狛犬と読書

2020年11月12日 (木)

狛犬スッタモンダ(2)

さて、牛天神北野神社の狛犬の作者として「運慶」の名が出てくる。
前回の各種記述から、「江戸名所図会」「江戸志」が成立した18世紀後半には、この狛犬は運慶の作と言われていたことはわかる。
前回、徳川光圀の名が息子の松平頼常よりも前面に出てきてしまったのは明治以降だと推測してみたが、それより前から運慶の名は出ていたことになる。

 

だが、果たしてこれは運慶作の狛犬なのだろうか。

 

運慶作とされる狛犬としては重要文化財に指定されている八坂神社の狛犬がある。

 

https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/3511

 

リンク先に写真がないので、私が持っている古い絵葉書のものを載せておく。
これをモデルにしたものが、現在東山通り側の楼門の前にある狛犬だ。

Photo_20201111233301

その他、検索してみると、いくつか運慶作とされる狛犬が見つかる。

 

談山神社

 

http://www.tanzan.or.jp/about/culture.html

 

大國魂神社

 

https://www.ookunitamajinja.or.jp/homotsu/homotsu-03.php

 

清水寺境内の地主神社には、運慶奉納とされる狛犬があるようだ。

 

https://www.jishujinja.or.jp/history/monogatari/winter.html

 

手向山八幡宮の狛犬も運慶作とされているようだ。

 

http://www.komainu.org/nara/narasi/tamukeyama/tamukeyama.html

 

一方、運慶の子・湛慶の作とされる狛犬が高山寺にある。

 

https://kosanji.com/about/national_treasure/

 

こちらには、阿形の洲浜座の裏に「嘉禄元年」(1225)の銘があると言うことなので、その分信憑性が高い。
ちなみに、運慶はこの前年に亡くなっている。

 

重文指定されている八坂神社のものと、高山寺のものは、作風に似た感じがあるように思う。
これが慶派の作風だとすると、談山神社や大國魂神社のものも少し怪しげに見えてくる。

手向山八幡宮のものに関しては、伊東史朗氏があえて古い時代の作風を取り入れたのではないかと考察されている論考があり、八坂神社・高山寺のスタイルとかけ離れているのは、それで説明はつく。

 

https://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/15/015_sakuhin_a.pdf

 

しかしながら、牛天神のものが運慶の作とは信じがたい。

 

牛天神の神殿狛犬の写真と、神社の見解はこちらにある(ページの下の方)。

 

http://blog.livedoor.jp/km1133462-komainu_fun/archives/1603199.html

 

そもそも、御所・宮中というのは有職故実によって形成されてると言っても良い。
一度作られた形式は、みだりには手を加えたり変更したりしない。
当然、狛犬も、時代によって新調されたり、補修されたりしただろうが、前例を踏襲したものと思われる。
そう考えた時、現在京都御所にある狛犬と比較して、牛天神のものは随分と姿が異なる。

 

http://www15.plala.or.jp/timebox/top/05komamori/75/seiryoden.html

 

牛天神の狛犬が、御所から江戸城、水戸家を経てやって来た狛犬だとしたら、それは奇異な事に思える。

 

実は、「寺社書上」を見ると、興味深い事がわかる。
当時は神仏習合だったので、牛天神の境内にも本地堂があり、そこに十一面観世音が本尊として祀られているのだが、それについて「木立像丈七寸運慶ノ作」と書かれている。
さらに末社の護摩堂には不動明王が祀られており、それについても「木立像運慶作丈一尺一寸八分」とある。

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また、金杉天満宮の別当・龍門寺(現在は廃寺)についての記述もあるのだが、そちらには本尊の阿弥陀如来、脇侍の観音勢至、いずれについても「恵心僧都作」と書かれている。

 

平安時代の恵心僧都(源信)、鎌倉時代の運慶の作品が、そういくつも転がっているはずはない。
ここまで来ると、神社の箔をつけるために、有名人の名を騙ったのだろうと疑いたくなる。

 

例えば、ヨーロッパの教会では信者を集めるために、自分の教会には「聖遺物」(キリスト教の偉人の骨や所持品など)があると喧伝する事が多々あった。
時に、その「聖遺物」の争奪戦が行われたりもしたという事を「盗みの文化誌」(泥棒研究会編著 青弓社 1995年)という本によって知った。
もちろん、「聖遺物」がそんなにいくつも都合よく存在するわけはなく、捏造されたものも存在した。
オカルト界で有名な「トリノの聖骸布」なども、結局はそういうものなのだと私は思っている。

 

仏教でも、釈迦の骨が入っているという仏舎利の中身を世界中から集めたら、「北京原人の逆襲」もビックリの巨人ができあがるだろう。

 

宗教とは、人間の聖性と俗性、その両方の極地を示すものなのだ。

 

だから神社から言われた事を素直に受け入れるような事はためらわれる。

 

一応、そういう結論にしておく。

 

2020年11月11日 (水)

狛犬スッタモンダ(1)

『東京スッタモンダ』(旅行読売臨時増刊 2020年9月15日 旅行読売出版社)という書籍に「狛犬ライターと行く 狛犬さんぽ」(ミノシマタカコ)というコーナーがあった。

 

その中に、文京区にある牛天神北野神社の神殿狛犬が紹介されている。
そこにはこうある。

 

「また、本殿には徳川光圀公が寄贈した狛犬が。黄金色に輝く木製で、なんと鎌倉時代の仏師・運慶が手がけた貴重なもの。」

 

神社からそう説明されたから、そう書いているのだろうが、色々と引っかかる所がある。

 

まず来歴について考えてみる。

 

この狛犬のことは、「江戸名所図会」の「牛天神社」の項目にも記述がある。
そこにはこうある(ちくま学芸文庫版に基づく。文中の註は略した)。

 

「降魔狗(社壇に収む。鎌倉仏師運慶の作なりといふ。往古、大猷公、禁闕にありしを江戸の大城へ移させたまひ、その後水戸黄門光圀卿に賜せられしを、讃州の太守頼常君当社崇敬厚く、元禄五年壬申社壇重修の頃寄附せられたりといへり)。」

 

「江戸名所図会」同様、江戸時代に編集された地誌「江戸志」では、以下のように書いている(国会図書館デジタルアーカイブから読み下し)。

 

「當社の獅子降魔狗は運慶の作にして往古ハ禁中にありしを 御城の宝器となりしを水戸黄門公拝領在て讃州太守頼常公に進せされ其後元禄五壬申年五月讃州太守當社御造営の節かの降魔狗御寄附ありいつの頃よりかこのこま狗へ遠近の老若種々の願をいのるに叶はすといふ事なし」

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また、江戸の寺社についての資料に、「寺社書上」というものがある。
国会図書館による解題には「寺社書上」についてこう書かれている。

 

「江戸幕府は文化7年(1810)に地誌編輯局を新設して、武蔵国の地誌「新編武蔵風土記」の編集を始めたが、江戸府のことは別に編するのが適当と考えられ、文政9年(1826)から「御府内風土記」の編集を始め、史料蒐集に着手した。文政12年(1829)に同書は完成したが、明治5年(1872)宮城火災のおりに焼失した。しかし編集に備えた資料はその災をまぬがれて今日に伝わり、「御府内備考」と称されている。これらの資料は主として町々および各寺社からの書上げさせたものに基づくものである。
 つまりこの「寺社書上」と「町方書上」(当館請求記号:803-1)は、「御府内風土記」の史料として提出させたものであり、文政8年(1825)から同12年(1829)までのものであるが、江戸地誌として重要であるだけでなく、史料としても貴重なものである。(以下略)」

 

つまり寺社自身の自己申告によるものだが、そこに、当時は金杉天満宮と呼ばれていた牛天神北野神社の項目もあり、そこにはこうある(国会図書館デジタルアーカイブから読み下し)。

 

「當社の獅子降魔狗は運慶の作にして往古ハ禁中に在しを大猷院様御代御城の御宝器となりしを水戸中納言光圀公拝領在て其後讃州の太守頼常公の進せられ頼常公當社を殊に御信神在て其後元禄五年壬申五月當社御造営の節降魔狗御寄附在り何時よりか此降魔狗へ遠近の老若種々の願を祈に叶ハすといふことなし
実に此降魔狗ハ不動□の□尊にして無明降伏の大力士不二の古體なればいつれの人か神かならんや」

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私の読み下しなので、不正確な所はあるが、内容はわかる。
つまり、元々京都の御所(禁闕・禁中)にあったものを徳川家光(大猷公)が江戸城に移し、その後、徳川光圀が拝領し、さらに光圀の子で讃岐高松藩主となった松平頼常が譲り受け、頼常が牛天神の社殿の改修造営を行った際に牛天神に寄附した、と言うことになる。

 

ここでまず言える事は、牛天神との関わりが深いのは光圀ではなく、その息子である頼常であると言うことだ。
社殿の建て替えまでしてくれた頼常の名前を飛ばして、ビッグネームである光圀の方に話を寄せていくというのは、恩知らずと言われても仕方がないだろう。

 

もっとも、明治23年(1890)に刊行された「東京名所図絵」という本には、

 

「當社の降魔狗は鎌倉の佛工運慶の作なりと云ふ往昔禁闕にありしを将軍家乞ひ得て江戸城に移されしを後ち水戸家に賜はりしを故ありて當社に寄附せられしと云ふ」

 

と記述されている。
過去の記述と矛盾はないが、「故ありて」の部分に事の次第が覆われてしまって、誤解を生じる余地を生んでいる。

 

このあたりからの流れで、明治時代以降に水戸光圀の名前が前面に出てきてしまったのだろう。

 

ところで気になるのは、「寺社書上」と「江戸志」の記述が、文言まで酷似している事だ。
「寺社書上」の記述は、項目の最後に「丙戌」とあるので、文政9年(1826)に書かれたもの。
一方、「江戸志」は安永2年(1773)の成立という。
考えられるのは、両者が共通して参照した資料が存在するか、「寺社書上」の方が「江戸志」をなぞったか、である。

後者だとすると、当時の金杉天満宮には、狛犬についての口伝は残っていたが、明確な根拠となる文書類は存在しなかったという事になる。
前者の可能性は薄いだろう。
実際問題として現在では徳川光圀寄贈と喧伝されているわけだから、前者のような資料が存在したとは思えない。


つまり、口伝を元に「江戸志」や「江戸名所図会」が書かれ、それを元にして「寺社書上」が書かれたという、完全なマッチポンプ状態なのではないかと言うことだ。
そうなると、そもそも狛犬の来歴が正しいかどうかすら、保証の限りではないという事になってしまう。
さすがに、松平頼常による社殿改修までもが事実ではないという事はないと思うが、狛犬が頼常の寄附かどうかは確証がない。
改修工事のあった元禄5年(1692)から「江戸志」成立まででも約180年、そこから「寺社書上」提出まで約50年、伝承に尾ひれが付くには十分すぎる時間である。

 

真相は如何に?

2009年7月28日 (火)

「神事行燈」の狛犬

数年前、「神事行燈 四編」という書物を古書店で購入しました。

私は残念ながら目にしたことはないのですが、祭礼などの際に滑稽な絵と言葉の書かれた≪地口行燈≫というものが掲げられることがあります。

この「神事行燈」は、江戸時代末期に刊行されたもので、その地口行燈の絵と言葉を収録したという体裁の絵本です。

それが実際に掲げられたものを収録したものなのか、そのような名目でオリジナルな作品を掲載しているのかは、よくわかりません。

「神事行燈」は初編から五編まで刊行され、各編で絵師が異なります(初:大石真虎、二:歌川国芳、三:渓齋英泉、四:歌川国直、五:渓齋英泉)。

さて、なぜこの書物を購入したのかと言えば、送られてきた古書目録で、この書物を紹介するのに、この絵が掲載されていたからでした。

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購入はしたものの、崩し字が読み下せず、しばらく放置していましたが、思い立って、ちゃんと調べてみました。

そうしたところ、こう書いてあるのだとわかりました。

わる堅くまじめな石の唐獅子もつひうかれ出す狐けん酒

≪狐けん酒≫は、おそらくお座敷遊びの一種でしょう。

じゃんけんの一種に≪狐拳≫というものがあります。

手は≪狐≫≪庄屋≫≪猟人≫で、狐は庄屋に勝ち、庄屋は猟人に勝ち、狩人は狐に勝つという三すくみになります。

これの勝ち負けで、酒を飲んだり飲ませたりするような遊びだろうと推測できます。

「石の唐獅子」とありますが、絵を見ると、一方は宝珠を頭上に載せ、一方は角を生やしていますので、要するに現在一般的に言うところの「狛犬」のことです。

それも石というからには、神社参道にある石造狛犬のことを指しているのは間違いありません。

つまり、「神社の境内で怖い顔をして周囲を睥睨している狛犬も、お座敷で遊ぶとなると人が変ったように浮かれだす」ということで、堅物と思ってもそんな裏の顔もあるという皮肉なのでしょう。

狛犬的に面白いのは、描かれている唐獅子の姿です。

「神事行燈」は天保年間に刊行されたようですが、その時期に江戸で新設される狛犬は、絵にあるような、尻尾を垂らした姿をしたものが主流でした。

しかし、このタイプの狛犬では、頭上に角も宝珠も何もないのです。

江戸では、その一世代前の狛犬が、こうした角と宝珠を持つのですが、こちらのタイプは尻尾が立派な縦尾になっています。

ただ、これが混合したような狛犬も存在していて、それを思い浮かべてしまいます(小野照崎神社)。

狛犬の肩口に赤い何かが描かれています。

これは現実の狛犬にはないものです。

しかし、絵画に描かれた獅子にはよく見られるもので、例えば「和漢三才図絵」の『獅子』の項目の図版にも見られます。

これは要するに神獣の放つ霊気です。

これが描かれているということは、逆に言えば、実際の狛犬をスケッチしたり念頭に置いたりしたものではなく、そうした手本となるような絵画を元にして描いたものなのだということでしょう。

ところで、「神事行燈」について調べてみると、購入した「四編」以外に、もうひとつ唐獅子(狛犬)をモチーフにしたものがありました。

それは「二編」に掲載されているこちらのものです(「国芳の絵本2」〔1989年 岩崎美術社〕よりコピー)。

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ここに書かれているのは

金玉をもつからししは女なり

というものです。

広義の狛犬は無角の「獅子」と有角の「狛犬」が対になったものです。

それが造形される時、この絵のように獅子は角の代わりに宝珠を頭上に載せていることが、よくあります。

ここでいう≪金玉≫とは、この宝珠のことでしょう。
つまり、唐獅子は頭に金玉=宝珠があるけれど、実は雌だ、と言っていることになります。

これも大変に興味深いことです。

元来、狛犬には性別は無いか、両方共に雄とされていたと考えられます。

実際に遺存している古い時代の狛犬は、性器が表現されていないか、ともに男性器を持つという姿に作られています。

しかし、ここでは獅子は雌と断定されています。

となると、角のある狛犬の方は雄と認識されているのでしょう。

この時代には一対の狛犬を雌雄とする考え方が定着していたことを示しています。

実を言えば、この頃から子供を連れた狛犬が作られはじめます。

狛犬に雌雄を見るような意識が浸透し、その結果子供を連れた狛犬が作られるようになるという一つの証拠になるかもしれません。

いずれにせよ、江戸時代の狛犬観の一端を見ることができる、興味深い資料です。

2008年6月25日 (水)

石工の名前

「日本全国獅子・狛犬ものがたり」(戎光祥出版 2008年5月)という本が出版されました。
狛犬研究の第一人者である上杉千郷先生が執筆された狛犬入門書です。

入門書といっても、結構専門的ですが、これから狛犬についてもっと詳しく知りたいという人には、いい端緒となる本でしょう。
ちょっとエラそうな言い方ですが。

さて、大変面白い本なのですが、ひとつだけどうしても気にかかる点があったので、僭越ながら、少し訂正させていただこうと思います。

書中に再三、東大寺南大門の狛犬(石獅子)が取り上げられています。
『陳和卿作・東大寺鎮座――最古の石造狛犬』という項目(pp77-78)も設けられています。
つまり、上杉先生はこの作者について、≪陳和卿≫であるとしておられるのですが、これは間違っています。

この石獅子は、項目のタイトルにあるように、広い意味での最古の石造狛犬の例として言及されることの多いものです。
その根拠となる文献は、上杉先生も依拠しておられる「東大寺造立供養記」というものです。
その中で≪陳和卿≫についてどのように記載されているかを見てみると、以下のようになっています(参照したのは「群書類従」)。

寿永二年二月十一日。大仏右御手奉鋳之。同年癸卯四月十九日始奉鋳御首。同年五月十八日丙戌。奉鋳既了。首尾経卅九日。前後及十四ヶ度終其功了。鋳物師大工陳和卿也。都宋朝工舎弟陳仏鋳等七人也。日本鋳物師草部是助以下十四人也。

つまり、寿永二年(1183)に行われた大仏の修理の際に、鋳造を行った≪鋳物師大工≫が≪陳和卿≫であるということです。

一方、問題の石獅子についての記述は、こうなっています。

建久七年。中門獅々。堂内石脇士。同四天像。宋人字六郎等四人造之。若日本国石難造。遣価直於大唐所買来也。運賃雑用等凡三千余石也。

建久七年(1196)に≪宋人字六郎等四人≫が大仏殿内の石造の脇士と四天像とともに獅子を製作したということです( これについて宋人の≪宇六郎≫としている文章を読んだことがありますが、これは『あざな』が≪六郎≫と読むべきものでしょう)。

≪陳和卿≫は寿永二年(1183)に大仏の修繕部分を鋳造し、≪六郎≫等が建久七年(1196)に中門の獅子を製作しているわけです。
その間には13年の年月の差があり、名前の伝わり方が違うことからしても、同一人物ということはありえないでしょう(実は、上杉先生もp114では『陳和卿が中国から石を運び中国の石工に彫らせたもの』と書いておられますが)。

では、この宋人の≪六郎≫が何者であるかということになりますが、これについて「日本史リブレット29 石造物が語る中世職能集団」(山川均 山川出版社 2006年8月)では奈良市の般若寺にある花崗岩製笠塔婆に刻まれた銘文に基づき、中世に一派を成した石工集団≪伊派≫の祖である≪伊行末≫である、としています。

銘文には、≪伊行末≫は中国の明州、現在の浙江省寧波の出身で、東大寺修築のために来日し、大仏殿石壇などの修築に功績を残し、没年は文応元年(1260)、笠塔婆はその一周忌に息子である伊行吉が造立したものである、ということが記載されているそうです。

であるならば、≪六郎≫=≪伊行末≫とするのは、妥当な判断であろうと思います。

それにしても、≪鋳物師大工≫である≪陳和卿≫は文献上に名が残っているにもかかわらず、石工である≪伊行末≫は≪六郎≫などという中途半端な日本名しか記録されませんでした。
没年から判断して≪伊行末≫の来日時の年齢がかなり若かったであろうことを割り引いても、このことからは当時における石工の地位の低さを感じます。
しかも、≪宋人字六郎等四人≫と書かれていながら、本名が推定できるのは≪伊行末≫のみだと言います。

そのただ一人である≪伊行末≫の名を、狛犬学の権威である上杉先生には、きちんと書き残して欲しかったな、というこの一点が、どうしても残念なのです。

2008年4月15日 (火)

ほっかいどうの狛犬―その3

さて、問題は(1)の≪現地に存在する狛犬に類似の神獣≫です。

これが成立するためには、大前提としてアイヌの信仰習俗の中に狛犬に類似したものが存在しなければなりません。
しかし、19世紀のアイヌの信仰について調査したジョン・バチラーの「アイヌの伝承と民俗」(安田一郎訳 青土社 1995年)を読むと、アイヌには様々な動物への信仰が存在しているものの、狛犬のように、それ自体は崇拝の対象とならず、神聖なものに付随して、その神聖なものや空間を守護するような神獣は存在していないようです。

ある本に掲載された有名な熊送りの祭=イヨマンテの様子を描いた絵を見ると、熊の横たえられた祭壇状の空間の手前の左右にささら状のものが設置されているのが描かれていました。
これは≪イナウ≫と呼ばれる、木を削って作られた「木幣」のようです。
同様にイヨマンテを描いた別の絵では、同じ場所に木の枝らしきものが描かれており、アイヌにおいては神聖な場所の清浄を保つ力を植物(特に木)に求めていたのではないかとも思えます。
もしそうであれば、動物が植物に置き換わっているだけで、狛犬的と言えなくもありません。

しかし、「アイヌの伝承と民俗」によれば、これは熊への捧げものであって、避邪物ではないようです。

ただ、避邪のための≪イナウ≫も存在しており、「アイヌの伝承と民俗」には、近隣の村で伝染病が発生した際に、その村に近い側の村の端に病気を避けるために、鳥を象った≪イナウ≫を設置するということが紹介されています。

しかし、これを狛犬に類似しているものと見るのは無理があるでしょう。
そして、実際、そんなイナウを想像させるような狛犬は、存在していないようです。

つまり、(1)は北海道においては成立していない、ということになりそうです。

ただ、敢えて言えば、著者が半分冗談のように紹介している「擬狛犬」に、その可能性を感じます。

「擬狛犬」とは、えりも町にある歌露稲荷神社にあるもので、「擬」とある通り、その実態は狛犬ではありません。
社殿の前になぜか対になるように設置された自然石のことを指しています。
著者は、昭和の後半に現在の社殿が建てられた時に置かれたのではないかと推測しています。

私がこれを敢えて取り上げるのは、「アイヌの伝承と民俗」の『呪物崇拝(c)』という章において、アイヌにおける石信仰を取り上げる中で、以下のような事例が紹介されているからです。

有珠に住むオプルツという名のアイヌが、自分の小屋の側に高さ4フィートの彫刻されていない自然石を立てていて、著者の解釈するところでは、オプルツは時々これに敬意を払い、その石から保護と幸福を保証されていると考えている、というのです。

明確には書かれていませんし、より積極的な意味があるようにも思えますが、この石を避邪物と解することは可能でしょう。

著者は、「狛犬を設える予算がなかった」ためにこのようなことをしたのだろうと推測していますが、アイヌの石信仰に由来するという可能性はないだろうかと、考えてみたいのです。

妄想に近いものではあるのですが。

2008年4月14日 (月)

ほっかいどうの狛犬―その2

さて、本編サイトの文章で、海外神社における狛犬を捉えるのに、

1)現地に存在する狛犬に類似の神獣
2)日本の狛犬
3)日本の狛犬に似せて現地で製作された狛犬

というふうに3分割する枠組みを提示しましたが、北海道の狛犬は、この枠組みに当てはめて考えることができるでしょうか。

もっとも、(2)と(3)の関係は日本国内においても、広域型と在地型の狛犬として成立し得る関係です。

「ほっかいどうの狛犬」によれば、北海道では広域型の狛犬としては、北前船との関係が濃い浪花系、出雲系の狛犬、瀬戸内海の尾道型や備前伊部焼の狛犬、近代以降の岡崎系狛犬が見られます。
また、年代ははっきりしないものの越前笏谷石狛犬も確認されています。

一方の在地型として、著者は石工名由来の山崎型・鏑城型・岡田型・田中型と地域名由来の道央型・道南型の6グループを設定されています。また、グループをなさないものの、内地にはない独特の容姿をした狛犬たちも紹介されています。
これらの在地型狛犬には、広域型をモデルとしてそれにアレンジを加えたと考えうるものの他に、全く類例のないタイプのものも存在しています。

北海道で狛犬を製作したのは間違いなく和人の石工のはずですが、にも関わらずこうした結果が生まれるのは、著者も指摘するように、元々は細工物を手掛けていなかった石工が、他に石工がいない環境の中、狛犬を作らざるを得ない状況があったからでしょう。

台湾の狛犬についての考察の中で、台湾狛犬の製作者について、

例えば、もし、台湾に渡った日本人の石工が製作したならば、日本の自分が修行した地域に典型的な狛犬を作るだろうから、日本で類例が見られるものになると考えられる。
その観点に立てば、台湾狛犬は台湾人の石工が製作したと考えることもできる。

と書きました。
しかし、こうしたことから考えると、石工の不足から、細工物を製作した経験の無い日本人石工がやむなく狛犬を製作したという状況が生じた可能性は、北海道も台湾も同様だったのではないかと思えます。

台湾狛犬の作り手も日本人と考える方がいいのかもしれません。

2008年4月13日 (日)

ほっかいどうの狛犬―その1

先日、本編サイトに「海外神社の狛犬―台湾の場合」という文章をアップしました。
日本がかつて大日本帝国時代に勢力下に置いた地域に創建された神社に、どのような狛犬が設置されていたのかということを、現存資料が多数残る台湾の事例を基に考察したものです。

さて、「ほっかいどうの狛犬」(丸浦正弘 中西出版 2007年11月)という本が出版されていることを知り、購入しました。

台湾と北海道では何の関係もないようですが、神社を通してみると、共通点があります。
つまり、どちらも、もともと神社信仰を持たない人たちが住んでいる所に日本人が進出して、その後に神社が創建された土地である、という共通点です。
実際、かつて北海道は≪内国植民地≫とも呼ばれたことがあります。
それ故に、この分野の古典である「海外神社の史的研究」(明世堂書店 昭和18年)において、著者の近藤喜博は『北海道』に一章をあてているわけです。

植民地=台湾と内国植民地=北海道では、狛犬の有り様に共通性があるのかないのか。
その点への関心をもって、「ほっかいどうの狛犬」を紐解いてみました。

その前に、概説書を参考に、北海道と本州以南の内地との関係を見てみます。

北海道と内地の間には、考古資料から見て先史時代に既に交流がありました。その時点で北海道に居住し、内地との交流の担い手となった人々が、民族的にどのような人々なのか、現在のアイヌに繋がる人々なのかは、様々に議論のあるところでしょう。
その後、内地の和人が定住的な拠点を北海道内に構えるようになるのは、鎌倉時代頃のようです。
その後の曲折は省きますが、戦国時代を経て、江戸時代に松前藩が成立し、幕藩体制下に入ります。
ただし、松前藩の領域である≪和人地≫は、道南の渡島半島に限られます。一方で、北海道の現地住民であるアイヌとの交易や漁業などの拠点として≪場所≫と呼ばれる地域が設定され、和人の商人らがそこの管理を請負う≪場所請負制度≫という独特の制度が行われていました。その≪場所≫に和人が居住しましたが、これは海岸部に存在していました。
≪和人地≫や≪場所≫以外の内陸部はアイヌの領域とみなされ、幕府もアイヌを直接支配しようとはしませんでした。
しかし、江戸時代後半、南下政策をとるロシアの艦船が北海道周辺に出没するようになると、それに対抗するため、幕府は北海道の領有とアイヌの領民化を実行することになります。
さらに明治新政府が成立すると、開拓民など和人の流入が加速し、アイヌの人口比率は急速に下がり、同化政策もあいまって、北海道からアイヌ色は一掃されていきます。

神社は、当然ながら和人の動きにしたがって、北海道に上陸していきます。
北海道最古を称する神社はいくつかあるようですが、有力なものは檜山郡江差町にある姥神大神宮で、建保四年(1216)の創建とされます。
それが正しいかどうかは別にしても、鎌倉時代には神社が存在していた可能性は高いのでしょう。
和人とアイヌのせめぎあいの中で、神社も生まれたり廃絶したりの消長があったようです。
上の「海外神社の史的研究」では、物証をともなう最古の神社は永享11年(1439)銘の鰐口にその名の見える≪脇沢山神≫であるとしていますが、この神社は現存していません。
江戸時代に入ると、各≪場所≫に神社が招請されることで、渡島半島以外にも神社が広がっていきます。
そして、明治に入り、開拓が進むにつれて、内陸部にも神社が創られていきます。

これがおおよその流れということになります。

2007年12月28日 (金)

神の名の下の蛮行

「イエズス会宣教師が見た日本の神々」(ゲオルグ・シュールハンマー著 安田一郎訳 2007年 青土社)という本を書店で見つけました。
原書は1923年にドイツで刊行されたもので、フランシスコ・ザビエルについて研究していたドイツ人宣教師が、イエズス会士の書簡などから神道に関する文章を抜書きしてまとめたものです。

その中に興味深い記述がありました。

オルガンティーノの1577年の書簡にある記述だそうで、大まかな事の次第はこういうことです。

摂津の国の領主はオルガンティーノに、領内の一向宗徒をキリスト教に改宗させることを許可した。
ところが、領主の夢枕に天神=菅原道真が立ち、その後、諸事が上手く運んだため、これは天神様のご利益であるとして、天神様への感謝の祭礼を執り行うことにした。
その祭礼の最中、天神様が神主に憑依して、オルガンティーノらの所業を非難し始めたところ、何者かが神主に対して投石を始め、そのため祭礼に集まった人々は逃げ出した。

注釈によれば、この現場となったのは高槻市の上宮天満宮と推測されています。
書簡の年代から、事件は1577年よりも少し前ということになると思われます。
ということは、この領主とは高山右近もしくはその父の飛騨守友照ではないかと思われますが、いずれも熱心なキリシタンであり、その夢枕に道真が立ったので、その祭礼を開こうとしたというのは、解せない感じがしなくもありません。

それはともかくとして、興味をひかれたのは、神主(に憑依した道真)が非難したオルガンティーノらの所業です。

(略)ちょっとまえに、私は、四百人の人をここで洗礼し、それから彼の神殿に入って、私につき従ったキリスト教徒によってそこにある彫像を取り除かせました。キリスト教徒の少年たちが、早くも彫像の頭を切り落としていました。そのなかには、二頭の獅子[アマイヌとコマイヌ]がありました。異教徒たちは、この獅子を神の従者だと言っていました。私はそれをタカクスクィ[高槻]の砦〈略〉にもって行かせました。

つまり、オルガンティーノ主導のもと、キリスト教徒たちが天神社の神像類を破壊したが、その中に狛犬も含まれていた、という話です。

ちなみに、この本の表記は少々ややこしくなっていて、[ ]内は著者の、〈 〉内(ここでは省略した)は訳者の注釈となっています。

乱暴な話ですが、キリスト教に限らず、宗教の本質にはこうした排他性が不可避的に備わっていますから、避け得ない衝突ではあるでしょう。
こうした例は少なからずあったはずです。

私の手元には、その頃の外国人側から見た資料としてはモンタヌスの「日本誌」とケンペルの「日本誌」があります。

モンタヌスは、豊後におけるキリシタンとなった領主による寺社の破壊に触れていますが、これは大友宗麟のことでしょうか。
ケンペルは寺社の破壊について記述していませんが、イエズス会士たちの強引な布教が後のキリシタン弾圧を招いたとして批判しています。
ただし、その強引な布教方法に寺社の破壊が含まれるのかどうか、判然としません。

いずれにせよ、キリスト教が日本国内で広がっていく中で、日本の宗教との衝突が生じ、その結果として失われた狛犬が少なからず存在したであろう事が、この書簡からはうかがえます。

人間の信仰心は、狛犬も含む豊かな<美>を生み出す一方で、信仰の相違から他者のそれを<美>とは認めず、平然と破壊できる恐ろしさも持っています。

これを昔話だと言い切れる我々であれば幸せなのですが。

2007年10月27日 (土)

川柳の狛犬

仕事柄、明治の終わりから昭和の初めにかけての≪新川柳≫と呼ばれるものに関心があり、句集なども何冊か買い集めています。

最近購入したものに≪狛犬≫を詠み込んだ句があったので、思い立って手持ちの句集を調べ直して、そうしたものを抜き出してみました。

目を通したのは10冊程の句集で、合計4000~5000句ぐらいにはなるはずですが、見つけることが出来たのは10句にも足りませんでした。

以下にご紹介します。

高麗犬は揃って神へ尻を向け 源坊

単純に見たままという感じですね。

「漫画 浮世さまざま 川柳のぞき」(麻生路郎撰 昭和6年6月20日 湯川弘文社)より。

高麗犬の山へ登って富士が見え 歌楽

狛犬によじ登って、目線を高くして、眺望を得るということでしょうか。

狛犬の一種に、溶岩を岩山状に積み上げた≪獅子山≫と呼ばれるものがありますが、「高麗犬の山」というのは、それのことかもしれません。

竹馬の台に高麗狗されちまい  不老

これも同じく、狛犬によじ登る姿ですが、こちらは明らかに子供の仕業ですね。

閉じた眼に高麗犬を知る願百度 五碧

いわゆる≪お百度参り≫をするうちに、もはや目を閉じたままでも、狛犬の位置も姿もわかるくらいになった、ということでしょう。

高麗犬へ日は暮れて行く鈴の音 六文銭

「鈴の音」がなんだかよくわからないので、句意もはっきりつかめません。

飾りとして鈴をつけた狛犬もないわけではないのですが。

以上4句は「現代川柳名句集」(高木角恋坊編 昭和4年11月10日 磯部甲陽堂)より。

高麗狛の鼻で踊って椿落つ 飴ン坊

狛犬の側に植えられた椿の木から花が落ちる時に、直接地面に落ちずに、一度狛犬の顔にぶつかってから、踊るように回転しながら落下していくさまでしょう。

少し語感は固いですが、情景の美しい句です。

なお、「高麗狛」ではちょっと変ですが、「こまいぬ」とルビが打たれています。

こま狗へ可笑しく残る春の雪 五碧

時ならぬ春の雪が降った翌日、春の日差しで地面の雪がどんどん融けて消えてゆく中、狛犬の上に積もった雪が融け残っているという感じでしょうか。

この作者の≪五碧≫という人物は、僅かしか見つからなかったもののうちの2句を作っており、気になりますが、どういう人かはよくわかりません。

以上2句は「新川柳分類壱万句」(近藤飴ン坊編 昭和4年11月10日 昭和6年2月5日再版 磯部甲陽堂)より。

高麗狗に傘を預けて願をかけ 力丸

「大正柳多留」(矢野正世著 大正7年7月15日 忠文堂書店)に収められている句ですが、江戸時代の「誹風柳多留」に見える次のものに似ています。

こま犬にかぶせて拝む三度笠

ちなみに「誹風柳多留」にはもう1句、こんなものも収録されています。

こま犬の顔を見合ぬ十五日

お題は「おし合いにけり」となっています。

十五日には何か祭礼があって、人がどっと押し寄せるので、向かい合った狛犬がお互いの顔も見えないほどである、というようなことでしょうか。

071107追記:「日本古典文学大系57 川柳狂歌集」(岩波書店 昭和33年)によれば、山王祭の6月15日か神田祭の9月15日のことであろうとのこと。

なお、私が参照した岩波文庫版の索引は上五からしか引くことができないため、句の途中に狛犬が登場するものがあったとしても、索引からはわかりません。

一応ざっと眺めてみましたが、見つけられませんでした。

これは俳句ですが、現代俳句協会HPの検索機能を用いて見つけたものです。

この1句しか見つからなかったので、一緒にご紹介します。

狛犬の謂れ聴く子や初詣 石崎素秋

最後に、狛犬に関係する句ではありませんが、参道狛犬を尋ねて神社を歩いている人には、実感のわく句だと思いますので、こんな句をご紹介しておきます(「大正柳多留」に収録)。

飛び飛びに読んで石碑に首を曲げ 群星

2007年10月16日 (火)

狛犬の眼

日本参道狛犬研究会という狛犬愛好者のグループの会報『狛犬の杜』の第11号(1999年2月2日発行)に、「菊池寛の狛犬小説!」という記事が出ています。

それは、菊池寛が書いた狛犬の登場する小説があるという情報があるが誰か知らないか?、というものでした。
そこで紹介されているあらすじは、以前ご紹介した「赤く塗られた狛犬」という話と、骨格のよく似たものでした。

私は会員ではないので最新の号のことはわかりませんが、第55号(2006年8月29日発行)までをまとめて合本した「こまいぬ・狛犬・コマイヌ 狛研会報「狛犬の杜」全集」(平成18年10月30日発行)というものが出版されており、それを見る限りでは、それが判明したという記事はありませんでした。

そこで興味を持って調べてみたところ、すぐに判明しました。

昭和の初め、菊池寛の編著によって「小学生全集」(興文社・文藝春秋社)というシリーズが刊行されました。

しかし、これは大きな騒動を巻き起こしました。

というのも、これにやや先んじて、アルス社という出版社がよく似た内容の「日本児童文庫」というシリーズの企画を進行していたのです。
アルス社は北原白秋の弟が経営していた出版社で、白秋自身、この「日本児童文庫」に編著者として加わっていました。

二つの企画が並立することで、派手な広告合戦と販売競争が生じ、双方が対立していきます。
特に、白秋からすれば、自分たちが温めてきた企画を、菊池寛に横合いから掠め取られたように感じられたでしょう。
激怒した白秋は、菊池寛を厳しく非難する文章を発表します。
菊池寛もそれに反論し、泥仕合になってしまいます。

昭和2年から4年にかけて、どちらのシリーズも刊行され、文学史上に有名な≪円本ブーム≫に乗って、それなりの成果をあげます。
しかし、大量に廉価な児童書が普及したことで、単行本の価格が比較的高い児童文学界に大きなダメージを与える結果も招いてしまいました。

閑話休題。

その、「小学生全集 初級用」の第8巻「日本童話集 下」(昭和4年2月1日発行)の中に『狛犬の眼』というお話が収録されています。
ちなみに、この巻には19のお話が収録されており、『文福茶釜』『鉢の木』『一寸法師』『鉢かつぎ姫』『百合若大臣』などよく知られた昔話が含まれています。

『狛犬の眼』のあらすじは、こんなものです。

南の方のある島に、一つの社がありました。
その社の狛犬の眼が血色になると、災害が起きるという伝説があり、島人は毎朝、社へ行って狛犬の眼を見て、お祈りをしてから仕事に出かけるのでした。
ある時、内海を荒らしまわっていた海賊船が遭難し、生き残った二、三人が島に流れ着きました。
情け深い島人の手当てで回復した海賊たちは、しばらくはおとなしく島人の手伝いをしながら便船が来るのを持っていましたが、次第に退屈してきました。
そんな時、島の伝説を知り、悪だくみをします。
狛犬の目を赤く塗って、島人が脱げ出した隙に、目ぼしいものを盗んで島から抜け出そう、というのです。
島が暴風雨に襲われた夜、海賊たちは狛犬の目を赤く塗りました。
翌朝、それを見て驚いた島人たちは一目散に島を出て、沖合いに逃げました。
それを見て海賊たちが大笑いし、その勢いで狛犬にまたがってふざけていると、その狛犬の眼が光りだし、それと同時に波が押し寄せてきて、海賊もろとも、島を包み込んでしまいました。

先日ご紹介したお亀千軒の伝説は徳島県のものですが、菊池寛はその隣の香川県の出身です。
徳島の伝説を知っていて、それをアレンジしたのかもしれません。

また、ほかならぬ≪眼≫を赤く塗るという点では、「赤く塗られた狛犬」のコメント欄にあゆはさんが書き込んでくださった『漢民族の伝説』と共通性があります。

あるいは、読書家で博識の菊池寛のこと、私の知らない種本があったのかもしれません。

いずれにせよ、狛犬の登場する伝説としては、かなり広く流布されたものということになるのでしょう。

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