狛犬の隣人たち

2022年11月18日 (金)

プカラの牛(2)

「プカラの牛」巡回展の会場にあった小冊子には、プカラの牛のデザインの意味と色の意味が列挙されています。

 

デザインの意味
・出っ張った目=自分解析や現実に対する広い視野
・上に曲がった舌=教育。物事に対する適切な言葉と敬意
・渦巻=相互共生の原則。あたえたものが全て返ってくる
・鎖の輪=精神の統制。覚醒への過程
・取手=知識、精力や創造的エネルギー
・背中の穴=生命の誕生。水を使う仕事。種と受精
・荷鞍=自己実現のために人が払った犠牲

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色の意味
・黒色=自我・誕生
・緑色=経済繁栄・健康
・青色=信頼・忠誠・友情
・赤色=愛・満足感
・黄色=喜び・幸運
・天然色=家族の守護

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小冊子によると、デザインの意味は「主に愛情と子宝に関するもの」で、「取っ手は夫婦円満を表し、上部の穴は受胎に関連していると言われています」とあります。

 

前回、司祭の勧めで闘牛用の牛の装飾を取り入れたということに触れましたが、それに続けて、このような記述があります。

 

「教区内ではスペイン人の陶芸家による教室も開かれ、雄牛は額に十字架、背中に鞍をつけるようになりました。」

 

しかし、会場に展示されていたプカラの牛には十字架は見られませんでした。
そして、上記の説明のように、十字架には言及がありません。
十字架をスペイン人から推奨されたされたものの、現在では民族意識から排除したというところでしょうか。

 

屋根の上に飾ることについては、「家の安全を見守るだけでなく、幸運や繁栄をもたらすとも信じられ、新築祝いの贈り物としても好まれている」と書かれています。
そして、「屋根に飾るときには、必ずオスとメスをセットにする。つがいは夫婦をあらわすという」とあります。

 

確かに、展示されているプカラの牛は、男性器のあるものとないものがセットになっているようです。
ただ、女性器を表現したものはありませんでした。

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背中の穴を「生命の誕生」や「種と受精」と捉える上記の説明から考えると、背中の穴は女性器を意味すると考えることもできそうですが、全ての牛にあるので、少し強引かも知れません。

 

いずれにせよ、アンデスの伝統文化とキリスト教の混ざり合った新しい文化なので、どう捉えるべきかは難しいところです。

 

しかし、よく考えれば狛犬も外来文化を受容するにあたって、それを日本的に変化させたものと言える訳ですから、その意味でも「狛犬の隣人」と言えるでしょう。

 

2022年11月17日 (木)

プカラの牛(1)

2022年11月5日、「プカラの牛」巡回展というものを見学に行きました。

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「プカラの牛」とは南米・ペルーで見られる習俗です。
牛の姿をした陶製品で、様々な祈願や魔除けのために用いられるものです。
プカラとは、これを制作する陶器の産地の地名です。

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興味深いのは、瓦屋根の上に魔除けのために飾ることがあるということです。
しかも、その際には雌雄をセットにすると言います。

 

屋根に飾るという点では、沖縄の屋根獅子、台湾や中国南部で見られる屋頂風獅爺を思い浮かべます。
また、雌雄で対にするという点では一部の中国獅子や狛犬との共通性を感じます。

 

さて、展示を見に行く前に、いくつか知りたいポイントがありました。

 

・南米大陸に野生の牛は存在しないはずなので、「プカラの牛」はヨーロッパ人によって牛が持ち込まれた後に生まれたもののはず。具体的にはいつ頃、どのようにして生まれたのか?

 

・ヨーロッパ人との接触以前から、牛以外の動物を用いた同様の習俗は存在したのか?それともヨーロッパに由来する習俗なのか?

 

展示会場に関係者がいれば、こうした質問をするつもりでいたのですが、残念ながら無人で、ただ展示品が置かれているだけだったため、何も尋ねることが出来ませんでした。

 

かろうじて、会場で簡単な小冊子が配布されていたので、持ち帰りました。
以下、その小冊子に基づいて「プカラの牛」とは何かをまとめてみます。

 

「プカラの牛」の起源は19世紀以前に溯ると、小冊子にあります。
となると、逆に言えば、現在のような「プカラの牛」の成立は、20世紀に入ってからということになります。
その意味では新しい習俗です。

 

しかし、それはスペイン人によって導入された牛の姿をモチーフとし始めたのが、時期的に新しいということです。

 

アンデスの人たちには動物をモチーフとした「お守り」=「コノパ」の文化が存在していました。
元々は、リャマ・ビクーニャ・アルパカといった南米在来の動物をモチーフとした「お守り」があったのですが、ペルーに入ったスペイン人入植者(と小冊子にはありますが、要するに神父たちでしょう)から偶像崇拝の元凶として禁じられてしまいます。
そのため、キリスト教に由来するカーニバルの儀式用の牛をモチーフにすることで代用せざるを得なかったという事情があるようです。
その意味ではキリスト教による在来信仰の弾圧を免れる方便だったと言うことが出来ます。

 

元々は牧牛に似た装飾のないものだったようですが、現在のような装飾的な「プカラの牛」の誕生には、キリスト教の司祭たちが関与しているようです。
小冊子には、「1925年以降、プカラでは、既にクリスマスの祭りや闘牛の夕べが町の中央広場で開かれていました。そこで、初めて闘牛を見た司祭たちは、陶芸家たちに、シンプルで飾り気のない牛だけでなく、闘牛用の牛に使われる装飾などもつける工夫をするように勧めました」とあります。

 

こうした経緯をまとめれば、「プカラの牛」とは、アンデスの風習がキリスト教との接触によって変容しつつも、現代に生き残ったものと言うことが出来そうです。

 

 

 

2007年12月26日 (水)

風獅爺(2)

Keirin さて、以上を箇条書きに要約すると、風獅爺とは

1)向かってくる邪気や災厄を防ぐ辟邪物である。
2)立ち上がった獅子の姿を中心にいくつかのバリエーションがある。
3)中心となるのは石造のものである。
4)集落の外周部に設置するものと建物に設置するものがある。

ということになります。

Shokokou こうした特長は、沖縄のシーサーとも共通するもので、故に風獅爺はシーサーの源流のひとつと考えられるわけですが、逆に風獅爺の源流を考えた場合、こうした特長を持つものとして、よく知られたものがあります。

≪石敢当≫です。

中国で生まれたもので、日本では沖縄のものが知られていますが、実は日本全土に広く見られます。
金門島でも瓊林蔡氏宗祠のすぐそばで見つけました。

Sekikantou_1 切石や自然石に『石敢当』とか『泰山石敢当』という文字を刻んだものです。
文字の由来は、≪石≫という名の英雄が、≪敢当≫=無敵であったことにちなんだとか、≪石敢当≫自体が人物名だとする俗説がありますが、史実ではないようです。
おそらくは石そのものの呪力への信仰であろうとされています。
中国の唐代には存在していたと考えられています。

Sekikantou_2 石敢当は、風獅爺同様、向かってくる邪気を防ぐ辟邪物です。
丁字路の突き当たりや袋小路、家の角や四辻に設置します。
瓊林蔡氏宗祠近くのもののように壁面に埋め込んでしまうものや、単立させるものなど様々なものがあります。

様々なものの中には、石の上部に獅子の顔を浮き彫りにし、その下に『石敢当』の文字を刻んだものがあります。
今回の訪問では見られませんでしたが、金門島にもこの種のものが存在しています。

窪徳忠の著書によれば、すぐそばの厦門には石敢当の一種として、「長身の棒状の石獅」があると言います(「増訂 沖縄の習俗と信仰――中国との比較研究――」1974年 東京大学東洋文化研究所)。
図版が無いのでわかりませんが、これは立った姿の風獅爺を連想させる表現です。

また、「金門風獅爺と辟邪信仰」には、金門島の西門里には胸に『石敢当』の文字を刻んだ風獅爺があると書かれています。
写真を見る限り、ある程度は古いもののようですが、実はこれ自体は民国八十五年(1996)に台北で購入したものだということで、由来などは判然としません。

この他、中城正堯は福建省泉州市で見つけた壁に埋め込まれた石獅を紹介しています(「アジア魔除け曼荼羅」1997年 NTT出版)が、これは蔡氏宗祠の風獅爺とよく似ています。

同じ中城正堯が金門島と台湾の間にある澎湖列島で見つけた辟邪石塔を紹介しています。
これは、集落の四方の入り口に小さな切石を台座に載せて立てたもので、『蕭元帥』とか『劉元帥』などという文字が刻まれています。
やはり魔除けの辟邪物です。
『石敢当』を人名とする俗説があることを考えると、その同類とみていいように思えます。

また、「中国獅子雕塑芸術」(朱国栄 1996年 上海書店出版社)に紹介されている獅子像の中には、風獅爺のように棒状になっているわけではありませんが、後足で立ち上がった獅子像が見られます。
造形の母体は南方系獅子で、地域的には長江下流の南京や上海の周辺に多く見られるようです。
残念ながら福建省の例は挙がっていませんが、地域的にそれほどかけ離れているわけではありません。

以上を考え合わせてみると、風獅爺は石敢当と獅子像が融合して出来たものと考えることができるのではないでしょうか。

一方、既に触れたように、風獅爺には建物に設置するものがありますが、その中に≪屋頂風獅爺≫と呼ばれるものがあります。
もっぱら陶器製で、屋根の上に置かれるものです。

Shogun 大きく口を開けた獅子で、獅子のみのものと、獅子に武人が乗ったものがあります。
武人が乗ったものは特に≪瓦将軍≫とも呼ばれているようです。
おそらく、厳密には武人が≪瓦将軍≫なのでしょう。
(写真は宜蘭の河東堂獅子博物館の展示品)。

この≪瓦将軍≫タイプのものを、窪徳忠は台南で見たと言い、中城正堯は泉州のものを紹介しています。

これは、屋根に載せる獅子という点で、沖縄のシーサーのうち屋根獅子と呼ばれるものと非常に類似しており、これもまたシーサーの源流と言えるものだと思われます。

こうしてみると、沖縄でシーサーと呼ばれているものは、事実上、風獅爺そのものである、という気がします。

2007年12月25日 (火)

風獅爺(1)

以前、狛犬とシーサーの関係について、こんな文章を書きました。

この度、そこでシーサーの源流のひとつとして挙げた風獅爺を、台湾の金門島まで実際に観に行く機会に恵まれました。
その見聞をもとに、狛犬の隣人として風獅爺についてまとめてみます。

なお、以下の記述は、日本参道狛犬研究会会員のくにさんが個人的に翻訳された「金門風獅爺與辟邪信仰」(楊天厚・林麗寬著 2000年 稲田出版有限公司)に大きく依拠しています。

Youtaku_a 金門島は、台湾とは言っても、中国福建省厦門市の目前数キロの地点に浮かぶ島です。
古来、台湾海峡の交通の要衝として重要視されてきました。

この金門島は、乱伐によって森林が失われた島です。
伝説的には、清朝に対抗したかの鄭成功が軍艦を造るために木を切りつくした、とも言われますが、実際にはそれ以前に、元代に始まった製塩業に大量の薪が必要だったことや、明代に猛威を振るった倭寇の影響などがあり、以後も軍事的要衝としてたびたび戦渦に巻き込まれたことが、その原因であるようです。

Youtaku_b 元々、強い季節風の吹き荒れる島であった金門島は、森林を失ったことでさらに風害がひどくなり、それが鎮まることを願って人々が建てたものが風獅爺です。
ただし、人々が風獅爺の力によって防ごうとしているのは、現実的な風害だけではなく、いわゆる邪気といったものも、その中に含まれます。

ひとくちに風獅爺と言っても、その姿やあり方は一様ではありません。

Youtaku_c まずその姿ですが、金門島の風獅爺を代表する姿は、後脚で立った獅子を円柱状に作ったものです。
立ち上がっているために空いた前足には様々な呪物を持っています。
筆と印を持つもの、球と彩帯を持つもの、旗を持つものなどがあります。
後足の間にひょうたんの形で男性器を表したものはオスとされ、無いものはメスと見られているようです。

Sami 一方、南方系中国獅子を風獅爺としているものもあります。
沙美という集落にあるものを実際に見てきました。
これには風獅爺の別の呼び方である≪石獅爺≫の文字が刻まれています。

Gosuitou_a また、どこか日本の狛犬を思わせる蹲踞したタイプのものも見られます。
後水頭汶徳宮前の風獅爺は、色付けされていなければ、日本の神社にあっても、違和感がありません。

ちなみに、この色付けについて、現地ガイドは、金門島に駐留するようになった台湾軍の兵士たちがやり始めたことで、それ以前は着色されてはいなかったと話していましたが、正確なところはわかりません。

小型の風獅爺で、正面を向いて蹲踞しながら、腹の下を彫り抜いていないものがあります。
顔は扁平で、全体に四角い感じで、正面から見ると小さな石碑のような形をしています。
残念ながら、今回は実物を見ることが出来ませんでしたが、その姿は佐賀県に広く見られる≪肥前狛犬≫と呼ばれるものによく似ています。

Anki 金門島は石材の産出地でもあるので多くは石像ですが、セメントなどを用いた塑像や、陶器のものもあります。

さて、こうした風獅爺の設置場所は、大きく二つに分けられます。

まず、集落の外周部に設置され、集落を守る役割を与えられた、いわば≪公的≫な風獅爺があります。
集落の外周部に台座を設置し、その上に単体で設置されたものがほとんどです。

Gosuitou_b 実際に見てみて興味深かったのはその立地で、集落にある廟の敷地内やその周辺に設置されている例が目につきました。
風獅爺の設置場所は乩童(タンキー)と呼ばれる呪術師(現地ガイドは風水師と言っていた)が神託によって決めるということのようですが、集落におけるそうした霊的な場所というのは、廟と重なるものなのでしょう。
ただし、廟の建物の向きと、風獅爺の顔の向きはほとんど一致していません。

また、道路の交差したり分岐したりする場所にも設置されています。
道教では、長く真っ直ぐな道は邪気を発すると考えるようで、それを避けるためのものなのでしょう。

これに対し、個別の建物に設置される≪私的≫な風獅爺もあります。

Saisi_1 「金門風獅爺與辟邪信仰」ではそうした例をいくつも挙げていますが、今回実際に見ることが出来たのは瓊林という集落にある蔡氏宗祠と呼ばれる建物に設置された風獅爺です。
蔡氏宗祠は、蔡という姓を持つ一族の祖先の位牌を祀った祠です。
この風獅爺は、建物が入り組んで路地になっている中で、その路地が真っ直ぐその建物の裏側の壁面にぶつかってくる場所に、建物の壁面に埋め込まれるようにして設置されています。
これも路地をやって来る邪気から建物、ひいてはその中の人間などを守るものでしょう。

Saisi_2 金門島では、集落ではなく、こうした特定の建物に対して設置されたものも風獅爺と呼んでいます。

2007年10月 4日 (木)

ヘテについて

朝鮮半島における『狛犬の隣人』と言えば、≪ヘテ≫が挙げられます。

ソウル市にある景福宮光化門前のものは、特に有名でしょう。

しかし、この≪ヘテ≫とは一体何なのでしょうか。

「韓国伝統文化事典」(国立国語院編 教育出版株式会社 2006年)の『ヘッテ』の項目からその特徴を取り出して列挙してみると以下のようになります。

  1. 守護神とされる想像上の動物。
  2. 獅子に似て、たてがみの中に鹿に似た角が一つある。
  3. 善悪を判断し、人の争いを見ると、正しくない方を角で突く。
  4. 火事や災いを退治する。
  5. 建物の入口に左右一つずつ立てる。

このうち、(3)から即座にイメージされる神獣が存在します。

≪獬豸≫です。

漢代に成立し、清代に編集された「異物志」によると、≪獬豸≫には一本の角が生えており、人が争うのを見て、善悪を弁別し、角で悪人の方を突く、とあるそうです。

「韓国伝統文化事典」では

ヘッテは中国の古い文献によれば、東北の辺方にいる動物で角が一つある。

と記述していますが、前漢の東方朔の著書という伝説のある「神異経」に、≪獬豸≫は東北の荒野にいるとの記述があるということなので、「韓国伝統文化事典」が≪獬豸≫のことを≪ヘテ≫としていることは間違いないようです。

では、≪獬豸≫が≪ヘテ≫なのでしょうか。

「説文解字」などは≪獬豸≫は牛に似ているとしていますし、「漢書」の注によれば鹿に似ているとしています。
明の太祖・朱元璋の陵墓である明孝陵の参道にある≪獬豸≫像(リンク先の写真の一番手前)は、決して牛や鹿に似ているとは言えませんが、足には蹄があり、牛や鹿を意識していることは確かでしょう。

この点では獅子に似ているという≪ヘテ≫と食い違います。
上のリンク先の写真を見ると、足も獅子風の鉤爪で、蹄ではありません。

一方、≪ヘテ≫に≪海駝≫という漢字を当てている記述もあります。
手持ちの資料が少ないので検索にかけてみると、「鱗を持った水獣」とした記述も見つかります。
現在広く見ることができる光化門型の≪ヘテ≫はそのように作られているようです。

水に関わる神獣であれば、(4)の火事を退治するという特徴にうなずけます。
また、古代オリエント以来、ライオンは水と関わりのある動物として扱われてきました。
その点から、獅子に似た動物である≪ヘテ≫が水と関わりを持つのは、自然な成り行きに見えます。

しかし、≪獬豸≫を水に関連するものとした記述は見つけられませんでした。
鱗についても同様です。

ただし、孝陵の≪獬豸≫像や清の雍正帝の泰陵の≪獬豸≫像には鱗が表現されているようです。

ちなみに、火を避ける一角獣として「山海経」には≪〓疏≫(カンソ。〓は「灌」のさんずいを月偏に換えたもの)というものが挙げられています(これは馬に似た獣とされています)。
また、時代はぐっと下がりますが、沖縄のシーサーにも火難避けの意味があります。

こうして見ると、≪ヘテ≫は≪獬豸≫を母体としつつ、その他の神獣の要素も取り込んだものと考えるのが妥当なように思えます。

この≪ヘテ≫が、朝鮮半島にいつ頃から存在しているのか、はっきり記した資料を見つけられませんでした。

Hete_3 少なくとも李氏朝鮮時代には存在していたと思われますが、例えば、「韓国伝統文化事典」に掲載されている李氏朝鮮後期の『ヘッテ図』(引用写真)という絵に描かれている≪ヘテ≫は、「本草綱目」(16世紀末成立)に掲載された獅子の図とそっくりです。
完全に獅子以外の何ものでもありません。
上のリンク先の陶磁器の≪ヘテ≫も、どうも獅子のように見えます。
あるはずの角も見えません。
この時点でも、≪ヘテ≫の図像にバラつきがあるということでしょう。

その意味からは、光化門型の≪ヘテ≫も、それほど古いものではないのかもしれません。
景福宮の光化門自体は、1397年には完成していたようですが、その時からこの≪ヘテ≫が存在していたのかどうか、調べがつきませんでした。

≪ヘテ≫の謎は、いまだ深いままです。

2007年9月28日 (金)

中国獅子

中国での≪獅子≫の発生について見た最後に、『狛犬の隣人たち』として、大まかな括りになりますが『中国獅子』という形で、現在広く見られるものについてまとめてみます。

東アジアに伝来したライオンが中国化したものが獅子であり、日本化したものが狛犬です。

歴史的に見れば、中国から獅子が伝来して狛犬になったわけで、『狛犬の隣人』と言うより、『狛犬の親』になるわけですが、それぞれが時代によって変化を遂げていった結果、現在における中国の獅子と日本の狛犬は、一目で違いがわかるほど異なるものになっています。

様々な時代の中国獅子の写真が収録されたものを見ると、時代によってその姿は様々です。

しかし、現在ではおおむね二つの形式に集約されています。

北獅・南獅とか北派・南派、あるいは北方系・南方系などと呼ばれる二つの形式です。

「中国獅子雕塑芸術」によれば、はっきりとこうした二つの形式に集約されるようになるのは明代からのようです。

北派の獅子は主に山西、山東、河北、河南、陝西の各省で流行し、その影響は遼寧、甘粛、湖北、安徽などの省に及んでいます。

この形式の祖形は唐代には既に見られるようです。

Gokoku この写真のようなものが北獅です。

仏像の螺髪のようなたてがみ、がっちりとした体格で、きちんと蹲踞し、尻尾はごく小さいか背中に浅く浮彫りにされています。

胴部には瓔珞という胸飾りをつけ、多くの場合、足で子獅子と玉を押さえています。

ちなみに、東洋の神獣にはその霊力の象徴として玉が付き物ですが、この場合の玉は『繍球』と呼ばれるものです。

雌雄の獅子が戯れることによって生じる毛玉のようなもので、ここから子獅子が生まれるという考え方があるそうです。

南派の獅子は主に福建、広東、広西の各省で流行し、その影響は海南、台湾などに及んでいます。

明代に生まれた形式のようです。

Kodama_4 この写真のようなものが南獅です。

大きな耳をした扁平な顔、背中が寝た状態の円筒状の身体に貧弱な四肢が付き、尻尾は派手で大きく巻き上がっています。

瓔珞をつけ、子獅子と玉を伴なう点は同じですが、踏んで押さえるというより、前足を上げて抱きかかえる感じになっています。

玉に紐が伴なうことがあるのは北獅にも見られることですが、その紐が派手に長く表現され、時に口にくわえている場合があります。

さて、実は例にあげた写真は日本の神社に設置されているものです。

北獅の方は、熊本市の熊本県護国神社のもの。

ここは境内にある3対の狛犬がすべて北獅形の中国獅子になっています。

写真のものは台湾歩兵第一連隊と台湾山砲兵第四十八連隊(の生存者)による奉納(昭和57年)。

ちなみに、他は1対は台湾第二連隊大西部隊長友隊、1対は台湾歩兵第二連隊によるもので、いずれも台湾に関係しているものです。

南獅の方は、湘南・江ノ島にある児玉神社のもの。

この神社の祭神である明治の軍人・児玉源太郎が、台湾総督を務めたことを記念して、昭和5年に当時の台湾総督であった石塚英蔵によって奉納されたものです。石塚英蔵は児玉総督時代の総務局長で、この児玉神社創設の発起人の1人でもあります。

台湾台北州観音山の石を用いて台湾の石工によって製作されたものとされています。

こうした例は寺院も含めて少なからず見られます。

『狛犬の中に混じり込んだ隣人たち』といったところでしょうか。

2007年9月26日 (水)

鎮墓獣について(2)

この≪鎮墓獣≫を人面と獣面の2体1対にする形式は、唐代にも受け継がれます。

ただし、唐代は約300年という長期王朝ですので、その間にも変化が生じます。

それを「大百科」と「新中国」の両者に基づいて大まかにまとめると、このような感じになります。

  • 7世紀終わり頃まで=人面と獣面に分かれ、その表情にははっきりとした違いがある。
  • 7世紀末から8世紀半ば=角と翼が備わり、手で蛇をつかんだり、足で怪獣を踏んだりするようになる。
  • 8世紀末から10世紀初頭=人面と獣面の区別が曖昧になり、簡略な作りになる。

角はともかくとして、手で蛇をつかんだり、足で怪獣を踏んだりするというのは、≪狛犬≫には見られない特長です。

このあたりになると、少し≪狛犬≫からは遠いのではないかという気になります。

また、後になってから翼を持つようになるということは、グリフィンのような有翼神獣が原形ではないのではないかという気を起こさせます。

それよりも、「大百科」「新中国」あるいは「日本の美術279 ≪狛犬≫」の文中には記載がないことで、重要な点があります。

例えば、「新中国」の写真図版に掲載されている唐代の『三彩鎮墓俑』(河南洛陽関林出土)は、獣面のものは口を開き、人面のものはほとんど口を開いていません。

「日本の美術279 ≪狛犬≫」に写真が掲載されている『加彩鎮墓獣』(伝洛陽北邱山出土)も同様です。

また、「シルクロードの都 長安の秘宝」(1992年)という展覧会図録に掲載されている唐代の昭陵鄭仁泰墓から出土した≪鎮墓獣≫は、人面のものは口を閉じ、獣面のものは口を開いています。

くどいのでこれ以上挙げませんが、他にも類例が見られます。

つまり、人面と獣面を対にした≪鎮墓獣≫では、人面は閉口、獣面は開口とする決まりがあった可能性がうかがえます。

もっとも人面でも口を開いて見えるものや獣面でも口を閉じたものがありますので、それが何らかの思想に基づくものなのかは疑問です。
単に造型上の問題(人面が大口を開けると威嚇というよりはちょっと間抜けになります)と考えた方がいいようには感じます。
しかし、≪狛犬≫の≪阿吽≫を想起させるものであることは確かです。

以上のように、≪狛犬≫として具えているべき特長=①異なる神獣を1対にする②一方は口を開け、他方は閉じる=は、北魏から唐代の鎮墓獣にも同様の特徴が見られます。

その、北魏を含む魏晋南北朝から唐にかけての時代は、日本が中国の諸王朝に接触を持ち始める時期でもあります(倭の五王の遣使が413504年、遣隋使は600614年、遣唐使は630894年)。

そして、それは≪狛犬≫が日本で成立する時期とも重なってきます。

では、≪鎮墓獣≫が≪狛犬≫になったのでしょうか。

それにはやや疑問が残ります。

まず、造形的に、≪狛犬≫は人面をしていませんし、翼もありません。

そもそも、地下の墓の中に納められる≪鎮墓獣≫を、日本から中国に行った人々が目にする機会があったでしょうか。

目にしなくとも、概念だけを知識として学んだ可能性はあります。

しかし、それなら余計に疑問が生じます。

墓の中にあって死者を邪気から守る≪鎮墓獣≫と、地上にある御所や社寺において高貴な存在のいる場所を清浄に保つ≪狛犬≫は、異なるものに思えます。

特に、死を穢れとする傾向が強い日本人の感性からは、≪鎮墓獣≫と≪狛犬≫の距離は遠いのではないか、と思うのです。

≪鎮墓獣≫と≪狛犬≫はよく似通った存在ではあると思いますが、それは同じ河の流れの上流と下流ということではなく、同じ源流からどこかで枝分かれした別の河なのではないかという気がします。

2007年9月25日 (火)

鎮墓獣について(1)

再び、一旦本題を離れて、『狛犬の隣人たち』に触れてみます。

中国の墓葬に見られる≪鎮墓獣≫は、時に≪狛犬≫と関連してその名が挙げられることがあります。

例えば、「日本の美術279 ≪狛犬≫」(1989年 至文堂)でも、かなり詳しく言及されています。

私自身は、何度か中国の考古文物の展覧会で実物を目にしていますが、≪狛犬≫に関心を持つ以前の時期に見たため、≪鎮墓獣≫に明確なイメージがありません。

そこで、鎮墓獣とはどういうものか、≪狛犬≫との結びつきはあるのか、少し調べ直してみました。

発行年代がやや古くなりますが、手持ちの資料の中から、中国で刊行された「中国大百科全書 考古学」(1986年 中国大百科全書出版社 以下「大百科」)と「新中国的考古発現和研究」(1984年 中国社会科学院考古研究所編 文物出版社 以下「新中国」)を参考に、まずは≪鎮墓獣≫について概観してみます。

まず、最初に≪鎮墓獣≫が見られるようになるのは、春秋時代(前770~前403)の後半、長江流域の楚でのことのようです。

「新中国」によると、雨台山楚墓という遺跡では500以上の春秋戦国時代に属する墓が見つかっていますが、そのうち春秋晩期以後の270余りの墓のうち、半数以上で≪鎮墓獣≫が出土しているとのことで、楚では広く普及していたことがわかります。

漢代(前漢:前202~後8/後漢:25220)に入ると、北の黄河流域にも≪鎮墓獣≫が見られるようになります。

そして、中原で≪鎮墓獣≫が広く見られるようになるのは、魏晋南北朝(220589)の西晋(265316)の頃からのようです。

これがさらに流行するのは唐代(618907)のことです。

しかし、「大百科」によると、安史の乱(755763)以降の唐代後半には、徐々に≪鎮墓獣≫は廃れていったということのようです。

確かに、「大百科」「新中国」とも、唐末の五代十国(907960)以降の記述の中に≪鎮墓獣≫の文字は見当たりませんでした。

以上をまとめると、≪鎮墓獣≫は春秋時代後半から長江流域の楚で広まり、漢代に黄河流域でも見られるようになり、魏晋南北朝以後盛んになるが、唐代の終わりにはほぼ廃れた、ということになるでしょうか。

さて、この≪鎮墓獣≫ですが、実際にはこの言葉は概念を表したものであって、≪獅子≫や≪龍≫のように特定の神獣を指しているわけではありません。

当然、この言葉の中に含まれる神獣像は、外見や形式において、幅があります。

例えば、長台関楚墓の1号墓から出土した≪鎮墓獣≫は、犬のちんちんのような姿勢で、頭から鹿のように枝分かれした角が二本、横に並んで生え、平面的な顔には半球状に飛び出た眼球があり、口からは長い舌をベロッと出している、というものです。

一方、漢代に見られるものは、牛を思わせる体躯をして、頭部を下げるようにして四本足で立ち、頭部からは枝分かれのない角が一本生えている、というものです。

想像によって造型したサイというイメージです。

日本の一般的な≪狛犬≫のような、後脚をたたみ、前脚を伸ばした蹲踞の姿勢が見られるのは、魏晋南北朝の北魏(386534)以降のことのようです。

そして、この北魏の時に、大きな変化が起ります。

「大百科」の記述によれば、西晋までの≪鎮墓獣≫は単体で置かれていたが、北魏以降は2体1対になる、というのです。

外見上も、形式上も、北魏に至って、極めて≪狛犬≫に接近してきたと言えます。

さらに興味深いのは、その2体になった≪鎮墓獣≫のうち、1体は獣面、もう1体は人面に作る、という点です。

これは、一方において、日本の≪狛犬≫が≪獅子≫と≪狛犬≫という異なる神獣を対にしていることを想像させますし、もう一方においては、ユーラシアの西側で見られたグリフィン(獣面)とスフィンクス(人面)を対にした図案を思い出させます。

これらが一本の線に繋がるものかどうかはわかりません。

グリフィンとスフィンクスのことを取り上げた時にも触れたように、異なる2種類の神獣を神聖なものと組み合わせる際に対にするという発想は、ユーラシア全体に見られるものであると考えるべきでしょう。

2007年9月20日 (木)

辟邪・天禄について(2)

≪辟邪≫≪天禄≫とみなされている考古文物は少なからずあります。

そちらからはどう考えることができるでしょうか。

「グリフィンの飛翔」には、河南省洛陽県孫旗屯出土の1対(2世紀)、南京市の宋武帝初寧陵の1対(5世紀)、江蘇省丹陽市の斉景帝修安陵の1対(5世紀)、南京市の陳文帝永寧陵の1対(6世紀)の4対が紹介されています。

いずれも一角と二角の組合せで、角の本数を別にすれば、対の左右であからさまな形状の違いはありません。

そして、4対の相互の形状もよく似たものになっています。

とりわけ、前足の付根あたりから翼が生えているという点が共通しています。

つまり、いずれも有角有翼神獣なのです。

顔は猛獣の顔をしており、獅子グリフィンの系譜にあるものと考えることが出来ます。

「幻想動物の文化誌 天翔るシンボルたち」(張競 農文協 2002年)でも同様のタイプの≪辟邪≫≪天禄≫が紹介されています。

その中に混じって紹介されている、梁の呉平忠侯・蕭景、安成康王・蕭秀、南康簡王・蕭積の三者の墓(6世紀)に設置された≪辟邪≫は、≪辟邪≫のみが1対となったもので、有翼ですが無角です。

その姿自体も、頭部が豊かなたてがみでふっくらとした形に表現されていて、明らかに上記の有角有翼神獣とは姿が異なります。

こちらは有翼ではあるものの≪獅子≫そのものという感じを受けます。

Photo 「中国獅子彫塑芸術」では、蕭景墓と蕭秀墓のものを≪石獅≫として収録しています。

その一方で、先日その名に触れた建安十四年(209年)の『四川雅安高頤墓石獅』は、角こそないものの、実は有翼で、その姿は上記の有角有翼神獣と似ています(写真は「中国獅子彫塑芸術」より引用)。

こうしたことを踏まえて、「中国獅子彫塑芸術」の著者・朱国栄は、林樹中による「有角のものを麒麟と総称し、一角か二角かで区別をした。無角の石獣が辟邪で、それは実は獅子である」という説を妥当としています。

つまり、≪辟邪≫は≪獅子≫であり、≪天禄≫は≪麒麟≫であるというわけです。

また、朱国栄は「石製辟邪のある陵墓には石製獅子が重ねて置かれることはなく、同様に、石製獅子のある場所には、石製辟邪を重ねて置くことはなく、重複しない」としており、それが確かなら、≪辟邪≫=≪獅子≫と言えるのかもしれません。

ただし、日本の曾布川寛は独自の研究から「一角獣の方は辟邪と名づけることが出来、二角獣の方は依然不明である」と唱えており、すっきりとはいきません。

ただ、間違いないことは、名称はどうあれ、獅子グリフィンからの影響を見て取れる有翼神獣が存在し、それは麒麟と獅子に非常に近接した存在である、ということです。

2007年9月19日 (水)

辟邪・天禄について(1)

ここで一旦、本題から離れます。

中国の神獣の中で、狛犬の起源について考察する際、必ず言及されるものに≪辟邪≫と≪天禄≫があります。

それは、≪辟邪≫と≪天禄≫が異なる名を持つ神獣でありながら一対のものとして扱われているという点と、その両者の違いが角の本数で表現されるという点が、日本風の≪獅子≫≪狛犬≫と類似しているからです。

しかし、この≪辟邪≫≪天禄≫という神獣には、よくわからない点が多々あります。

例えば、「漢書・西域伝」に対する孟康(三国時代)の注には「桃抜一名符抜。似鹿、長尾。一角者或為天鹿、両角者或為辟邪。」とあるそうです。

つまり、≪桃抜≫あるいは≪符抜≫と総称されるもののうち、一角のものは≪天鹿(天禄)≫、二角のものは≪辟邪≫だということです。

しかし、「後漢書・班超伝」には「符抜形似麟而無角」という注が付されているのだそうです。

孟康の注の通り、≪符抜≫が≪辟邪≫≪天禄≫の総称なのだとしたら、これでは≪辟邪≫も≪天禄≫も無角ということになってしまいます。

また「麟に似ている」というからには麒麟に似ているものの、それとは別の神獣ということになります。

「後漢書・粛宗孝章帝紀」には先日触れた章和元年(87年)の月氏国からのライオンの献上について、≪扶抜≫と≪師子≫を献上したと記述されているそうです。

≪扶抜≫が≪符抜≫ならば、≪辟邪≫≪天禄≫は≪獅子≫とは別のものということになります。

古代中国の地誌である「水経注」の記述には、後漢の熹平年間(172177)に、ある人が仏堂を建設し、死後その近くに埋葬されたという話があり、その墓について「隧前に獅子天鹿」があったと書かれているそうです。

ここでは≪天鹿(天禄)≫を≪獅子≫と並べています。

原典にあたっていないのではっきりしないのですが、この記述が≪天禄≫と≪獅子≫を対にしているということを意味しているのなら、≪獅子≫と≪辟邪≫を同一視しているように見えます。

逆に、≪天禄≫と≪獅子≫が各1対という意味なら、≪天禄≫のみで対を成して≪辟邪≫が除外され、≪天禄≫と≪獅子≫は別のものということになります。

一方で、「辟邪」という言葉は、それ自体「邪悪を避ける」という意味であり、神獣の名称と言うよりは、その役割を述べているものとも受け取れます。

どうも文字を追いかけていても、より混乱していくばかりのようです。

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