭学が花開いた、重要な書物だということです。

平賀源内が家財を売り払ってこれを購入したのは明和五年(1768)のことだそうです。

この「動物図譜」を参照して描かれた『ライオン図』というものがあります。

小田野直武(1749~80)や宋紫石(1715~86)のものが知られています。

こうして見ると、実物のライオンが日本にやって来るより100年以上前に、海外から伝来した書物の図版によって、それまで親しんできた≪唐獅子≫とは違う≪獅子≫が存在していることを、日本人は知りはじめたということになるでしょう。

しかしながら、この、いわば≪本物の獅子≫についての情報は、日本人の獅子観、ひいては狛犬観を覆しはしなかったように思えます。

上記の小田野直武や宋紫石の作品に描かれた≪ライオン≫は、≪ライオン≫というより≪唐獅子≫に見えます。

また、参道狛犬が急増するのは、「動物図譜」が世に知られるようになった後の18世紀後半から19世紀のことですが、そのデザインの中に≪ライオン≫を感じさせるものは見られません。

江戸時代後半までに積み上げられた狛犬1000年の歴史は、≪本物≫をも駆逐するほどのものに成長していたということでしょう。

なんだか、幕末になって≪正しいキリスト教≫に接しながら、自分たちの信仰に固執した≪隠れキリシタン≫の姿のようでもあります。

ところで、現在はちょっとした神社ならどこでも手に入れることのできる『破魔矢』は、平賀源内が創案して新田神社で売り出されたのが始まりだとされているようです。

そんなふうに神社とも縁があり、しかも新し物好きでアイデアマンだった平賀源内が、手に入れた「動物図譜」を元に、「これぞ本物の狛犬!」と称して、ライオンそのものの姿をした狛犬を作らせていたら、ちょっと面白かったのにな、などと、ふと考えてしまいます。

もっとも、全国の神社にリアルなライオン像ばかりがゴロゴロ存在していたら、狛犬好きにはなっていなかったかもしれませんが。

2007年10月29日 (月)

大徳川展

東京国立博物館平成館で開催中の『大徳川展』を観に行きました。

徳川家康を神格化した東照宮は、参道狛犬の歴史の中で、興味深い存在です。
日光東照宮には、関東では最古とされる参道狛犬がありますし、川越の仙波東照宮や静岡の久能山東照宮にも参道狛犬普及初期のものと思われる狛犬があります。

そのため、何か東照宮と狛犬に関する資料が展示されていないだろうかと考えて、足を運んだのでした。

狛犬そのものは展示されていませんでしたが、展示の一画に『家康の神格化』というコーナーがあり、そこに数多くの徳川家康を描いた絵画が展示されていました。
来場者が多く、会場ではメモを取りませんでしたが、図録を見ると、「東照宮御影」あるいは「東照大権現霊夢像」と呼ばれるものが16点(「御影」3点、「霊夢像」13点)掲載されています。
「東照宮御影」は徳川家康を神格化した画像であり、一方の「東照大権現霊夢像」は徳川家光が夢に見た家康の姿を描かせたという一連の作品群のことです。
ちなみに「御影」が3点(№77~79)、「霊夢像」が13点(№81~93)です。

一部形式の異なるものもありますが、天地に雲を配し、手前には短い階段と縁側、上には唐破風のついた屋根が描かれ、開かれた御簾と幕の中に上畳に坐した家康がいる、という図柄になっています。
そして、16点のうち12点で、家康の前に狛犬が1対描かれています。

御簾・幕・上畳といった道具立てと同様、狛犬も神格化の記号として描かれていることは間違いありません。

ところが、これらの狛犬、よく見ると奇妙な点があります。

図録№81、元和九年(1623)に描かれた「東照大権現霊夢像」の狛犬が、全身に鱗状の模様を描き込み、阿像は毛が緑色で巻毛、吽像は青色で直毛に描き分けられているのを別にすれば、いずれも簡略に描かれていて、左右で明確な描き分けなどはされていません。

それはいいのですが、形式がバラバラなのです。

一般的に≪狛犬≫は、向かって右に口を開いた阿形の無角の「獅子」、左に口を閉じた吽形の有角の「狛犬」を配するのが正式とされます。

しかし、この12対の狛犬は、ともに無角のもの(№77、№78、№81、№85、№89、№90、№91、№92)、通常とは逆に阿像に角があるもの(№82)、ともに有角と思われるもの(№83、№87、№88)となっていて、ひとつも正式なものがありません。
さらには向かって右を吽形にした≪吽阿≫のもの(№89)もあります。 これはどうしたことでしょうか。

12点の画像のうち、8点(№82、№85、№87、№88、№89、№90、№91、№92)は狩野探幽の筆によるものです。
また、№77も狩野探幽筆と考えられています。
同じ画家の作でありながら、狛犬の形式が一定しないのは、狩野探幽の狛犬についての知識が曖昧だったのでしょうか。

それとも、霊夢を見た徳川家光が、そのように描かせたのでしょうか。

真相は確かめようもありませんが、不思議なことです。

2007年10月 1日 (月)

皇帝とライオン

「東方へのライオンの伝来」の章の初めに、文献に残る西域から中国へのライオンの献上について触れました。

その際、「原典にあたっていないので、それが牡なのか牝なのか、何頭か、献上後どう扱われたかなどについては、よくわかりません」と書きました。

その後、楊衒之「洛陽伽藍記」を見ていたところ、面白い逸話が掲載されていたので、漢代の話ではありませんが、ここでご紹介してみます(昭和49年に平凡社から刊行された「中国古典文学大系 第21巻」入矢義高訳に基づく)。

洛陽の永橋南道の東にあった白象坊と獅子坊という建物の由来について述べた部分に、獅子の献上の話が出てきます。

獅子は波斯国の胡王が献上したものである。献上の途上で、逆賊万俟醜奴に奪われ、賊営に留めて置かれた。永安(528~530)の末に醜奴が打ち滅ぼされて、やっと都に到着した。

献上を受けた北魏の皇帝・孝荘帝は

「朕は、虎は獅子を見れば必ずひれ伏すと聞いている。虎を捜し求めて試みよ」

と命じます。
そこで虎2頭と豹1頭が捕らえられ、送られてきたので、王宮内の庭園である華林園に獅子と虎と豹を集めます。

そこで虎と豹を獅子にひき会わせたが、どれも目を閉じてしまい、顔を上げて見ようとしない。

そこで今度は、以前から華林園で飼育している盲目の熊を連れて来るように命じます。

飼育係が盲の熊を牽いて来たが、獅子の臭いを嗅ぐと、驚き恐れて跳びはね、鎖を曳きずって逃げてしまった。帝は大いに笑われた。

さて、この獅子ですが、普泰元年(531)に広陵王(節閔帝)が即位すると、

「禽獣を囚にするは、則ちその性に違う。宜しく放ちて山林に還らしむべし」

つまり、野生動物をこんな園地で飼うなどというのは生物の本質に反しているから自然に返してやれ、という命を出したため、本国に送り返すことになりました。
しかし、ペルシアは遠いため、送り返す役目の者はたどり着くことができず、途中で獅子を殺して帰国してしまいます。
そこで命令違反として処罰されそうになりましたが、

広陵王は「獅子のためにどうして人を罰せようか」と言って、これを放免した。

という話です。

孝荘帝の話からは、当時、虎と獅子では獅子の方が上位であるとする考えが芽生えていたことがうかがえます。

一方の節閔帝の話は、仏教の行事のひとつである放生会を思い起こさせます。
仏教を重んじた北魏だけのことはあります。

この一連の話が、仏教が中国の神獣の世界の中での獅子の地位を高めた、という考え方に合致するように思うのは、少々牽強付会でしょうか。