東方へのライオンの伝来

2007年10月 3日 (水)

朝鮮半島の獅子

「東方へのライオンの伝来」の番外編として、朝鮮半島の状況を見てみます。

実のところ、朝鮮半島については手元にあまり資料を持っていないので、何気なく素通りしようかとも思っていたのですが、日本と中国を繋ぐ橋頭堡である朝鮮半島を無視するわけにはいきませんので、簡単にですが、触れておこうと思います。

≪狛犬≫との関連でよく引き合いに出される資料に、武寧王陵から出土した鎮墓獣があります。
≪狛犬≫も、この鎮墓獣も、ともに一角獣であることが、その理由でしょう。

石造のためか、全体にずんぐりとした豚のような体躯で、四足で立ち、頭部に鉄製の角をはめ込むようになっています。
この角は、鹿角を意識したのか、ギザギザのものになっています。
詳しい記述が見つけられないのですが、どうやら単体で設置されているようです。

武寧王は在位期間502~523年の百済王です。
この時、中国は南北朝時代で、地理的に近い北朝側では北魏の末期になります。

鎮墓獣について書いた時に紹介したように、北魏時代の鎮墓獣は2体1対で蹲踞の姿勢をしたものに移行しています。
四足で立つものを単体で設置するというのは、漢代に盛行した形式ですから、武寧王陵の鎮墓獣は形式としては一時代前の古いものと言えます。

ただし、漢代の鎮墓獣は枝分かれの無い真直ぐな角をしています。
鹿角を持つ鎮墓獣は、さらに前の時代の楚で見られるものです。
鎮墓獣限定で考えるなら、黄河流域と長江流域の両方の特徴を持っている、とも言えるでしょう。

その一方で、≪狛犬≫も、鹿角ほど大きくはないものの、枝分かれをした角を持つことがあるので、確かに注意すべき遺物だと思います。

王陵と言えば、統一新羅の元聖王(在位785~798)の掛陵の前に置かれた石像群の中に獅子が含まれていることがよく知られてます。
基本的には、中国の皇帝陵の制度に倣ったものでしょう。
リンク先の写真を見ても、参道らしい遺構はありませんが、石像が2列になっており、4頭の獅子は2対を成しているものと思われます。

こうした、対になった獅子は、実は朝鮮半島では珍しいようです。

こちらに韓国内で知られている獅子像のめぼしいものが紹介されていますが、仏塔の四隅に置かれていたり、単体で置かれていたりしていて、対にはなっていません。

敢えて言えば、リンク先でも紹介されている、新羅の善徳女王三年(634)に創建された慶州の芬皇寺の塔は、基壇の四隅に獅子がいますが、2体ずつその形式が違っています(背筋を立て胸を張ったタイプと背筋の寝たタイプ)から、2対なのかもしれません。
この塔には仁王が表現されていることも、対の存在をうかがわせます。
しかし、塔の4面にそれぞれ入口があり、その全てに仁王があるという表現になっており、古代朝鮮では「2」よりも「4」が大事だったのだろうか、という思いに駆られます。

加えて、朝鮮半島にある古い仏像でも、仏や菩薩の座の下に獅子を対にするものは、ほとんど見られないようです。

日本への仏教の伝来に朝鮮半島が果たした役割は大きいはずです。
仏像の彫刻形式については、朝鮮半島との類似性というものが具体的に指摘されてもいます。
しかし、それでありながら、狛犬に到る流れを考えれば、「神聖なものに伴なう2体1対の神獣」という形式の象徴とも言え、はずせない要素であるはずの仏像に付随した獅子が、ほとんど無いというのです。

そのような状況だけを見ると、≪狛犬≫に限れば朝鮮半島の影響は小さい、ということになるのかもしれません。

もちろん、朝鮮半島を通じて伝わったと思われるものは多方面に及びますから、その中に仏像以外で≪狛犬≫の成立に関わるものがあると考えることは出来ます。
それについてはいずれ触れることになります。

何にせよ、少ない資料でむやみに話を膨らませるのは良いことではないので、ここはこれで終えたいと思います。

2007年9月27日 (木)

中国における神獣の組合わせ方

以上をまとめると、

  • 中国では商代には『神聖なものと2体1対の神獣』という形式が、独自に存在した可能性はあるが、はっきりとした形になるのは後漢代からと思われる。
  • その形式の中で、当初は獅子の地位は高くなかったが、おそらくは仏教の影響で、後には獅子の位置付けが高くなる。

となるでしょうか。

形式それ自体にユーラシア西側からの影響があったかどうかはよくわかりません。

たとえ商代に既に形式が存在していたとしても、資料の年代的にはユーラシア西側の方がはるかに先行しています。
しかし、商のものはユーラシア西側のものとは、様式が異なっています。

陵墓参道の石獣群は、これももっと早い時代にユーラシア西側で同様のものが見られますが、別に影響がなくても思いつきそうなものではあります。

検討するだけの材料が手元にないので、この程度のことしか言いようがありません。

それはさておき、中国では『神聖なものと2体1対の神獣』を構成する際に異なる神獣を組み合わせたり、口を開閉したりしている例はあるのでしょうか。

ユーラシアの西側では≪グリフィン≫と≪スフィンクス≫のように異なる神獣を組み合わせていると思われる例がありました。
中国でも≪辟邪≫≪天禄≫、あるいは人面と獣面の≪鎮墓獣≫にそれを見ることが出来ます。

何度も書いているように、結局のところ異なる神獣を組み合わせるということは、ユーラシア全体で広く見られるもので、日本の≪狛犬≫だけに見られるというものではありませんが、かと言って、相互間に影響関係があるのかどうかについては、よくわかりません。

一方、ユーラシアの西側では対になった神獣が口を開閉するという形式は、明確には見られませんでした。
それに対し、中国では≪鎮墓獣≫の中にそのパターンが見られます。

加えて、中国で作られた仏像の中にも、付随する獅子が口を開閉しているという例が存在しています。

上杉先生の「狛犬事典」では『董金造金銅阿弥陀仏一具』という隋の開皇四年(584年)銘が入った仏像が紹介されていますが、これに付随する獅子は一方が開口し、他方は閉口です。
ちなみに、写真では右が閉口なので、狛犬愛好家が言うところの「吽阿」になっています。

また、ボストン美術館所蔵の開皇十三年(593年)銘の『金銅仏一具』も、口を「阿吽」に開閉しています(リンク先の写真を拡大して見てください)。

その他、「狛犬事典」で紹介されている敦煌莫高窟出土の裂に描かれた獅子(有翼とみられる)も、口を開閉しています。
こちらは「阿吽」です。

例示できるものは少ないですが、「≪阿吽≫の萌芽は中国に見られる」としても、それほど的外れとは言えないでしょう。

以上のことを指摘したところで、「東方へのライオンの伝来」の項目を終えたいと思います。

2007年9月24日 (月)

仏像の獅子

仏教は紀元前5世紀頃にインドで成立しました。

しかし、当初は偶像崇拝が堅く戒められていたため、仏像が造られるようになるのは紀元後1世紀のガンダーラ(現パキスタン)およびマトゥラー(現インド)において、とされています。

元々インドには野生でライオンが生息していましたから、初めから仏教にまつわる言葉や説話の中にライオンは取り込まれていました。

そのため、1世紀に生まれた仏像は、その時点で仏像の一部にライオンを取り込んでいました。

例えば、「インド・マトゥラー彫刻展」の図録に掲載されている1世紀の『仏伝「四天王奉鉢」』(イシャープル出土)では、仏陀の座る須弥座の下に2頭1対のライオンが浮彫りになっています。

さて、仏教の中国への伝来は紀元前後とされています。

その頃には仏像も生まれていますので、ほぼ同時期から仏像をともなっていてもおかしくありませんが、実際に仏教に関連する図像が見られるようになるのは2世紀以降のようです。事例もそれほど豊かではありません。

 

それが一気に広がるのは、3世紀から6世紀の魏晋南北朝の時代。

特に北魏(386534)では、太武帝による弾圧を別にすれば、仏教は保護され、大きく発展しました。

その成果が雲岡と龍門の石窟です(リンク先の一番上右側の写真が賓陽中洞で、下部に獅子がいる)

そこにも、仏像に伴なうライオン/獅子が見られます。

雲岡石窟の初期の大仏については北魏の皇帝たちの顔に似せたという説があるそうです。

北魏では仏教が国家との関わりを強く持ち、雲岡石窟も純粋に仏教施設というだけでなく、国家の威信を表現した施設でもあります。

仏と皇帝を同列視する発想があってもおかしくはありません。

それはともかくとして、大は石窟寺院の大仏から、小はミニチュアのような金銅仏まで、ライオン/獅子をともなった仏像は数多く生れました。
そうしたライオン/獅子を伴なう仏像の形式を受容することによって、獅子は崇高な存在のすぐ側にあって、それを守るものというふうに認識が改まった可能性があります。

その結果、神獣の中での獅子の地位が高まったということは考えられるでしょう。

中国には多様な信仰形態があり、現在においては仏教は盛んとは言えません。

歴史的にみても、中国における仏教の全盛期は隋・唐代とされ、宋代以降は、元代にチベット仏教(ラマ教)が盛んになったのが目立つ程度でしょうか。

しかし、一度高まった獅子の地位は仏教が力を失っても落ちることはなかったというふうに考えることもできるのではないでしょうか。

2007年9月23日 (日)

陵墓の石獣

墓葬と言えば、皇帝や王侯の墓の参道に並べられた石獣像は、中国における対となった神獣の代表格でしょう。

少し古い本になりますが、「中国皇帝陵の起源と変遷」(楊寛 学生社 昭和56年)によると、そうした石獣像のうち現存する最古のものは前漢の武帝の陵墓である茂陵の培塚である霍去病の墓設置されたもののようです。

ただし、著者はこれを特殊な例として、制度化されるのは後漢になってからだと考えています。

  

著者によれば、後漢の初代皇帝・光武帝の陵墓の参道には象や馬の石像があったことが、「水経注」の記述から推測できると言います。

同じ「水経注」では、安邑県長の尹倹の墓地には石碑・石柱・石獅・石羊が置かれ、さらにその門闕の前には獅子が相対して置かれていたという記述があるとのことです。

後漢代には参道の石像の形式が整っていたことがうかがえます。

そうした中の≪辟邪≫≪天禄≫については既に触れました。

ここでひとつ気になるのは獅子の位置付けです。

楊寛に従うなら、「水経注」からは

皇帝の陵前には石象、太尉の墓前には石駝・石馬、長水校尉の墓前には石天鹿が置かれたが、太守の墓前には石牛・石羊・石虎のみであり、さらに県長の墓前には石獅・石羊のみであるという状況があった

いうことが読み取れるというのです。

もちろん、これは皇帝陵には獅子がないということではなく、身分が低くなるほど用いてもよい神獣の種類が限られるということを言っているのでしょう。

つまり、後漢代には獅子は身分が低い者でも使用できる程度のものとしか扱われていなかったことになります。

これは、後世の獅子の立場に比べると、扱いが悪い気がしてなりません。

たびたび参照する「中国獅子雕塑芸術」によると、時代はずっと下がりますが、明代には石獅が置かれるのは皇帝陵のみで、臣下の墓前には石馬、石羊、石虎と石刻の武将文臣だけがあり、石獅は置かれないと言います。

明を開国した朱元璋(太祖洪武帝)を助けた功臣も例外ではないということですから、それだけ獅子の地位が高いということになります。

この差はなんなのでしょう。 

後漢代にはまだそれほど重視されていなかった獅子の位置付けを高めたのは仏教ではなかったかと、いま私は考えています。

仏教の伝来、より正確に言うならば仏像の伝来が、中国の獅子におけるセカンドインパクトになったのではないかと思うのです。

そこで、次に中国への仏教の伝来について見てみます。

2007年9月22日 (土)

東アジアにおける「神聖な対象と2体1対の神獣」の始まり

次に

B)東アジアにおける「神聖な対象と2体1対の神獣」の始まり

について見てみます。

中国でも新石器時代になると現実には存在しない想像上の動物が図像化され始めます。
それは動物に、単なる生き物以上のものを見るようになった証でしょう。

しかし、チャタル・ホユックの地母神像のようにはっきりと「神聖な対象と2体1対の神獣」という形式を取るものは見られません。
また、遺物の出土状況にも、そうした様子はうかがえないようです。

初期王朝の商(殷)代(およそBC18世紀~BC11世紀)には青銅器が多数製作されました。

そこには、饕餮(トウテツ)などの独特な怪獣の文様が描かれています。

そうした文様の中には、対を構成しているように見える図案もあります。

しかしながら、それらは、あくまで図案上、対称に配置されただけで、神聖なものと組み合わされて対になっているとは言えないように思えます。

ただ、興味深い文物もあります。

婦好墓出土の鉞には、中央に人間の顔を配し、その左右に神獣が2体描かれています(リンク先を下にたどって「婦好墓出土的大型銅鉞」とあるところのマークをクリックして下さい)。

婦好墓はいわゆる≪殷墟≫の遺跡のひとつで、出土文物に刻まれた甲骨文字の≪婦好≫から、第23代商王・武丁の夫人の墓とされています。

BC1312世紀の文物となります。

この鉞という青銅器は、実は処刑に用いる斧のことで、そこから転じて、刑罰を司る者=王の象徴となったものです。

「王」という漢字の原形は、この鉞を象形文字にしたものという説もあります。

左右の神獣(虎説が多いが龍とするものもあります)が口を開けて、この人面を飲み込まんとしているように見える図案であり、中央の人物は神聖な存在ではないのではないかとも思えます。

しかし、張光直はこの人物をシャーマンと考えています(「古代中国社会」東方書店 1994年)。

卜占に基づく神政政治が行われていた商王朝においては、それは王と同義と言えます。

それが正しければ、これは「神聖なものと2体1対の神獣」と言えることになりますが、やや微妙なところです。

ちなみに、口を開いた1対の神獣の間に何かがあるという図案自体は他にもあります。

同じ婦好墓から出土した「司母辛」方鼎には、鉞と同じ図案があるようですし、時代が下がって西周時代のもの(BC1110世紀)になりますが、陝西省淳化県出土の大鼎の耳(把手)には牛の頭部を思わせるような文様を挟んだ1対の龍が表現されています。

器物の文様の図案上ではなく、器物の配置の面から「神聖なものと2体1対の神獣」という状況が見られる文物はないのでしょうか。

手元には遺跡内での遺物の出土状況がわかるような図面や写真はごく僅かしかないのですが、紀元前のものではそれが明確に見て取れるものが見当たりません。

例えば、墓の場合、内部構造的には中心軸に対して左右対称と言えるような形になっているものは多いのですが、器物の配置という点では対称性が感じられないものが多いようです。

敢えて言うなら、広西壮族自治区の合浦前漢墓では、鳳凰と思われる鳥を象った『鳥形銅燈』というものが、棺の左右に対称に置かれた形で出土したようです。

また、グリフィンの影響として指摘した中山王墓の有翼神獣ですが、これは顔の向きを右にしたものと左にしたものが各2体、計4体出土したそうです。

これを2対と考えることも出来ますが、四方に配された可能性もあります。

そのあたりは発掘報告書で出土した際の配置を確認する必要がありますが、そこまでは調べませんでした。

2007年9月21日 (金)

ライオンの東アジアへの伝来

では、最初に設定した

 

A)ライオンの東アジアへの伝来

ということについて、ここまでの事をまとめてみます。

  • ライオンについての知識は前漢代の初期には伝わっていた。 
  • 実物のライオンも前漢の武帝時代には伝来していたと思われる。
  • しかし、現存するライオンあるいは獅子の図像は、後漢までしか遡れない。 
  • それに対して、ライオンを含む合成獣であるグリフィンの図像は、少なくとも戦国時代には受容されていた。

ということになります。

 

これだけの材料から、付随して設定した

 

a)ライオンから獅子への変化

 

という問題について言及するのは無理がありますが、以下は私の無根拠な仮説ということで書いてみます。

 

ライオンの図像あるいは情報は、おそらくグリフィンと同時期には中国に伝わっていたと思います。

ただ、中国では、生物界あるいは図案上で、ライオンが担うべき位置にトラが存在していました。

ライオンの図像が残っていないのは、それが中国でトラに置き換わったからではないでしょうか。

一方、類似する存在がいなかったグリフィンはそのまま受け入れられました。

それはやがて中国化して、一般に≪辟邪≫≪天禄≫といわれる有角有翼神獣になります。

その後に実物のライオンが中国に伝来しました。

その実物の姿から影響を受けて、有角有翼神獣の一部が変化して、よりライオン寄りの姿に作られるようになります。

それが後年、様式化して、中国式の獅子になったのではないでしょうか。

  

この仮説が成立するためには、≪獅子≫に先行して≪辟邪≫≪天禄≫とされる有角有翼神獣の図像が、前漢代にも存在していることが必要ですが、それに関しては「幻想動物の文化誌 天翔るシンボルたち」に咸陽博物館所蔵の漢代の≪玉辟邪≫が紹介されており、クリアできそうです(リンク先の画像のものは本で紹介されているのとは別の資料ですが、やはり前漢のもの)。

  

初期の≪獅子≫に有翼のものが存在していることも、この仮説の補強材料です。

と言うより、そこからこの仮説を立ててみました。

  

いかがでしょうか。

2007年9月18日 (火)

グリフィンは中国にやって来たか

ライオンのいない東アジアですが、同じネコ科の猛獣であるトラならば生息しています。

そして、トラは古くは商(殷)の青銅器や玉器において図像化されています。

身近に同じような猛獣がいるのであれば、ライオンの図像が伝来しても、そのままではトラに置き換わってしまうことがあるかもしれません。

証拠はありませんが、そうした可能性はあるのではないかと、私は考えています。

しかし、怪獣ならばそのまま受け入れることもあるのではないでしょうか。

つまり、ライオンを構成要素とする合成神獣、つまりグリフィンやスフィンクスならばそのままの姿で受容されることもあるのではないかと思うのです。

そして、それを受容していれば、当然、それがどういうものなのかという説明、つまりからだの一部がライオンであるという情報も受容することになるのではないかと、考えてみたいのです。

例えば、台湾の故宮博物院の所蔵品に「鳥首獣尊」という文物があります。

正確な出土地はわかりませんが、戦国時代(BC403~BC221)の早期のものとされています。

その名の通り、頭部は鳥で、猫科の猛獣を思わせる胴体をした怪獣の姿をした青銅器の器です。

胴体には翼を思わせる線刻の文様があります。

頭部の突起は角でしょうか。

だとすれば、それは鷲グリフィンの特徴のひとつです。

   

これを鷲グリフィンと考えるのは、いささか単純過ぎますが、それを連想させるものであることは確かでしょう。

しかし、鷲グリフィンではライオンは連想し難い気がします。

獅子グリフィンの例はないのでしょうか。

以前、『中国国宝展』という展覧会で、「双翼神獣」という青銅器を見ました。河北省平山県の中山王墓から出土したもので、紀元前4世紀、戦国時代の遺物です。

翼をもったネコ科の猛獣を思わせる神獣です。

これも頭部に角を備えています。

非常に獅子グリフィン的な文物です。

これらを中国で独自に生み出されたものと見ることも可能です。

しかし、例えば動物闘争文など、スキタイや匈奴といったユーラシアの北方内陸部の草原地帯で活動していた騎馬遊牧民の美術を代表する文物には、鷲グリフィンが多く表現されています。

それに類似した文物は、中原から見れば辺境を中心にではありますが、中国でも出土しています。

獅子グリフィンについても、新疆ウイグル自治区新源県で、2体の向かい合う獅子グリフィンらしき神獣が表現された文物(鍑の縁飾り)が出土しています。

これも戦国時代の文物です。

しかもそれは、アケメネス朝ペルシアの様式を受け継いでいると言います。

また、中山王は北方の騎馬遊牧民の系統の一族であるといいますから、そうした流れを汲んでいると言えます。

ユーラシアの西側においてグリフィンの図像が早くから存在していて、そことの中間をなす場所から類似品の出土があるということからすれば、影響を全く否定するということはできないでしょう。

つまり、中国においては、ライオンよりもやや早い段階のグリフィンの遺物が残っているということになりそうです。

2007年9月17日 (月)

考古資料に見るライオン・獅子の図像

中国にライオンが伝来したのが前漢代だとします。
しかし、生きた本物のライオンよりも、ライオンの図像の方が、より伝わりやすいはずです。
実際、実物のライオンより、ライオンの情報の方が先に中国に達していたらしいことに、前回触れました。

では、考古資料に具体的に残るライオン、あるいは獅子の図像のうち、最初期のものにはどんなものがあるのでしょうか。

前回触れた「中国獅子彫塑芸術」で紹介されている最も古いものは、建和元年(147年)の銘を持つ『山東嘉祥武氏祠石獅』です。
これは年銘がはっきりしている獅子像では最古のもの。
しかも、「師子」の語が刻まれているため確実に獅子と呼べるもので、なおかつ石工の名(孫宗)がわかる上に、価格までわかる(銭四万)という、極めて稀な資料です。
こちらに不鮮明ながら写真があり、中国語ですが解説もあります。

やはり前回触れた「楽園の図像」では『四川省渠県・沈府君石闕』『洛陽出土画像塼』の2点に言及がありますが、手持ちの資料でもweb上でも資料の画像などは見つけられませんでしたので、具体的にどのような形でライオン、あるいは獅子が図像化されているのかは、よくわかりません。
ただ、『沈府君石闕』に関しては延光年間(122~125年)に建てられたとする文章がありました(ただし、その文章には「獅子」についての言及はないのですが)。

手元にある他の狛犬関連の書籍を見ても、あとはおおむね魏晋南北朝のいわゆる≪六朝文化≫以降の資料が紹介されています。

したがって、明らかにライオン、もしくはそれから転じた獅子と確認できる遺物は、上記のように後漢代の、それも2世紀のものまでしか現存していないようです。

しかし、ユーラシアの西側でそれ以前に数千年にわたって蓄積されてきたライオンの図像が、東アジアに伝わったのがようやく紀元後というのでは、少し納得がいきません。

何か違う形で東アジアに伝わっていないのでしょうか。

次はそれを考えてみます。

注)上杉千郷先生の「狛犬辞典」では、『武氏祠石獅』の年代を建安十四年(209年)としていますが、「中国獅子彫塑芸術」では、その年銘を持つのは『四川雅安高頤墓石獅』となっています。
もっとも、「狛犬辞典」ではP22、P33、P59の3ヶ所でこの獅子に言及し、P33では建安十四年としているものの、他の2ヶ所では建和元年としています。
他の資料でも『武氏祠石獅』が建和元年、『高頤墓石獅』が建安十四年とされているので、P33のみ書き間違えたようです。
揚足を取るようですが、念のため指摘しておきます。

2007年9月16日 (日)

文献に見る中国へのライオンの伝来

中国は世界の書記と言えるほど、古い歴史文献が豊富な地域です。

そうした文献の中に、西域諸国からライオンが中国の諸王朝に献上された記録があります。

もちろん、このライオンとは、初めに断ったように図像ではなく、生きた本物のライオンのことです。

その最初期のものは紀元1~2世紀の後漢時代です。

「冊府元亀」外臣部朝貢編という文献に、西域諸国から中国へのライオンの献上の記録があるとのことです。「楽園の図像」(石渡美江 吉川弘文館 2000年)からの孫引きですが、それを列挙してみると、以下のようになります。

永平十三年(70)安息国(アルケサス朝パルティア)より

章和元年(87) 月氏国(クシャーン)より

章和二年(88) 月氏国と安息国より

陽嘉二年(133 疏勒国(カシュガル)より

「中国獅子彫塑芸術」(朱国栄 上海書店 1996年)によれば、同様の内容が「後漢書」の記述の中にも確認できるようですので、後漢代のうちに少なくとも5回はライオンが東アジアにもたらされていることは確かなようです。

ただ、原典にあたっていないので、それが牡なのか牝なのか、何頭か、献上後どう扱われたかなどについては、よくわかりません。

いずれにせよ、限られた範囲ではあるものの、それを目にした人間がいることになります。

例えば、後漢の第三代皇帝・章帝の在位期間は7689年なので、彼には在位中に3度、もしかすると即位前にも1回、ライオンを目にする機会があったと考えられます。当然その周囲の人間も獅子がどのような動物か具体的に見て知っていたはずです。

これ以前にはどうなのでしょうか。

「漢書」には、前漢の武帝時代(紀元前14087年)に“四海夷狄”の器服珍宝が展示されていた奇華殿でライオンも展示されていたことが記載されているそうです。

また、「中国獅子彫塑芸術」では「漢書・西域伝」の記述が、現在知られているライオンの中国への伝来に関する最も早い記録だとしており、それに基づくならば、遅くとも紀元前23年以前にライオンが伝来していたことになるようです。

この他、武帝によって西域遠征に送り出された張騫がライオンをもたらしたという説もあるそうですが、その一方で、「史記」には中国にライオンが伝わったという記述はないとのことです。

ところで、「獅子」という言葉はサンスクリット語の“Simba”から転じたものだとされます。しかし、この語に確定する前には「狻麂」という漢字がそれに当てられていたこともあったということに以前触れました。

そして、この語の用いられた文献には漢初の「爾雅・釈獣」があり、そこには「狻麂如猫、食虎豹」と記載されているそうです。

「虎や豹を食べる」というのは、およそ実際のライオンと一致しません。ライオンについての情報だけが何らかの形で伝わったのでしょう。

こうして見ると、実物はさておき、少なくとも前漢代にはライオンについての情報が中国にもたらされていたと考えていいようです。

2007年9月15日 (土)

東方へのライオンの伝来

「狛犬の源流」の章で見たように、ユーラシア大陸の西側では、紀元前だけでも数千年にわたってライオンおよびライオンを構成要素とする合成神獣が図像化され、広く深く浸透していました。

野生のライオンの生息しないユーラシア大陸の東側では、何らかの形でその図像が伝来しなければ獅子も狛犬も生まれません。

では、それはいつ頃どのような形で伝えられたのでしょうか。

また、ユーラシアの西で既に生まれていた「神聖な対象と2体1対の神獣」という組合せは、ユーラシアの東方に伝わって何か影響を与えたのでしょうか。それとも東側でも独自に成立していたのでしょうか。

つまり、以下で確認したいのは

A)ライオンの東アジアへの伝来

B)東アジアにおける「神聖な対象と2体1対の神獣」の始まり

という2点です。

なお、以下の記述においては、生物としてのそれは≪ライオン≫と書き、中国風に図像化されたものは≪獅子≫と書くことにします。

厳密に分ける必要はないのかもしれませんが、やはり現実の≪ライオン≫と、想像が混じった≪獅子≫とは別のものとしておきたいと思います。

となると、(A)に付随して

a)ライオンから獅子への変化

ということも確認すべきこととして想定されます。

これらの点を、以下に見ていきたいと思います。

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