狛犬の歴史

2008年2月10日 (日)

明治以降(3)

ところで、明治以降の狛犬には、画一化とは別の方向性も見えます。
それは伝統回帰とか、伝統への憧れといったものです。

つまり、歴史的に古く名品として著名な狛犬を模した参道狛犬が多く作られているということです。

量産型の代表、岡崎古代型狛犬はすでに触れたように大宝神社の神殿狛犬を模しています。
東京の鳥越神社の狛犬は、なぜか遠く離れた奈良の手向山神社の神殿狛犬を模しています。
逆に、東京都府中市の大国魂神社や、京都の八坂神社のものは、自社に伝わる古い神殿狛犬を模しています。

神殿狛犬以外では、和様の石造狛犬として現存最古とされている京都府宮津市の籠神社の狛犬を模したものが靖国神社や各地の護国神社で見られます。

単により古いものを求めただけで、偶然なのかもしれませんが、以上の狛犬は何れも鎌倉時代の狛犬とされているものばかりです(籠神社には異説もありますが)。

見た目にはバリエーションが増えますが、考え方として根底は繋がっており、少なくともこれを狛犬の個性化とは呼べないでしょう。

もう一つのパターンとして、≪作家もの狛犬≫の出現もあります。

この場合の≪作家もの≫とは、例えば幕末の名工・丹波佐吉のような優れた職人の作品ということではなく、芸術家などが独自にデザインしたものを指しています。
単発のものもありますが、靖国神社他の伊東忠太結城神社他の北村西望など、複数存在するものも見られます。

さて、今まで素材別にも言及してきましたので、ここでも触れておきます。

金属製の狛犬は、多く造られました。
上で触れた八坂神社のものや結城神社の≪西望狛犬≫もそうですし、捜せば全国に広く見られます。
ただ、残念なことに、戦時中、物資不足に陥ってもなお戦争の継続を求めた大日本帝国は、昭和17年、金属製品の供出を国民に命じたため、金属製の狛犬も少なからず供出され、失われてしまいました。
八坂神社には、もう1対金属製の狛犬がありましたが、供出されていますし、清水寺のものも供出されています。
三重県護国神社には、供出から帰還したという狛犬がありますが、これは稀有な例でしょう。
戦争がさらに継続されていたら、明治以降の新作のものは、軒並み鋳潰されていたかもしれません。

陶磁器では、昭和40年代までは伊部焼狛犬が製作されていたことが書物からわかりますが、その後も参道狛犬として継続して生産されているのかどうかは、個人的には岡山にゆかりもないのでよくわかりません。
ただ、製作されているにしても、それほどの数は作られていないのではないかと思います。

それ以外では佐賀県有田市の陶山神社のものであるとか、岐阜県瑞浪市の八王子神社の≪日本最大の狛犬≫といったものが散発的に製作されています。

目新しいところでは、コンクリート・セメント製の狛犬が存在しています。
新しい時代になって新素材が生まれれば、それによって狛犬が作られる可能性がまだあるということでしょうか。

以上をまとめれば、

  1. 神道の画一化にともない狛犬も画一化する。
  2. 伝統的狛犬を模したものが登場する。
  3. 作家ものが登場する。
  4. 新素材としてセメントが加わる。

これで現代に到達しましたので、今後、新たな展開が生まれることに期待しつつ、「狛犬の歴史」の概観を終えます。

2008年2月 6日 (水)

明治以降(2)

さて、国家神道によって用意された狛犬画一化への道ですが、実際には、国家神道体制下の大日本帝国時代には、岡崎系狛犬が完全に主流を成すというところまでは到っていません。
皮肉なことに、新しく作られる狛犬がほとんど岡崎系一色(二種類あるので二色でしょうか)になってしまうのは、国家神道から自由になったはずの戦後のことです。

昭和10年代後半までは、それ以前からあるタイプの狛犬が根強く作られていました。

私の住む青梅市を例にとると、昭和15年までは江戸唐獅子型の狛犬が主流で、昭和16年から岡崎現代型に切り替わっています。
それどころか、再建という事情があるにせよ、昭和40年代になってもまだ江戸唐獅子型が造られています。

地域によって違いはあると思いますが、岡崎から遠く、特徴ある在地型の狛犬が存在していたところでは、同様のことが言えるようです。

また、岡崎系狛犬が生まれる前の明治時代には、加賀逆立ち狛犬(厳密には幕末成立かもしれませんが)や越前新式狛犬など、新たな狛犬のスタイルが生み出されており、それらも数多く造られていました。

なぜ国家神道が崩壊したはずの戦後に画一化が進んだのかについては、こんな想像をしています。

  • 戦争で石工も多く犠牲になり、技術やスタイルの伝承が途切れた。
  • 戦時中の反動から一般国民の神社への関心が薄れたため、誰も狛犬のスタイルにこだわらなくなった。
  • 反面、神社関係者には国家神道による神道の画一化への意志が残っており、一般国民の神社への関心が薄くなった分、そうした人たちの思惑が強く働いた。

もっとも、三点目については、神社関係者の中で狛犬への関心が必ずしも高くはないことを、経験上、感じていますので、ありえない事のような気もします。
現在の狛犬学の第一人者である上杉千郷先生は、自身が神職でもあり、かつて宮司を務めた長崎市の諏訪神社の狛犬に様々な特徴付けを行ってきました(あまり大きな声で言ってはいけないかもしれませんが、≪銭洗い狛犬≫など、上杉先生の発案であることをご本人から伺いました)。
そのことからすると、むしろ、神社関係者の狛犬への関心の低さが狛犬の画一化を招いたのかもしれません。

現在では、価格面の問題などもあり、国内の石材業者は≪取り次ぎ業者≫となって、狛犬の製造そのものは、中国などの海外に発注するという事態も生じているようです。

これは狛犬に限らず、日本の産業全体に言えることなのでしょうが。

2008年2月 5日 (火)

明治以降(1)

明治政府は、地域ごとの独立性の高い幕藩体制にあった日本を、近代的な国民国家へと一体化していくにあたって、国民統合の理念のひとつに神道を置きました。
つまり国家神道です。

まずはいわゆる神仏分離令によって、長い年月にわたって習合状態にあった神道と仏教を切り離します。
狛犬については、これによって神社に属するものとして扱われることになり、寺院の狛犬は珍しいものになっていきます。

また、神社を統廃合して数を整理し、官幣社・国幣社・府県社・郷社・村社・無格社といった社格を与えて秩序化していきます。
当然その過程で狛犬が移動したり、失われたりしたと考えられます。

そして、民間信仰など雑多な要素を含んでいた神道を、記紀神話を軸に天皇を中心として再構成します。
その際に、祭式や儀礼も統一的なものにまとめ上げられていきます。
当然、神社の社殿形式や、調度類にも一定の規格が作られます。
そうした神道の画一化の流れは当然狛犬にも波及します。

小寺慶昭「京都狛犬巡り」には、神殿狛犬について内務省が「獅子は、開口して金箔を押し、毛髪には緑青を塗り、金の毛描を施し、狛犬は、閉口して銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛描を施す。何れも州浜型の台に据う」という基準を設けたと書かれています。
これは「類従雑要抄」などに見られる獅子・狛犬の定義を≪正統≫のものとして、標準化したということでしょう(角についての言及がないのは気になりますが)。
残念ながら出典は明示されておらず、私としては根拠となる法令や通達を記した文書を探す努力をしていないのですが、これによって、新しく整えられた神殿狛犬は、みな同じスタイルへと統一されたとということは、実際に神社を訪ねて拝殿を覗き込んで神殿狛犬の姿を見ると、何となく納得が出来ます。

石造参道狛犬については、そのような明確な≪指導≫が行われたのかどうか、定かではありません。
しかし、実際の状況として、同様のことは石造参道狛犬にも起こります。
それが、岡崎系狛犬の登場と普及、です。

愛知県岡崎市周辺はもともと石材業の盛んな所で古い狛犬もあるのですが、ここで言う岡崎系狛犬というのは、現代型と古代型と言われる2種類のものを指しています。

現代型は、小寺慶昭氏が「コマヤン」と愛称をつけたことで、狛犬愛好家には馴染みのある狛犬です。
明治時代末頃に、浪花系狛犬を祖形として生み出されたものと、考えています。
大正の初めには、まだ形式が安定していませんでしたが、大正の終わりから昭和の初めにかけて画一化が進み、これが全国に広がっていきます。

古代型というのは、滋賀県の大宝神社の鎌倉時代のものとされる神殿狛犬を模したものです。
現代型よりも後から生まれたようで、把握している限りでは昭和10年代以降、大量に普及していきます。

日本国内に広く普及したのみならず、大日本帝国が版図を広げ、それに従って神社が海外進出していくのにともない、岡崎系狛犬も海を渡ります。

満洲国の首都・新京の新京神社に現代型狛犬があったこと、あるいは台湾の鹿港神社に古代型狛犬があったことがわかっています。

2008年2月 3日 (日)

江戸時代(3)

江戸時代には金属製の参道狛犬も登場します。

東京では新宿区の花園神社(文政4年=1821)、渋谷区神宮前の熊野神社(慶応元年=1865)、大阪では中央区の御霊神社、藤井寺市の道明寺天満宮(元文3年=1738)などが知られています。
厳密には参道狛犬とは言えないかもしれませんが、日光東照宮奥の院には有名な石造参道狛犬の他に、唐門前にも金属製の狛犬が一対存在します。
唐門が造られたのが慶安3年(1650)ということなので、その頃のものでしょうか。

これらは銅製(青銅製)ですが、岩手県の黒石寺のものは鋳鉄製で、屋外に露座で設置されるものとしては珍しいものです。

ところで、「大阪狛犬の謎」の中で著者の小寺慶昭氏は、上記の御霊神社の狛犬について調査し、元和年間(1615~1624)のものと推定しています。
それが正しければ、日光東照宮の石造参道狛犬よりも古く、明確に参道狛犬とわかるものとしては現存最古のものの可能性が出てきます。
ただ、先日の設置年代の分布から見ると、大阪の狛犬としては突出して古いことが、少し引っかかります。

陶磁器のものも多く作られていました。

「陶磁のこま犬百面相」展の図録(愛知県陶磁資料館 2005年)を見ると、種類も豊富になっていることがわかります。
前の時代の形式を引き継いだものもあれば、石造参道こま犬を意識したようなものもありますが、かなり独創的なものも多く見られます。

それらは基本的に小型のものですが、陶器の狛犬でも参道狛犬として作られた大型のものがあります。
それが備前伊部焼狛犬です。
岡山の伊部地方の窯で焼かれたもので、京都、金沢、新潟、東京といった遠隔地でもその存在が確認されています。
つまり、広域型の狛犬でもあります。

この他、瓦の産地では瓦製の参道狛犬も確認できます。

木彫の神殿狛犬は数多く存在するはずですが、室町時代で触れたように研究上はほとんど言及されなくなるので、どのような状況になっているのか、すぐにはわかりません。
丹念に地方誌などを見ていけば、具体例を拾い出せるのでしょうが、今のところ私にはその気力はありません。

狛犬そのものではないのですが、もう一点触れておくと、江戸時代には参道に置くための神使の像が作られ始めます。
参道に置くものでなければ、それ以前からあったと思われます。
陶磁器の狛犬では、香取型と呼ばれるものは山犬型とも呼ばれていると上記の図録にはあり、山犬(狼)を意識したものではないかとの意見もあります。
神狐の像などで知られる伏見人形は桃山時代には存在していたと考えられていますから、小型の狐像なら存在したでしょう。
それらより大型で、参道に置かれるものは、おそらくは参道狛犬の影響から誕生したものと思われます。

以上、江戸時代の狛犬の特徴は、

  1. 参道狛犬が流行したが、その普及は早い地域でも18世紀からで、17世紀まで遡るものは少なく、19世紀に爆発的に普及した。
  2. 広域型の参道狛犬と在地型の参道狛犬がある。
  3. 様々な素材の参道狛犬が登場した。
  4. 参道狛犬に触発され神使も参道に置かれるようになった。

となるでしょうか。
室町時代に引続き、神殿狛犬は影が薄くなっています。

2008年2月 2日 (土)

江戸時代(2)

さて、この参道狛犬は、その普及の仕方で2種類に分けることが出来ます。

生産地から遠く離れた場所まで流通した広域型の狛犬と、普及範囲が特定の地域内に留まる在地型の狛犬です。

広域型としては、浪花系、出雲系の狛犬が知られています。
その名の通り浪花、すなわち大坂周辺と出雲で生産された石造狛犬で、そこから日本全国に普及していったものです。

これらの普及地域は、北前船の航路上であるということが、指摘されています。

たくさんの荷物を運ぶ船というのは、逆に空荷では浮き上がりすぎて船が安定しないという特徴があります。
そこで、そのような場合に船を安定させるために重石を載せます。
いわゆる≪バラスト≫です。
バラストがただの石ならば、荷物の量が増えて不要になれば、海などに捨てるだけですが、バラストとして石造品を積載しておけば、これを降ろす時にそれ自体を販売することができます。

そうした理由から北前船の発着地である大坂の周辺で製作された狛犬=浪花系の狛犬が、本州全体に普及したという説があります。
出雲も中途の寄港地として同様の背景があると言えます。

浪花系狛犬のバリエーションについては「大阪狛犬の謎」(小寺慶昭 ナカニシヤ出版 2003年11月30日)に詳しく考察されていますが、突然ガラリとパターンが変わるということはなく、基本的にはマイナーチェンジの繰り返しという印象を受けます。

これに対し、出雲系狛犬は前脚をかがめ尻を高く上げた、俗に「出雲狛犬」と呼ばれるものと、蹲踞の姿勢で太い縦尾を持つ、俗に「丹後狛犬」と呼ばれるものの2種類があります。

浪花系や出雲系には及ばないものの、一定以上の地域に普及したものが他にもあります。

俗に「尾道狛犬」と言われる両前足を玉に乗せた姿の狛犬は、瀬戸内海周辺、本州側にも四国側にも広く見られます。
実見していませんが、新潟や北海道にもあるようです。

また、私が「江戸狛犬」や「江戸唐獅子」と呼んでいる狛犬は、江戸のみならず関東平野一帯に広く見られます。

一方の在地型の狛犬は、まだ全国を歩き尽くしてはいないので、どのくらいあるのかわかりませんが、いくつかその存在が知られています。
日本参道狛犬研究会の「参道狛犬大研究」では、江戸時代までさかのぼるものとしては秋田狛犬仙台狛犬肥前狛犬などを挙げています。
また「京都狛犬巡り」では、萩狛犬白川狛犬(京都)の存在を指摘しています。

このうち肥前狛犬や仙台狛犬は独自性の高いものですが、秋田狛犬や萩狛犬などは、上記の広域型の狛犬の普及後にそれを参照して生まれたものではないかと考えています。
他の地域でもそうしたものが多いように思えます。

2008年1月29日 (火)

江戸時代(1)

江戸時代は、石造を中心とした参道狛犬が全国に普及していった時代です。
戦乱が治まり、社会の安定を背景に庶民の経済力が高まったことが、その大きな理由だと思われます。

参道狛犬の萌芽と思われるものが、戦国時代の終わり頃から見られることは先に触れました。
しかし、参道狛犬は、そこから一気に普及したということでもありません。

新たに政治の中心となった江戸を中心とする関東では、日光東照宮のものが最も古い参道狛犬(寛永13年=1636)とされ、江戸近辺では目黒不動尊(承応3年=1654)、川越の仙波東照宮(明暦2年=1656)、江戸府中では赤坂氷川神社(延宝3年=1675)あたりのものが最初期のものとされます。
しかし、数を増すのは、18世紀に入ってからになります。

数的に見てみます。

「参道狛犬大研究 東京23区参道狛犬完全データ」(日本参道狛犬研究会編 ミーナ出版 2000年4月16日)を見ると、寄進年のわかる150対の年代分布は

1603~1650=0
1651~1700=6
1701~1750=17
1751~1800=25
1801~1850=64
1851~1868=38

となり、18世紀に増加して、幕末に向けて急増する様子が分かります。

一方、関西については小寺慶昭氏の調査を参照してみます。

まず大阪府下では氏の自費出版の「大阪府の参道狛犬 参道狛犬調査報告書1」(2003年3月)によると、寄進年のわかる623対の年代分布は

1603~1650=0
1651~1700=0
1701~1750=6
1751~1800=78
1801~1850=416
1851~1868=123

となり、17世紀の狛犬こそないもの、18世紀後半から急増し、19世紀には爆発的に増加することがわかります。

また、京都府下について「京都狛犬巡り」(ナカニシヤ出版 1999年11月1日)では江戸時代の狛犬は166対あり、その年代分布は

1603~1650=0
1651~1700=0
1701~1750=1
1751~1800=8
1801~1850=81
1851~1868=76

となり、大阪と比較して数こそ少ないもののほぼ同様な傾向にあることがわかります。

もちろん、古いものほど破損などによって廃棄される可能性が高くなりますから、その分現存数が少なくなるのは当然のことですが、それでも19世紀の設置数が群を抜いていることは確かでしょう。

この江戸と上方以外の地域についても、状況は類似していると思われます。
私の限られた見聞の範囲内では、江戸・上方以外では大抵の場合、本格的に参道狛犬が普及するのは19世紀になってからのように思えます。
これは、それ以前の狛犬がないということではなく、場所によっては18世紀の狛犬が多く見られる地域もありますが、全国的に目につくようになるのは19世紀からだということです。

ちなみに、手持ちの資料で、複数の市町村にまたがる一定以上の領域を網羅的に調査したデータがあるものから、10年刻みの表を作ってみました。
上記の数値の基準もそちらに記載しました。
ご参照ください

2008年1月20日 (日)

室町時代(2)

一方、石造狛犬ですが、この時代になると遺存例が増えてきます。

手元にある狛犬関連書の中に取り上げられているものを拾い出してみると、在銘のものだけでも、以下のものがあります。

京都府京丹後市・高森神社 文和四年(1355)
山梨県市川三郷町・熊野神社 応永十二年(1405)
和歌山県高野町・河根丹生神社 応永二十六年(1419)
和歌山県和歌山市・薬徳寺 長禄三年(1459)
福井県あわら市・沢春日神社 永正十二年(1515)
福井県福井市・中手(樺)八幡神社 永正十八年(1521)
岐阜県山県市・十五神社 天文九年(1540)
岐阜県岐阜市・伊奈波神社 天正四年(1576)
岐阜県神戸町・日吉神社 天正五年(1577)
岐阜県神戸町・白鳥神社 天正六年(1578)
岐阜県各務原市・手力雄神社 天正九年(1581)
愛知県清洲町・石清水八幡宮 天正九年(1581)
愛知県津島市・津島神社 天正十年(1582)

この他、長野県軽井沢町・熊野神社のものは明徳年代(1390~1393)、佐賀県唐津市・熊野神社のものは天正年間(1573~1592)とされています。
さらに、京都府京丹後市・藤社神社、福岡県福岡市・飯盛神社、秋田県男鹿市・赤神神社、福岡県大川市・風浪神社の名も見えます。

上記のうち、高森神社のものと類似したものが丹後半島にいくつか現存しているようです。
南北朝期の石造狛犬ということになるでしょうか。

一方、岐阜県神戸町の日吉神社の狛犬は不破河内守光治の奉納による狛犬で、重要文化財ともなっている有名なものですが、これはこの時代を代表する、重要な狛犬=越前笏谷石製の狛犬です。

越前笏谷石は福井市の足羽山周辺で産出する青みがかった凝灰岩で、古くから越前地方の特産として様々に用いられてきました。
石の採掘は平成11年(1999)9月をもって停止されましたが、それまでおよそ1500年の永きにわたって掘り出されてきた石です。

この狛犬が重要なのは、日本のかなり広い範囲で見つかることです。
時代的には戦国から江戸初期のもので、私の知っている限りでは西は関西圏(大阪府守口市 津嶋部神社)、南は東海圏(愛知県岡崎市 犬頭神社)、そして東・北は青森(弘前八幡宮 熊野奥照神社 黄金山神社)でも確認されています。
日本で初めて生産地から離れて広域に流通した石造狛犬だと言えます。
しかも、日本の流通史上の一大エポックである河村瑞賢による東廻り・西廻り航路の開発以前にそうした状況が見られるという点で、狛犬史の枠を越えた価値のあるものです。

もうひとつ重要なのは、この越前笏谷石製の狛犬は、高さ20cmほどの小型のもの(上記の赤神神社のものなど)と70~80cmほどの大型のもの(上記の日吉神社のものなど)の2種類にはっきり分かれていることです。

ここまでに言及してきた狛犬は、基本的に神殿狛犬でした。
門獣としての狛犬像が社寺の山門・楼門内にあったことは指摘しましたが、現在見られる様な形での参道狛犬はこの時代までは存在していません。
もし越前笏谷石製の狛犬に大小があるということを、神殿狛犬用と参道狛犬用と考えることができれば、この狛犬の登場をもって参道狛犬の始まりとすることも出来ます。

しかし、残念ながら、何故そのように分かれているのかは、はっきりとはしません。
小型のものはまず間違いなく神殿狛犬として用いられたでしょう。
しかし、大型のものが参道狛犬とされたという明確な証拠は今のところ見つけられていません。
上記の日吉神社のものをはじめ、現状としては参道に置かれているものもありますが、初めからそうだったのかどうかはわかりません。

文献上確認できる狛犬で、興味深いものがあります。
豊臣秀吉が創建した方広寺の狛犬です。
これについては以前、本編サイトに書いたものがありますので、詳しくはそちらをお読みいただくとして、これが門内ではなく露座に置かれていたものなら、ここを参道狛犬の始まりと出来なくもありません。
しかし、現存しないうえ、決定的な証拠に欠けるので、何とも言えません。

以上、室町時代の狛犬についてまとめると

  1. 石造狛犬が増加する。
  2. 広域に流通する狛犬が現れる。
  3. 参道狛犬の発生を示唆するような資料が登場する。

といったところでしょうか。
現存資料や、報告のある資料が石造のものに偏っているので、時代の特徴もそちら寄りになってしまいました。

2008年1月18日 (金)

室町時代(1)

「室町時代」としましたが、ここでは江戸時代直前の安土桃山時代までを一括して取り扱いたいと思います。
初期の南北朝時代、応仁の乱以後の混乱期、末期の戦国時代、そして織豊時代という多様な時代を一括するというのはいささか乱暴ですが、後に江戸時代が控えているということで、敢えてそうしました。

さて、ここまで中心的に扱ってきた木造神殿狛犬ですが、『日本の美術279 狛犬』では南北朝までしか言及がありませんし、京都国立博物館の図録『獅子・狛犬』では、実際には室町時代以後の資料も所蔵されているにも関わらず、鎌倉時代の事例までしか挙げられていません。
資料を十分調べていないため最新の彫刻研究がどうなっているのかは知りませんが、上記の資料を見る限り、日本の彫刻史では鎌倉時代を最盛期としていて、その後は爛熟と衰退という捉え方をされているようです。

ちなみに、『日本の美術279 狛犬』で挙げられている事例は、鳥取・姫宮神社(明徳三年〈1392〉銘)、広島・厳島神社、岡山・吉備津神社、兵庫・小柿天満神社(康応元年〈1389〉銘)くらいですが、実際には多くの遺存例があるようです。

金属製の狛犬としては、鎌倉時代で触れた高千穂神社に近い宮崎・向山神社にやはり鉄製のものがあるようです。

鎌倉時代には発掘された破片資料しかないということで事例を挙げなかった陶製の狛犬ですが、この時代には有名なものがいくつか知られています。

鎌倉時代のところで既に触れた愛知・伊勝八幡宮の伝世品には応永二十五年(1418)の銘があり、ひとつの基準となっています。
また、愛知・深川神社、千葉・香取神宮の伝世品はそれぞれ特徴的な姿をしているので、伊勝型と並んで、深川型、香取型などとしてひとつの類型をなしています。

茨城・鹿島神宮には伊勝型と香取型の両方が伝世しています。

この時代の特に有名なものは根津美術館が所蔵しているものです。
この狛犬は、千利休が香炉として愛用していたものだと言われています。
ただし、香炉として作られたわけではない狛犬の阿形を口のところで割って、香炉にしたものです。
香炉にしたのは千利休のある種≪力技≫と言えるでしょう。

ちなみに香取型の狛犬です。

この狛犬が一度でも神社に奉納されたことがあるのかどうかはわかりません。窯元からそのまま手に入れたものなのかもしれません。
だとすると、これは信仰物ではなく、純然たる調度であり、愛玩物ということになります。

2007年11月12日 (月)

鎌倉時代(3)

さて、もうひとつの新しい要素である陶製の狛犬です。

陶磁器の狛犬は、鎌倉時代の末頃、13世紀末から14世紀初の時期に登場したようです。
産地は瀬戸・美濃地方で、高さ20cm内外の小型のものです。
江戸時代より前のものは、高さに比較して前後が詰まっていて、背筋を立てて、前脚を長く真直ぐに突っ張った形のものがほとんどです。

分布地域も瀬戸・美濃地方を中心とした愛知・岐阜・長野の各県に集中しています。
ただ、この地域から離れた場所でも伝世品や出土品が散見されます。

その伝播には山伏など修験者が関わっていたと考えられています。
時代は室町時代に入りますが、初期のものの一つである愛知・伊勝八幡宮伝世のものに「応永廿五戊戌歳/十二月朔日/熊野/願主浄通」(1413)との墨書銘があることが、その根拠になっています。
ただ、江戸時代より前のものでは有銘のものはこれを含めて4点しかないとのことなので、全てを同様に考えることができるのかは何とも言えません。

初期の伝世品は、代表的作例をもとにして≪伊勝型≫(伊勝八幡宮)、≪根津型≫(根津美術館)、≪深川型≫(愛知県瀬戸市・深川神社)、≪香取型≫(香取神宮)などに分けられています。
この分野で大きな足跡を残した本多静雄は、このうちの≪根津型≫を鎌倉時代まで遡ると考えていたようですが、窯跡の発掘成果などから、現在は否定的なようです。
そのため、伝世品としては鎌倉時代のものはないということになりますが、窯跡から破片が出土しているので、生産されていたことは間違いありません。
愛知県陶磁資料館他で行われた『陶磁のこま犬百面相』展覧会図録の表によれば、鎌倉時代の狛犬片が出土しているのは瀬戸の窯跡(洞山窯など)ばかりのようで、美濃よりも瀬戸が先行していたようです。

このような状況なので、具体例への言及は次の時代にまわしたいと思います。

もう一点、絵画作品に触れておきます。

神仏習合の思想に基づく≪神道曼荼羅≫と呼ばれる絵図があります。
平安時代には製作されていたようですが、現存するものは鎌倉時代のものまでしか遡れないようです。

この中に、神社の社殿が描かれたものがありますが、それを見ると、社殿の外側の縁の部分に向かい合わせに狛犬が置かれています。

平安時代のところで挙げた狛犬に関する文献は舞楽の狛犬か宮中の狛犬に関するもので、社寺の狛犬がどういう状況であるかを記したものはありませんでした。
しかし、こうした絵図によって、現在でもしばしば見られるように外縁に狛犬が置かれていたことがわかります。

あたりまえに見えるようなことでも、やはり裏付けは必要だと思うので、指摘しておきます。

以上、鎌倉時代についてまとめてみると、以下のようになります。

  1. 遺存例が前代より大幅に増加し、狛犬が広範囲に普及したことがうかがえる。
  2. 石造、陶製、また金属でも鉄製という形で、新しい素材のものが出現する。
  3. 付随品が出現する(大宝神社の鈴)。
  4. 九州北部に石造中国獅子、東海・中部に陶製狛犬と、地域的な特徴が出始める。

というところでしょうか。

2007年11月 7日 (水)

鎌倉時代(2)

さて、鎌倉時代には、狛犬に新しい要素が加わります。石造および陶製の狛犬の登場です。

まずは石造狛犬について。

石造≪狛犬≫と言いながら、狛犬や石造美術についての書物が紹介する最初期の例は、いずれも中国式の獅子です。
狛犬が中国から伝来した獅子から発展してきたと考えるならば、また、木造神殿狛犬が既に独自の形態を整えていることからすれば、ここで話を中国式の獅子に戻すのはやや釈然としませんが、先達に倣って、触れておきます。

最も有名なのは、何度か言及している東大寺南大門の獅子像です。

治承四年(1180)の平重衡による南都焼討ちによって被害を受けた東大寺の再建のため、当時の中国・宋から陳和卿らの工人が招かれます。
『東大寺造立供養記』という文献に、その工人のうち「宋人六郎ら四人」によって建久七年(1196)に「中門石獅子」などが製作されたことが記されています。
なお、「宋人六郎」とは、中世日本で一派をなした伊派と呼ばれる石工集団の祖である伊行末のことであると推定されています。

この獅子は、わざわざ石を中国から取り寄せて製作したことが記されており、中国の石で、中国の石工が製作した、事実上の外国製品です。
そのため、既に「阿吽」が定着している日本でありながら、左右双方とも口を開いた姿をしています。
派手な瓔珞を着け、尻尾が背中に張り付いて平面的に表現された平尾である点や、背中をそらし、前足を斜め前に突っ張った姿勢も、中国的な姿と言えます。

しかし、全体で見てこれとそっくりと言えるような類例は、手元の資料で見る範囲では中国には見当たらず、また、日本国内でも、これに追随したものは近代まで現れないという、孤高の存在とも言えます。

東大寺のものとは違う小型のもので、玉取り子取りになった中国式獅子が、北九州を中心に複数現存しています。
いずれも福岡の宗像神社観世音寺太祖宮上宮飯盛神社(*)などにあり、福岡以外では京都・由岐神社ものが知られています。
(*080120追記:ここに一緒に載せてしまいましたが、飯盛神社のものは時代は南北朝とされているようです)

このうち、宗像神社のものには「奉施入宗像宮第三御前宝前建仁元年辛酉藤原支房」との銘が背中に刻まれていると言い、1202年に納められたものとわかります。

これらは中国からの輸入品と見られていますが、何点かはそれを模したものではないかとされます。

面白いのは、そうでありながら、いずれも『阿吽』になっていることです。

ただし、宗像神社のものは、よく見ると、口を閉じているのは玉取りの側で、玉にからむ綬帯と呼ばれる紐を噛んでいるために口を閉じているのがわかります。
中国式の獅子には『阿吽』は基本的にないとされますが、このような子取りは口を開き、玉取りは綬帯を噛むというスタイルは、中国にも見られます。

その一方で、写真でみる限りでは、他のものは、玉取りが口を閉じているにも関わらず綬帯が明確には表現されていません。
これは、宗像神社のものは中国製で、他は日本で模倣されたものという可能性を示すのではないかと、ふと考えましたが、どうでしょうか。

もっとも、詳細に見比べると、子取りの側が口を閉じるものがあったり、玉を抱いているものと踏んでいるものがあったり、台座の形が違ったりと様々です。
当時の日本の狛犬には付随物は基本的にありませんし、台座のスタイルなども、日本にはないものです。
となると、日本で勝手にアレンジしたとは思われず、複数のパターンの獅子が伝来していたのではないかと思えます。

現存数を大きく上回る数の獅子像が伝わっていたのではないかと想像できます。

もちろん、石造の日本式狛犬も出現します。

「日本石造美術事典」(川勝政太郎 東京堂出版 昭和59年再版)では、京都・籠神社と奈良・都祁水分神社のものが挙げられています。

この他、「狛犬をさがして」(橋本万平 精興社 昭和60年)には佐賀県唐津市の八坂神社の狛犬も挙げられていますが、手元の資料やweb上ではどのようなものか確認できませんでした。

いずれも無銘で、年代は推定のものです。

このうち、籠神社のものに関しては非常に有名である半面、本当に鎌倉時代のものなのかについては疑問も持たれています。

それは、(1)小型のものが多い中、特に大型である、(2)当時は参道狛犬がまだなかった、(3)風雪が厳しいことに加え、大きな地震も繰り返し発生している丹後半島で、大きな破損もなく現代まで残っているのは不自然だ、というようなことからです。

ただ、東大寺南大門の獅子像は大型ですし、きちんと現存しています。

当初はあのような形で門内にあったとすれば、上の疑義を払拭することは不可能ではありません。

問題は、東大寺南大門のように狛犬を納められるような空間を両袖に持つような大きな門が、かつての籠神社にあったかどうかですが、それは確認できていません。