狛犬と獅子舞

2008年7月29日 (火)

狛犬と獅子舞――まとめ

以上をまとめてみます。

1)舞楽の≪狛犬≫は、その頭に角があるのかどうかということも含めて、実態ははっきりとしない。

2)通常は舞楽の≪狛犬≫が調度の『狛犬』に先行するものとして、『獅子』『狛犬』の組み合わせは舞楽に由来すると考えるが、≪獅子≫舞と≪狛犬≫舞は行幸の時のみ特別に番となる非正規の組み合わせであることを念頭に置けば、調度から舞楽への影響ということも考慮するべきではないか。

3)獅子舞の≪獅子≫と調度の『狛犬』の姿を比較してみると、『狛犬』と同じ木彫である獅子頭は、狛犬よりデフォルメされてはいるが共通する特徴を持っている。しかし、全身の姿として考えると、日本の『狛犬』よりは、中国の獅子との共通点が多いように思われる。

長々と書き連ねてきましたが、まとめてしまうと、こういうことになります。

結局のところ、≪狛犬≫がいつ頃どのような形で成立したのか、ということがはっきりしない以上、推論にも限界があります。
もちろん、対する『狛犬』の方の成立が明確でないことも、何がしかの結論を導き出すことを不可能にしています。

狛犬に関心を持って古文献の調査をする人が増えれば、今回取り上げたもの以外の、まだ知られていない文献が見つかるかもしれません。
獅子頭や『狛犬』の未知のものが見つかる可能性は、低いとは思いますが、皆無ではないでしょう。

今はそうした発見を待つしかないのかもしれません。

2008年7月28日 (月)

獅子舞と中国獅子

(2)(3)で取り上げたたてがみ他の植毛のことですが、遺存している獅子頭に植毛痕があることから予測できることです。
しかし、長めの直毛であるという点は遺存例からはわかりませんでした。
調度の『狛犬』でも、直毛主体のたてがみを持つ例はあります。
ただ、完全に直毛のみのものはあまりなく、どこかに巻毛が含まれます。
特に、下顎のラインに沿った衿状の毛には、たいてい巻毛が混じります。

その点では、直毛しかない獅子舞と『狛犬』には差があります。

次に、(5)の「背中に毛がある」ことについて。

現在見られる獅子舞では、一部を除いて胴体は毛のない布(緑地に唐草模様が広く見られる)を用いていますが、この「年中行事絵巻」のものには毛があります。
しかし、よく見ると、毛は身体全体は覆わず、どの獅子舞も被っている布の端が見えています。
また、毛は、頭部から尻尾までつながる帯状の部分から左右に垂れ下がる形になっています。

これはもしかすると、体毛を表しているのではなく、たてがみの一部なのではないでしょうか。

というのも、中国の獅子像には、このように背筋に沿って尻尾まで続くたてがみというものがしばしば見られるのです。
古い時代のものは実物を見ていないため背中の様子がわかりませんが、実見したことのある比較的新しい時代のものでは、少なくともそのようなたてがみが見られます。

一方、これは『狛犬』にはまったく見られない特徴です。

(6)の「小ぶりの尻尾」ですが、このようなシンプルで小さい尻尾というのは、やはり『狛犬』には見られないものです。
そして、これも時代の新しいものとの比較になりますが、中国獅子では、主に北獅において、尻尾を小さく作って強調しない作風というものが見られるのです。

この(5)(6)の特徴は他の資料でも見られます。

町田市立博物館の図録で取り上げている「北野天神縁起絵巻」は室町時代のものですが、そこに描かれた獅子舞は、顔の感じは異なるものの(5)(6)の特徴を持っています。
2001年に開催された「天神さまの美術」展(東京国立博物館他)の図録には、成立年代は室町時代から江戸時代と「年中行事絵巻」より下るものの、複数の天満宮の「縁起絵」が掲載されており、そこでも確認できます。

ちなみに「天神さまの美術」展の図録に掲載された大阪天満宮所蔵の「天神縁起絵」に描かれた獅子舞は、有角と無角の2頭が神輿の前を並んで進んでいるように描かれています。
しかも、獅子頭はともに赤であるものの、胴の布は桃色(有角)と青(無角)になっています。
これは江戸時代の作品ですが、何に基づいてこのように描いたのか興味深いところです。

閑話休題。

以上から言えることは、同じ木彫である『狛犬』と獅子頭には、獅子頭の方が極端にデフォルメされているものの共通した特徴が見られるが、獅子舞の全身像となると、『狛犬』よりも中国の獅子像により近い部分がある、となるでしょうか。

いずれにせよ、舞楽の≪狛犬≫と調度の『狛犬』の関係は、一方が他方に転じたというような単純なものではないことは間違いないでしょう。

2008年7月27日 (日)

獅子舞の全身像

以上のように、獅子頭については遺存例からその特徴を確認することが出来ます。

ただ、遺存している獅子頭でも、痕跡からたてがみ、眉、ヒゲに何らかの毛が植え込まれていたことはわかりますが、それらの毛はわずかしか残存しておらず、全体としてどのような形状だったのかまではわかりません。
また、胴体に関しては何らかの被り物をしたはずですが、現存していないようで、全身像は不明です。

そうした現物資料からは確認できない点について、しばしば参照されるのが、「年中行事絵巻」です。

平安時代末期に成立した原本は既に失われているようですが、多くの模本が残っています。
以下リンクをつけてあるのは、京都大学図書館がweb上に公開しているものです。

この京都大学文学部所蔵のものからは、都合10頭の獅子舞が発見できました。

まず、巻七の『稲荷祭』の部分に8頭が描かれています。

・楽器を持った人物たちとともに待機しているような2頭の獅子(a・b)
・一団の人々の前で踊る1頭の獅子(c)
・纏のようなものを掲げた列の前を行く5頭の獅子(d・e・f・g・h)

そして、巻十一の『祗園御霊会』の部分に2頭です。

・矛のようなものを持った一団の前で踊る1頭の獅子(i)
・矛のようなものを持った一団の後、神輿の前方で踊る1頭の獅子(j)

これらのうち(c)は、獅子頭の眉・上下の唇・鼻を特に黒くしています。
これは伊奈冨神社の獅子頭の彩色とよく似ており、この絵巻の正確性に対する信用度を高めてくれます。

なお、京都国立博物館の図録「獅子・狛犬」では、別の模本をもとに、(d)~(h)のうちの1頭に角があるとし、それを無角の『師子』と有角の『狛犬』としています。
確かにそちらに掲載された図版(どの模本のものか明記はない)では角があるように見えますが、こちらの京都大学文学部所蔵本では、角ははっきりしません。

さて、これら10頭の姿ですが、細部には違いがわずかに見られるものの、おおむね同様な姿をしています。
その特徴を以下に挙げてみます。

1)二人立ち。
2)たてがみは植毛されていて、直毛。たてがみの中に御幣が混じっている。
3)眉、上顎、下顎に植毛されている。直毛。ものによって植毛されている部分は同じではなく、有無もあるが、この部分にまったく植毛が無いというのは(i)だけ。
4)耳はすべて立耳。
5)背中に毛がある(『稲荷祭』のものはすべて2段だが、『祗園御霊会』のものは1段)。直毛。
6)尻尾はからだ全体にくらべると小ぶり。根元を束ねた直毛。

(1)は文献からもそう判断できます。
また、(4)は獅子頭の遺存例から、おおむね確認できる範囲であり、既に触れています。

それ以外の点については項を改めて、検討してみます。

2008年7月26日 (土)

獅子頭と『狛犬』――その3

形状ではありませんが、獅子頭の彩色を見ると、『狛犬』と異なり赤が大胆に用いられているという特徴があります。
狛犬でも、口の中や鼻の部分に赤い彩色が残っているものがあり、その部分を赤くしていたのであろうことはわかります。
しかし獅子頭ではその他に、目の周りや耳の内側にも赤が使われています。

伊奈冨神社・津波倉神社などは、むしろ赤が全体の基調をなす色となっています。

さて、獅子頭と『狛犬』で、もっともよく似ている部分は上唇から鼻にかけての形状ではないかと思われます。

つまり、それは

  • 上唇が大きくうねっている。
  • 上唇の真中でそのうねりが角度をつけてぶつかっていて、そこから唇が割れているような感じになっている。
  • その上唇が割れている先端部分の真上に正面から見てスペードもしくはクローバー型の鼻が乗っている。

というものです。

その結果、当然ながら鼻が顔全体の一番前に出ている格好になります。

眼の形状の時と同様、獅子頭の方が表現が大袈裟になっていますが、獅子頭が口を開閉する以上、それはおかしなことではないでしょう。

この上唇から鼻にかけての形状は、獅子頭では風流系獅子の一部を除けば、ほぼ全て見られますし、調度の『狛犬』、つまり神殿狛犬もそれは同様のようです。

これが猛獣を表すお決まりの表現方法なのでしょう。

そう考えると、花尾八幡宮の獅子頭は、非常に特異なものと言えます。

口先が割れたり捲れ上がったりすることなく、なかばクチバシ状に前に突き出し、鼻が後ろに下がっているのは、この獅子頭だけです。
ちなみに、リンク先には獅子頭の写真が2点ありますが、目の釣り上がった方がここで取り上げている元亨二年(1322)銘のもので、目の丸いもう一つはこれと対とされる無銘のものです。
無銘のものの方は、やや唇が捲れ上がっていますが、鼻が後にある点は同じです。

こうして明らかに違っていると、角の問題同様、これは同じ獅子頭としてよいのか、考えてしまいます。
≪獅子≫舞とは別の舞の頭なのではないかという気がしてきます。

それとも、それは単なる考え過ぎで、他とは違う系列の工人が作ったというだけのことなのでしょうか。

ちなみに、角のことで触れた伊奈冨神社のものも、この花尾八幡宮のものも、銘文には奉納した年銘はあるものの、これが獅子頭なのか、そうではないのかなどの明記はありません。

残念なことです。

2008年7月25日 (金)

獅子頭と『狛犬』――その2

次に目を見てみます。

獅子頭では、目が非常に強調されています。

眉間側が幅が広く、目尻側で閉じる、膨らんだ三角形の輪郭の中に、丸く膨らんだ眼球がある、あるいは輪郭全体を埋めるようにアーモンド形に膨らんだ眼球がある、という形状自体は調度の『狛犬』とも共通しています。
しかし、獅子頭は『狛犬』に比べて、顔のバランス全体の中で目が大きくデフォルメされています。

それだけでは足りないのか、御調八幡宮花尾八幡宮のものでは、瞳の部分に銅板が貼り付けられています。
いまはくすんでいますが、本来は銅鏡のごとく輝いていたのでしょう。
舞い踊る度に目がピカピカ光ったに違いありません。

現存する古い『狛犬』ではこの技法は見られません。
逆に、鎌倉時代以降の狛犬に見られる≪玉眼≫の技法は獅子頭には見られないようです。

≪玉眼≫とは、「両瞼の間を内えぐりに達するまで貫いて、内側から眼よりやや大きめの薄く磨いた水晶をあて、瞳や目尻、目頭のくま、あるいは血管まで絵具で彩り、錦をあてがい、全体を木で押さえる技法」(「狛犬事典」より)です。
激しく動かすものには向かない技法とは言えるでしょう。

金属板と言えば、獅子頭の場合、歯のかみ合わせの部分に鉄板を貼っているものがあります。
踊る時に、口を開閉して、歯をカチカチと打ち鳴らすのでしょう。
正倉院のものにも既に見られ、防府天満宮のものにも残っています。

調度である『狛犬』には不要のものです。

『狛犬』と言えば角です。
古い『狛犬』でも、どちらも角の無い『獅子』を1対にしたものも存在しますが、やはり、基本的には角が欲しいところです。

例示した古い獅子頭のうち、法隆寺と伊奈冨神社のものに角があります。

このうち法隆寺のものは対で、一方の頭上には角があり、他方には宝珠があるという、後年の獅子頭や参道狛犬に見られるパターンを先取りしたものとなっています。
ただ、この角と宝珠は後補とされます。
その後補の意味は、もともと角と宝珠はあったが、現在のものは後に補修されたものだ、ということなのか、もともとは無かったものを後から補い足した、ということなのか、よくわかりません。

伊奈冨神社のものは、本体から彫り出された角で、元から存在したことは確かなようです。
ちょんまげのように頭に張り付いた枝角です。

江戸時代より前の獅子頭で角があるものは少ないようで、町田市立美術館の図録ではこれら以外には富岡美術館所蔵の貞和三年(1347)銘のものしか挙げられていません。

そもそも文献との対応関係からして角のあるものを≪獅子≫頭と呼んでよいものなのか、「蘇芳菲」や≪狛犬≫である可能性はないのか、などと考えてしまいます。

2008年7月24日 (木)

獅子頭と『狛犬』――その1

例に挙げた古い獅子頭の外見上の特徴を見てみましょう。
そして、同時に、それを調度の『狛犬』と比較してみたいと思います。

資料の参照元である町田市立博物館の図録の解説(田邊三郎助)では、獅子頭には外形上二系統があるとしています。
全体がヘルメットのようにカサ高のものと、扁平なものです。

≪カサ高≫系統は法隆寺・伊奈冨神社・津波倉神社・防府天満宮、≪扁平≫系統は御調八幡宮・丹生神社としています。
これに従うならば、例示したもののうち言及のないものは、知立神社・須波阿須疑神社は≪カサ高≫系統、真木倉神社・諏訪神社(山梨)・諏訪神社(岐阜)・花尾八幡宮・熊野座神社が≪扁平≫系統になります。

この二系統は何を意味するのでしょうか。
製作した工人の流派なのでしょうか。
それとも、舞が異なるのでしょうか。
それはよくわかりません。

『狛犬』にこうした二系統が見られるでしょうか。
東寺のものは≪カサ高≫に見えますが、大宝神社のものは≪扁平≫に見えなくもありません。
ただ、曖昧なもので、はっきり分けられるようなものではなさそうです。

次に耳を見てみます。

調度の『狛犬』の場合、対をなす左右で耳の形状を異にする場合があります。
鎌倉時代以降は阿像が垂耳、吽像が立耳に統一されていくようですが、それ以前ではそれが逆であったり、左右ともに同じだったりと、それぞれで違います。

獅子頭ではどうでしょうか。

正倉院のもので写真のある1点は、耳が極端に大きい立耳です。
『狛犬』では、こういうバランスのものは見られません。

正倉院のものは耳がしっかり固定されているようですが、例示したもののうち、これ以外は別材で作った耳を穴に差し込んだだけで、可動式になっているものが多いようです。
そのため、耳が失われているものが多く、耳の状態が分るのは法隆寺・伊奈冨神社・真木倉神社・津波倉神社・防府天満宮・知立神社・須波阿須疑神社のものだけです。
このうち津波倉神社・防府天満宮だけが垂耳で、あとは立耳になっています。

真木倉神社のものは、ウサギのように細長い立耳で、これも『狛犬』には見られないタイプですが、獅子頭では後年のものでわずかながら類例が見られます。

例示したもののうち、対になっているのは法隆寺だけで、これはいま触れたようにどちらも立耳になっています。
一方、防府天満宮の獅子頭は、実は修理された正平十年(1355)に、同時にこれを模して新たに作られた獅子頭が存在し、これと対のものとして扱われてきました。
そちらは立耳になっており、この獅子頭は立耳と垂耳の組み合わせになっています。

ちなみに、町田市立博物館の図録のカラー図版(リンク先の写真と同じもの)では正平十年(1355)修理の方の耳は立てたような状態で写真が撮られていますが、耳の形は、明らかに途中で折れており、垂耳が本来の姿だと思われます。
事実、解説文の方に付された別アングルからの写真では耳は垂耳となっています。
可動式の耳のため、踊りの中でカラー図版のような位置に動かすこともあるのかもしれませんが、基本的には垂耳であろうと思われます。

それはさておき、南北朝の頃にこういう立耳と垂耳の組み合わせが見られるというのは、どこか『狛犬』と歩調をあわせているようにも感じられます。

2008年7月23日 (水)

獅子頭の古例

以上のように、舞楽の≪狛犬≫の実態は、正確に把握することが出来ません。
ただ、「蘇芳菲」を含めて考えることで、≪狛犬≫も広義の獅子舞の一種で、頭や被り物を含めた外観の形態上、≪獅子≫とあまり大きな差はなかったであろうと推測することは許されると思います。

一方、調度の『狛犬』は、狭義の『狛犬』と『獅子』の組合せが正式のものとされつつも、『狛犬』と『獅子』の間には、角を除けば大きな差はないということが、現存資料から確認できます。

ということであれば、獅子舞の外観と調度の『狛犬』の姿を比較してみることは、無意味なことではないでしょう。

そこで、以下、その点を見ていきたいと思います。

それについては、狛犬の成立に関しての考察ということが前提ですので、『狛犬』、獅子舞とも初期の古い資料を対象にしたいところです。

『狛犬』に関しては、以前、「狛犬の歴史」の章で古い時代のもの列挙しました

ここでは、まず、獅子頭の古例を列挙したいと思います。

○奈良時代
正倉院 9点=天平勝宝四年(752)の大仏開眼会に使用と推定

○平安時代
・法隆寺 1対
御調八幡宮(広島) 1点

○鎌倉時代
・日置八幡宮(愛知) 建長四年(1252)*
・伊奈冨神社(三重) 弘安三年(1280)
・丹生神社(広島) 正安三年(1301)
・真木倉神社(岐阜) 嘉元三年(1305)
諏訪神社(山梨) 嘉元三年(1305)
諏訪神社(岐阜) 嘉元四年(1306)(リンク先では4月15日の項目を見てください)
花尾八幡宮(山口) 元亨二年(1322)
津波倉神社(石川) 元亨二年(1322)
・熊野座神社(熊本) 嘉暦三年(1328)
防府天満宮(山口) 正平十年(1355)修理

図録「獅子頭―西日本を中心に―」(町田市立博物館 1997年)の解説文に列挙されているものから、鎌倉時代までのものを並べてみました。
(*:日置八幡宮に関しては新聞報道に基づく)
この他、年銘はないものの鎌倉時代のものとして知立神社(愛知)と須波阿須疑神社(福井)のものも図録には掲載されています。

なお、ここでは省きましたが、南北朝・室町時代以降の獅子頭は数多く現存しています。

文献上に残る記述と比べて、奈良・平安時代の資料が、非常に手薄に感じられます。
『狛犬』も決して多くは残っていませんが、それと比較してもわずかです。

これは結局、獅子頭は実際に儀式や祭礼で使用されるため、消耗、破損してしまうためでしょう。
もちろん、貴重品ですから、極力補修しながら用いたでしょうし、使われなくなっても保管はしていたのでしょうが、儀式や祭礼が連綿と続いていく以上、現役の獅子頭の方が重視されるのは致し方のないことでしょう。

ちなみに、鎌倉時代末期から獅子頭の遺存例が増えることには、信仰に関わる別の理由が存在していると考えられますが、それは後で別項を立てたいと思います。

2008年7月22日 (火)

≪狛犬≫と「狛龍」

さらなる泥沼にはまり込んでみましょう。

「蘇芳菲」と「別番様」である「狛龍」ですが、「教訓抄」では

乗小馬形二人舞之。

とあります。
また、昨日触れた「雑秘別録」の

右にこまがたをつくりて。人のりたるやうにて。

との記述にある「こまがた」は「駒形=小馬形」であり、「狛龍」は馬に乗っているような格好で舞うようです。
ということは、その馬こそが「狛龍」ということになるのでしょう。

ところで、舞楽の≪狛犬≫の正式な番舞は、記録を見る限りでは「還城楽」であろうと、先日書きました。
その「還城楽」について、「舞楽小録」(1313年成立)には、こう書かれています。

還城楽。(略)答舞。落蹲。

つまり、番舞は「落蹲」であるというわけです。

この「落蹲」について「枕草子」の二〇五段に

舞は駿河舞。求子、いとおかし。太平楽、太刀などぞうたてあれど、いとおもしろし。唐土に敵どちなどして舞ひけむなど聞くに。
鳥の舞。抜頭は髪振上げたるまみなどはうとましけれど、楽もなほいとおもしろし。落蹲は二人して膝踏みて舞ひたる。こまがた。

という記述があります。
これに従うならば、「落蹲」は「こまがた」であると言うことになります。

≪狛犬≫の番に舞われる「還城楽」の番舞は「落蹲」で、それは「こまがた」、すなわち「狛龍」である、という尻取りのようなつながりが出来上がります。

では、≪狛犬≫は「狛龍」なのでしょうか。

「狛犬の原像について」(「日本古代国家の展開 上」所収)の筆者である坂元義種氏は、その可能性を指摘しておられます。
≪獅子≫≪狛犬≫が番になっているのは、「蘇芳菲」と「狛龍」の番が起因になっているとして、

なによりも蘇芳菲は師子であったし、狛龍と狛犬は「狛」を共有し、しかもともに獣と関係があったのである。

そこで「蘇芳菲」と「狛龍」の組合せが≪獅子≫と≪狛犬≫に転化した、とのお考えです。

しかし、「蘇芳菲」を「師子」に、「狛龍」を「狛犬」に置き換えるには、角があるのは「蘇芳菲」の方で、それでは獅子というより狛犬ですし、「狛龍」は上述のように馬で、しかも馬の被り物をするのではなく、乗るのですから、狛犬にも獅子にも遠い気がします。

どうにも無理を感じます。

ただ、「教訓抄」の「蘇芳菲」の項目には

蘇芳菲ノ作法。事外違タリ。然者。古キヲ正説トスヘシ。

とあり、「狛龍」でも

此舞之舞之体。古記ニハ頗相違シタリ。

と書かれていますから、「教訓抄」が成立した13世紀の時点での実態が、古くから伝えられているものとは変化してしまっていることは間違いないのでしょう。

結局のところ、文献を渉猟して見ても、決定的なことは籔の中で、混乱していくばかりです。

収拾もつかないので、そろそろこのあたりにしておこうと思います。

2008年7月21日 (月)

「蘇芳菲」と≪狛犬≫――その2

≪獅子≫舞は現代にも伝わっていますから、その姿はわかります。

一方、≪狛犬≫舞は現存しないため、どのようなものかは分りません。
先日「教訓抄」などの記述を取り上げましたが、≪二人立ち≫で口取りを二人伴なうことは分りますが、≪狛犬≫頭がどのようなものかは不明です。
角がある、あるいはその痕跡がある≪獅子≫頭は現存していますが、それを≪狛犬≫と結びつけるのは、結局のところ調度の『狛犬』からの推測であって、その推測が正しいのかどうかは明確ではありません。

「蘇芳菲」も、現代には伝わっていないようです。
ただ、「教訓抄」から、獅子のような姿で、頭上に角があり、子を二人伴なうことが分ります。
しかし、≪一人立ち≫か≪二人立ち≫かは明記されていません。

この≪獅子≫≪狛犬≫「蘇芳菲」の三者の関係はどのようなことになるのでしょうか。

「教訓抄」には、「蘇芳菲」について、昨日触れた以外に、このようにも書かれています。

此曲五月節会。舞御輿之御前。是従弘仁初。競馬行幸奏之。対右狛龍。(小馬形乗。)

つまり、「蘇芳菲」も行幸の行列の前で舞われるものなのです。

同様の事は、「雑秘別録」(1227年成立。「続群書類従」所収)の「蘇芳菲」の項目にもあります。

五月会に武徳殿のこ五月くらべ馬の行幸の御こしのさきに。左にししがしらをかづき。右にこまがたをつくりて。人のりたるやうにて。二行にたちて。左にはそはんび(蘇芳菲)。右にはこまりよう(高麗龍)をふきて。まふよしする也。

ところで、このどちらにも、「蘇芳菲」とともに「狛龍」という演目が舞われています。

実は、「教訓抄」では「別番様」として≪獅子≫≪狛犬≫とともに「蘇芳菲」と「狛龍」も挙げられています。
つまり、常の番舞ではないけれども、行幸の際には番にするということで、そのあたりも、≪狛犬≫と非常によく似ています。

ただし、今のことからも分るように、≪狛犬≫と「蘇芳菲」は、明確に別の舞楽と認識されています。

しかし、「龍鳴抄」(1133年成立。「続群書類従」所収)という史料では「蘇芳菲」について

拍子九。新楽。まひのていこまいぬににたり。二あり。くらべむまの行幸に是をす。船楽にもするによりて。日記に古楽としるしたり。それによりて。世の人これを古楽といふ。もし古楽にあぐる時にはこころあるべし。はじめの拍子をおきて。つぎよりあぐ。

と書いています。
当時の人から見ても「蘇芳菲」と≪狛犬≫は類似していたわけです。

「狛龍」はとりあえず別として、行幸の前で舞われる≪獅子≫≪狛犬≫「蘇芳菲」の三者は、合い似たものであったのでしょう。
つまり、基本的にはいずれも≪獅子≫舞で、伴奏の音楽こそ違えど、姿としては角の有無など、比較的差が少ないものであったのでしょう。

2008年7月20日 (日)

「蘇芳菲」と≪狛犬≫――その1

話を少し変えます。
この先は蛇足のようなものですが、≪狛犬≫舞と≪獅子≫舞に関係を持ちそうな話題をいくつか取り上げてみます。

上杉千郷先生の「狛犬事典」の第11章の4『行幸の先払いをする獅子舞』の項目に、ある図版が掲載されています。
古代の舞楽を論じる際によく参照されるものに「信西古楽図」というものがあります。
その中のある絵をあげて、このようにキャプションが付されています。

舞楽「狛犬」の図 「蘇芳菲」ともいわれる(『信西古楽図』)

実は、「信西古楽図」のここに挙げられている部分には舞の演目が書かれていません。
ただ、頭上に枝角があることから、多くの論者がこれを≪狛犬≫舞を表した図と考えてきました。
しかし、「教訓抄」に記載された「蘇芳菲」という舞楽の描写が、この図に極めて類似していることから、この図を「蘇芳菲」とする意見もあります。

そのことを指しているのでしょう。

ちなみにその描写とは、

蘇芳菲身。師子姿ナリ。頭如犬頭也。(口細面長。)中実装束如左乗尻装束也。(木帽子。踏懸。糸鞋也。)在子二人。装束如犬。(在面帽子。ハキモノナシ。)
(略)
古記云。(略)此舞体如師子。頭ニ有一角。頭色金色。其身色。詠子二人。面形如出色白。蒙紺帽子。如犬蚑之。

頭に角があること、子を二人伴なうこと、子は履物がない(裸足)であること、などがこの図と一致します。

ただ、すぐにこれを「蘇芳菲」とは言い切れないのは、「信西古楽図」の中には、別に「蘇芳菲」と書かれた図が存在しているからです(リンク先の図の左が「蘇芳菲」とされる図、ちなみに右が「還城楽」)。
そこで、「蘇芳菲」と書かれた図の方は、誤記で、実際は別の舞であるとする説もあります。

「信西古楽図」自体は、日本の古い舞楽の姿を写したものではなく、中国の典籍を書写したものという説が、現在は有力なようです。
だとすると、日本の舞楽とは異なる部分があって当然でしょう。
また、≪狛犬≫が日本で成立したものなら、そこに描かれている可能性は低いということにもなります。

ただ、中国では他の名前で呼ばれていたものを、日本では≪狛犬≫と呼ぶようになったという可能性もあります。

それが「蘇芳菲」なのでしょうか?

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